福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★2月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『みんな一緒に』ルカによる福音書21章1~4節 沖村裕史 牧師

★2月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『みんな一緒に』ルカによる福音書21章1~4節 沖村裕史 牧師

■こどものけんか

 小さなこどもたちが遊んでいる姿を見ていて、はっとさせられることがあります。遊ぶというと「みんな一緒に」と思われるかも知れませんが、遊びの始まりは「一人遊び」です。一人遊びが始まると、けんかが増えてきます。理由は、大抵、おもちゃの取り合いです。こどもたちにとって、周りにあるおもちゃはみんな、「自分のもの」です。保育園や幼稚園にあろうが、お店にあろうが、お家にあろうが、それはみんな、自分のものです。それで、けんかが始まります。それでも、遊びながらけんかすることを繰り返し、こどもたちは学んでいきます。おもちゃを独り占めするよりも、けんかをするよりも、ともだちといっしょに遊んだ方がもっと楽しいことに気が付き始めます。おもちゃは、「みんなのもの」で、みんなで一緒に遊ぶためのもの、ということがわかるようになります。こどもたちは、今、手にしているものを独り占めするのではなく、「みんなと一緒」ということの大切さと、楽しさを知るようになります。こうして、こどもたちは成長し、大人になっていきます。

 ところが、わたしたちが大人になって、たくさんのものを手に入れ、身につけ、それを自由に使うことができるようになると、まるで、二歳か三歳のこどもにもどったかのように、それを独り占めしようとして、又々、けんかをするようになってしまいます。

 

■やもめの「真実」

 今日のみ言葉には、そんな愚かなわたしたちの姿が描かれています。

 わたしたちが先ず、何よりも目を留めなければならないのは、金持ちたちとは如何にも対照的な、わずか二枚のレプトン硬貨―今で言えば、缶ジュース一本分のお金を神様にささげた、「やもめの姿」です。そのやもめのささげものに、イエスさまは「真実」を見出されます。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 「確かに言っておくが」とは、直訳すれば「真実をもって、わたしはあなたがたに言う」です。真実としてあなたがたに言う。真実がここにある、そのことをあなたがたに語る、ということです。

 やもめの何を真実だとご覧になったのでしょうか。

 神殿で献金を献げると、祭司が名前とその額を大声で告げ、記帳します。「だれそれ、レプトンふたつ」と大声で告げられます。恥ずかしさで身が縮むようです。

 貧しいやもめは、どのような思いで、どのような姿で、わずかばかりのお金を神様にお献げしたのでしょうか。

 「これは、ここにいる祭司に差し出したのではない、神様にささげるのだ」という信仰によるのでなければ、到底できることではありません。やもめはこのとき、ただ神様への真実をもって、その銅貨をおささげしたのでしょう。

 それでもなお、わたしたちは戸惑いを覚えます。イエスさまは言われます、

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 生活費全部を献げることが真実の尺度となるなら、今日の、また明日からの生活は一体どうなるのでしょうか。持っているものすべてを献げることは、本当に良いことなのでしょうか。ローンや教育費はどうするのか。

 金持ちたちは「有り余る中から献金した」とありますが、「有り余る中から」という言葉にも引っ掛かります。「有り余る中から」献げている人などいるのでしょうか。だれしも老後の生活費、介護の費用、病気のときの治療費のことが心配です。子どもや孫のことも考えます。心配は尽きません。「有り余る」、捨てるほどあるという人などどこにもいない、そう思われます。

 貧しいやもめは、どうして、自分の持っているものをすべて献げることができたのでしょうか。

 

■神様が与えてくださる

 その答えを、イエスさまはわたしたちに繰り返し教えてくださっていました。

 イエスさまは、蒔くことも、育てることも、刈入れることもしない、あの鳥が養われ、明日には炉に投げ入れられ、焼かれる他ない、野の花が美しく装われているように、「あなたがたの天の父は…あなたがたに必要なことをご存じである」と言われました。

 わたしたちが、身につけ、手にしているものはすべて、そして、わたしたちのいのちさえ、自分の力で得たものではありません。およそすべてのものは、わたしたちが自分の自由にしてよいものではありません。それはただ、神様が与えてくださった、まさに神様からの恵み、神様からの贈り物そのものです。

 だからこそ神様は、与えられたわたしたちのいのちを何よりもかけがえのないものとしてくださり、だからこそ神様は、いのちを与えたわたしたちをどこまでも愛してくださり、だからこそ神様は、いつもわたしたちに必要なものを必ず備えてくださり、だからこそ神様は、与えられたものをわたしたちが互いに分かち合うことを願い、求められるのです。

 そして、何と言ってもその方が、みんなと一緒で、楽しく、幸せなはずなのです。

 

■一緒にいるように

 「一緒に」。そう言われると、うれしくなります。

 小さい頃から、何でも「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」と言われて育ってきたわたしたちは、「一緒に」と言ってくれる人がいることに励まされます。

 小さい頃から、自分は仲間はずれで、忘れられているとどこかで感じて育ってきたわたしたちは、「一緒に」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、もうちょっと頑張れそうな気がしてきます。

 「一緒に」は、とってもうれしいだけでなく、とっても安心させてくれる言葉です。

 そして、聖書もまた、人は一緒にいるように創られているし、一緒にいるときに一番嬉しくなるように定められている、と教えています。旧約の創世記によれば、神は初め、ひとりの人間を創造されましたが、やがてこう言われました。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助け手をつくろう」。そして、もうひとりの人間を創造し、二人を一緒にいるようにした、とあります。つまり「人」とは「一緒にいるべき助け手」なのです。

 一緒にいても、ちっとも助けてくれない。そう感じることもあるかもしれませんが、よく考えてみてください。一緒にいること、それ自体がすでに助けなのではないでしょうか。何よりも、この世で人から言われて一番嬉しい言葉は、間違いなく、「あなたと一緒にいたい」ではないでしょうか。

 聖書には、イエスさまの別名として、「インマヌエル」という名が記されています。これは「神はわたしたちと共にいてくださる」という意味です。神様は、どうしてもあなたと一緒にいたい、いえ、どんなときにも一緒にいてくださるのです。

 これが、やもめの信じた神様の真実であり、またイエスさまが見たやもめの真実でした。

 

お祈りします。恵みの神よ、いのちも、人生も、家族と友も、信仰と教会も、あなたが与えてくださったものです。そのすべてを、感謝をもって受け取り直すことができますように。時にこれが足りない、あれがあればと思ってしまいますが、必要なものは必ず備えられると確信し、与えられているものを、恐れず、大胆に用いていくことができますように。主の御名によって。アーメン