■ペトロの家
20節、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」
昔も今も変わらず、どの家にも亀裂が走っていました。
愛に満ち、ひとつとなっているはずの家族の絆(きずな)はほころび、ずたずたになっていました。重い皮膚病、手や足の障がい、原因不明の出血、やもめであること、外国人であること、徴税人であること、貧しさゆえに律法を守ることができないでいること―そんな様々な理由から、穢れた者、罪人であると見なされ、家にいてもそこに居場所はなく、時には家から追い立てられていた人々が、孤独のうちに苦しみ、もがいていました。誰もが迷い、傷つき、ひたすらに愛を求めて生きていました。
そんな人々のために、イエスさまは故郷ナザレを離れ、カファルナウムの家を拠点に福音を宣べ伝え、癒しの御業を行っておられました。その噂を聞きつけた多くの人々が、イエスさまたちが食事をする暇(いとま)もないほどに、そこに押し寄せてきます。ペトロの姑も、イエスさまに病を癒していただいて以来、イエスさまの身のまわりのお世話をしていました。この時も、しばらく山に行って留守しておられたイエスさまがお帰りになるというので心待ちにし、イエスさまを家に迎え、イエスさまのお体を気遣ってハラハラしていたはずです。一所懸命つくった食事を口にされる時間もないからです。
群衆も、弟子たちも、ペトロの姑も、イエスさまと共に生きることを望み、喜んでいる、まるでひとつの家族のようでした。
■気が変になっている
そんな場所に、群衆や弟子たちとは全く違う態度を見せる人々が登場します。
21節、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」
「気が変になっている」。この言葉のもともとの意味は、「自分の存在、自分のあるべき場所の外へ出てしまう」です。あるべき場所―「常識」の外に出てしまうことです。それが「気が変になっている」ということです。
わたしたちが大人になって行くとき、誰もが、「常識」と呼ばれる世界観、既成の枠の中に自分を位置づけ、自らのアイデンティティを形成します。アイデンティティとは、それがなくなったらもう自分だとは言えない、そんな「何か」のことです。その「何か」が様々な形で、人を支配しています。人は自分が何かでないと不安なので、常に自分が何であるかを確かめようとし、さらに何かであろうとし続けます。しかし「何かである」ことは「自分である」こととは違います。「何か」とはほとんどの場合、旧来の慣習や見方であり、逸脱を許さない一つの制度や枠組みです。それが「常識」と呼ばれるものです。
例えば、「自分は女である」というとき、それは単に生物学的な分類を言っているのではなく、わたしは「女」という慣習や文化、制度や枠組みに支配されています、と言っているのです。よく言われるように、「人は女に生まれてくるのではなく、女にされていく」のです。
わたしたちの世界では、その「常識」と呼ばれる世界観に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な、おかしな人間と見做されます。誰もが一度ならず「世間体を考えなさい。そんなことをして恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中、地域にいることは、身内の恥、地域社会にとってはリスクでしかありません。
そこで、わたしたちは、家族、地域社会、組織の誰かが問題を起こしたとき、その人のことを理解しようとするよりも先に、家族の、地域社会の、組織の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。その人との関係、絆を回復しようというのではありません。むしろ関係を断ち切って、外に出さないようにします。ここでも、家族がイエスさまを自分たちの手の中にもう一度引き戻そうとしたのは、イエスさまのためではなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
イエスさまがご自分の生家を出て、カファルナウムの家、弟子であるペトロの家をご自分の家と定められ、そこを自分にふさわしい家とされましたのは、なぜか。それは、「常識」に囚われて、イエスさまを縛り付け、抑えつけようとする「身内」のところではなく、ひたすらに愛を求め、共に生きることを望み喜びとする多くの人々、弟子たちのいるところにこそ、まことの家がある、本当の家族がいる、そう思われていたからでしょう。それが49節以下のイエスさまの言葉の意味なのでしょう。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」
■ 神の国
自分の家に帰ってきた、あの放蕩息子の物語が思い起こされます。過ちを、罪を犯した者であっても、いえ、であればこそ、本当に休めるところ、心から寛(くつろ)ぐことができるところ、それが、まことの家、本当の家族ではないでしょうか。寛ぐことのできる居場所です。
「寛ぐ」という言葉はもともと、物が固いままではなく、それが柔らかくなっていく時、あるいは柔らかくなっているものが発する音を聞き取って、「寛ぐ」と言い表したのだ、と言います。また「寛ぐ」は、口を開くという意味の言葉である「くち、ひらく」、それが「くつろぐ」になったのだ、とも言います。確かにそうです。わたしたちは緊張していると、口をぐっと閉じて開こうとしません。特に心が頑なになっている時には、口をつぐんでしまいます。こどもたちがときどき放心状態になったり、ぼんやりしたりすることがあります。そんなときは決まって、かわいい口をポカンと空けています。わたしの幼い時の写真にさえ、そういう写真があります。
家というのは、家族というのは、口を開こうが、何をしようが、全く無防備でいることができる場所。「どこまでも共にあろう」とすることのできる場所。それこそ、寛ぎであり、憩いです。寛ぐ姿は、強い緊張(ストレス)から解放されて、緩められている、いわば「あるがままに共にある」ことのできる人の姿です。
そのように寛ぐためにこそ、イエスさまは、わたしたちのところに来られ、「神の国」を宣べ伝えられました。もう神の国が来ている。神様が共にいてくださって、霊によって働いてくださり、神の愛の御手が差し出されている。今こここそ、わたしたちの寛ぎと憩いの家、まさに神の国だと言われます。
イエスさまは今、そのことを譬えによって教えてくださいます。サタンにとっても内輪もめがあったら困るだろう、と言われます。当然のことです。イエスさまの業は、悪霊の頭ベルゼブルによるものなどではありません。イエスさまの業は、神様の愛と真理に叛いて、「常識」の中に人を押しとどめ、苦しめようとする「家の主」―悪霊を追い払い、真の支配者である神様が「家」の中に入って来るためです。イエスさまの癒しの業は神の霊によるものです。そこに、神の国がもたらされている、神様が働いてくださっている、神様の愛の御手が差し出されている、と言われます。
イエスさまは続けて、ユーモアをもって、神様のこと、神の国のことを押し入り強盗に譬えておられます。思いがけない侵入者です。人の心を支配していた、既に侵入して支配していた罪の力を追い払うための、思いもかけない、一方的な恵みとしてもたらされる、神の支配という侵入です。
イエスさまがつくられる家、神の国は、そういう力をもって、わたしたちにもたらされているのです。わたしたちを、神様にいのち与えられ、愛され、罪赦された者として、共にあること、共に生きることができるようにしてくださるのは、神様なのです。これこそ大きな恵み、福音そのものです。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」
イエスさまのこの言葉が聞こえてきます。わたしたちを本当の家族と呼んでくださっているのです。感謝です。
お祈りをします。主なる神よ。あなたの言葉を聞きました。この言葉をないがしろにする愚かな罪から、わたしたちが解き放たれますように。まことの寛ぎと平和、そこから生まれてくる和解と赦しを日毎の心として生きていくことができますように。聖霊をもって、愛の内に支え導いてください。主の御名によって。アーメン。