福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月11日 ≪聖霊降臨節第20主日礼拝≫ 『愛するあなたへ、贈る言葉』マタイによる福音書10章16~23節 沖村裕史 牧師

10月11日 ≪聖霊降臨節第20主日礼拝≫ 『愛するあなたへ、贈る言葉』マタイによる福音書10章16~23節 沖村裕史 牧師

■狼と羊
 9章の終わりに、とても印象的な言葉がありました。
 群衆をご覧になった時、それは、まるで「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿であった、という言葉です。そのさまをご覧になって、イエスさまは「深く憐れまれた」とあります。お腹が痛くなるほどに憐れまれた。上から目線で見降ろして、同情しているのではありません。憐れな人々の姿をご覧になると、他人事とは思えず、我が子を思う母親の愛情のような、胸がしめつけられるような思いになられました。
 そこでイエスさまは、そのような人々のもとへ十二人の弟子たちを選び、派遣されます。その派遣に際して、イエスさまは彼らに懇切丁寧な教えをお与えになりました。5節からの言葉です。あれもこれも持って行かず、裸一貫で行きなさい、と言われます。信仰という名の杖だけを持って行きなさい、と。あなたたちを待っている、あの迷える羊たちのもとへ行きなさい。そうお命じになられるのでした。
 今日の個所は、その続きです。ここにも動物の名前が出てきます。まず、狼と羊、そして蛇と鳩、続けざまに出てきます。
 イエスさまは、飼い主のいない羊のような姿の群衆のもとへ行くように、と弟子たちを伝道活動へ押し出してくださいます。ところが、その場面に続いて与えられている今日の個所では、さあ、あなたたちはあの飼い主のいない羊のような者たちのところへ行きなさいではなく、あなたたちがあの人たちのもとへ行くということ、それは狼の群れの中に行くようなものだと言われます。
 この矛盾。
 「飼い主のいない羊」であった人々が、ここでは「狼の群れ」になっています。どういうことなのでしょうか。

 しかしこれが矛盾ではないことは、きっとお分かりいただけるのではないでしょうか。この世のさま、そしてこの世に生きる人々のさまは、まさに、迷える羊のようであり、と同時に、お腹を空かせた狼のようでもあるからです。それは、どこか、誰かの話ではありません。わたしたち自身、わたしたち一人ひとりのことです。
 自分という存在は、ある意味、飼い主のいない羊のような、弱く、心もとない、不安に包まれています。飼い主のいない羊、別の言い方をすれば、糸の切れた凧、あるいは砂漠の中を歩いているような状態、わたしたちはいつでも、そのような不安定さの中に置かれています。
 しかし、そんなわたしたちは同時に、狼のような凶暴さも持ち合わせています。貪欲な心を持っています。あらゆる欲望もまた、わたしたちの中にあります。おとなしい羊であるばかりでなく、獰猛な狼のようでもあるのです。
 だから、イエスさまは、さあ、あの飼い主のいない羊のような彼らのもとへ行きなさいと言われると同時に、あなたたちを遣わすのはまるで羊を狼の群れの中に送り込むようなものだ、と言われたのです。

■蛇と鳩
 しかしそのとき、羊は羊のまま、もう狼が来たら食い殺されておしまい、それで終わり、とは言われませんでした。
 イエスさまは具体的に、二つの動物を引き合いに出しながら、この世に福音を宣べ伝え、生きるすべをお伝えになります。それが、蛇のように賢く、鳩のように素直に、というフレーズです。
 蛇と言えば、聖書では、あの創世記の初めにエバとアダムを誘惑した存在として、思い起こされます。その場面でも、蛇は、最も賢いという形容詞が付けられています。賢さの象徴として、蛇が挙げられています。邪悪さの象徴と言うよりも、ここの蛇の賢さは、この世の中で生きて行く、その忍耐強さや、生き抜く力などを表していると言ってよいでしょう。
 そして同時に、鳩のように素直に、とも言われます。
 人間には、いつでも、どこでも、二面性のようなものがあるのでしょう。大人になって生きていく、社会人として、ある程度の常識人として生きていく、そんな自分ではあるけれども、その中に、子どものような心も持ち合わせています。
 しっかりしたところと、ちょっと抜けたところ。だれでも、思い出せば、いろいろな二面性を持っています。飼い主のいない羊のような存在であり、同時に、狼のような面もある。きっと誰もがそうでしょう。福音を宣べ伝え、生きて行く上でも、蛇のような賢さと、鳩のような素直さを持ちなさい、とイエスさまは言われます。
 世を生きる逞しさや、適応力も身に着ける必要もあろうし、社会性も必要でしょう。しかし同時に、幼な子のような心、素直な心、まっすぐな心も持ち合わせる。それはけっして矛盾することではありません。

 わたしたちも皆、教会を一歩出れば、それなりに社会の荒波の中で生きています。人には言えないような辛さもあることでしょう。きれいごとばかりでは、乗り切れない面もあります。
 曽野綾子さんの小説に、『神の汚れた手』という作品があります。産婦人科のお医者さん、しかも良い仕事ばかりではない、堕胎のお手伝いをする産婦人科医の人生。そして、その医者と色々な形で関わることになるカトリック教会の神父の話です。その小説の中で、時折、壁に飾ってあるキリストの絵が取り上げられます。それは、大工であったキリストのお姿です。労働にいそしむお姿。しばしば見かける、天的な輝きを持つキリストの絵ではなく、労働者のお姿のキリストです。その手は、仕事のために、泥がついて汚れています。
 神の汚れた手。
 神の子イエスもまた、この世においでになった時には、決して、きれいなお姿で、神々しいお姿でいらっしゃったのではありません。むしろ、その身を、群衆の中に、羊飼いのいない羊のような人々のもとにおかれました。お生まれになった時も、貧しい馬小屋で、飼い葉おけに寝かされていました。群集の前に現れたときも、まず初めにしたことは、罪人の列に加わって、皆と一緒に、ヨルダン川の中に入って、洗礼を受けるということでした。罪人の仲間となられた、イエスさまの象徴的なお姿です。また、清い人々といるよりも、むしろ、罪人や、徴税人たちとともに、食事をしておられました。
 神の汚れた手。
 その言葉のとおり、神の御子イエスは、まさに、この世にいらっしゃるとき、その手を汚しておられました。汗をかいて、皆の分まで、汚れておられたくらいです。 そして、最後は、その手に釘を打たれて、汗を流し、血を流して、その身をお献げになりました。わたしたちを清めるために、御自身が、あらゆる汚れの中に、身を置かれたかのようです。
 わたしたちも、この世で生きて行く時、きっといろいろな形で、手を汚し、足を汚し、体を汚しながら、汗まみれで、それは、肉体的という意味だけではなく、いろいろな意味で世の波の中に、その身をどっぷりと浸からせながら歩んでいるはずです。
 クリスチャンなのだから、なんて言って、清らかな、お花畑のような生活をしているなんて人は、ひとりもいないはずです。蛇のように賢く、忍耐強く、地を這いつくばってでも、間と間をすり抜けるように、生き抜く。そういう強さ、賢さ、したたかさも、それなりに身に着けながら、生きています。

■逃げなさい
 でも、ただそれだけではなく、わたしたちは、幼な子の信仰を与えられています。どんな中でも、顔を天にあげて、信仰と希望と愛を求めることを知っています。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを、心のどこかに秘めています。
 その信仰をもって生きて行く。たとえ、狼の群れの中で生きているような不安が押し寄せる時も、それでも、信じて歩むことができます。

 マタイがここに語る、福音伝道に生きる羊は、決して強い羊ではありません。
 わたしたちが忘れることのできない言葉があります。最後、23節の「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」という言葉です。
 「逃げろ」と言われます。やたらに、勇気を振り回すな。迫害されて危なくなったら、逃げたらよい。他の町に行ったらよい。しかし、他の町に行っても止めないこと、イエスさまの恵みを語り続けることを、神を賛美し続けることを。
 そしてこの後にすぐ、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言われます。
 「回り終わったら来る」とは言われません。福音伝道を、全部しなくてもよいと言われます。わたしたちが、神の子であるイエスさまが来てくださる準備が終わった時に、「よくやった」と言ってイエスさまが登場して来るのではない。わたしたちの仕事はいつも中途半端でしかない、というのです。
 わたしたちも、小倉の町全部を救いたいと願います。しかしここに集まっている者は、わずかです。小倉の町中、全部合わせて、カトリックも何もかもひっくるめても、いったいこの町の何パーセントの人が救われているのでしょうか。この町の全部をめぐり、すべてをキリスト者にしなければ、イエスさまが完全な救いをもたらしてくださらないとするなら、わたしたちは途方に暮れて立ち止まって、もはや歩む勇気も失うかもしれないのです。しかし、わたしたちが戦いを終わらせる必要はないのです。わたしたちは、ただイエスさまの命令に従い、精一杯に、この町の中で、伝道に生き続けるだけのことです。
 イエスさまは、そのようにわたしたちに、ゆるやかな思いをお与えになり、小倉で伝道しろ、と言われるのです。この町で、人々に蔑まれても、侮られても、その侮りに侮りをもって報いる必要はありません。いや、町ほど広げて、考える必要もないのです。自分の家族の中で、家族にからかわれても、何を言われても、自分を生かすイエスさまの恵みを証しし続け、そこで耐えていく。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。そのように、わたしたちに耐えることを教えてくださるのです。
 ただはね返すのではありません。やけを起こすのでもありません。耐えることです。その耐えることによって、イエスさまご自身も、この世を愛し続けて生きたのです。この世を本当に愛する道は、わたしと同じように耐えることでしかないではないか、と言われるのです。
 ここでなお勇気が要るとするならば、羊として耐え続ける勇気を持つことです。そしてその勇気は、この町もまた、この狼たちもまた、イエスさまの愛の中にある、という主の恵みを信頼すること以外にはありえません。
 わたしたちの中には、わたしたちと同じ赤子のお姿で生まれた御方、わたしたち罪人と共に洗礼を受けてくださったお方、わたしたちのためにその身を捧げてくださったお方、わたしはいつも共にいると言われる御方がおられます。
 だから恐れるな、何も恐れるな。
 信じて歩みなさい。
 その御声が今日も聞こえます。
 今日の言葉は、イエスさまからの「愛するあなたに贈られた言葉」でした。
 学校を卒業し、新しい世界に飛び込もうとする学生たちを励ますために、何度も歌われた海援隊の歌をご紹介して、今日のメッセージを閉じさせていただきます。

  暮れなずむ町の 光と影の中
  去りゆくあなたへ 贈る言葉
  悲しみこらえて 微笑むよりも
  涙かれるまで 泣くほうがいい
  人は悲しみが 多いほど
  人には優しく できるのだから
  さよならだけでは さびしすぎるから
  愛するあなたへ 贈る言葉

  夕暮れの風に 途切れたけれど
  終わりまで聞いて 贈る言葉
  信じられぬと 嘆くよりも
  人を信じて 傷つくほうがいい
  求めないで 優しさなんか
  臆病者の 言いわけだから
  はじめて愛した あなたのために
  飾りもつけずに 贈る言葉

  これから始まる 暮らしの中で
  だれかがあなたを 愛するでしょう
  だけど 私ほど あなたの事を
  深く愛した ヤツはいない……

 主を信じ、その平安の中で、これからもご一緒に歩いて行きましょう。

お祈りをいたします。主なる神よ、御子のみ後を追って生きる羊になるために、いえ、すでにそのように生かされていることを知るために、わたしたちに言葉を与えてください。本当の愛のわざを教えてください。そして、そのように希望を抱いて、狼の心ではなく、羊の心に生き続けることによって、教会の歴史が続けられ、わたしたち自身も、そこで慰められて生きる体験を重ねることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン