■わたしを与える
過越の食卓でのことです。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」
聞き慣れた文言です。聖餐式の時に牧師が読み上げる聖書の一節、イエスさまが聖餐を制定された時の言葉です。この言葉が、弟子たちとの過越の食事の最中に語られました。
この時、イエスさまは過越の食卓を囲みながら、出エジプトという、イスラエルの民にとって忘れることのできない大いなる救いの出来事の恵みを一緒に味わうように、と弟子たちを導かれます。しかしそれだけでなく、出エジプトを想い起すその食卓を囲みながら、そこに新しい意味をお加えになったのでした。イスラエルの民の「過越」をはるかに超えて、イスラエルの民に限らず、すべての民、すべての人々が、神様の大いなる恵みにあずかることになる、新しい主の食卓を用意してくださったのです。それが聖餐でした。
イエスさまはこの過越の食事の夜、弟子たちを前にして、「パンを取り」「賛美の祈り」を捧げ、それを「裂き」、弟子たちに与えながら、こう宣言されます。
「これは、わたしの体である」「これは…わたしの血である」
「これは、わたしの体である」の「これは」という単語は、中性単数で、男性名詞である「パン」それ自体を指すものではありません。「これは…である」とは、単にパンや血それ自体を指しているわけではありません。「これは、このままわたしの体である」という意味ではありません。このパンが、イエスさまの体の象徴であるという意味でもなく、ましてや、このパンが、イエスさまの体そのものに変わる、化体するというのでもありません。「取りなさい。これはわたしの体である」をニュアンスのままに訳すとすれば、「取りなさい。わたしの体を与える」となるでしょうか。人のために自分を与える、ということです。
十字架を目前にイエスさまはこの時、間違いなく十字架の上で裂かれていくご自身の体のことを考えておられます。これは、いのちを捧げることを覚悟して語られた言葉です。多くの教会の聖餐式では、綺麗に切り整えられたパンが配られますが、いくつかの教会では、一つのパンを司式の牧師が会衆の目の前に高く掲げ、そのパンをみんなが見ている前で裂きます。ちょうど、イエスさまが皆の目の前で十字架にかかり、肉体を裂かれて行かれたように、です。次に杯です。この杯も弟子たちの前に高く掲げ、「これは多くの人のために流される、契約の血です」と言って、そこにいる、裏切り、否定し、逃げ散ることになる弟子たちの間に回されました。その裏切る人のために、罪人の救いのために、自分のいのちを、自分のすべてを与えられた、ということです。
■愛の食卓
それまでに、そしてそれから後も、この世に、相手を生かすために、自分を与える、自分を食べさせる、などという愛があったでしょうか。そのとき、この食卓は世界で最初の救いの食卓となりました。イエスさまの与えるパンは信じる者を永遠に生かすいのちのパンとなり、この食卓はすべての人を、わたしたち罪人をこそ招く、神の愛の食卓となりました。
つらいとき、力をなくしたとき、もはや神に助けてもらうしかないときに、あれこれと祈ることもできるでしょう。しかし、そんなわたしたちに本当に必要なのは、ただみ言葉です。見えざる神のみ言葉はもとより、見えるみ言葉としての聖餐が必要です。人間の工夫や人間の助けをひとまず脇に置いて、ただひたすらに神の愛を信じていただく、聖餐による恵みです。
なぜなら、十字架を目前にしてイエスさまご自身が最もつらいとき、最も力を必要とするときに、この晩餐を開かれたからです。それはそのまま、弟子たちが最もつらいとき、最も力を必要とするときのためでもありました。無力であるわたしたち人間を救うための主の食卓を、完全に無力なときに囲むのは、当然のこと、何よりもふさわしいことです。
長い信仰生活を今まさに終えようという方と、病床で口にする聖餐に共に与る時、いつもこう思わされます。この人は、これまで何度、パンと杯を口にしてこられたのだろうか。感動に目をうるませながら、ゆっくりと最後の聖餐にあずかる姿の何と神々しいことか、と。
ある時、気づかされました。ちょっと待て。これが最後なのか、と。イエスさまはご自分の死を覚悟しつつ、「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われました。この世ではもう飲まないということです。と同時に、「わたしの父の国で共に新たに飲むその日まで」とも言われました。父の国で新たに飲むその日。ということは、天の国に生まれて行ったあかつきには、そこで新たにあずかる聖餐があるということです。天の国での聖餐です。最後は最初です。すべてはここから始まります。わたしたちは死ぬのではありません。その後、天上の部屋で天上の食卓を囲み、天の父のいのちを食べ、キリストの愛を飲むのです。
主の晩餐は、聖餐は、天上の宴は、今、すでに始まっている、イエスさまは、最後の晩餐においてそう宣言されたのでした。
■わたしは違います
その最後の晩餐が、今、終わりました。
「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」
オリーブ山は、いつも出かけては祈られた、祈りの場でした。行き慣れた道であったかもしれません。しかしこの時、夜は更けていました。晴れてさえいれば、過越の祭は満月の時ですから、月が明るく輝いていたかもしれませんが、それでも夜道です。漆黒の闇が覆う山道です。舗装されているわけではありません。気を付けなければ、誰もがつまずかざるを得ない道でした。
その道すがら、イエスさまが言われました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ」
ゼカリヤ書の預言をイエスさまは引用されます。「あなたたちがつまずき、散っていくのは、あなたたちの信仰が弱くからでも、勇気や力が足りないからでもない。神が定められた通りのことが、今ここに起こる。あなたたちが、わたしにつまずく。今もつまずき、散っていこうとしている」、そう言われます。この言葉を、弟子たちはこの後、決して忘れることはなかったでしょう。
弟子たちはしかし、その言葉を聞いて、なるほどそうかとすぐに思ったわけではないようです。ペトロがこう答えます。
「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」
このとき、すでに弟子たちは散り始めていた、と言った人がいます。ペトロは、他の仲間たちを振り返りながら、そんなことはありません、わたしたちの誰もつまずくことなどありません、そう言ったのではありません。他の連中はいざ知らず、と言ったのです。他の人たちは、なるほど、あなたが言われるように弱虫であり、愚かだから、あなたのことをまだよくわかっていないから、逃げ出すかもしれないけれども、わたしは違います。ペトロは、そう言ったのでした。
わたしたちの周りで語られる言葉の中にも、これとよく似た響きが聞こえて来ることがあります。
しかし、わたしは違います。わたしはあなたのことがよく分かっています。でも、他の人たちはまだ分かっていません。今、抱えている問題の意味、その深刻さをまだ分かっていない人たちばかりです。しかし、わたしは分かっています。真実を知らない人たちがたくさんいます。正しいことを実践できない人たちばかりです。しかし、わたしは違います。
実は、そう言い張るところで、人と自分を比較し、自分の力や知恵や勇気だけを見つめて、自分は違うと強調しながら、イエス・キリストに対する忠誠を誓うとき、そこですでに弟子たちの群れはつまずき、散り始めているのです。
ゼカリヤの預言によって、「あなたたちがつまずくのは、あなたたちの信仰が弱くからでも、勇気や力が足りないからでもない」と言われているにもかかわらず、自分の力と知恵と勇気だけを頼りになされたその誓いに、わたしたちの犯す恐ろしい罪の姿が現れます。
■ペトロの誓い
イエスさまはしかし、そんなペトロの罪を見抜いておられました。
「はっきり言っておくが、あなたは、今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」
「今夜」と言われているのは、ユダヤの暦では、陽が沈むともう新しい日になるからです。もう金曜日が始まっています。そして、その日のうちに、鶏が鳴いて暁を告げ、朝が明ける前に、あなたはわたしを裏切る。三度、わたしのことを知らないと言う。「三度」というのは「完全に」「徹底的に」という意味です。あなたは徹底的にわたしのことを知らないと言う、わたしとの関係を完全に否定する、と言われます。
するとペトロは、たぶんもっと力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と断言します。
ペトロは自分の死を持ち出すことで、自らの答えを決定的な誓いに替えたのですが、裏を返せば、自分の死の恐怖、その予想から逃れたいと、あえてイエスさまの前に反射的に、逆の強がりを言い張ったということかもしれません。事実、「皆の者も同じように言った」とここに記されています。ペトロのこの誓いが、いかに虚しい誓いであったか、を思わせられます。
イエスさまは、そのことを見透かされ、鶏の鳴き声をもって警告されたのですが、ペトロにとっては、己れ自身の誓いがいかなるものであるか、全くわかっていませんでした。事実、数時間もしないうちに、ペトロの誓いは崩れ去っていくことになります。
ペトロは、悲鳴にも近い、鶏の鳴き声に心刺されることになります。他の人々にとってはただの鳴き声でしたが、ペトロにとってはイエスさまの前に豪語して誓った告白が、今や無残にも虚しい敗北となりました。これが、ペトロを代表とする、わたしたち人間のいかんともなし難い罪の姿です。
それはまた、どのような強い人間的な確信も、「決して」とか「絶対に」とかいう言葉によっては、決して確かにされるものではない。わたしたちが神様に救われる、赦されるということは、わたしたち人間の側の頑張りや強さによらず、まさに一方的な恵み、神様の憐れみによるのだということを、改めて知らされる思いがします。
■主の約束に支えられて
これが今朝の場面です。受難週、十字架の前夜での出来事です。弟子たちの口からは、気負いや強がり、精一杯の言葉が飛び交います。しかしそうであればあるほど、より深い闇があたりを覆ってくるかのようです。
それでも、丁寧に読み進めていく時、ここは決して真っ暗な闇だけではない、希望の光が洩れ注いでいることに、ハタと気づかされます。
そのひとつは、先ほども触れた、29節の言葉です。
「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」
後に、この食事の場面をレオナルド・ダヴィンチが「最後の晩餐」と名付けて描いたように、今、イエスさまは、「これが最後です」と言われます。しかし、さらに味わっていくと、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲む。そうした日が来る。これが最後の最後ではないのだ」と、はっきりと聞こえてくるようです。今、この地上で、聖餐にあずかるということは、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」に行われる、天の食卓に連なる招待状をいただいていることの、目に見えるしるしです。
そしてもうひとつ。確かに、イエスさまは弟子たちのつまずきを予告されました。しかし同時に、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」との約束も語っておられます。このとき、この言葉は弟子たちの耳には入っていなかったようですがしかし、つまずいてお終いではありません。これは、その先があるのだと告げる言葉です。「復活がある。その復活の後がある。あなたがたより先にガリラヤへ行っているから、そこで会おう」。
この暗闇が覆うような現実にあって、人生の新しいステージに、イエスさまが先回りして、待っていてくださるのです。強がりを言うペトロに対して、イエスさまは先回りして言われるのです。「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と。わたしたちの生きる場、わたしたちのガリラヤで、イエスさまは、わたしたちのつまずき、愚かさ、罪にもかかわらず、どんなときにも待っていてくださるのです。なんという幸いでしょうか。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。この恵みの力に支えられ、弱さやつまずきを越えて、いえ、弱さやつまずきを通して働いてくださる、キリスト・イエスに信頼して歩んでいきたい、そう願う次第です。