福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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11月20日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝「家族」礼拝≫『後について行こう!』ミカ書2章12~13節 - 小倉東篠崎教会

11月20日 ≪降誕前第5主日/収穫感謝「家族」礼拝≫『後について行こう!』ミカ書2章12~13節

≪メッセージ≫(おとな)

■父の後ろ姿

 今、与えられているもの、またこれまで備えられてきたもの、そのすべてに感謝する心を持ち、それを分かち合うことは、とても大切なことです。なぜなら、そんな神様への信頼と感謝の心が、生きる力、どんな困難も乗り越えていく力を、わたしたちに与えてくれるからです。どなたにもきっと、そんな経験がおありだろうと思います。わたしにもあります。

 わたしの父が天に召されてから15年が過ぎようとしています。父と母が一緒に洗礼を受けたいと考え始めていた16年前の11月末のこと、母とわたしはクモ膜下出血という突然の病に倒れた父の傍(そば)で、じっとその容態を見守り続けていました。不安で心がバラバラになりそうでした。ICUのベッドの上で、たくさんの管をつけられている父をガラス越しに見つめていたときのこと。なぜか、父との思い出がしきりと思い出されました。それも、こどものときの、それまで一度も思い出したこともない、思い出でした。

 わたしは、あたり一面、山と田んぼばかりの田舎のこどもでした。

 父が畑仕事をしています。黙々と、丁寧に、手際よく畑仕事をしている父の傍で、わたしは妹と仲良く遊んでいました。

 いつのまにか、日が山の向こうに近づいてきて、薄暗く、山の影も長くなってきました。秋も終わりの頃で、肌寒くってなってきました。

 でも、田んぼに積み上げられた藁(わら)の束の中は、日の光を浴びて、ぽかぽかと暖かく、とても気持ちがいいし、いい匂いです。その藁の束の中にもぐりこんで、わたしと妹は大はしゃぎで遊びました。夢中になりすぎて藁の束がほどけます。すると「コラッ!」と叱られてしまいます。少しだけ静かにしていますが、しばらくするとまた大はしゃぎして、また叱られて…。

 そんなことを繰返しているうちに、当たりは深い青色に包まれ、暗さを増してきます。わたしと妹も遊び疲れ、しかも暗い闇の中に何かがいそうで、不安になってきます。

 「父さん、まだ仕事続けるのかな?まだ家に帰らないのかな?!暗くなってきて、何だか怖いな…」

 そう思い始めたとき、父は仕事の片付けをすませ、わたしたちを振り返り、やさしくほほえんで、声をかけます。

 「さあ、帰るぞ。こっちにおいで!」

 妹は、父の親指にぶら下がるようにして歩きます。わたしは、仕事の道具を持つのを手伝いながら、そのすぐ後ろについて行きます。

 すっかり日も暮れ、当たりは真っ暗。わたしには、父と妹の顔も、帰り道も、何も見えません。遠くで甲高く鳴く、不気味な鳥の声が聞こえてきます。

 でも大丈夫。父の後について行けば、何の心配もありません。辺りが暗くても、父の後ろ姿だけは、まるで光が灯っているようでした。

 ベッドに横たわっている父の姿を見つめながら、その時の父の姿を思い出していました。あの時の心地よく安らかな気持ち、安心感と幸福感を思い出すだけで、不安と恐れでいっぱいだったわたしの心は不思議と、静かな平安に包まれるようでした。

 

■後ろに回って

 そんなこどもの頃の思い出が、今日の聖書の言葉に重なります。

 「わたしは彼らを羊のように囲いの中に/群れのように、牧場に導いてひとつにする」(ミカ2:12)

 「わたし」とは神様、「彼ら」とはわたしたちのこと。そして神様は「羊飼い」で、わたしたちは「羊」です。

 わたしたち羊は、こどものわたしのように、小さく、力も弱く、しかも目が悪いために周りがよく見えず、ひとりでは、とても心細く、怖くて、不安なことがたくさんあります。しかし羊飼いの神様は、あの時の父と同じように、そんなわたしたちをやさしく見守って、どんな真闇の中でも決して傍を離れず、母が夕食を準備して待ってくれている家まで、必ず連れて帰ってくれます。

 いつも一緒にいてくださり、連れて行ってくれるだけではありません。わたしたちに必要なものは何でも与えてくださいます。父や母、妹や友人、食べるものも、寝ることのできる場所も、着るものも、この体も、この心も、そして何よりもわたしたちのこのいのちを、神様は与えてくださっています。そして今、わたしたちの目の前にある、この果物や野菜こそ、神様がわたしたちのために与えてくださったものです。

 羊飼いの働きには、先頭に立って群れを導く場合と、それとは反対に群れの後ろから全体を見わたしながら進んでいく場合がある、と聞いたことがあります。YMCAのキャンプでも、グループで移動するときに、その先頭と後方の位置には、最も経験豊かなリーダーが付きます。「リードする羊飼い」と「フォローする羊飼い」と言ってもよいでしょう。羊飼いにとって、どちらも必要な役割であり、群れを養うためには、ふたつの面が必要だということです。

 これまで求められてきたリーダーの姿の多くは、理念やビジョンを示して、人々を力強く、時には強引に引っ張っていく、「俺について来い」式のトップダウン型のリーダーシップでした。そうしたリーダーシップが必要なときもあるでしょう。しかし、わたしたちの経験や歴史から言えば、多くの場合、そうしたカリスマ型のリーダーシップは、わたしたちに大きな過ちや失敗をもたらしてきました。近年求められるリーダーシップは、そうしたタイプとは異なっています。人と人との繋がり、ネットワークを構築し、それぞれが持つ異なる情報を共有し、それぞれが有機的に、自主的に判断・行動していくことができるように配慮し、フォローをしていくリーダーシップです。実は、アメリカ軍でさえ、こうしたリーダーシップへと組織改革が進められています。戦場においては、常に最も適した、且つ迅速な判断と行動が求められ続けるからです。

 聖書によく登場する羊飼いは、どちらのタイプでしょうか。羊飼いは、神様ご自身のイメージであり、また様々な分野でのよき指導者のモデルでもあります。福音書の中にも、ご自分を「良い羊飼い」にたとえられるイエスさまの言葉が出てきます。そして、いなくなった一匹の羊をどこまでも捜し求める羊飼いのたとえ話などは、「フォローする羊飼い」の姿そのものです。一番先頭に立って進み行かれるというよりもむしろ、一番後ろに回ってまで、わたしたちを愛し、見守って、探し求めてくださる神様の姿です。

 

■後について行く

 そしてここで注意すべきは、ただ感謝するだけでなく、神様の、イエスさまの愛に包まれ、守られているわたしたちにも、そのような生き方が求められているのだ、ということです。イエスさまは、ご自分が「仕えられるためではなく仕えるために」やって来られたのだと語られ、同じように、わたしたちにも「皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい」と教えられました。

 パウロもこう教えました。

 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(Ⅱコリント9:6-7)

 惜しまずに与える者は豊かに与えられる。それは、人を支えることで、実は、自分の方が豊かに支えられているのだ、ということでしょう。もしそうなら、わたしたちはだれかを支えるとき、感謝されることを求めてはなりません。こちらの方から感謝しなければならないでしょう。何かと人の世話ばかりで、やりきれない日々を過ごしている方も多いでしょう。でも、ひょっとしたらその働きを通して、自分自身が支えられているのかもしれません。だれかを支えることで、もっとも厳しい人生の峠を、確実に乗り越えようとしているのではないでしょうか。

 混迷の時代に求められる真のリーダーシップとは、先頭に立つことだけをめざし、「王」として君臨することではなく、後ろから静かに見守りながら、隣人に仕えること、役立つことです。そしてそこにこそ、わたしたちの生きる本当の使命、本当の生き甲斐があります。わたしたちは、自分のために汲々として生きているときよりも、人のために、人と共に生きるときに、本当の幸福と平安と充足を感じるものです。

 神の御子であるイエスさまは、まさにそのために地上に降ってこられたのでした。キリスト・イエスの降誕を待ち望むこの季節、イエスさまが再び来られることを待ち望むこのとき、わたしたちは「主が教えられたように、わたしたちは歩んでいるだろうか」、主の「後について行く」ことができているだろうか、という問いをしっかりと心に留めたいものです。

 最後に、「感謝」と題する一文をご紹介して今日のメッセージを終わらせていただきます。

 「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かだけで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です」 (藤木正三著『断層 神の風景-人間と世間』)