■水がぶどう酒に
先月から聖餐に与るべき聖日に、アメリカの神学者、ウィリアム・ウィリモンの著書『日曜日の晩餐』を通して、「聖餐」についてご一緒に学んでいます。今朝は、その第三章「祝宴を始めよう!」です。ウィリモンは、ヨハネ福音書2章11節の言葉に続けて、こう語り始めます。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」
…今、ヨハネは、イエス・キリストの福音を語り始めるにあたって、イエスが水をぶどう酒に変えられた出来事を、また結婚披露宴という場所を選びます。わたしなら、福音を始めるのにもっと相応しい、いくつものやり方を考えつくことができたでしょう。なぜ、〔マルコが始めるように〕「癒し」でもなく、また〔ルカが始めるように〕「召命」でもなく、何がしか実りある出来事を選ぼうとしなかったのでしょうか。少なくとも、パーティーが白けたものにならないよう興奮させる、80リットルから120リットルのもの〔酒〕ではなく、もっと役に立つ御業ではなかったのでしょうか。これが、救い主が救いをもたらすためのやり方だと言うのでしょうか。
なんと軽薄で、役に立たない、無意味な奇跡でしょう。結婚披露宴の酒の給仕が遅れがちになり始めます。ぶどう酒がもうほとんどありません。飲み騒ぐ者たちが、イエスのところにやって来ます。そしてイエスの指示で、水がぶどう酒に変えられます。これが「その栄光を現された」と言われます。
けれど、この出来事のどこに、栄光があるというのでしょうか。…
禁欲主義的なピューリタンの影響を受けて育ってきたウィリモンにとっては、当然の疑問です。
■食事という贈り物
しかしウィリモンは、食べ物、食事は本来、神からのよい贈り物であること、それなのにその贈り物をわたしたちが誤って用いがちであることを指摘した上で、食べ飲むことの意味をこう明らかにします。
ファリサイ派の人々や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をしましたが、イエスの弟子たちは食べ、そして飲みました。この振る舞いが、イエスが宣教を始められた時、様々な問題を引き起こしました。なぜ、イエスの弟子たちは、食べ、飲み、楽しむことができるのかと問われたとき、イエスは「花婿が最後に到着する時、ぶどう酒が注がれ、音楽が大きく奏でられ、そして祝宴が始まる」(マタイ9:14-15)と力強くお答えになりました。
断食は、罪、病、そして死のしるしでした。それは、神への信仰に基づいた、悲しみ、嘆き、そして悔い改めを表わすものでした。断食に参加する多くの人々は、イエスとその弟子たちのような、だらしない「大喰いと大酒飲み」の人たちと自分たちを比べたとき、疑いもなく自分たちの正しさの方が優(まさ)っている、そう思ったに違いありません。しかしその一方で、食べることと飲むことはかつて、和解と平和、復活といのち、感謝と喜び、祝祭と希望のしるしでした。そして今も、そうなのです。…
ルカ福音書によれば、過越祭のとき、イエスは、神の御国が来るまでは再び食べることも飲むこともないだろう、と言われました。〔そして〕その後(のち)、エマオでの食事のとき、岸辺での朝食や他の食事のとき、〔そう、〕復活の後、食べ飲むことは、御国の目に見えるしるしとなりました。断食は今や止み、御国がやって来たのです。…
とはいえ、その御国で神の贈り物が誤って使われることもあります。御国の只中での生活だからといっても、初期教会の〔食べ飲むことに関わる〕口げんかに見られるように、わたしたちが神の贈り物を乱用することがないとは決して言えません。そこでわたしたちは、他者〔隣人〕の必要と限界に対する配慮と感受性をもって、何よりもすべての人々―特に、わたしたちが自己中心的に悪用することで、神の贈り物の食べ物がなく、苦しんでいる人々―への愛をもって、その神の贈り物を用いなければなりません。…
ウィリモンは、食べ飲むことの意味をこう纏(まと)めます。
食べることは、人の飢えが現実にあることを認めることであり、飢えの中にある他者〔隣人〕と自分をつなぐことであり、自分がいのちのために必要なものを神と他者に依存していると知ることです。〔食前に〕「感謝します」と言うとき、わたしたちは贈り物の存在を認めています。何かを贈り物として認めるとき、自分が必要としているものがあると分かります。食べるとき、他者と同じように、〔このいのちが〕養われるために必要なものを共に分かち合っているのだ、ということに気づかされます。食べ飲むことによって、わたしたちはキリストにある兄弟姉妹と結ばれ、くびきにつながれます。そのようにして、わたしたちは主の晩餐の秘儀の傍らに近づくのです。…
■日常の只中の栄光
こうしてウィリモンは最後の節で、今朝の出来事を「日常の只中の栄光」と表現します。
わたしたちが食べて飲むことの中にある、悪魔的な二重の性質〔自己中心と分断〕を否定することなく、わたしたち自身の欲望のために、神の贈り物の最も良いものさえ自分勝手に使おうとするわたしたちの愚かな姿を見逃すことなく、〔それでも〕イエスは食べ、飲み、そして楽しむようにとわたしたちを招いてくださるのです。この世界の悲しみ、痛み、傷を否定することなく、彼はそのすべてを拾い集めて、新しい展望の中にそれらを置いてくださいます。彼は、苦しみ、傷つき、飢えている人たちを招いて、祝宴を開かれるのです。 …
彼は水をぶどう酒に変えられました。そうすることで、彼はわたしたちに、彼の栄光の宣言を、しるしを見せてくださったのです。これこそが、神の栄光です。神の栄光が、神の超越性あるいは他者性―遠くにおられる、よそよそしい神―として示されることがあるかもしれません。しかしヨハネ福音書は、〔それとは〕異なった栄光―輝きがすぐ短かにある栄光―について語っています。結婚披露宴のここに、日々の心配事の只中に…いてくださるのは、肉なる神です。これが、わたしたちと共にいてくださる神。インマヌエルなのです。…
■喜びに喜びを
さて、舞台はカナという小さな町です。そこで開かれた婚礼の席に、イエスさまと五人の弟子たちが招かれました。母マリアがかなり自由に振舞っているところを見ると、近しい人の婚礼であったのかも知れません。イエスさまと弟子たちは、その婚礼という華やかに賑(にぎ)わう祝いの席に招かれます。
しかし、その華やかさ賑やかさは、直前1章に描かれていた洗礼者ヨハネの姿とは、余りにも対照です。洗礼者ヨハネは自分のことを、荒野に呼ばわる声、主の道を備える者だと証した人です。荒れ野に住み、独身を通し、身に着るものも食べるものも質素で、禁欲的な清貧の只中に身を置く人でした。彼は、神から離れ、この世の価値と人間の欲望に身を任せる人々に対して、厳しくまた否定的な調子で、罪の悔改めを求め、そのための清めの洗礼を授けていました。
婚礼に招かれた弟子たちは忸怩(じくじ)たる思いを抱いてその席に着いていたことでしょう。なぜなら、五人の弟子たちは皆、洗礼者ヨハネの弟子であったか、彼から強い感化を受けていたと考えられるからです。洗礼者ヨハネのもとで、贅沢(ぜいたく)に溺れ、驕り、犯す、人間の罪に対する戒めを聞き続け、その厳しさに触れてきた人たちです。その彼らがガリラヤにやって来て、さあいよいよ福音を宣べ伝えるというときに、よりによって婚礼のために着飾っている人々が居並び、あり余るほどのご馳走が饗(きょう)され、溢(あふ)れるほどの酒杯を重ねる、そんな祝宴に招かれているのです。弟子たちは苦々しく思っていたことでしょう。
しかし、ウィリモンが言っているように、婚礼に招かれたイエスさまの御言葉と御業は、洗礼者ヨハネのそれとは明らかに異なっていました。それは、わたしたちの生活すべてに、喜びと祝福とをもたらす、肯定的で希望に満ちたものでした。イエスさまは、宣教活動を始められようとされる最初のときに、婚礼という、人生で最も喜ばしい宴(うたげ)の席に出席され、溢れるほどの祝い酒をもって、祝福してくださったのです。
ここに意味があります。わたしたちはともすると、自分の人生にとってイエスさまが必要になるのは、苦しいとき、悲しいとき、辛いとき、困ったときだけだと思い込んではいないでしょうか。しかしイエスさまは、わたしたちの喜びの中にも来てくださるのです。そして、共に祝してくださり、共に喜んでくださるのです。 たとえ、誰が喜んでくれなくても、たとえ、どれほど小さな喜びであっても、いつも共に喜び、どのようなときにも、溢れるほどに祝してくださるお方がおられます。それが神の御子イエス・キリストでした。
■そのとおりにしてください
ここではまず、イエスさまが来ておられる婚礼の席で、ぶどう酒が足りなくなり、人々が困惑している様子が描かれていました。
母マリアは、「ぶどう酒がなくなりました」とイエスさまに訴えます。すぐに応(こた)えてくれるのかと思いきや、「婦人よ、あなたは、わたしと、何の係わりがありますか」と言われます。「関係ない」と言われたのです。「わたしの時はまだ来ていません」と無碍(むげ)に断られます。
何と冷たい言葉かと訝(いぶか)るわたしたちの思いをよそに、母マリアは召し使いたちにこう言いつけます。
「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。
大切な言葉です。「イエス・キリストが言われたことは、何でもするのですよ」と言います。イエス・キリストこそ、わたしたちに解決できない問題を解決してくださる唯一の救い主だ、ということです。父親ができないこと、母親ができないこと、人間にはどうにもできないこと、つまり、いのちや罪、苦しみや死といった人生の根本的な問題を、このイエス・キリストが解決してくださるのだ、と言うのです。
思春期の青少年が、自分の人生について悩んでいたとしても、両親に相談することはほとんどない、そう言われます。聞いても、「なんと馬鹿なこと、人生の目的なんて。勉強しておけばいいんだよ」としか言われないからです。人生の問題、根本的な問題には、親も答えることができないのです。学校の先生も答えることはできません。病院の医者も答えることはできません。「どうして生きていかなければならないのか」「何をしなければならないのか」「今後どうしたらいいのか」「どうあればよいのか」。誰も答えることができないのです。
しかし、わたしたちを愛してくださるイエス・キリストが言われることに従いさえすれば、難しい人生の問題も必ず解決していく。そう信じていた母マリアは召し使いたちに、「この人があなたがたに言いつけることは、なんでもしてください」と言います。
しかしこの後、イエスさまが言われたことは、ピント外れの、全く意味のないことでした。「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われます。「ぶどう酒をいっぱい入れなさい」と言われたのではありません。ぶどう酒はどこにもありません。「水を入れなさい」。彼らは言われる通りに、「口のところ〔かめの口〕までいっぱいに入れた」とあります。
皆さんでしたら、どうされるでしょうか。「イエスさまがこう言われた」、そのとおりにされますか。「いや、しない」「しようと思ったけど、やーめた」ではないでしょうか。「こんなことをして何になるんですか?」「そんなことをしても無駄骨ですよ」「こんなくだらないこと何でするんですか?」
しかし、この召し使いたちは何も言いません。母マリアが、「この人が言われたことは、なんでもしてください」と言ったからです。その人に「水を入れなさい」と言われたから、入れたのです。「それをくんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われたから、持って行ったのです。
■しるし―主の晩餐
その途上で、その途中で、奇跡が起こりました。世話役が、このぶどう酒になった水をなめてみると、今までのものより良い味のぶどう酒に変わっていました。イエスさまは、一旦は母の求めを断ち切りながらも、その求めに応えておられます。このときの喜びを満たしてくださいます。
しかも、母が思ってみなかったほどに、求めた以上のものによってもてなし、喜びで包んでくださったのです。この「良いぶどう酒」が、いのちのパン、生ける水、ぶどうの木と同じ様に、キリストの芳醇(ほうじゅん)な恵みの賜物を意味していることは言うまでもありません。それによって、カナの婚礼の席に連なった人たちは皆、この良いぶどう酒の味を満喫し、神の満ち足りた祝福と恵みがそこにいたすべての人々を包みました。
「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」。
この奇跡が「しるし」であると言われます。単に不思議なこと、驚くべきことというのではなく、より大いなることを示す「標識(サイン)」であるということです。それは、神様の大きな愛と恵みの賜物、一人の死ぬべき人間を罪と死の縄目から解き放ち、新しい人間として自由に生きる力を与えてくださる大いなる出来事、十字架と復活の奇跡を指し示す、そんな「しるし」です。そこに神の栄光があらわれ、示されました。
こうして婚礼は幕を閉じました。婚礼のことを、ドイツ語では「ホッホ・ツァイト/喜びのとき」と言います。婚礼は、新しい人生の門出のときであり、人生におけるもっとも喜ばしいときです。この喜ばしい婚礼の席は、イエスさまが列席されることによって、二重の喜びに満たされました。主が共にいてくださるところは、どこであっても、生きることへの祝福と喜びに満たされます。
イエスさまの生き方には、洗礼者ヨハネともユダヤ教の律法主義者とも異なる、自由さと闊達(かったつ)さと喜ばしさとがあります。信仰とは、このイエスさまと共に留まり、イエスさまと共に歩むことです。信仰に生きる人生は、ホッホ・ツァイト、喜びの時そのものであり、そのことを忘れてしまいがちなわたしたちが、いつも立ち返り、繰り返し味わう場所こそが、「主の晩餐」なのです。
お祈りします。インマヌエルの主よ、あなたが与えてくださる全ての贈り物に感謝します。何より、御子イエスをこの世に与えてくださり、日々の生活の中に、とりわけ主の晩餐の中にあなたが共にいてくださるという大きな喜びをお示しくださいました。新しい週も、その喜びをもって共に歩みゆくことができますように。主の御名によって。アーメン