福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月5日 ≪降誕節第7主日礼拝≫『みんな一緒に―神への真実』ルカによる福音書21章1~9節 沖村裕史 牧師

2月5日 ≪降誕節第7主日礼拝≫『みんな一緒に―神への真実』ルカによる福音書21章1~9節 沖村裕史 牧師

■こどものけんか

 小さな子どもたちが遊んでいる姿を見ていて、はっとさせられることがあります。遊ぶというと、「みんな一緒に」と思われるかも知れませんが、遊びの始まりは「一人遊び」です。一人遊びが始まると、喧嘩が増えてきます。理由は、大抵、おもちゃの取り合いです。お人形で遊んでいた女の子のそばで、もう一人の女の子がママゴト遊びをしていました。ママゴト遊びのお家には赤ちゃんが必要です。赤ちゃんが欲しいと思った女の子は、ともだちからお人形を取り上げようとします。お人形で遊んでいた子は「いやっ」と叫んで、喧嘩が始まります。二人はお人形の手を両方から引っ張り合います。と、お人形の手が取れてしまいました。お人形で遊んでいた女の子は泣き出します。もう一人の女の子も顔をこわばらせて、とても緊張しているのがわかります。こどもたちにとって、周りにあるおもちゃはみんな「自分のもの」です。保育園にあろうが、お店にあろうが、お家にあろうが、それはみんな自分のものです。それで、けんかが始まります。

 それでも、遊びながら喧嘩を繰り返すことで、こどもたちは学んでいきます。おもちゃを独り占めするよりも、喧嘩をするよりも、友だちと一緒に遊んだ方がずっと楽しいことに気が付き始めます。保育園のおもちゃは、「みんなのもの」で、みんなで一緒に遊ぶためのもの、ということがわかるようになります。こどもたちは、今、手にしているものを独り占めするのではなく、みんなと一緒に、ということの大切と楽しさを知るようになります。こうしてこどもは成長し、おとなになっていきます。

 ところが、わたしたちがおとなになって、たくさんのものを手に入れ、身に着け、それを自由に使うことができるようになると、まるで二歳か三歳のこどもにでも戻ったかのように、それを独り占めしようとして、またまた喧嘩をするようになってしまいます。

 

■すべてをささげる

 今日のみ言葉からは、そんな愚かなわたしたちの姿が浮かび上がってきます。

 ここで、わたしたちが先ず、何よりも目を留めなければならないのは、金持ちたちとは如何にも対照的な、わずか二枚のレプトン硬貨―今で言えば、缶ジュース一本分のお金を神様にささげた「やもめの姿」です。そのやもめのささげものに、イエスさまは「真実」を見出されます。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 「確かに言っておくが」とは、直訳すれば「真実をもって、わたしはあなたがたに言う」です。真実として、あなたがたに言う。真実がここにある、そのことをあなたがたに語る、ということです。

 やもめの何を真実だとご覧になったのでしょうか。

 お聞きになったことがあるかも知れません。この時代のユダヤの賽銭箱は、トランペットを大きくし、音の出る方を上に、吹き口を下にして立てたような形のもので、その中を通って献金が集まるように作られていました。それが、神殿の「婦人の庭」と呼ばれる場所に十三箱、置かれていました。そのラッパ型をした十三の賽銭箱の脇には、祭司たちが帳面のようなものを持って立っていました。それぞれの賽銭箱には札がついています。病気のためにとか、仕事のためになど、願い事の内容によって分かれていて、人々は願掛けをする賽銭箱のところに行っては自分の名を告げ、「何々のためにささげる」と言って献金を投げ入れます。すると、祭司があたりにいる人たちみんなに聞こえるくらいの大きな声で、名前とその額を言い、記帳します。

 「だれそれ、レプトンふたつ」と大声で告げられる。恥ずかしさで身が縮むようです。貧しいやもめは、どのような思いで、どのような姿で、わずかばかりの金をささげたのでしょうか。

 「これは、ここにいる祭司に差し出したのではない、神様にささげるのだ」という信仰によるのでなければ、到底できることではありません。やもめはこのとき、ただ神様へのピスティス―信仰、誠実さ、真実をもって、その銅貨をおささげしたのでしょう。

 しかしわたしたちは、なお戸惑いを覚えます。イエスさまは言われます、

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 生活費全部をささげることが真実の尺度となるなら、明日からの生活は一体どうなるのでしょうか。持っているものすべてをささげることは果たして良いことでしょうか。ローンや教育費はどうするのでしょうか。金持ちたちは「有り余る中から献金した」とありますが、「有り余る中から」という言葉にも引っ掛かります。「有り余る中から」ささげている人などいるのでしょうか。だれしも老後の生活費、介護の費用、病気のときの治療費のことが心配です。こどもや孫のことも考えます。心配は尽きません。「有り余る」、捨てるほどあるという人など、どこにもいない。そう思われます。ましてや貧しいやもめが、自分の持っているものをすべてささげることができたのは、どうしてなのでしょうか。

 

■やもめの「真実」

 日本近代文学の優れた研究者であり、クリスチャンであった水谷昭夫の著書『たゆまざるものの如く―山本周五郎の生涯』の一節が思い出されます。

 山本周五郎は小説『裏の木戸はあいている』の中に、こう記しています。

 「かなしいことに、人間は貧乏であればあるほど、金銭に対して潔癖になる。施しや恩恵を、かれらほど嫌うものはない」

 「かなしいことに」とは、周五郎自身の生い立ちに深く根差す言葉です。水谷は、赤貧を生きた少年周五郎とその母とくの姿をこう記しています。

 「大正期の日本の家庭の食生活は、今日では想像できぬほど貧困であったことは確かだが、この赤貧はまた一際(ひときわ)きびしいものであった。

 そのなかで彼女は、身に粗服(そふく)をまといながら、少しでも豊かな日常生活を作り上げようと努力していた。

 彼女はとくに少年の躾(しつけ)にはきびしかった。

 それは日常の作法においてきびしいばかりではなく、心の躾においてもきびしかった。彼女は少年を、貧しいもののようには育てなかった。貧しさの故に貧しい心を持つことや卑屈になることとけんめいにたたかっていた。…

 少年はしかし、このしつけのきびしい母をただ口うるさいと受けとめていた。受けとめていながら、心の底で愛していた。それがはっきりと自覚されるのが彼女の死のときである。

 …その葬儀の夜に集まって来た人々の姿を見て感動した周五郎が、

 日本の女性のもっとも美しくたっといことは、その良人さえも気づかないところにあらわれている。(『語る事なし』)

 そう言って母親とくを描くのである。

 赤貧の中で暮しながら、なおも自分よりもっと貧しい人々のために、下着一枚、食事一飯、そしてやさしいなぐさめの言葉をあたえつづけていた。当時の生活にてらしてみて、それは自らが、かけがえのない下着一枚を脱ぎ、一飯をぬくことの上に成り立つ行為であった。少年はそれを実感としてうけとめていた。単なる近所のつきあいではない。彼女が日常口やかましく少年をしつけていた、貧しさの中でこそ、ゆたかな人間らしい輝きをうしなわぬことを、自分の生涯と死を通して、静かに語っていたのである。

 それが周五郎に激しい感動をあたえたのである」(『生涯』15-16p.)

 貧しさの中に失われない、豊かな人間らしい輝き―これこそが、やもめの「真実」ではなかったでしょうか。

 

■神様が与えてくださる

 そんないのちの輝きを、真実を、イエスさまはわたしたちに、これまで何度も繰り返し語り、教えてくださっていました。

 イエスさまは、蒔くことも、育てることも、刈入れることもしないあの鳥が養われ、明日には炉に投げ入れられ、焼かれる他ない野の花が美しく装われるように、「あなたがたの天の父は…あなたがたに必要なことをご存じである」と言われました(マタイ6:25-34)。

 わたしたちが、身につけ、手にしているものはすべて、そしてわたしたちのいのちさえ、自分の力で得たものではありません。およそすべてのものは、わたしたちが自分の自由にしてよいものではありません。それはただ、神様が与えてくださった、まさに神様からの恵み、神様からの贈り物です。

 だからこそ、神様は、与えられたわたしたちのいのちを何よりもかけがえのないものとしてくださり、だからこそ、神様は、いのちを与えたわたしたちをどこまでも愛してくださり、だからこそ、神様は、いつもわたしたちに必要なものを必ず備えてくださり、だからこそ、神様は、与えられたものをわたしたちが互いに分かち合うことを願い、求められるのです。

 そして、何と言ってもその方が、みんなと一緒で、楽しく、幸せなはずなのです。

 ところが、子が親を殺し、親が幼いいのちを平気で傷つけ、金のために平気でごまかし嘘をつき、自分に都合の良い正義を振りかざして、人のいのちを奪う戦争を始めてしまう。そんな目を、耳を覆いたくなるような出来事が今も後を絶ちません。それはすべて、いのちも、必要なものは何でも与えてくださっている神様の愛を見失って、互いのいのちを、互いの人生を、自分のためだけに恣(ほしいまま)にしてしまう、わたしたちの愚かさ、罪のゆえです。

 そんなわたしたちに、イエスさまは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな」と教えてくださいます。「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」やもめは、富も地位も権力も、何も持たない人でしたが、だからこそと言うべきかも知れません。不義を退け、貧しく虐げられた者を恵んでくださる神様の愛のみ手が、今わたしたちのところに差し出されていることをよくよく知っていました。彼女にとって、レプトン銅貨二枚も自分のいのちも、今持っているものすべては神様から与えられたもの、神様からの恵みそのものでした。だからこそそれは、本来の持ち主である神様にお返すべきものであると同時に、わたしたちが必要とするときには必ず与えられるものでした。

 彼女はすべてをささげました。

 

■終わりのときに

 このような信仰は、現代社会では、愚か者の夢想、独りよがりの自己満足、その場しのぎのごまかしでしかない、そう言われるかもしれません。とくに、持てるものと持たざるものとの格差が拡がることはやむを得ないこと、自由で公正な市場経済の必然的な帰結であると信じている人たちにとって、やもめの真実、信仰は、この世の現実からかけ離れているとしか思えないでしょう。

 しかしイエスさまは、やもめの信仰こそ真実だ、と言われます。その真実を教え示すために、続く5節から9節の中で、エルサレム神殿の崩壊に象徴される「この世の終わり」について語られます。

 この世の終わりと聞くとき、わたしたちは、今わたしたちが持っているものすべてを失う、恐ろしい出来事であると考えます。しかし、イエスさまが語られる終わりのときとは、ただ恐ろしいだけのときではありません。確かに、現実の、目に見えるものだけを信じる人にとっては、目に見え、手に取れるものだけが価値あるものです。それをどれだけ多く持つことができるのかということだけが関心事であり、それこそがこの世の真実ではないかと思われるでしょう。しかし本当の真実は、わたしたちの目からは隠されています。終わりのときとは、その隠されていた本当の真実が明かされるときのことです。

 これと同じことを、わたしたちは人生の中でも経験します。人は、死という人生の終わりに直面するとき、避けることのできない老いや死への道を歩み進んでいると感じるとき、あるいは体が衰え、仕事中心の生活から次第に離れて行かざるをえなくなったとき、それまで自分のすべてであった地位や名声や富といったものが、実は生きる上で一番大切なものなのではないと感じるようになります。そのとき、わたしたちは初めて、わたしたちの人生にとって一番大切なもの、生きる意味となるもの、本当に真実なものとは何かということに気づかされるでしょう。

 大阪大学の元学長で、哲学者の鷲田清一が『大事なものは見えにくい』という著書の中に、こんなことを書いています。

 「…柳宗悦の『茶道論集』である。柳は、茶の本質を「わび」「さび」といった「知者の用語」ではなく、「渋さ」という「民衆の言葉」で語りだそうとするのだが、その心根は「貧の心」にあるという。そしてその「貪」を、たとえば茶器の「簡素な形、静な膚、くすめる色、飾りなき姿」に見る。そう、「貪の心のない所にこそ貧がある」、と。

 この欠如、この不完全、この疵(きず)、この「貧」、つまりは意味の凹みのなかに、柳は充足以上の価値を見ようとする。そして、「足らざるに足るを感じるのが茶境なのである」という。「足るを知る」というより、「足らざるに足るを感じる」。この語り方はなかなか爽やかである。そこには、足りているときには見えないさまざまの余韻や暗示がたっぷりと含まれている。柳にいわせれば、「無限なるもの」の暗示である」

 鷲田は、「足らざるに足るを感じる」ことの中に、大事なのに見えにくいもの―無限なるもの―を見ています。

 今、イエスさまは、目に見え、手にとることのできる、人間の欺瞞と欲望の象徴となっていた神殿の崩壊を語られることによって、この世の終わりは、裁きのときであると同時に、祝福と恵みに満ちた神様の支配が完成するときだと告げられます。目には見えないかもしれないけれども、その神様の支配がもうすでに始まっている。今ここにも、神様の愛のみ手が差し出され、神様の祝福と恵みがもたらされている。あのやもめのように、あなたもそのことに気づきなさい。どんな時にも、神様が必要なものを必ず与えてくださるという、やもめと同じ真実、希望に生きなさい、そう教えてくださるのです。感謝して祈ります。