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3月1日説教抜粋 『こう祈りなさい―救い出してください』 マタイによる福音書6章13節 沖村 裕史 牧師

3月1日説教抜粋 『こう祈りなさい―救い出してください』 マタイによる福音書6章13節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。

この言葉を読んですぐに思い出すのは、ルカによる福音書22章39節以下に描かれる「ゲッセマネでの祈り」の場面です。39節から40節、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」。静かに穏やかに祈られていたのではありません。今まさに捕らえられ、十字架にかけられようとしていました。その危機的な状況の中に祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。

「誘惑」と訳されるペイラスモスというギリシア語は、試練や試みとも訳されます。積極的な意味では試練として試みるという意味になりますが、消極的意味では堕落や滅亡への誘惑といった意味になります。現実には、試練と誘惑を区別することなどできません。わたしたちの生活のすべてが試練であると同時に誘惑でもあります。四方八方を誘惑や試練に囲まれています。そしてわたしたちはその試練や誘惑に対して実に無力です。

そのわたしたちに、イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るようにと教えられます。高みに立って、そう教えられるのではありません。イエスご自身が激しい試練や誘惑の中にありました。41節以下、「石を投げて屆くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』」。できれば十字架を回避したいと願われたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈るイエスが「誘惑に陥らないように祈りなさい」と教えられたのです。

今日のこの祈りは、勇ましい祈りでも英雄的な祈りでも決してありません。何よりも人間の弱さ、自分の無力を知っている人の祈りです。試練や誘惑の前で、まったく無力であることをよくよく知っている人の祈りです。試練と誘惑に遭えば、あのアダムとエバのようにひとたまりもありません。この祈りは、そんな無力さの中で必死に祈る「父よ、助けてください」という祈りです。

ところが、人は、この一言をなかなか口にすることができません。「助けてください!」できるなら、そんなことを言わずにすむ、穏やかな生涯を送りたくとも、どんなに恵まれた境遇の人であっても一度や二度は思わず叫ぶはずです。もはや、自分の力ではどうすることもできず、思わず天を仰いで、「助けて!」と。聖書には「助けてください!」と叫ぶ人の姿が描かれています。イエスが通りかかったときに、「わたしを憐れんでください!」と大声で叫んだ盲人の話など。イエスは、それら必死な叫びに必ずこたえて、病気を癒し、障がいを取り除くのですが、そのときイエスはいつもこう言われました。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。たしかに、人は頼りにならないし、弱みを見せては生きていけない社会です。しかしだからこそ、絶対頼りになり、弱みをこそ受け止めてくれる力を信じて、「助けてください」と言うしかありませんし、それを言えたときに、実は人は「もう助かった」のです。自分では自分を救えないことを思い知り、そんな自分を助ける大いなる力を、最後の最後に信じて叫んだ、そのときに、です。

自分は弱い。弱いままなのです。けれども神は強い。神がその力強い御翼の影にわたしたちを置いてくださいます。そして御子イエスこそが、わたしたちを救いに来られたお方だから、わたしたちは信仰の英雄になって「苦しみよ、来たれ」と強弁するのではなく、単純素朴に神に向かって「助けて?」と叫ぶことが許されています。それこそが、主の祈りの最後に置かれた祈りでした。