福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月4日 ≪復活日・イースター礼拝≫ 『思い出してごらん』ルカによる福音書23章56節b~24章12節 沖村裕史 牧師

4月4日 ≪復活日・イースター礼拝≫ 『思い出してごらん』ルカによる福音書23章56節b~24章12節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏 喜び祝え、わが心よ (R.モーザー)
讃美歌 16 (1,3,5節)
招 詞 ローマの信徒への手紙6章8~9節
信仰告白 使徒信条
讃美歌    207 (1,3節)
祈 祷
聖 書    ルカによる福音書23章56節b~24章12節 (新159p.)
讃美歌    333 (1,4節)
説 教    「思い出してごらん」 沖村 裕史
祈 祷
献 金    65-2
主の祈り    
報 告
讃美歌    382 (1,3,5節)
祝 祷
後 奏    小羊をば ほめたたえよ (R.J.ヒューズ)

 

≪説教≫

■いたたまれない一日

 三日前の十字架の死によって、弟子たちがイエスさまに対して抱いてきた、すべての希望は打ち砕かれ、絶望をもたらしました。彼らは自分にも絶望していたことでしょう。あんなにも愛し、慕ってきたイエスさまを、自分たちは何もせず、十字架の死に引き渡してしまった。裏切り、逃げまどい、ただ遠くから指をくわえて見ているしかなかった。そんな自分自身に対する絶望は、イエスさまを失ったことの大きな悲しみにも増して、弟子たちの心を強く打ちのめしていたに違いありません。そのときのこと、

 「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」

 イエスさまが十字架の上で息を引き取られたのは、三日前の金曜日、安息日の始まる直前のことでした。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」とあります。安息日のため、何もできないままに、まる一日が過ぎていました。イエスさまの血にまみれた手足を拭(ぬぐ)うことも、その体に香油を塗ることもできません。ただ喪失感と絶望だけが、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(10節)の心を支配していました。虚無の力だけが働いているかのようでした。

 ガリラヤにおられた頃から付き従ってきていた彼女たちにとっては、いたたまれない一日であったに違いありません。「週の初めの日の明け方早く」という言葉に、彼女たちのそんな思いが滲みます。彼女たちは一刻も早く、イエスさまの亡骸に香油を施して、せめて死体の腐敗する嫌な匂いだけでも消したいと願いました。そうすることで、安息日の間、ずっと心をさいなみ続けた、虚無的な、絶望的な、その気分を紛らわせようとしました。そうするほか何もできなかったからです。

 

■途方にくれて

 そこに、夜明けと共に希望の光がそっと差し込み始めます。

 彼女たちはイエスさまの遺体がおさめられている墓に向かいました。マルコ福音書には、墓に向かう途中、彼女たちは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と語り合っていたとありますが、ここには何も記されません。自分たちの力ではあの墓の入り口の石を動かすことなどできない。そんな不可能と思われることを前に、躊躇(ためら)い、立ち止まるのではなく、ただまっすぐにその場へと向かいます。

 驚いたことに、彼女たちが墓にたどりつき、「見ると、石が墓のわきに転がしてあり」ました。あらゆる不可能を予測して、結局のところ何も行動を起こさない、何もしようとしない者に、この驚くべき出来事を見ることはできません。彼女たちが不可能を越え、行動を起こしたとき、妨げの石は思いがけなくも突破され、絶望の中から希望の中へと踏み出します。

 彼女たちは墓の中に入り、イエスさまのご遺体を探しました。ところが、そこに遺体がありません。「そのため途方にくれていると…」と聖書は記します。

 せめて、イエスさまの遺体に香油を塗って丁重に葬りたい。そのことだけを慰めに、安息日が明けて朝になるのも待ちきれずにやって来たのに、イエスさまの体がどこにも見つからない。どこにあるのかもわからない。彼女たちにとって、絶望の上にさらに絶望を塗り重ねられるような出来事だったはずです。

 イースターの朝は、不可能を乗り越えてやって来たはずの彼女たちが、さらなる絶望の中で「途方に暮れた」、ここから始まっていると言うべきなのかもしれません。

 墓石が動かされていた。それだけでは、まだ本当の希望は得られなかったということです。彼女たちの希望は、そのときはまだ、イエスさまの遺体にすがるようにして香油を塗ること、そのことによって悲しみや絶望を紛らわすだけのもの、希望ともいえない希望でした。その希望が塗り替えられて、本当の希望―彼女たちを悲しみ、絶望の中から立ち上がらせ、全く新しい生き方へと押し出してゆくような希望が、新しく生まれなければなりませんでした。

 途方に暮れる彼女たちの傍らに輝く衣を着た二人の天使が現れ、恐れて顔を伏せる婦人たちに、こう語りかけます。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」

 復活の告知です。しかし、復活が告げ知らされることと、復活したイエスさまと出会い、復活を実感することとはまったく異なることです。彼女たちは、天使からイエスさまの復活を告げられたに過ぎません。それも、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」という問いかけによって、です。

 あなたがたはイエスさまを捜しているが、捜す所が間違っている、ということです。「あの方は、ここにはおられない」。「ここ」とは墓のことです。イエスさまは、あなたたちの思い出のよすがとして、死者を埋葬する所であるこの墓の中に横たわってはおられない。だから、墓をいくら捜してもイエスさまを見つけることはできない。それは見当違い、的外れだと言われます。なぜなら、イエスさまは復活して、生きておられるからだ、そう天使は告げたのです。

 イエスさまは生きておられる!

 

■思い出してごらん

 この知らせを聞いた彼女たちは、どうしたでしょうか。

 「主は復活して、生きておられる。ハレルヤ!」と喜んだでしょうか。そうは書かれていません。では、どこへ行けば会えるのか。そのことも示されません。マルコは、ガリラヤに行けという天使の言葉を書き、マタイとヨハネは、天使の告げた後、復活したイエスさまが彼女たちに現れてくださったと記しますが、ルカは何も書きません。

 目に見える現実は、イエスさまはここにはいない、と告げるだけです。

 わたしたちは、いつも、そんな「ここ」を生きています。決して開くことのない封印された墓。二度と手に触れることのできない亡骸。人生の不条理。人間の限界と絶望。イエスさまに従って来た女性たちも、そんな「ここ」に、ただうずくまるしかありませんでした。

 そんな彼女たちに、天使は言います。

 「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」

 イエスさまはすでに三度も、ご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって捕えられ、殺され、三日目に復活すると予告しておられました。まだ「ガリラヤにおられたころ」に二度、三度目はエルサレムへの旅の終り近くでのことでした。弟子たちも婦人たちも、その言葉を聞いていたはずです。その言葉を思い出してごらん、と天使は言うのです。

 雨宮 慧という聖書学者が、この「思い出す」についてこう書いています。

 「…マリアが神はあわれみを『お忘れにならず』、その聖なる契約を『覚えていてくださる』と歌うとき、神が忘れていたあわれみと契約を思い起こしたということではありません。むしろ、神は今まさにそれを心にとめ、救いの実現のために働き始めたことを言い表そうとしています。このような『思い出す』は、単なる想起では終わらず、現状の刷新を引き起こします。

 わたしたちもこのような『思い出す』を持つことができます。それは神が行った出来事やイエスの言葉を『思い出す』ときです。

 イエスを三度も否定したペトロは、鶏が鳴くとイエスの言葉を『思い出して』、外に出て激しく泣きました。この涙はただの後悔ではありません。裏切られると知っていても、かかわりを断とうとはしないイエスの心に触れた者の涙です。イエスの言葉を『思い出した』ことが、生き方の刷新をもたらし、殉教をいとわぬ宣教者に彼を変えてゆきます。今週の福音の女性たちも、イエスの言葉を『思い出しました』。聖書の述べる『思い出す』は、イエスの言葉がいきいきと肉声となって聞こえることであり、その声がわたしたちを生まれ変わらせます」

 

■思い出した

 「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」

 彼女たちは、イエスさまがご自分の死と復活を語っておられたことを思い出しました。それを聞いた時には、何のことか分からなかった、というよりも、イエスさまが捕えられて殺されてしまうということなど考えたくもなかったのです。分からなかったというよりも、分かりたくなかったのです。「分からない」とは「分かりたくない」ということ。それを分かってしまったら、平穏ではおれなくなるからです。自分が変わらなければならなくなるからです。そういう言葉にわたしたちはしばしば耳を塞ぎ、そして「分からない」と呟きます。

 イエスさまの受難の予告に彼女たちは耳を塞ぎました。ということは、復活の予告にも耳を塞いでいたということです。しかし今、イエスさまの十字架の死を目の当たりにし、その遺体がなくなったという現実の中、天使たちから「思い出してごらん」と語りかけられたとき、イエスさまのご生涯が、イエスさまのみ言葉とみ業のすべてが、彼女たちの心にもう一度よみがえって来ました。

 彼女たちが悲しみと苦しみに喘(あえ)いでいた日々に、イエスさまが寄り添い、支え、救い、導き、今、この墓にやって来るほどまでに生きがいとなってくださった、これまでのことを思い出しました。そのとき彼女たちは、今、自分たちが墓にいることも、自分たちの意志で来たというよりも、イエスさまに心とらえられ、導かれて来たのだ。イエスさまは、まさに今、寄り添うようにして、ここに共にいてくださるのだ。そのことに気づかされました。そして、そのイエスさまに委ねて、新しく生き始めます。

 それが、「イエスの言葉を思い出した」ということでした。

 

■走り出した

 ところが、彼女たちが、「墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のに、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じ」ません。

 もちろん彼らも、受難と復活の言葉を思い出したことでしょう。しかし弟子たちは、この時、単に過去を回想するように思い出していたに過ぎません。復活を告げる言葉が自分に向けられているとは思えず、ついには「イエスの言葉がいきいきと肉声となって聞こえ…生まれ変わらせ」ることはありませんでした。

 しかし、ただひとりペトロだけが違う反応を示します。12節、

 「ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」

 なぜ、ペトロだけがこのような行動を取ったのか。最後の晩餐の席上でのこと、弟子たちの中に裏切る者がいると言われたペトロはこう言います。

 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」

 しかしイエスさまは、こう告げられます、

 「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」

 そしてその予告の通り、彼はイエスさまが捕えられて連行された大祭司の屋敷の中庭で、「お前もイエスと一緒にいた」と指摘されると三度それを否定、イエスさまを知らないと言います。三度目には、彼が言い終わらないうちに鶏が鳴きました。そのとき、イエスさまが振り向いてペトロを見つめられます。イエスさまの言葉を思い出したペトロは、外に出て激しく泣きました。

 「イエスさまは生きておられる」という天使のお告げを婦人たちから聞き、イエスさまが語っておられた受難と復活の予告の言葉を、彼も思い出したことでしょう。何よりも、あのときのイエスさまのまなざしとともに、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言ってくださったイエスさまの深い慈しみがよみがえり、心を激しく揺り動かされ、生きておられるイエスさまとの出会いを求めて、立ち上がり、走り出しました。

 イースターの喜びを求めて走り出したのです。

 

■復活させられたのは

 ただこのとき、彼が走って向かった先は墓でした。そこで彼は、婦人たちが体験したのと同じように、「あの方は、ここにはおられない」ということを知らされ、「この出来事に驚きながら家に帰」ることしかできませんでした。

 しかしこれで終わりではありません。この後、ペトロたち、弟子たちにイエスさまが出会ってくださったのです。そのひとつが、この直後に描かれる「エマオでの出来事」です。

 日の傾きかけたエマオへの道を、疲れ果てた二人の旅人が杖にすがるように、イエスさまの思い出にすがりながら、歩いていました。そこに、ひたすらに彼らのために生き、死んでくださった方が共に歩いてくださっていたのです。それは、おそらく彼らの生涯にとってのかけがえのない慰めであり続けるでしょう。しかし、イエスさまは弟子たちの回想の中に残ることを望まれませんでした。回想の中にではなく、弟子たちの生きる現実の中を共に歩むことを望まれました。わたしたちのために十字架に死なれた方は、ただそういう者として記憶されるのではありません。わたしたちと共に生きられるのです。夕闇の道をたどるわたしたちと、いっしょに歩いてくださる、そういう救い主なのです。

 わたしたちも、もうダメだとあきらめるときがあります。幸せな日々は二度と帰ってはこないと絶望したあの夜。その夜の闇のなんと深かいことでしょうか。永遠に続くかと思われた闇。新しい朝が来るなどと想像もできなかったその闇の底で、しかし、神様は働いてくださっていました。

 「なぜ見捨てたのですか」と、わたしたち人間すべての闇を代表して問われたわが子イエスの究極の問いに、父なる神は答えられました。

 「わたしは、見捨てない」

 さあ、わたしのことを、もう一度思い出してごらん。どれほど不運に見舞われても、どんな不幸に襲われても、もう「恐れることはない」「大丈夫だよ」というイエスさまに励まされて、もう終わったはずの、今ここを、もう一度生まれるようにして歩み始めます。

 そのとき、わたしたちはようやく気付くことでしょう。実は、復活させられたのは、このわたし自身なのだ、と。