福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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3月8日説教抜粋 『赦されて、また赦されて』 マタイによる福音書6章14~15節 沖村 裕史 牧師

3月8日説教抜粋 『赦されて、また赦されて』 マタイによる福音書6章14~15節 沖村 裕史 牧師

今、イエスは教え諭されます。もし、あなたが本当に救われているのなら、本当に神の赦しを受け取ったことのある人なら、他の人々を赦さずにはいられないはずだ。信じる者とは、他の人々を赦さずにはいられない、そういう人たちのことだ、と。さて、私たちはどうでしょう。偽物のクリスチャンかもしれません。なぜなら、赦したくないと思っているからです。「絶対にあいつだけは」とか、「絶対にあの人だけは。あの時のあの発言、あの行為、あれだけは」と、今もずっと根に持って、夢の中にまで敵意を抱き続けているかもしれません。しかし、もし私たちが赦さなければ、私たちは神の赦しを知ることも、経験することもできません。いえそれは、私たちが未だ神の赦しを本当には経験したことがない者だということの証拠に過ぎません。

イエスさまは、そんな私たちを解放したい、そこから救いたい、と心から願っておられるのです。だから言われました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」と。人を赦すことは、私たちが赦されること、私たち自身を解放することなのです。イエスは教えられます。たとえ他の人に不満や敵意を抱くことがあっても、父なる神があなたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい、と。父なる神があなたを赦してくださったように。これがキーワードです。

私たちは赦された者です。人を赦そうと考えるその前に、クリスチャンだから人を赦さなければいけないと考えるその前に、その前にすでに私たちは赦されています。その赦しがどんなに大きなものだったのか。その赦しを受けるために、父なる神が御子キリストにおいてどれだけの犠牲を払ってくださったのか。そしてそのイエスを十字架に架けたのは誰だったのか。思い出してください。讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」の1節にこうあります。「あなたもそこにいたのか、/主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと/深い深い罪に/私はふるえてくる」。私たちが、罪のなき独り子イエスに与えた傷、与えた辱め。私たちがイエスの顔につばを吐いたのです。晒し者にしたのです。真っ裸にして鞭打ったのです。そして釘で両腕両足を十字架に打ちつけました。そのときそこにいたならば、私たちは自分の手でそうしたでしょう。いえ、今も私たちはイエスの「赦しなさい」という言葉に背き、憎みと不満と敵意をもって、イエスを十字架に苦しめ続けています。それほどひどいことをしてもなお、私たちは無条件で赦されたのだと聖書は教えます。私たちは赦されざる罪人であるにもかかわらず、赦されるとイエスは言われます。赦し、それは神の御業です。神の恵みです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださらなければ、誰にも知られなかった驚くべき「赦し」です。それを今、私たちはいただいているのです。

ホロコーストの生存者、コーリー・テンブーンの言葉です。「赦しは怒りの扉を開き、憎しみの手錠を外す鍵である。それは悲痛の鎖を断ち、利己心という足かせを断つものである」「他人を赦すことができない者は、自分が渡らなければならないブリッジを壊すことになります」。神が赦してくださったように、私たちが人を赦さないならば、私たちを救おうとして神が架けてくださったブリッジ、天の国への架け橋を自らの手で破壊することになります。「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」のです。

天の国への架け橋を壊さぬよう、赦しましたように赦してくださいという主の祈りを教会で絶えることなく祈り続けなければなりません。私たちが人を完全に赦すことができるというのではありません。それでも、赦しますと祈り続け、赦そうとし続けることはできるでしょう。それだけが、私たちが赦された者であることの、クリスチャンであることの唯ひとつの確かな証です。