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4月18日 ≪復活節第3主日礼拝≫ 『豊かに実る』マタイによる福音書13章31~35節 沖村裕史 牧師

4月18日 ≪復活節第3主日礼拝≫ 『豊かに実る』マタイによる福音書13章31~35節 沖村裕史 牧師

■聞いて分かる

 今朝も、イエスさまが天の国について語られた「種」に纏(まつ)わる譬えです。イエスさまはいくつもの種の譬えと共に、繰り返し「耳のある者は聞きなさい」(9節、43節)と語られました。この譬えに注意深く耳を傾けなさいと言われます。イエスさまの譬えは決して難解なものではありません。分かりやすいものです。にもかかわらず、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。

 聞いて分かるとは、どういうことなのでしょう。

 分かるときに大切なことは、その言葉を聞きながら、具体的なイメージが心の中に浮かんでくることです。イエスさまの言葉が具体的な姿を取ってくる、そのために譬え話をなさいました。聞く人々の日常生活に材料を得て、いくつもの譬えを語られました。

 今朝の譬えは、「『毒麦』のたとえ」とその「説明」の間に挟まれるようにして置かれています。その毒麦のたとえはこう始められていました。24節以下、

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」

 「人々が眠っている間に」とあります。マルコによる福音書では、この毒麦の譬えの代わりに「『成長する種』のたとえ」が置かれ、そこには「夜昼、寝起きしているうちに」と書かれています。

 「夜昼」です。「昼夜」ではありません。なぜか。日が暮れる時から新しい日が始まると考えられていたからです。太陽が沈めば、明日になる。わたしたちとは生活感覚が違います。生活感覚が違うということは、人生の捉え方も違うということです。さあ働くぞ、というのではなくて、さあ寝るぞ、というところから一日が始まります。寝ることから起きることへ、また寝ることから起きることへと生活のリズムが作られます。床に入って、憩い安らぐ、その時に不安を抱えていたのでは眠れません。そのためでしょう。詩編には、夜、眠れない人の歌がいくつも出てきます。眠れないままに、神を想う歌です。言い換えれば、安らかに眠りにつくことができるのは、その人が神にすべてを委ねているからなのでしょう。一日、一所懸命に種を蒔いた、新しい日が来た、さあどうするか、ではありません。日暮れまでの「昨日」の働きの実りを神にお任せして床に入る、そこから「今日」が始まります。そんな寝起きが繰り返されていく中に、豊かな実りがもたらされるのです。

 今朝のからし種と同じように、蒔かれた一粒の「種」とその成長の姿の中に、天の国の象徴的な姿が映し出されます。

 わたしたち人間が知らないうちに、太陽が、雨が、大地が種を大きく成長させてくれる。だからこそ、種蒔く人は、種を蒔いた後、夜と昼が繰り返される時の自然な流れに身を委ねながら、ただじっと待つことができます。人知の及ばないところで、また人知れずひとりでに、新しい、若い芽が大地の中から顔を出し、成長し、実を結ぶ。この成長の「事実」の中に、天の国、神の支配、神の救いがあります。神の愛の御手を見ることができます。農夫は長年の経験から、この成長の驚くべき秘密を知っているので、「自然」を信頼して、安心して、時間の流れに委せて、眠りにつくことができます。農夫の知っている秘密とは、信頼の対象である「自然」の背後に、すべてを慈しみ、育んでくださる神の愛の働きがある、ということです。農夫には、具体的なイメージとして、そのことが分かるのです。

 そしていつしか、実りを刈り入れる時が訪れます。この「刈り取り」としての「収穫」は、天の国の到来、完成を思い起こさせます。わたしたち人間の思惑とは全く関わりなく、ただ圧倒的な力をもって、わたしたちにもたらされる神の支配、神の救い、神の愛。そしてそれは、この世界を覆うほどの驚くほどの豊かさを持って、今ここに始まっている、もたらされている。そのことを聞いて悟りなさい、「耳のある者は聞きなさい」とイエスさまは言われます。

 

■驚きの世界

 今朝もそんな天の国の譬えです。「からし種とパン種のたとえ」とあります。その譬えがこう始まります。

 「天の国はからし種に似ている」

 天の国の象徴として、「からし種」が選ばれます。「からし種」の「種」は、「穀粒(こくつぶ)」、穀物の小さな種のことです。そのからし種が選ばれたのは、初めはごく小さな種が成長して大きな木のようになる、驚くほどの豊かな実りを表すためです。蒔かれるときは「どの種よりも小さい」その一粒の種が、成長したときには「野菜の中でも最も大きくなり」ます。これは黒芥子のことだろうと言われます。直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラムの種、それが成長すると、3メートルにもなります。

 種の成長が段階を追って語られます。

 「ある人が(それを)取って彼の畑に蒔くと、どの種よりも小さいのに、成長すれば、野菜の中でも最も大きくなり、一本の木となる。そのため、空の鳥がやって来て、その枝の下に巣を作るようになる」

 「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。驚くばかりです。

 わたしの郷里、山口県の船木で幼少期を過ごした小説家、国木田独歩は、後に東京は富士見町教会で植村正久牧師から洗礼を授けられます。その国木田に『牛肉と馬鈴薯』という小さな作品があります。青年たちが熱っぽく将来の夢を語る場面が出てきます。ある者はダーウィンのような大科学者になりたいと語り、ある者は宇宙の神秘を解明する大哲学者や大宗教家になりたいと言います。その中で、ひとり岡本という青年が何も言わないで、ただほほ笑みながら皆の言うことに耳を傾けています。周りの者がそれに気づいて、彼に将来の夢を語るよう促すと、その青年は自分の夢は皆とは違って、「宇宙の神秘に驚くことだ」と言います。宇宙の神秘を知りたいとは言わず、驚きたいとのだと語ります。

 この「からし種のたとえ」も、天の国、神の支配、神の救いは、取るに足らない小ささと想像を絶するほどの大きさとの対比に驚嘆するほかない、そんな驚きの世界なのだ、と教えてくれます。

 事実、さきほど賛美した412番に「昔主イエスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る樹とはなりぬ」とあるように、2千年前、世界の片隅で起こったイエスさまによる救いの出来事、福音はその後、世界中にまで拡がりました。まさに「からし種」のようです。

 

■捨てられ、避けられる種

 同じように「パン種」もまた粉に混ざって、パンを膨らませていきます。

 「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」

 「三サトン」とは、約40リットルほどの量です。これで百人分くらいのパンができるのだそうです。それほど多くのパンを作るのに、ほんの少量のパン種で大丈夫。ほんの少しのパン種が入れば、百人分のパンを膨らませることができる。まるで天の国のようだと言われます。

 しかし、この譬え話に違和感を覚えた方がおられるかもしれません。聖書の中に出て来る「パン種」のイメージは、悪いものばかりだからです。この譬え話を聞いていた人々も首を傾(かし)げたかもしれません。イエスさまご自身、こう言われました。「ファリサイ派とサドカイ派のパン種によく注意しなさい」(16:6)。パウロも、コリントの信徒に宛ててこう書き送っています。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」(Ⅰコリ5:6-7)。このように、「パン種」とはパンを腐敗させる不純物で、それが少しでも入ると全体に悪影響をもたらす、そう考えられていました。しかも、ユダヤの人々にとって、「パン種の入っていない」パンこそ、奴隷から解放された出エジプトの出来事を想い起すための過越の祭に欠くことのできない、大切なものでした。

 とすれば、ここでイエスさまが敢えて「天の国はパン種のようなものである」と語られたことに、何か特別な意味が込められているのではないでしょうか。

 マタイはこの福音書冒頭に、イエスさまの系図を書いています。その中に、本来なら「ユダヤの系図」に出てくるはずもない「女性の名前」が、それも四人も記されています。タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻です。タマルは、遊女の格好をして義理の父ユダを誘惑し、子をもうけた女性。ラハブは、エリコの町に住んでいた正真正銘の遊女でした。ルツは、イスラエルの民が結婚を禁じられていた異邦人、モアブ民族出身の女性。そしてウリヤの妻、バテシェバは、夫の留守中にダビデとの間に関係を結び、子をもうけた女性でした。この四人は、律法においても、また常識の秤(はかり)にかけても、罪人だと言われてもおかしくはない人々です。

 イエスさまの露払いとして生きた洗礼者ヨハネは、「生まれながらのアブラハムの子孫である」と鼻高々に誇っているユダヤ人に対して、「神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになる」と断言しました。この系図でマタイが伝えようとしていることこそ、そのことでしょう。思えば、マタイ自身も忌み嫌われていた徴税人でした。彼自身がイエスさまに拾われた「石ころ」のような人です。四人の女性も、本来ならイエスさまの系図から取り除かれなければならないような「パン種」、人々から避けられるような罪人です。

 しかし神は捨てることも、避けることもなさいません。むしろ、そのような人々のため、御子イエスの十字架の贖いによって罪という毒を、すべてご自身の身に受けてくださいました。マタイは、系図に四人の女性の名前を一人ひとり書き記しながら、自分を救ってくださったその方に、心からの賛美を捧げていたのではないでしょうか。

 人々から捨てられ、避けられる「パン種」のような者にこそ、天の国がもたらされている。「毒麦」を忍耐して待ってくださる神によって、天の国は「パン種」のようなわたしたちの中にこそ始まっている。そこに希望を抱き、そうしてくださる神に信頼して歩みなさい。イエスさまは、そう語りかけてくださるのです。

 

■隠されている

 そして、続く34節から35節、

 「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる』」

 なぜ、イエスさまは「たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった」のか。「天地創造の時から隠されていたことを告げる」ためだ、と言います。単に難しいことを分かりやすく説明するためではありません。「天の国」が譬え話によって語られるのは、「天の国」それ自体が隠されているものだからです。

 天の国は、からし種のように小さいのです。しかしそれは、ただ最初だけ小さいというのではありません。芽が出て育つまで、土の中に隠されて見えません。パン種も粉に混ぜられると見えなくなってしまいます。どこにあるのか分かりません。「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると」の「混ぜる」は、「隠す」と訳すことのできる言葉です。パン種は生地の中に隠され、その隠されたものが全体を膨らませます。天の国、神の救いも、そのように隠されている、見えるものではないということです。

 イエスさまは、その隠されている神の救い、神の愛の御手がしかし、着実に働いて、わたしたちを救い、この世界を変えていく、天の国はそのような力を秘めたものなのだと言われます。その隠されていることを、譬えを用いて群衆に語られました。譬えを用いないでは、何も語られなかったとあります。人間であるわたしたちに、隠されている天の国をそのままに理解することなどできないからです。ただ譬えでなければ、それを示すことができないからです。イエスさまの語られた、この「からし種、パン種のたとえ」の中に、隠された神の支配、神の救いが示されていました。

 しかし、そのことが群衆たちは見えていません。彼らが目にしているのは、小さなからし種であり、ひとつまみのパン種です。それが隠され、消えて、何もないかのような現実、世界が見えるだけです。それでも、それは天の国の、神の救いの種です。神によって必ず、大きな木へと成長させられていき、人々の心とこの世界全体に膨らんで、豊かな実りをもたらしてくれます。

 そんな天の国にわたしたちが生かされて生きる、そのためにイエスさまは来られたのでした。イエスさまは天の国をもたらそうとして、この世界に来てくださった。言い換えれば、イエスさまは、自分が何をしているのかということを人々に知ってもらおうとして、この譬えをお語りになっているのです。

 イエス・キリストこそ、からし種、パン種です。この罪に満ちたこの世界に、イエス・キリストというからし種、パン種が蒔かれました。イエスさまがからし種として、パン種としてこの世に蒔かれたのは、イエスさまの周りに集まっていた大勢の人々のため、わたしたちのためでした。隠されていた天の国は、イエスさまの御言葉と御業によって、何よりも十字架と復活によって、はっきりと目に見えるものとして、わたしたちに示され、もたらされました。

 ときに、この世界が、神の愛の御手が隠されていて見えない世界のように思われるときがあるかもしれません。しかし今も、神の救いは、神の愛の御手は、わたしに、そしてあなたに差し出されています。後は、わたしたちが耳を澄ませ、イエスさまの御声を聞き取ろうとするかどうかです。わたしたちの周りに、世界に注意を払ってください。見逃してしまっていた姿が見えては来ないでしょうか。聞き逃してしまっていた声が聞こえては来ないでしょうか。

 そこにイエスさまがおられます、天の国がもう来ています。感謝です。