福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月9日 ≪復活節第1主日/イースター「家族」礼拝≫『新しい朝を迎える』マタイによる福音書28章1~10節 沖村裕史 牧師

4月9日 ≪復活節第1主日/イースター「家族」礼拝≫『新しい朝を迎える』マタイによる福音書28章1~10節 沖村裕史 牧師

■ここにはおられない

 「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」

 驚くべき天使の宣言です。

 「ここにはおられない」

 そんなはずはありません。イエスさまは死にました。目撃者もいます。ガリラヤからイエスさまに従って来た大勢の女性たちがすべてを見守っていましたし、アリマタヤのヨセフは遺体を新しい墓に納め、マグダラのマリアたちはその墓を見守っていたではありませんか。イエスさまは死に、遺体は「ここ」にあるのです。つまり、すべては終わった、もはや、あらゆる希望が絶たれたのです。

 わたしたちはいつも、そんな「ここ」を生きている、と言えるのかも知れません。人間の思惑、人間の限界、人間の絶望。決して開くことのない封印された墓。弟子たちも、女たちも、そんな「ここ」にうずくまっていました。

 週の初めの日の明け方、十字架につけられ殺されたイエスさまが葬られた墓を訪れたマグダラのマリアたちの目の前で、墓石が開かれていました。

 呆然とするマリアたちに、天使が宣言します。

 「あの方は、ここにはおられない」

 では、どこにおられるというのか。

 そこはもはや、人間が計画し、管理するような世界ではありません。神様が与え、計らい、生かす全く新しい世界です。

 

■わたしのガリラヤへ

 天使は言います。

 「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」

 なぜ、ガリラヤなのでしょうか。そこは、弟子たちや女たちにとって、もはや、帰っても何の意味のない土地であるはずです。

 かつて苦しい人生を生きていた故郷。しかし、そこでイエスさまに出会い、このお方こそ自分たちの苦しい現実を救ってくれる、この世の救い主であると期待をかけ共に活動した、忘れられない栄光の地。とりわけ、「罪深い女」(ルカ7:36~50)、 「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女」(ルカ8:1~3)と呼ばれていたマグダラのマリアにとって、イエスさまの注いでくださった神様の愛と赦しによって生まれ変わり、生きる喜びを見いだした聖地。だからこそ、イエスさまが殺されてすべてが消えた今、最も帰りたくない地であり、たとえ帰ったところで、そこで生きていく意味のない空虚な地。聖地は今や、思い出すのも辛い、呪われた地になったのでした。

 そこへ行け、と天使は言います。そこでイエスさまに会える、と。

 それは、愛する者を失い、希望を失って、まさに死の世界にうずくまる外ないわたしたちへの、ただ一方的に与えられる福音の宣言です。

 だれにも、もうダメだとあきらめたときがあったはずです。今も、これからも、そうかも知れません。幸せな日々は二度と帰ってはこない、と絶望したあの夜。その夜の闇のなんと深かったことでしょうか。永遠に続くかと思われた闇。新しい朝が来るなど想像もできなかったその闇の底で、しかしそのときにこそ、神様は働いてくださるのです。

 「なぜお見捨てになったのですか」

 人間すべての闇を代表して問われた、我が子イエスの究極の問いに、父なる神は答えられます。申命記31章6節、

 「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。…あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」

 イエスさまのよみがえりは、そんな神様の答えそのもの、その答えの成就です。

 さあ、もう一度「わたしのガリラヤ」へ行こう。どれほどの苦難に遭おうとも、いかなる不幸に襲われても、復活の主と共に生きる、幸いの地へ。

 「恐れることはない。さあ、わたしのガリラヤへ」

 

■思い出す

 そう言われて、マリアたちはイエスさまの話されたことを思い出しながら、墓を出て、弟子たちに知らせるために走り出しました。
 
 そのとき彼女たちが思い出していたのは、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエスさまの言葉だけでなく、ずっと付き従ってきた彼女たちが見続けてきたイエスさまのご生涯のすべてであったに違いありません。

 かつてイエスさまが、悲しみと苦しみに喘(あえ)いでいた彼女たちに寄り添い、支え、救い、それからずっと導き、今も墓の中のイエスさまの遺体に縋(すが)りつきたいと願うほどに生き甲斐となってくださった、その「来し方」を思い出していました。

 そのとき彼女たちは、今、自分たちが墓にいるのは自分たちの意思で来たというより、イエスさまに心捕らえられ導かれて来たのだ、イエスさまは今も寄り添ってここにいてくださるのだ、そう思ったのではないでしょうか。思い出すことで彼女たちは、イエスさまが今も、生かし生きる力として共にいてくださり、寄り添ってくださっていることに気づかされ、イエスさまのその慰めの力が自分の内に働くのを覚えたのではないでしょうか。彼女たちにとって、確かにイエスさまは死んではいない、今も生きておられる方になったのではないでしょうか。

 来し方を思い出すということは、単に過去を回想することではなく、 彼女たちの内に、今も生きておられるイエスさまに出会う道でした。

 そして事実、墓場を出たばかりのマリアたちに、ある人の言葉を借りるならば、「まさに死に取り囲まれているところから飛び出してきたばかりのところで」、イエスさまは「おはよう」と呼びかけてくださり、その足を抱くことのできるそのままの姿で、マリアたちの前に立たってくださったのでした。

 マリアたちは、よみがえられたイエスさまに出会ったのです。

 

■朝を迎える

 「おはよう」

 イエスさまがマリアたちに語りかけられた、この「おはよう」という言葉は、とてもやさしい、ごくありふれた言葉です。よみがえられたのだから、何か特別な言葉をかけてくださってもよさそうなものです。でもイエスさまが語りかけられたのは、何気ない、この朝の挨拶の言葉でした。

 朝は優しい、そう思われたことはないでしょうか。

 朝はだれにでも訪れます。元気な人、元気のない人。昨日楽しかった人、昨日辛かった人。何もかも忘れてぐっすり眠った人、どうしても忘れられない心の痛みに眠れぬ夜を過ごし、夜明け前にようやく少し眠った人。

 朝は、そんなすべての人を柔らかな光で包み、耳もとでそっと言います。

 「おはよう」

 どこかで聞いたことのあるようなその声は、生まれてすぐにその胸に抱かれて聞いた母の声のようです。わたしの誕生を待ちわび、わたしの誕生を喜ぶ母親の優しい声。そうです。朝、わたしは目覚めたのではなく、生まれたのです。

 「おはよう」

 それは、新たに生まれた一日の、最初の挨拶です。先日、高齢の教会員の方がこんなお話をしてくださいました。

 「先生、わたしこの頃、夜寝る前にこんなことを思うんですよ。『今日も一日、神様がいのちをくださった。感謝。でも今晩、このいのちが召されるかもしれない。でもそれも、神様の御心!』って。そして、朝、目が覚めると、いつも感謝します。『神様が、今日も新しいいのちをくださった。ありがとうごさいます』って」

 新しい朝。ひと言「おはよう」と言えば、悪い夢は前世の記憶のように流れ去り、昨日の闇はもはやどこにもありません。「おはよう」は、新しい世界を始める挨拶です。不思議なことに、それがどんな世界かはまだだれも知らないはずなのに、それがとてもよい世界であることを、だれもが知っています。

 YMCAのキャンプ場の責任者をしていた頃、広島県と島根県の県境にある中国山地の山頂で、朝を待ったことがあります。暗いうちに山小屋を抜け出し、ひとり夜明けを待ちました。澄んだ星空の下、聞こえてくるのは、遠い風の音。ときおり「ヒュン、ヒュン」という不思議な音がするのは、夜行性の鳥の羽音でしょうか。春とはいえ、夜明け前の山は冷気に沈み、石造りの大聖堂にぬかずいて祈っているような厳粛な気持ちになります。

 そして、文字どおり「いつのまにか」夜が明けました。

 少しずつ、本当に少しずつ空が明るみ、さまざまなところでさまざまな鳥が鳴き始め、ミルク色の朝靄が濃く薄くたなびき、それがしだいに、ごく淡く赤みを帯び、やがて世界は神秘的な桃色に包まれます。言葉を失って呆然とする魂を、突然、金の光線が貫きます。

 期待していたのは、単に美しい夜明けの光景でしたが、実際に感じたのは、あまりにも圧倒的な、朝のパワーでした。それは、自分などが見ることのゆるされていない絶対者の顕現のようでした。人間の思い煩いなどお構いなしにやってくる朝の完全さに、深い安らぎを覚えました。

 朝に包まれてようやくわかりました、朝は、愛だと。

 

■おはよう

 「おはよう」

 この言葉で、よみがえられたイエスさまは、まるで、いつもと変わらない朝を迎えたように、いえ、新しい朝に、新しいいのちに包まれていることを告げ知らせるように、挨拶をしてくださるのです。

 それは、わたしはあなたたちと共にいるよ、そう声をかけてくださっているかのようです。そして、今もここに、わたしたちと一緒にいてくださって、みなさんにも声をかけてくださいます、「おはよう」って。

 「おはよう」という言葉は、ただの挨拶の言葉ではありません。イエスさまはユダヤ人でしたから、ヘブライ語かアラム語で、「おはよう」と言われたはずです。ヘブライ語の「おはよう」は、「シャローム」。シャロームの元々の意味は、「平和でありますように」、つまり「仲よく」「互いを大切に」という意味です。

 悲しいとき、苦しいとき、寂しいとき、どうしようもないと思える時にこそ、一緒にいてくださって、イエスさまはわたしたちに声をかけてくださいます、「シャローム」って。「平和でありますように」「あなたたちが仲よく、互いを大切にすることができますように」、そう祈ってくださるのです。

 自分のことばかりを考えてしまうことの多いわたしたちですが、十字架につけられて死んだはずのイエスさまがよみがえってくださって、そんなわたしたちといつも、どんなときにも共にいてくださって、あなたたちに平和がありますように、と声をかけてくださるのです。

 とても幸いなこと、とてもうれしいことです。

 そう言えば、「おはよう」というこの言葉は、聖書にはギリシア語で書かれていて、命令形で「喜べ」と訳せる言葉でした。イエスさまはマリアたちを出迎えて、「喜びなさい」、そう声をかけてくださったのです。

 だから、わたしたちも周りにいる人に声をかけましょう。悲しみや苦しみの中にある人に声をかけましょう。大丈夫だよ、イエスさまがいてくださるよ、僕も君のそばにいるよ、と声をかけましょう。

 自分がそうすることができなくても、イエスさまがそうしてくださっていることを教えて差し上げましょう。そうすれば、きっとみんなが笑顔で過ごすことができるでしょう。愛しあうことができるでしょう。

 それこそが、イエスさまが復活されたことの喜びなのです。

 感謝して祈ります。