≪式次第≫
前 奏 キリストよみがえりたもう (J.G.ヴァルター)
讃美歌 20 (1,3節)
招 詞 イザヤ書57章19節
信仰告白 使徒信条
讃美歌 329 (1,3,5節)
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書14章1~15節 (新136p.)
讃美歌 77 (1,3節)
説 教 「新しいエチケット—聖餐(6)」 沖村 裕史
祈 祷
献 金 64
主の祈り
報 告
讃美歌 451 (1,3,5節)
祝 祷
後 奏 しずかな喜び (志村拓生)
≪説 教≫
■あなたのマナーに気を付けなさい
昨年の10月以降、毎月第一主日に、ウィリアム・ウィリモンの『日曜日の晩餐』を参考に「聖餐」についてご一緒に学んでいます。今日は、第5章「あなたがパーティーを開くとき」です。ウィリモンはこう始めます。
まだ若かったころ、家で日曜日の晩餐が開かれました。そこに説教者も招かれていました。いつものように、フライド・チキンの中の小さいものだけを取って、最良のマナーを見せるようにと教えられました。食卓に集まると祝福の祈りが捧げられ、わたしたちはそれぞれの皿に取り始めます。チキンの皿が渡されたときのこと、いとこが親から言われていたことを無視し、チキンの胸肉を取ろうとしました。
「あら、チャールズ」と祖母が丁寧に、しかしきっぱりと言います。「あなたは手羽を取りなさい。チキンのどこも、全部おいしいわよ」
「はい、 マム」と彼は答えました。「全部おいしいことは知ってるよ、だから僕はただ、説教者の先生に、全部が好きになれるチャンスをあげているだけだよ」
食卓でのエチケットを学ぶことは難しいことです。まず、どのフォークで食べるのか? ナプキンはどこに置くのか? 客はどこに座ってもらうのか? ホワイトハウスは、重要な大統領の晩餐会の席を割り当てることを役目とする国家儀礼担当者を雇っています。間違った席を割り当てでもして外国の外交官を侮辱することは、国際的な危機を引き起こすことになるでしょう!
わたしたちのマナーは〔いろいろなことを〕露わにします。人が食べている様子を観察するだけで、あなたはその人についてたくさんのことを語ることができるでしょう。大企業のための採用担当者であるわたしの友人はいつも、見込みのある従業員を晩餐に連れて来ます。彼や彼女と食卓を共にすることで、彼らの他者に対する感受性、包容力、おおよその寛容さについて学ぶことができる、と友人は断言します。
イエスもこのことを知っていました。宴会では、とりわけイエスの主催するこの御国の宴会では、あなたのマナーに気を付けることがとても大切になります。ルカによる福音書14章で、イエスは御国のための特別な儀礼〔エチケット〕を宣言します。
■敵意の中に
その冒頭、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」
イエスさまがファリサイ派の人に招かれてその家で食事をする場面を、ルカは繰り返し描いています。「一人の罪深い女が後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」のも、「ある一人のファリサイ派の人」の家でした(7:36以下)。また「あなたたちは不幸だ」「禍だ」とファリサイ派の人々や律法学者たちを痛烈に批判されたのも、そうです(11:37以下)。そして、今朝の場面で三度目です。
イエスさまは、宴会の席に着いて人々と飲み食いし、語り合うことをとても喜ばれました。なぜなら、盛大な宴会に招かれることは、神の国、神による救いにあずかることの目に見えるしるしだとお考えだったからです。
ところが、この日、この食事は、和気藹々(わきあいあい)とした楽しいものではなかったようです。「人々はイエスの様子をうかがっていた」。イエスさまを招いたファリサイ派の議員も、そこに招かれていた人々も、イエスさまの過ちを粗探しするかのように、その様子にじっと目を注いでいました。
思えば、イエスさまと彼らの関係は険悪なものでした。二度目の食事の後、「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた」(11:53-54)とはっきり書かれています。
■大切なもの
しかし、ここにはファリサイ派の人々や律法学者たちがイエスさまをあからさまに非難する言葉や態度は描かれません。ただ、イエスさまの厳しい問いかけに沈黙する外ない、何ひとつ答えることができないでいる彼らの姿が描かれているだけです。
イエスさまの最初の問いかけは、「安息日に人々を癒すことは律法で許されているか、いないか」というものでした。
神の律法のすべてを、生活の隅々にまでおざなりにせず、きちんと守ろうとすることは信仰深い、敬虔な態度として尊敬され、また神の御心にかなうもの、神の恵みにふさわしいものと考えられていました。とりわけ安息日の規定は重要で、注意深く守られるべき神からの特別な賜物でした。
そこで、ラビと呼ばれる指導者たちは、安息日にしてはいけない「仕事」とは何か、例外的に何が許されているのかを議論し、事細かく規則として定めました。そのひとつ『ミシュナ』と呼ばれる規定集によれば、生命にかかわる状況に直面した場合のみ、安息日に癒すことが許されました(「ヨーマー」8:6)。
今、その食事の席、イエスさまの目の前に「水腫を患っている人」が現れます。「水腫」というのは身体(からだ)に水がたまり、浮腫(むく)んでしまう症状のことですが、重い身体的な疾患を抱えていることの徴候となるものです。その人を前に、イエスさまは「安息日に人々を癒すことは律法で許されているか、いないか」と問われました。
食事の席についていた誰も、何も答えることができません。その人が重い病気に罹っていることはわかっても、いのちに関わるほどのものであるかどうか、判断しかねたからでしょう。その沈黙は、事細かく定められた規定に縛られるばかりで、何が大切なのか、最も大切なものとは何か、そのことを見失っている彼らの愚かさ、罪を露わにします。
イエスさまはその人の病を癒された後、続けて、もう一つの問いを投げかけられます。大切ものとは何かを教え示すためです。
「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」
律法には、苦しんでいる動物を助けるべきだと書かれていますが、安息日にもそうしなさいとは書かれていません。そのため、例えば、水路に落ちた動物を安息日に救うことが許されるかどうか、人々の間で意見が分かれていました。イエスさまのこの問いに、誰も答えることができません。
イエスさまは言われます。いのちを救い出すことこそが大切ではないのか、水腫の人の状況は井戸に落ちて危険な目に遭っている子どもや牛と同じではないか、と。本来、安息日は、いのちあるものすべての休息と回復のための賜物として定められたものでした。水腫の人が差し迫った病状にあったかどうか、それはもはや問題ではありません。「病気を癒すことは仕事だから安息日にしてはならない」などというのは、安息日の本来の意味や目的を全く理解していない、本末転倒とも言えるものです。直前の13章15節以下でも、イエスさまはこう言われていました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と。
■婚宴に招待されたら
ファリサイ派の人々や律法の専門家たちが疑いと敵意をもって様子を伺っている中、食事は何事もなかったかのように続きますが、イエスさまはそこでさらに、辛辣な譬え話を語られることになります。「招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づ」かれたからです(7節)。
招かれていた人々とは、律法の専門家たちやファリサイ派の人々のことでしょう。彼らはいつも人から「先生」と呼ばれ、招待されればいつも上席に案内され、自分もまた上席に着くものだと思っていたのでしょう。
食事とは、単にパンを食べるということではありません。社会的な意味を伴うものです。どこで食事をするのか、だれと食事をするのか、どのように食事をするのか、そして食卓のどの席に着くのか、ということはとても大切なことでした。昔の話ではありません。さきほどのウィリモンの話を思い出してみてください。わたしたちも例えば、結婚披露宴に招待した人の席を決めるのにずいぶんと気を使います。主賓のテーブルには誰に座ってもらうか、両家のバランスをどうするか、等々。
しかしイエスさまは、そんなわたしたちに「婚宴に招待されたら」と譬えを語り始められます。そんなとき、勝手に上席に座ってしまうと、自分よりも身分の高い人が招待されていて、「すみませんがもう少し下の方に移ってください」などということになって恥をかく。むしろ末席の方に座っていて、招待した人に「あなたはもっと上席に着いてください」と言われる方が人々の前で面目を施すことになる、と。
なるほどと思われるかもしれません。多くの日本人は、後ろの方に座りたがります。ここに出て来る人々のように我先に「上席を選ぶ」ような人はめったにいません。教会の集会などでもそうです。上席も末席もないのですが、前の方には座りたがりません。「謙譲の美徳」とも言われます。謙遜を示し、尊敬を得るための有効なテクニックとして、この譬えを聞かれるかもしれません。
しかし、それは間違いです。イエスさまが勧めておられる「末席」とは、「後ろの方の席」ということではなく、「神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(13:30)ということです。また「面目を施す」の「面目」は「栄光」と訳される言葉です。単に人から見られた時の「面目」のことではなく、神だけが与えることのできる「栄光」です。さらに11節、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の時制は現在形ではなく、未来形です。「へりくだる者は高められることになるだろう」。いずれもが、神の国でのことを指しています。イエスさまがこの譬えによって教えようとしておられるのは、人から認められるためのテクニックとしての謙遜ではなく、この世界での地位や名誉とは何のかかわりもなく、ただ神が受け入れてくださっているという確信に基づく謙遜、神の国での新しい生き方、新しいエチケットのことです。
■お返し
そのことを、イエスさまは主人であるファリサイ派の議員への言葉として、こう言い換えられます。12節以下、
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」
「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」―普段、招かれることの多かった人たちと、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」―罪汚れた者と見なされて、食事に招かれることなどなかった人たち。この二つのグループの決定的な違いは何か。「お返し」ができるかできないか、と言われます。宴会に招かれたら、今度は自分の方も宴会を催してその人を招待する、そのようにお返しをすることができる人と、罪汚れた者として宴会を催すこともできず、貧しくてお返しをすることなどできない人。その貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさい。そうすれば、あなたは祝福される。終わりのとき、神から報われる、祝福されることになるだろう、と言われます。
報いてくださるのは神です。招かれることなどなかった、貧しく、不自由な、罪人と呼ばれる人を招くことをこそ、神は喜んでくださる。神の招き、救いとはそのようなものなのだ、ということです。神は、お返しができる者をではなくて、お返しなどできない、ただ恵みを受けることしかできない者をこそ招き、救いにあずからせてくださるのです。これが、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉の意味です。
わたしたちはいつも、人間どうしの比較の中で、恥をかきたくない、むしろ面目を施したいと思っています。だから、この婚宴の譬えもでも、末席に着いておいた方が面目が施せる、と考えてしまいがちです。しかしイエスさまは、そのような人間どうしの比較ではなく、真の主人である神がどのような人をご自身の宴会の席に招いてくださっているのか、ということにこそ目を向けなさいと教えられるのです。
神が招き、救いにあずからせてくださるのは、自分の力で生きていけると思い、神のために何かをすることができると自負しているような者ではなくて、自分の力では到底やっていくことができず、神のために何かをすることなど到底できない、ただ神の愛に、神の救いに縋(すが)る外ない者たちなのです。
まさに水腫を患っている人こそ、救いを必要としている人、この救いなしには生きることができない人でした。イエスさまは、そのような人をこそ招き、癒し、救ってくださるのです。
■約束の宴会
ウィリモンは、この14章前半を15節の言葉で、こう締めくくります。
別の言い方をすれば、これまでにあなたを招くことなどまったくできなかった人たちをこそ招きなさい。あなたに与えることのできない人たちに招待状を与えなさい、ということです。今や、主催者も客も誰もが、この新しいテーブルマナーに困惑させられています。
宴会についてのこの〔譬え〕話を聞くや否や、客の一人は、救い主が来るときに〔世界中に〕広められる、素晴らしい「救い主の宴会」を指し示すものだと聞き取ります。〔そして〕「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう!」と彼は叫びます(15節)。
「ああ、神の国がついにやって来るときにいるとは、わたしたちはなんと幸せなことでしょう」
「ああ、すべての者が天国に到るとは、わたしたちはなんと幸せなことでしょう」
これは、救い主がやって来て、そこにすべての者が共に与り、約束の宴会が始まるやいなや、あなたたちに良いことが起こるだろうことを示す、敬虔で、小さな感嘆です。
「あなたがたはその食卓に座ることを望みますか?」
イエスはこう尋ねておられるようです。