≪式次第≫
前 奏 ヴェルソ (D.ツィポリ)
讃美歌 10 (2,4,6節)
招 詞 ローマの信徒への手紙12章15~18節
信仰告白 使徒信条
讃美歌 354 (1,3節)
祈 祷
聖 書 マタイによる福音書15章29~39節 (新30p.)
讃美歌 451 (1,3,5節)
説 教 「繰り返し、繰り返し」 沖村 裕史
祈 祷
献 金 65-2
主の祈り
報 告
讃美歌 486 (1,3,5節)
祝 祷
後 奏 カンツォーネ (D.ツィポリ)
≪説 教≫
■よく似た物語
あれ? 今日の箇所、もう読んだことがある。そう思われた方があるかもしれません。イエスさまが四千人の群衆に食事をふるまったという今日の出来事は、14章13節以下の、五千人の人々が五つのパンと二匹の魚によって満腹にされたという出来事と、少し数字が違うだけで、全く同じ出来事のように見えます。そこで多くの聖書学者たちは、同じ出来事が別々に伝えられ、徐々に二つの物語としてまとめられたのだろう、と推測します。同じことの繰り返しに過ぎない、単なるダブルトークだと言うのです。
しかし、本当にそうでしょうか。そもそも、イエスさまが大勢の人たちとの分かちあいの食事を、その生涯において一度だけしかなさらなかったなどと、どうして断言できるのでしょう。イエスさまは一度なさったことは、もう二度となさらない、とでも言うのでしょうか。仮に、同じ出来事を別々に伝えた、二つのよく似た物語であったとしても、福音書がそのいずれをも書き留めているとすれば、それはなぜなのか。そのことが、今日の出来事を読む上での大切なポイントです。
■異邦人の賛美
そのことを踏まえ、今日の箇所をご一緒に読み進めて参りたいと思います。冒頭29節、
「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が…」
今、イエスさまは山に登って座っておられます。「山上の説教」のときのようです。ただ、このときイエスさまのもとに集まっていたのは弟子たちではなく、イエスさまの後を追いかけるようにしてやってきた大勢の群衆でした。
そして大切なことは、その群衆が、14章の「五千人のパンの奇跡」のときとは違って、ユダヤ人ではなく、異邦人であったことです。
前回、イエスさまはファリサイ派の人々との激しい論争の後、ユダヤの地を離れ、ティルスやシドンへと向かわれました。そこは、多くの異邦人が暮らす町です。その異邦人の町で、カナン人の女の娘を癒された後、「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた」とマタイは簡潔に記します。しかし、同じ出来事を記すマルコ福音書によれば、イエスさまはティルスからシドンへと向かい、その後、デカポリス地方―異邦人の地を通って、ガリラヤ湖の東岸に到着されたとあります。このとき、イエスさまの周りに集まっていた人々とは、そのティルスやシドン、あるいはデカポリス地方から、イエスさまの後について来た群衆であったのかもしれません。30節、
「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた」
感動的な場面です。たくさんの人々がやって来ましたが、誰一人、イエスさまのところにひとりでは来ませんでした。ある人は足の不自由な人を、ある人は目の見えない人を、ある人は体の不自由な人を、ある人は口の利けない人を、またある人は他の病気に苦しむ人を連れてきました。誰もが、いろいろなことで悩み苦しむ人々を連れてきたのです。そして、イエスさまはその一人ひとりを癒されたのでした。
その時のこと、31節、癒された人はもちろんのこと、その人のことに心を痛め、イエスさまのところに連れて来た人たちも、その誰もが、「イスラエルの神を賛美した」とあります。ユダヤ人であれば、自分たちの神をほめたたえる時に、わざわざ「イスラエルの神」という言い方をするはずはありません。「イスラエルの神を賛美した」彼らが異邦人であったということでしょう。
改めて、ティルスとシドンにイエスさまが赴かれたときに出会った異邦人の女性、あのカナンの女の信仰が思い出されます。彼女が、主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください、娘が悪霊にひどく苦しめられていますと願ったとき、イエスさまは何もお答えになりませんでした。それだけでなく、弟子たちから追い払われそうになりました。ようやく口を開かれたイエスさまの言葉は、「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」というものでした。異邦人を差別するような言葉です。しかし彼女は、娘を治して欲しい一心で、イエスさまの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と願い出ます。繰り返し「主よ」と願い出ているのに、イエスさまは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われます。それでもなお彼女は食いさがり、「主よ」。三度目です。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。確かにわたしは小犬と呼ばれてもいい、取るにたりない者です。しかし屑であろうと、小犬も食卓から落ちるパン屑を必要としています。パン屑で結構です。パン屑をください、娘を癒してください。執拗で切実なその祈りに、その信仰の大きさに、イエスさまは圧倒され、動かされました。
ガリラヤ湖の畔の山に押し寄せて来た大勢の人たちもそうでした。わたしたちは神の前には本当に小さな者でしかありません。でもどうか、こんな小さなわたしたちにも、カナンの女と同じように、あのパン屑をください。彼らは、続々とイエスさまのもとに迫り、そして癒され、イスラエルの神をほめたたえました。
ここに描かれているのは、そんな賛美に包まれた場面です。男だけで四千人もの異邦人たちがイエスさまのみ業を見て驚き、地鳴りのように賛美している場面でした。
■かわいそうだ
その賛美の中、「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」とあります。
ここでも、今日の箇所が単なる14章の繰り返しではないことに気づかされます。14章では、弟子たちが同胞のユダヤ人である群衆のことを気遣っていました。弟子たちの方から、集会を解散し、パンのことを自分たちで賄うようにさせたらいかがでしょう、とイエスさまに声をかけています。ところがこのとき、弟子たちは何も言いません。冷たい態度です。イエスさまが重い障がいや病に苦しむ人々を癒されたとき、その傍らでその一部始終を目撃していたはずです。しかもその群衆たちが、自分たち異邦人とは何の縁もゆかりもないはずの「イスラエルの神を賛美している」のです。
その賛美の大声に包まれながら、弟子たちは、なぜ、彼らの飢えに心を動かすことがなかったのでしょうか。それは群衆が異邦人だったからです。弟子たちはユダヤ人でした。多くのユダヤ人は自分たち以外の民族に対してネガティブな感情—偏見や差別を抱いていました。そのため、異邦人の悩みや痛みを自分のこととして受けとめることができなかったのでしょう。
そんな弟子たちに、イエスさまの方から声をおかけになったのです。
「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」
「かわいそうだ」。単なる憐憫の言葉ではありません。以前もお話をした、腸(はらわた)が痛くなるほどの「慈しみ」。神様とイエスさまの激しい愛を語る時にだけ用いられる言葉です。救いを求め、福音の言葉を聞くために、三日間もわたしと一緒にいるのに食べ物がない。遠くからやって来た者たちがここに何人もいる。このまま帰したらどうなることか。
ここに、14章との違いがもう一つあります。群衆たちの状況です。14章の時には、周辺で食べ物を調達できる可能性が残されていました。しかし今は違います。事態はより切迫しています。弟子たちが言うように、「こんな人里離れた場所」です。言葉のままに訳せば「寂しいところ」「住む人のいない場所」を意味し、「砂漠」と訳してもよい言葉です。荒涼たる砂漠のような場所に、食べる物など何ひとつありません。五千人のときとは違う、まさに飢餓に喘ぎ苦しむ人々の姿が目の前に浮かんで来ます。
「群衆がかわいそうだ」。イエスさまご自身が、飢餓という肉体の痛みを我が事とし、人々に対する腸が千切れるほどの「憐れみ」を、弟子たちに向かって呟かれました。それは、同労者である弟子たちに向かって投げかけられた、「あなたがたにはその痛みが分からないのか」という問いではなかったでしょうか。あの「五千人のパンの奇跡」の時と同じ慈しみの業を、あなたたちとわたしとで、もう一度、繰り返そうではないか。イエスさまはそう弟子たちを招いておられるのです。
■繰り返される
その憐れみの心から溢れ出るように、イエスさまはパンと魚を取って、賛美し、祝福して、それを分け与えてくださいました。砂漠のような荒涼たる場所にまで、イエスさまについてくる他なかった、他に生きる手立てを見出すことのできない人々と共に、わずかばかりの食べ物を分かち合い、人として生きることの喜びを教え、味わわせてくださいました。
わたしたちは、この憐れみ、この愛ゆえに、あらゆる民族の壁を、どんなる隔ての垣根をも乗り越えて、繰り返し、何度でも、どのようなときにあっても、福音が、神様の愛を告げる喜びの知らせが宣べ伝えられていく、その姿をこの出来事の中に読み取ることができるでしょう。
しかもこの繰り返しは、同じことの単なる繰り返しではなく、いつも新たな壁や隔てを突き破りつつ、繰り返されます。
31節の「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した」という言葉にもう一度目を留めてください。これはまず何よりも、イエスさまがなさったことはすべて、神のみ業であったとの告白の言葉です。しかも、「話すようになり」「歩き」「見えるようになった」という言葉はいずれも、継続や反復を意味する完了形です。
つまり、イエスさまがなされていることは、神のみ業が今ここに、繰り返し、現実のものとなって、わたしたちにもたらされているのだという福音の賛美そのものなのだということです。そんな不断の、飽くことなき繰り返しこそが、イエス・キリストの福音伝道でした。
■驚くべき恵み
このような「繰り返し」という今日のテーマについて、最後にどうしても申し上げなければならないことがあります。それは、イエスさまによるよき業の繰り返しではなく、 弟子たちの不信と無理解、失敗の繰り返しについてです。
弟子たちは二度目のこの食卓の物語でも、「こんな人里離れたところで、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と、イエスさまのこと-神の国の福音を理解せず、イエスさまの御心を拒絶するかのような言葉を繰り返しています。福音書には、失敗を繰り返す弟子たちの姿が何度も出てきますが、それが弟子たちの現実、偽らざる姿であることが、ここでもはっきりと示されています。
しかしそれは、ただ弟子たちを批判するためのものではなく、むしろ、不信と裏切り、挫折を繰り返す、わたしたちの現実、罪に、わたしたちの目を向けさせます。
そして何よりも、そんなわたしたちの繰り返される躓きと不信にもかかわらず、神の愛のみ業を繰り返し、わたしたちへの救いと招きのメッセージを繰り返し、神の愛が今ここにもたらされていることを繰り返し教え示してくださるお方、イエス・キリストが今ここにいてくださることに気づかせてくれます。
この事実を、群衆のようにわたしたちもまた、口先だけでなく、素直に、大きな驚きと喜びをもって、また、先程ご一緒に賛美いただいた「驚くべきみ恵み」、“Amazing Grace!”の賛美をもって、受け入たいと願います。
「驚くべき恵みよ!その甘美なる調ベ/
わたしのごとき惨めな者を救ってくださるとは/
わたしはかつては失われた者だったが、いまや神に見出された/
かつては目が見えなかったが、いまや視力を得た」
原詩のままに翻訳した冒頭の一節です。わたしたちは、この詩に歌われるような救いの瞬間を、信仰の始まり、ただ一回限りのこととして幾度も思い起こしながら、繰り返し、繰り返し、それを自分のものとして捉え直しながら生きていきます。讃美歌はこう続きます。
「これまでの人生、/数々の危険、苦労、罠をくぐり抜けてきた。
神の恵みがわたしを守り運んでくださったのだ。
これからも神の恵みがわたしをふるさとへと導いてくれる」
「救い」とは、瞬間的な出来事でも、心の内に経験されるだけのことでも、また人生に起こるたった一度限り出来事ではありません。
宗教改革者たちは、罪はあまりにも複雑で、人間の思いと行いとにあまりに深く入り込んで根を張っているために、数限りなく回心を繰り返し、生涯を通して罪から神への方向転換をし続けることがなければ、それを完全に取り除くことはできないと確信していました。
そのような罪と取り組むためには、生涯にわたって「繰り返し備えられる驚くべき恵み」に応えて、わたしたちも繰り返し悔い改め、回心することが求められます。
であればこそ、どれほどわたしたちが躓き、罪を繰り返したとしても、それでもなお、与え続けられる神の恵み、神の愛に応えて、もう繰り返すまい。争いや対立を、差別や奪い合いを、陰口や中傷を繰り返すまい。イエス・キリストを十字架にかけるような罪を繰り返すまい、と心から祈らなければなりません。
そして何よりも、願わくは、イエスさまが諦めることなく、飽くことなく繰り返し行われた憐れみの業を、わたしたちもまた日々の生活の中で繰り返すものでありたい、そう願う次第です。