■記憶としての人生
わたしたちの誰もが、自分の人生を歩んできたと思っています。楽しい時もあれば、つらい時もあったけれど、他の誰のものでもない、確かに自分の人生を歩んできたと信じています。でも実は、わたしたちのこれまでの人生は、わたしたち一人ひとりの記憶の中にあるに過ぎないのかもしれません。
母と話していて、「高校生の時、あなたはこうだったわよね」と言われ、そんな記憶などこれっぽっちもなくて、驚いたことがあります。封印してしまった記憶があるようです。親が共働きで、幼い頃から寂しい思いを抱えていたわたしは、父からも母からも愛されていないと勝手に思い込んでいました。そのため、中学生から大学生になるころまで、反抗に反抗を重ねては悪態をつく、実にひどい息子でした。そんなわたしが、曲がりなりにも二人の子どもの親となり、四十に手が届こうかという年齢(とし)になったある日、ふと思い出しました。熱を出して寝込んだ夜、仕事と家事と畑仕事に疲れ切っていたはずの母が、一睡もせずに、水で冷たくしたタオルを何度も換えて額に押し当てながら、「大丈夫よ」と声をかけ、添い寝をして抱きしめていてくれていたことを。子どもだから忘れていたというのではありません。妻と二人で、あの時こうだったねと話をしていて、同じ時に、同じものを目にし、同じことを体験したはずなのに、まるで違う出来事を体験していたのではないかと思わされることがあります。
わたしの人生はこうだったと思っている、その記憶はずいぶんといい加減なもののようです。わたしたちの記憶は、それが満足できるものであれ、不満だらけのものであれ、実にあいまいで、自分がこうだと思っているだけのようです。とすれば、ひどい人生だった、二度とご免だと思っているわたしたちの人生も、過去の記憶を新たに辿り直すことによって、全く違った、意味ある人生になるのではないでしょうか。
■「暗い顔」は消えて「心が燃え」る
聖書の中にも、自分の記憶―自分の物語を辿り直すことによって、全く新しい人生を歩み始めた人が描かれています。
それが、クレオパです。彼は、エマオに向かって、金曜日からの出来事を友人と語り合いながら歩いていました。暗い顔をして歩いていました。なぜなら、自分たちを救ってくれると期待していたイエスさまが、金曜日に殺され、しかもその遺体が消えてしまったからです。彼は、自分の見てきた「一切の出来事」から、彼なりの物語を作り上げて、悲しみに暮れていました。きっと、自作の悲劇を何度も何度も道連れに話しながら、エマオまで歩いてきていたのでしょう。とても惨(みじ)めな昼下がりでした。
そのクレオパの行く道に、よみがえられたイエスさまがいきなり現れます。イエスさまはクレオパ自作の物語を聞こうと近づかれます。クレオパは待ってましたとばかりに語り出しました。ところが、これを聞いていたイエスさまは、そのクレオパの物語を遮るようにして、金曜からの物語を、クレオパとは違う別の角度から説明し始められます。
イエスさまの語られた物語は、神様の栄光を表す壮大な物語でした。この三日間の出来事を、当時からさらに千年以上も昔の、モーセにまで遡(さかのぼ)ってお話になります。クレオパとイエスさまは、同じ三日間を体験していました。しかし、同じ現場から語られたその物語はまったく違ったものでした。
クレオパはこの違いに強烈なショックを受けます。その証拠に、イエスさまの新しい物語を聞かされたクレオパたちは、イエスさまを見失った後に、こうつぶやいています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
今まで、ちっぽけな自作の物語に浸っていた人が、神様の示される新しい物語に触れ、心が燃えるほどに息を吹き返したのです。クレオパはイエスさまの物語を通して、自分の人生に別の物語が隠されていることを知りました。クレオパ個人の体験が、神様の救いの歴史の中にはっきりと位置づけられたのです。例えて言えば、クレオパの「私小説」が、神様の「大河ドラマ」の中に組み入れられたようなものです。
そのようにして、閉じられたひとりの人間の物語が、壮大な神様の物語の中に組み入れられるとき、その人の「暗い顔」は消え、そして「心が燃え」始めました。
■クレオパのようにあなたも
だれにも、悲しい「金曜日」からの三日間の思い出があるでしょう。わたしたちは、自分だけの物語を作り、その「自分が主人公の悲劇」を思い出しては、今日もため息をついています。わたしたちはみな、クレオパのようです。エマオに向かって歩きながら、みな暗い顔で生きています。
夕方、街角に立ってみてください。無表情で家路に急ぐ女や男を観察してみてください。みんなそれぞれ、自分だけの物語に浸って、夕日を浴びて無口に歩いてはいませんか。ああ、みんな、いったいどんな自分だけの物語を抱え、重い足をひきずるように歩いているのでしょう。
街角を家路に急ぐそんな時、イエスさまがわたしたちへ近づいてこられます。わたしたちも、「金曜日」からの自分なりの詳しい説明はいったん横において、イエスさまが語ってくださる物語―「良い知らせ」Good News に一緒に耳を傾けてみてはいかがでしょう。わたしたちの物語をせめて一日でもいい、横においてみてはいかがでしょう。
そして、沈黙してみてください。そうして、神様の物語に耳を傾けてみましょう。自分の身に起こっていたことを、神様がどのように受け止め、新たな物語を作っておられるのかを聞いてみましょう。もしも、この地上の物語として理解していたわたしたちの人生が、神様の愛の物語として理解されるようになったら、しめたものです。聖書の物語の中に、わたしたち自身の姿を見出すようになったら、チャンスです。その時、わたしたちはたぶん、心が燃えます。無表情の暗い顔が、熱いいのちを発しはじめることでしょう。
クレオパ。イエスさまに巡り会い、自らの物語を捨て、神様の物語を受け入れた人。そして自分だけの物語に別れを告げ、初めて心が燃え始めた人。その姿は、自分の記憶、思い出、人生に苦しみ、夕陽を浴びて家路に急ぐ、今のわたしたちと何ひとつ変わるところはありません。そんなわたしたちに、今も、イエスさまが「愛の物語」を語り掛けてくださっています。
お祈りします。神様、わたしたちは何度も、あなたの姿、あなたの愛を見失ってしまいます。まったく的外れのところで、あなたを捜し求めてしまいます。でもあなたは、わたしたちが捜し求める前から、ずっと一緒に歩んでいてくださいました。愛を語りかけ、背負うようにして歩んでくださいます。どうか、あなたのみ言葉を通して、わたしたちがそのことに気づくことができますように。この祈り、主のみ名によって。アーメン。