福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

今週の教え - Page 15

3月15日説教抜粋 『顔を洗って』 マタイによる福音書6章16~18節 沖村 裕史 牧師

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」。「偽善者」。身がすくむような言葉ですが、イエスの言われる「偽善」とは何でしょう。辞書に偽善とは「本心からではなく見せかけにする善い事」とあります。「見せかけにする善い事」。悪いことをすると言うのではありません。「偽善」の問題は「見せかけ」です。人は誰でも見た目に弱いものです。見せかけで人を欺くこともできます。しかし神を見せかけで欺くことはできるでしょうか。人間が見せかけの蔭に隠した本心を見抜くものこそ神です。それなのに、それができると思って偽善的に振る舞うとすれば、それは神を見せかけでだませると見誤っている、神を信じていないのと同じです。イエスの言われる「偽善」とは、人が人を見せかけでだましていることではなく、人が神を見せかけで騙している「不信仰」のことです。偽善者たちの内に「神は生きていない」。彼らは口を開けば神ですが、見せかけの信仰で神を欺いているのです。

しかしイエスは人の目など気にするなと言われているのではありません。人を人として意識した時、何かしら緊張と恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは自然なこと、人間として大切なことです。問題は、人を見ているのは、その周囲の目だけではないということです。もう一つの目、すなわち神の目も人を見ているということです。そして神の目に見つめられていることに気づかされる時、人は自分の小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自我が打ちのめされ、人としての貧しさに恥じ入り、へりくだりに導かれ、心を開いて、天からのものに満たされることを切に祈る者とされます。

それこそが、悔い改めとしてのまことの断食の姿です。断食は苦しみや悲しみの表現であると同時に、悔い改め、神への方向転換のしるしでした。神の御前に今までの自分の生き方が間違っていたと認めるなら、ただ口先だけでそれまでの自分の生き方の過ちを認めるのではなく、食事も喉を通らないほどの激しい悔い改めこそがふさわしい。そう考えられました。そのことは、洗礼者ヨハネが悔い改めのしるしである洗礼を授けた時、形ばかりの悔い改めを口にする者たちに向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と語った言葉からも窺い知ることができます。

イエスも、その洗礼者ヨハネの下で悔い改めの洗礼を受けられました。しかし、洗礼者ヨハネとは違って断食をするように教えられることはありませんでした。イエスの信仰は断食の中にではなく、イエスのつくられた食卓の中にありました。イエスは頻繁に徴税人や売春婦など罪人と共に食卓を囲まれました。これを見た洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスに尋ねます。「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。イエスは答えられます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」イエスにとって悔い改めは喜びでした。

なぜか。悔い改めは、私たちが神に向きを変える前に、神が私たちにみ顔を向けてくださることによって、つまり神の赦しから生まれるからです。イエスは言われます。神をアッパ父と呼びなさい。その父の前で言葉を重ねて弁解などしなくてもよい。父はどんなときにもあなたに御顔を向けられておられる。神に生きようとしない偽善者のように、髪振り乱し、悲しい顔をする必要などない。頭に油をつけ、顔を洗いなさい。あなたは私の喜びの宴の客だ。そう言われるのです。頭に油をつけ、顔を洗う、それは宴に出で行く者の晴れ姿です。断食が喜びの祝宴に変えられるのです。キリストにおいて、この世に来られた神が私たちに代わって高い代価を支払ってくださったのです。だからこそ、私たちは喜びます。私たちは顔を洗って出直すことができるのです。

3月8日説教抜粋 『赦されて、また赦されて』 マタイによる福音書6章14~15節 沖村 裕史 牧師

今、イエスは教え諭されます。もし、あなたが本当に救われているのなら、本当に神の赦しを受け取ったことのある人なら、他の人々を赦さずにはいられないはずだ。信じる者とは、他の人々を赦さずにはいられない、そういう人たちのことだ、と。さて、私たちはどうでしょう。偽物のクリスチャンかもしれません。なぜなら、赦したくないと思っているからです。「絶対にあいつだけは」とか、「絶対にあの人だけは。あの時のあの発言、あの行為、あれだけは」と、今もずっと根に持って、夢の中にまで敵意を抱き続けているかもしれません。しかし、もし私たちが赦さなければ、私たちは神の赦しを知ることも、経験することもできません。いえそれは、私たちが未だ神の赦しを本当には経験したことがない者だということの証拠に過ぎません。

イエスさまは、そんな私たちを解放したい、そこから救いたい、と心から願っておられるのです。だから言われました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」と。人を赦すことは、私たちが赦されること、私たち自身を解放することなのです。イエスは教えられます。たとえ他の人に不満や敵意を抱くことがあっても、父なる神があなたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい、と。父なる神があなたを赦してくださったように。これがキーワードです。

私たちは赦された者です。人を赦そうと考えるその前に、クリスチャンだから人を赦さなければいけないと考えるその前に、その前にすでに私たちは赦されています。その赦しがどんなに大きなものだったのか。その赦しを受けるために、父なる神が御子キリストにおいてどれだけの犠牲を払ってくださったのか。そしてそのイエスを十字架に架けたのは誰だったのか。思い出してください。讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」の1節にこうあります。「あなたもそこにいたのか、/主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと/深い深い罪に/私はふるえてくる」。私たちが、罪のなき独り子イエスに与えた傷、与えた辱め。私たちがイエスの顔につばを吐いたのです。晒し者にしたのです。真っ裸にして鞭打ったのです。そして釘で両腕両足を十字架に打ちつけました。そのときそこにいたならば、私たちは自分の手でそうしたでしょう。いえ、今も私たちはイエスの「赦しなさい」という言葉に背き、憎みと不満と敵意をもって、イエスを十字架に苦しめ続けています。それほどひどいことをしてもなお、私たちは無条件で赦されたのだと聖書は教えます。私たちは赦されざる罪人であるにもかかわらず、赦されるとイエスは言われます。赦し、それは神の御業です。神の恵みです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださらなければ、誰にも知られなかった驚くべき「赦し」です。それを今、私たちはいただいているのです。

ホロコーストの生存者、コーリー・テンブーンの言葉です。「赦しは怒りの扉を開き、憎しみの手錠を外す鍵である。それは悲痛の鎖を断ち、利己心という足かせを断つものである」「他人を赦すことができない者は、自分が渡らなければならないブリッジを壊すことになります」。神が赦してくださったように、私たちが人を赦さないならば、私たちを救おうとして神が架けてくださったブリッジ、天の国への架け橋を自らの手で破壊することになります。「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」のです。

天の国への架け橋を壊さぬよう、赦しましたように赦してくださいという主の祈りを教会で絶えることなく祈り続けなければなりません。私たちが人を完全に赦すことができるというのではありません。それでも、赦しますと祈り続け、赦そうとし続けることはできるでしょう。それだけが、私たちが赦された者であることの、クリスチャンであることの唯ひとつの確かな証です。

3月1日説教抜粋 『こう祈りなさい―救い出してください』 マタイによる福音書6章13節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。

この言葉を読んですぐに思い出すのは、ルカによる福音書22章39節以下に描かれる「ゲッセマネでの祈り」の場面です。39節から40節、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」。静かに穏やかに祈られていたのではありません。今まさに捕らえられ、十字架にかけられようとしていました。その危機的な状況の中に祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。

「誘惑」と訳されるペイラスモスというギリシア語は、試練や試みとも訳されます。積極的な意味では試練として試みるという意味になりますが、消極的意味では堕落や滅亡への誘惑といった意味になります。現実には、試練と誘惑を区別することなどできません。わたしたちの生活のすべてが試練であると同時に誘惑でもあります。四方八方を誘惑や試練に囲まれています。そしてわたしたちはその試練や誘惑に対して実に無力です。

そのわたしたちに、イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るようにと教えられます。高みに立って、そう教えられるのではありません。イエスご自身が激しい試練や誘惑の中にありました。41節以下、「石を投げて屆くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』」。できれば十字架を回避したいと願われたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈るイエスが「誘惑に陥らないように祈りなさい」と教えられたのです。

今日のこの祈りは、勇ましい祈りでも英雄的な祈りでも決してありません。何よりも人間の弱さ、自分の無力を知っている人の祈りです。試練や誘惑の前で、まったく無力であることをよくよく知っている人の祈りです。試練と誘惑に遭えば、あのアダムとエバのようにひとたまりもありません。この祈りは、そんな無力さの中で必死に祈る「父よ、助けてください」という祈りです。

ところが、人は、この一言をなかなか口にすることができません。「助けてください!」できるなら、そんなことを言わずにすむ、穏やかな生涯を送りたくとも、どんなに恵まれた境遇の人であっても一度や二度は思わず叫ぶはずです。もはや、自分の力ではどうすることもできず、思わず天を仰いで、「助けて!」と。聖書には「助けてください!」と叫ぶ人の姿が描かれています。イエスが通りかかったときに、「わたしを憐れんでください!」と大声で叫んだ盲人の話など。イエスは、それら必死な叫びに必ずこたえて、病気を癒し、障がいを取り除くのですが、そのときイエスはいつもこう言われました。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。たしかに、人は頼りにならないし、弱みを見せては生きていけない社会です。しかしだからこそ、絶対頼りになり、弱みをこそ受け止めてくれる力を信じて、「助けてください」と言うしかありませんし、それを言えたときに、実は人は「もう助かった」のです。自分では自分を救えないことを思い知り、そんな自分を助ける大いなる力を、最後の最後に信じて叫んだ、そのときに、です。

自分は弱い。弱いままなのです。けれども神は強い。神がその力強い御翼の影にわたしたちを置いてくださいます。そして御子イエスこそが、わたしたちを救いに来られたお方だから、わたしたちは信仰の英雄になって「苦しみよ、来たれ」と強弁するのではなく、単純素朴に神に向かって「助けて?」と叫ぶことが許されています。それこそが、主の祈りの最後に置かれた祈りでした。

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―ゆるしてください』 マタイによる福音書6章12節 沖村 裕史 牧師

マタイでは、「罪」ではなく「負い目」です。これは、オフェイレ―マというギリシア語ですが、負債とも訳されます。そして原文の順序はこうです。

「そして、ゆるしてください、われわれに/もろもろの負債を われわれの/そのように また/われわれが ゆるした/負債者たちに われわれの」

わたしたちがいつも唱える主の祈りと異なり、マタイでは「わたしたちのもろもろの負債をゆるしてください」が先に記されます。「神さま、ゆるしてください」が先です。そのあとに「そのようにまた、わたしたちもわたしたちに負い目のある人々をゆるしました」です。大切なことは、わたしたちのゆるしは条件ではなく、それに先立って、神さまのゆるしがあることです。

そのことをはっきり知ることができるのが、同じマタイによる福音書18章23節以下です。とてつもない負債を持つわたしたちのため、イエスさまは腸を揺り動かし、ゆるしてください、とわたしたちと一緒に神さまの前にぬかずいておられます。腸を揺り動かし、我が身を切るようにしてイエスさまは、十字架にお架かりになり、わたしたちの罪をゆるしてください、と祈ってくださったお方です。そのイエスさまが一緒に祈ってくださっている祈り、それが今日の祈りです。

わたしたちが罪から目を逸らそうとするのはどうしてでしょうか。それは、ゆるしがないからです。自分の足りなさ、失敗によって、負債を背負う時、損害を与えてしまった相手にわたしたちが必要とするゆるしを乞うことができないのは、責められると分かっているからです。だから、自分の罪を認めることができない。責められると、すぐに相手の落ち度や、足りなさを責めることに転じてしまう。責任を負うべきなのが本当は誰なのか、犯人捜しに夢中になってしまう。いえ相手に責任をかぶせようとします。

しかし、神がわたしたちの罪を語られるのは、失敗しても、過ちを犯しても、責められることのない、大きなゆるしの中で、です。今一緒に祈ってくださるイエスさまは神にゆるしを願っていいと言われるのです。神は、ただゆるしの中でのみ、わたしたちを見ていてくださるのだ、ということです。ゆるされて生きることができたら、自分がある人との関係においてゆるされていると知ることができたら、そこに、本当に生きる力を与えられるでしょう。

逆に、ゆるされることがなければ、わたしたちは生きていけません。イエスさまを裏切ったユダのように、です。聖書の登場人物の中で必ずしも、ユダが特別な悪人、罪人とは言えません。事実、ユダは冷酷な悪人になり切れていません。裏切ったその後、自分の罪に苦しみます。マタイによる福音書27章3節以下です。ユダの悲劇、それはイエスさまを売り渡したこと、神の子を売り渡すという救い難い罪を犯したことではなく、罪を犯した後で間違った場所に帰ったことでした。悔い改めの言葉を告白するユダを、祭司長や長老たちは突き放します。「お前の罪はお前自身の問題だ。自分で考えろ」。ユダに必要なのは考えることではありません。ただ告白を受けとめてもらうこと、ゆるしてもらうことです。崩れ落ちる自分を抱きしめてもらうことです。しかし、そんな人はどこにもいません。死ぬしかありませんでした。たとえ踏みとどまったとしても、死んだように投げやりに生きるしかありません。

ユダが、イエスさまのもとに帰って、罪の告白をすることができなかったのは、なぜでしょうか。彼は、イエスさまの、今日のこの祈りを正しく聴くことができていなかったからです。彼にとって神は、正しいことをなし、正しいことを要求する方でした。ふさわしくない者は厳しく裁き、滅ぼされる方でした。一方、ペトロやパウロたちが出会い、信じた神は、イエスさまがこの祈りによって教えられ、あの十字架によってイエスさまのいのちによって示された、限りなく罪をゆるして、全ての人を救ってくださる、愛の神でした。そのことを心より感謝し、わたしたちの罪をゆるしたまえ、わたしたちも罪をゆるします、愛し合います、と真摯に祈り続けたい、そう願います。

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―今日のパン』 マタイによる福音書6章11節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

「糧」と訳されているアルトスは主食にあたる「パン」のことです。「必要な糧」とあります。本当に欠かすことのできない、生きるために「必要な主食」だけが祈り求められています。だからこそ「今日与えてください」と続きます。ルカのように「毎日」でもなく、明日も明後日もその次の日もという連続性の中での「今日も」というのでもなく、あくまでも「今日」です。マタイの「主の祈り」は「今日」に集中します。「今日」を「かけがえのない一日」とします。昨日でもなく明日でもない、ただ「今ここ」をかけがえのない時として生きるように促します。

そして「今日」をかけがえのない一日として生きるということは、「明日」は来ないかもしれないと気づくことです。明日のいのちをだれも保証してくれないのです。イエスのたとえです。ある金持ちが、豊作で手にした作物を収めるために倉を大きく建て直して仕舞い込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と呟きます(ルカ12:16-19)。原文では「作物」は「わたしの作物」、「倉」も「わたしの倉」、「財産」も「わたしの財産」です。「わたしの」「わたしの」「わたしの」と繰り返されます。イエスは財産を持つことを否定されません。ただ、全部「わたしの」ものと言って、与えてくださっている神を忘れ、神との関係をひっくり返し、自分を神のごとくに考えている、その愚かさを問いただされます。

そしてこう続けられます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(同12:20)。天から神の言葉が響きます、「今夜、お前の命は取り上げられる」と。

「今夜」です。金持ちが「これから先何年も」と言った言葉と鋭いコントラストをなしています。明日のいのちはわからないのです。わたしたちのいのちの鍵は神が握っておられ、だれも自分で自分のいのちを自由にすることなどできません。ところがその男には自分しかありません。財産があれば生きていけるものと勘違い、錯覚しました。しかしそれは幻想です。真実は「今夜、お前の命は取り上げられる」という現実の中にあります。

そうです。人のいのちは、蓄えに依存せず、またパンにもよらないのだ、ということです。ただ、神の御心によるのだ、ということです。だからこそ、イエスはこう祈りなさいと教えられるのです。「生きるために最低限必要なパンを、いえ、いのちを、今日、与えてください」と。この日ごとの糧を求める祈りは、自分の死を直視しながら、「今日のいのち」を求める祈りである、と言ってよいでしょう。

神は、明日、肉体は滅んでも、神の復活のいのちの中で「生きよ」と言って、「わたしたち」すべてが生きることをこそ、神は望んでおられます。明日、わたしが、あなたが死ぬことがあっても、「生きよ」という神の言葉が、この祈りと共に、今日、わたしたちの心に響いています。

この祈りを祈るとき、神から「生きよ」と言って、日ごとの食物を与えてくださる神の慈しみに生きる幸いが与えられます。この祈りを祈るとき、この罪深い者を十字架によって赦し、救い、立ち帰って生きよと言って、生かしてくださる神の恵みの中に置かれます。この祈りを祈るとき、わたしたちのいのちが神のものであることを告白し、感謝するようにと導かれています。

2月9日説教抜粋 『こう祈りなさい―御国を』 マタイによる福音書6章10節 沖村 裕史 牧師

「御国が来ますように」。原文では、一度限りの決定的なことが来ますように、といったニュアンスの言葉です。決定的に来るように、そう求めていることとは何か。「御国」です。直訳すれば「あなたの国」、神の国、天の国ということです。死後の世界や天上の場所や空間を想像しがちですが、そうではありません。イエスは「神の国は見える形ではやってこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。神の国とは、どこか遠くの別世界のことでもなく、国土や国家といったものでもなく、今ここにあるものです。そしてそれは、この後に続く祈り、願いの中に示されます。「御心が行われますように」。「あなたの意志が表されますように」です。「神の願い、神の意志」が表される所、それが神の国です。神が願いをもって支配しておられる、今ここにある世界のことです。

とすれば、支配されるその神がどのような方、どのような願いを持つ方であるのかが重要です。恐怖の対象のような神もいれば、物言わぬ神や非人格的な神もいます。暴君のような神も存在するでしょう。イエスは今ここで、「あなたの国」と祈るようと教えられます。「アッバ、父よ」と呼びかけるような親密な関係の中で、神に「あなた」と語りかけます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。暴力を振るう父をもった人には、父は恐ろしい存在でしょう。しかし父とは、子どもにとって何が必要かを知り、それを与え、守り、導く存在のはずです。父なる神は、子であるわたしたちにとって、神の国こそが必要なものであることをよくよくご存じだからこそ、イエス・キリストの十字架を通して、すべての人に必要不可欠なもの―「救い」を与えてくださったのです。「願う前から」です。何の条件も必要ありません。贈り物・プレゼントとして、無償でくださいます。無償というのですから、すべての人に開かれています。神の国とは、ただ一方的に与えられる恵みと愛が支配するところ、神の愛の御手が働くところです。たとえ、どんなにだめな人間、どうしようもない人間だとしても、いえであればなおのこと、神は救いと赦しの手を伸ばし、御国を来らせてくださいます。神の愛の御手が差し出されています。

だからこそ「御国が来ますように」なのです。わたしたちが御国に行くことを祈り願うのではありません。御国が地獄のように思えるこの世界に来るようにと祈るのです。「天におけるように地の上にも」と祈ることができるのです。なぜか。それが「御心」、神の願い、神の意志だからです。

この世にはまだ御心が行われていません。しかし御心が完全に行われているところがあります。天です。御心が天で、わたしたちの見えないところで行われているから、この世で御心が行われていなくとも、絶望しません。天において御心が行われているということが、この祈りを祈ることができる、確かな土台、根拠であり、また大きな励ましです。そもそも、イエスはどこからどこに来られたのか。天から地に、です。これこそ決定的なことです。「神の国は近づいた」と宣言されたイエス・キリストにおいて、この世に御心が始められ、天がこの世に突入してきたのです。天から来られたイエス・キリストがおられるところに、御心は行われ、救いは及ぶのです。だからこそ、「御心が行われますように」と祈ります、祈ることができます。この恵みを感謝いたしましょう。

2月2日説教抜粋 『こう祈りなさい―天の父よ』 マタイによる福音書6章9節 沖村 裕史 牧師

「天におられるわたしたちの父よ」。

イエスの祈りは「神よ」でもなく、「主よ」でもなく、ただ「父よ」と始められます。八木重吉の詩集『神を呼ぼう』の中に、「てんにいます/おんちちをよびて…」という美しい歌がありますが、イエスが実際に祈られた言葉は、アラム語の「アッバ」であったでしょう。それは「父」でもなければ、「おんちち」でもなく、「父ちゃん」です。イエスは、そば近くにいて見守っていてくださるお方として神に祈るように、と教えられます。

イエスは繰り返し、「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」と弟子たちに教えられました。恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。イエスは、今、父なる神の思いを代弁しておられます。もう少しで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のように、愛情あふれるまなざしをもって語りかけられます。「アッバ、父よ」と祈りなさい、と。

愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。傷ついた人の恐れや不安の闇はとても深く、その痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかしどれほど痛くとも、どれほど不安でも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法はたったひとつしかありません。「見て、見て」と駄々をこねる必要はありません。神はわたしたちのことをわたしたち以上によくご存知で、いつも見ていてくださるのですから、父なる神のそのまなざしを背中に感じながら、「父ちゃん、転んでもいいから、思い切ってこいでみるね」と祈りさえすればよいのです。父なる神も、大丈夫、大丈夫、そんな愛のまなざしを注いでくださるのです。

もはや、わたしたちが祈るのではない。父なる神の愛のまなざしに支えられて、わたしたちは祈ることができる、祈ることへと促されるのです。そんな祈りの体験を重ねることで、わたしたちは、祈りが互いを支える力を持つこと、祈り祈られることの中にわたしたちの人生があるのだ、ということに気づかされるようになります。自分のためだけに祈ることがダメなのではありません。祈りに良いも悪いもありません。自分のために祈るとき、その祈りがただ自分のことだけで終わるはずはないからです。人は一人では生きてはいけない、人と人の間を生きるほかない存在だからです。

その意味で、イエスが教えられる「主の祈り」が「わたしたちの父よ」と祈り始められ、この後に続く祈りの主語がすべて、「わたしたち」であることの意味と重みは、とても大きいものです。神にあって、イエスのみ名によって、「わたしたち」は祈り合う。祈り祈られて、共に生きるよう促されます。

そのことを、初代教会は「あえて祈る」と教えます。礼拝前半の「聖書のみ言葉」が終わったところで洗礼を受けていない人は退席します。その後半、「感謝の祭儀」と呼ばれる聖餐式の中で、洗礼を受けた者だけで「主の祈り」が唱えられました。その導入にあたる短い祈りが「我らあえて祈らん」でした。「あえて祈る」。「あえて祈る」べきこの祈りによって、わたしたちは神の御心を問い、ときには自分の願いに反してでも、なすべき新しい生へと押し出されていくことになります。自分の思い、この世の思いを越えた新しい生き方へと、「わたしたち」は押し出されていくことになります。嘆いたり、溜息をついたり、悔やんだり―もしそれだけなら、わたしたちは諦めるしかありません。運命だった、宿命だ、と。しかし信仰とは「祈る」ことです。「あえて祈る」ことです。主の祈りは、自分自身が、自分の思いを越えて動かされていくためにこそ、あえてなされる祈りでした。