■土の器
「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」
土の器。言うまでもなく、器というのは入れ物のことです。入れ物にはそれ自体で大変高価な物もありますが、その本来の役割は、その中に物を入れることです。つまり、その中に何を入れているかということによって、その入れ物の、その時の値うちは決まるといえるのではないでしょうか。
この手紙を書いたパウロは、たとえ粘土から造られた素焼きの器であっても、その中に宝を入れているのなら、それは高い価値があるのだと言います。そして、信仰者とは宝をその中に入れている土の器だと言います。言うまでもなく、器そのものに高い価値があるわけではありません。土の器は脆く、弱く、壊れやすいものです。預言者エレミヤはかつて、神に命じられて人々の前で土の器を壊しましたが、それは滅びゆくイスラエルの姿を象徴するものでした。わたしたちはそんな脆い土の器にすぎないけれど、その中に宝を持っている、だから、わたしたちは特別な存在なのだと言います。
わたしがまだ若かった頃、今から見れば小さなことに過ぎませんが、それでも一つの挫折を味わった時、一人の信仰の先輩から手紙をいただきました。その最後に「刻苦精励」との言葉に続けて、この一句が記されていました。
その時、わたしが聞き取っことは十分なものではありませんでしたが、それでもこの一句は、わたしの魂を打ちました。その時だけでなく、その後もしばしば、わたしの内で光を放ち、そのたびにその光は深く大きくなっていきました。
人なみに大学を出て、就職し、そして結婚する。人は誰しも大小さまざまな苦しみを経験し、時に絶望するときもあります。四十、五十才になれば自然に、強く立派な自分になれるわけではなく、七十、八十になって、人間が完成するわけでもありません。むしろ逆の場合も少なくありません。
聖書の人々、そしてパウロもまたそのことに変わりはありません。彼にも青少年の時代があり、時代の子として育ち、むしろ抜群の秀才として周囲の期待を集めていました。熱烈なユダヤ教徒でした。しかしそこに問題がありました。彼はよく分からないままに、キリスト教の迫害に駆り立てられたのです。ところがダマスコへの途上、イエス・キリストに出会って打ちのめされ、三日三晩、暗黒の中に独り座して祈り、そこから立ち上ってくるのですが、そこでも一挙に、彼の人間ができ上ったのではありません。むしろその時から何度も挫折を経験し、眠れぬ夜を過ごし、幾度か自ら死を覚悟して、そこから立ち直ってきたのでした。そうした苦しく辛い経験を繰り返して、やがて生き生きとした、自由で謙虚な、愛情深く、美しい人間、クリスチャンとしての人間を形成していったのでした。
■神の力
そして、そんな彼に生きて働いているものを表わしたのが、続く言葉です。
「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」
並外れて偉大な力、とパウロは言います。信じる者は並外れて偉大な力によって生かされ生きているのだと言います。普通の力ではありません。並外れて偉大な力によって生きている。その力はもちろん、自分のものではありません。自分の力ではなく、神の力です。主の力なのです。
脆く、壊れやすい土の器でしかないパウロの肉体に働いている神の力が並外れて大きいので、パウロは倒れそうで倒れません。くじけそうでくじけない、そういう驚くべき粘り強さを発揮するのです。そのことを、彼は自分のこれまで生きてきた経験としてふり返ります。8節から9節、
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」
彼は四方から苦しめられても行きづまらないと言います。また途方に暮れても失望しないと言います。虐げられても見捨てられないと言います。もちろん、彼はずっと信仰を胸に、キリストを信じて生きてきました。しかし、そのおかげで万事都合よくいったというのではありません。信仰のおかげで、何の障がいや躓きもなく、やってくることができたというのではありません。彼は何度も四方から苦しめられる経験をしました。途方に暮れたことも何度もあります。絶望的ともいえる行きづまりを味わうことさえありました。
しかしそれでも、四方から苦しめられても行きづまりはしなかったと彼は自分の体験を語ります。途方に暮れることはあったけれども、それでも失望してしまうことはなかった。パウロの信仰、その力はパウロ自身のものではなく、パウロの中に働いている神の力だからです。
わたしたちの人生にも、前が見えなくなってしまうようなことがあります。四方がふさがって一歩も歩けなくなるようなときがあります。しかし、祈れない状況は絶対にありません。そしてわたしたちが祈れるかぎり、神に向かって声をあげることができるかぎり、そこは決して行きづまりの場所ではありません。決して終わりの場所ではないのです。
四方がふさがっている、ふさがっているだけでなく、まわりから攻撃されてしまう、弱り果てている、倒れてしまいそうになる。逃れる道が分かりません。どこに脱出口があるのか、どこに逃れたらいいのか、自分には見えていないのです。にもかかわらず、投げ出さないで、失望しないで、倒れないでそこに立っているのは、神がそんなわたしを見ていてくださることを知っているからです。自分では先が見えない、しかし神は自分がどこにいるか知っていてくださるのです。自分は行きづまって、もう道がないように思えて、本当にここで弱り果てているけれども、神が自分のことを見出していてくださるのです。だから、わたしたちはこの場所に立っているのです。だから、わたしたちは八方ふさがりの中でも、そこで祈り、声を上げ、踏みとどまることができるのです。
■救いの力
ここで、もうひとつ気づかされることがあります。7節以下でパウロが繰り返し語っていること、それは何よりも「イエスの死」です。これまで「主」とか「キリスト」という言葉でイエスさまのことを語っていたパウロが、この7節以下では集中して、「イエス」という言葉を使います。そして10節に「イエスの死」という言葉が出てきます。