■ふたつの悲しみ
8節から10節、
「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが、ただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」
パウロは以前、このコリントの人たちに対して手紙を書いたようです。そして、その手紙がコリントの信徒の人たちをたいへん悲しませたと書いています。厳しい手紙だったのでしょう。コリントの人たちを責める、そんな手紙を出した後、おそらく誰にもそういう経験があるのではないかと思いますが、後悔をしたと書いています。書き過ぎたと思ったのかもしれません。そして後悔をしました。一時は後悔をしましたがしかし、今は喜んでいるとパウロは言います。
なぜなら、その「悲しみの手紙」がコリントの人たちを悲しませたけれども、それは神の御心に適った悲しみだったから、だから後悔をしていない、喜んでいると言います。
そして繰り返すように、念を押すようにしてパウロは言います。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」
「神の御心に適った悲しみ」と言い、その一方で「世の悲しみ」と言います。神の御心に適った悲しみと世の悲しみ―ここに二つの悲しみが語られています。
もちろん、人が悲しむことは決して悪いことではありません。悲しんだっていいのです。神の御心に適った悲しみであるなら、その悲しみは人を変えていくし、その悲しみが人を救いに導いていく、そう言います。
では、神の御心に適った悲しみとは、どのような悲しみでしょうか。それは、端的に言えば、神の前で悲しむということです。神の前での悲しみ、その悲しみが人を変えるのだとパウロは言います。
神の前で悲しむということ、それはたとえて言えば、光に照らされることに似ています。光に打たれて、自分のことが分かるのです。それが神の前で悲しむということです。
世の悲しみというのは、自分で自分のことを悲しむことです。自分で自分のしたことをあれこれと考えるのです。悲しみが深まって行きます。悔いる思いが深まって行きます。でも、自分ひとりで悲しみ悔いて、そのことを考えれば考えるほど落ちこんで行きます。出口が見えなくなってしまいます。
神の前での悲しみは、ただ悔いるのではなく、悔い改めに導かれます。神の前でわたしたちが悲しむとき、何が問題なのかをわたしたちは初めて知ることができます。何が間違っていたのかに初めて気づかされます。
そうして、もう一度、立ち上がらされるのです。それこそ、悔い改めながら人は変えられて行く、ということです。信仰というものに変化があり、進歩があり、成長があるとするなら、それはいつも神の光に打たれて、そうして悔い改めさせられるということではないか、と思います。
■十字架の赦しの神
悲しみのない信仰生活がよいのではありません。失敗し、打ち砕かれて、押し倒されて、もう一度、立ち上がらされて行く。その中で変えられて行くのだ、ということを知らなければなりません。
信仰者の慰めは、神の前で悲しむことができるということにあります。神の前で悲しむことができるということに、わたしたちの拠り所があると言ってもよいでしょう。
教会幼稚園の集会に講師として来られた、ある先輩牧師のお話しが忘れられません。彼は子どもと家庭のことについて、ご自分の経験を通してこんな話をしてくださいました。
多感な少年時代、突然、お母さんが亡くなられました。それからしばらくして、お父さんが再婚されます。その頃、自分にとって一番つらかったこと、それは何かと言えば、家に帰って泣けなかったことだと言われます。外で喧嘩をしたり、つらい目にあって帰ってくる。それまでは家に帰ってワァーと泣けたのに、泣けなくなった。それが一番つらかったと言われました。
わたしたち信仰者の恵みは何かと言えば、泣く場所を持っているということではないでしょうか。人間は泣いて、そしてもう一度、そこから始めることができるのです。倒れて泣いて、もう一回そこから立ち上がっていくのです。泣く場所があるから、わたしたちはもう一回そこから立ち上がることができるのです。 Continue reading