お話し 「クリスマスはなんのため?」(こども・おとな) 井ノ森高詩 先生
省略
メッセージ 「へりくだった心」(おとな) 沖村 裕史 牧師
■キリストのへりくだり
今日の手紙の箇所を読んで、すぐに思い浮かべたのは「謙遜(けんそん)」という言葉です。パウロはここで、わたしたちが普段考えるような、美徳としての謙遜を勧めようとしているのでしょうか。
わたしたちが普段、謙遜を口にし、実際に謙遜に振舞おうとするとき、そこに信仰は必ずしも必要ではありません。事実、世の中には平均的なクリスチャンよりもはるかに謙遜な人がいますし、逆にクリスチャンの中に、謙遜という言葉で形容するのにどうも適当と思えない生き方をしている人がいないでもありません。
しかし、パウロが今ここで勧めている「へりくだった心」は、そのような謙遜と無関係ではないかもしれませんが、しかしそれと全く同じというのでもありません。彼がここで文脈を突然破って、「キリスト賛歌」と呼ばれる、イエス・キリストがどのような道を歩まれたのかを詳しく語っていることに注意してください。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」
神と等しいキリストが神と等しい身分を捨てて人間となった、しかも犯罪人として処刑されて、その生涯を終えた。その事実を語りながらパウロは、何よりもキリストは「自分を無にして、僕の身分になり」と説明しています。このキリストの生き方こそが、まさに「へりくだった心」の典型だ、と彼は言うのです。
しかし、控え目に他人を立てて生きている限り、世間でいう意味での「謙遜」な生き方を続けている限り、人は軽蔑されることはあっても、犯罪人として処刑をされることなど、どんな専制君主の治める国であっても、まず絶対といっていいほど起こり得ません。キリストのへりくだりの生が、世間のいう謙遜とは違うことを最もはっきり示しているのは、キリストが十字架上で処刑されたという事実、この一点にあります。
■へりくだりを恐れる
では、この違いはどこからきているのでしょうか。
キリストが十字架刑を受けて死んだということは、彼のへりくだりがこの上もなく徹底したものであったことを示す「しるし」ともいえます。しかし、十字架はそれと同時に、むしろそれ以上に徹底して、自分を無にし、おのれをむなしくする生を生きたキリストが、まさにそのことのゆえに自分の身に引き受けなければならなかった「運命」でした。そして何よりも、徹底してへりくだった生き方をしたキリストに対して、わたしたちが下した「処分」でもありました。
キリストが神の地位を捨てて、おのれをむなしくするとき、それはわたしたち人間に「恐れ」を巻き起こします。それは決して敬虔な気持で、おそれ多いことだからというのではありません。むしろ、自分の今、立っている足場が崩されるのではないかと直感的に感じとって、人はキリストのへりくだりを恐れるのです。
キリストが神に等しいものとして、天上で栄光に輝いて坐していれば、問題は何もありません。しかし、キリストがおのれをむなしくして、神の地位を去ったとき、それも徹底した仕方で、人間社会の最下層に位置する罪人と蔑(さげす)まれている人たちの理解者となり、友となり、仲間となったとき、わたしたちは、それは困る、と思うのです。遠くから見れば美談であっても、わたしたち自身の生活の場で行なわれては、迷惑だ、と感じるのです。