■知識は人を高ぶらせる
パウロは1節の終わりに「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と言っています。この「知識」とは何かが4節から6節にかけて語られていました。その中心は4節、「世の中に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」ということでした。神についての知識、信仰の知識です。その知識を持つことによって、人は様々な束縛から自由になることができます。
今ここで取り上げられている問題は、その唯一の神を信じるわたしたちが、偶像の神々の神殿に一旦捧げられ、そこから下げられて来た肉を食べてもよいのか、それは偶像礼拝に加担することにならないか、ということでした。そういう恐れを抱いている人たちに対して、偶像の神などいないという知識を持った人々は、偶像などただの人形と同じなのだから、それに供えられた肉もその他の肉も何の違いもない、食べたってどうということはないと考えました。神についての知識、信仰の知識は、この世の様々な束縛からの自由と解放を、わたしたちに与えてくれます。
9節の「あなたがたのこの自由な態度が」という言葉は、そのような信仰の知識によって得られる自由を指しています。実は、この「自由な態度」と訳されている言葉を直訳すれば「権威」となります。つまり自由にふるまうことができるということは、それだけの権威を持って、力強く生きることができるということです。いろいろなものを気にせず、それらの束縛から自由に生きることができるのは、それだけの力が自分の内にあるからです。この世の制度、当たり前、常識と言われるこの世の枠組、それらを気にしないだけの確固たる力、確信が自分の中になければ、そこから自由であることはできないでしょう。
信仰の知識はそのような力を、強さをわたしたちにもたらします。その意味で、その知識を求め、力を、強さを求めることが間違いというのではありません。しかしそこには同時に、「知識は人を高ぶらせる」という問題が起ることがある、パウロはそのことを問題としています。
■弱い人々を罪に誘う
「高ぶる」とはそもそも、他の人に対してのことです。知識を持ち、力を持ち、自由を得た者が、そうでない者、自分よりも弱い者に対して高ぶり、相手を見下すようなことが起るのです。それが問題なのです。具体的にはどんな問題だったのか。10節にこうあります。
「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」
「偶像の神殿で食事の席に着く」とは、ある人が家族の冠婚葬祭を神殿で行い、その一環として宴席を設けて客を招き、招待を受けた人がその席に着いていたということでしょう。そこに、偶像である神殿の神に供(そな)えられた肉が料理されて出されます。それは当時の感覚からすれば、招待する側の特別な好意の現われで、招かれた側はありがたい、縁起のよい食事に招待されたと思って、喜んで出かけていたのでしょう。そんな食事が偶像の神の前でなされます。わたしたちが法事の時に、開かれた仏壇の前で宴席を設けるようなものです。
そういう食事に招かれた時に、信仰の知識をしっかりと持っている強い人はそのことを少しも気にせず、そこに連なることができます。ところが7節に、「この知識がだれにでもあるわけではありません」とあるように、同じ信仰者であっても、そこまではっきりと確信し、割り切ることができないでいる人々がいました。彼らももちろん、偶像の神など神ではない、唯一の神、唯一の主イエス・キリストだけが真の神であると信じた人々です。けれども、彼らはそう信じながらも、それまで生きてきた社会の慣習や言い伝えから自由になれず、偶像の神の前で食事をすることに、どうしても後ろめたい思いがしてしまうのです。ところが知識のある強い自由な人が、そんなこと気にする必要などない、偶像など気にせず、どんどんそういう所に行ったらよいではないかと言います。そういう声に押されて、内心では躊躇(ためら)いながらも出席することになります。
それが、「その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」ということです。「良心が強められる」のは良いことではないか、そう思われるかもしれません。ところが、この「強められる」は「家を建てる」という意味の言葉です。つまり、その人の良心は弱いままなのに、その弱い土台の上に無理やり家を建ててしまう、といった意味になります。
そうすると続く11節、「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」。「滅びてしまう」とは厳しい表現ですが、それこそ、7節に語られていることです。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。自分の本意ではないのに、知識のある人に唆(そそのか)されて偶像に供えられた肉を食べてしまう。しかし、どうしても「これは偶像に供えられた肉だ」ということが頭から離れず、躊躇(ためら)いながら食べることになる。結果、弱い人はその後、自責の念にかられ、罪を犯したという呵責に耐えきれず、信仰が汚され、潰されてしまうことになるでしょう。
そのことを引き起こしているのは、知識を持った力のある人の自由なふるまいです。9節にあるように「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことに」なっているのです。
■導くのは愛
パウロはこのことを踏まえて、1節で「知識は人を高ぶらせる」と言っていました。知識のある強い人、それによって自由を得ている人が、その知識が本当に自分のものになっていない弱い人々に対して、自分の自由をこれ見よがしに示し、知識があれば、信仰があれば、こういうふうにできるはずだ、と上から目線で自分たちの正しさを主張する。そのことこそ、あなたがたの「高ぶり」そのものではないか、と言います。8節、
「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」
ここには、知識のある強い人々への皮肉、批判が込められています。自分たちの信仰の知識を誇り、高ぶり、弱い者たちを見下し、軽んじている人々に対して、パウロは今、あなたたちがその肉を食べることは信仰において何の益にもなっていないし、彼らがその肉を食べないからといって信仰において何も失われてなどいない。神のもとに導かれることは、そんなこととは何の関係もない、そう言うのです。
正しい知識を求め、力を求め、それによって得られる自由を求めることは決して間違ってはいません。しかしそれが、高ぶりを生み、自分の力を誇示し、人を見下すような思いを生むのなら、その知識、力、自由は何の意味もないもの、いえ、むしろ人を「つまずかせる」ものになるでしょう。
1節の「知識は人を高ぶらせるが」に続いて、「愛は造り上げる」とあるように、神のもとに導くのは食物ではなく、知識や力でもなく、「愛」なのです。その愛とは、9節「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけ」ることであり、具体的には13節、「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と決意することでした。
この「肉」はもちろん偶像に供えられた肉のことです。肉食をやめて菜食主義になるということではありません。パウロ自身は信仰の知識をしっかりと持っていますから、偶像に供えられた肉だろうと気にせず食べることができます。そういう自由に生きています。しかし、そのことでつまずきを覚えてしまう弱い兄弟がいるのなら、その人たちのために自分はその肉を食べることをやめると言います。弱い兄弟のことを思いやり、その兄弟のつまずきを防ぐために、自分の得ている自由を捨てると言います。弱い兄弟のために、自分の持っている力を発揮することを自分で制限する。自分の持っている自由を差し控える。そういうことこそが、ここで言われる「愛」なのです。この「愛」こそが「高ぶり」の対極にあるものでした。 Continue reading