■わたしたちの土台
20節から28節、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。…最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。…最後の敵として、死が滅ぼされます。…すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」
人々が心から待望していた救い主キリストが、わたしたちのところに来てくださり、その身をもってお示しくださったこと―それは十字架と復活でした。聖書は、キリストが十字架につけられて殺され、墓に葬られ、三日目に甦(よみがえ)らされたことを、様々な人々の言葉として証言しています。このキリスト・イエスの十字架と復活こそ、わたしたちクリスチャンの土台です。
ところが、十字架の出来事は自己犠牲という大いなる愛の御業として理解しても、復活の出来事はどうしても理解できない、受け入れることができない、それを信仰の躓(つまづ)きと感じる人々がいました。それは、この手紙を受け取ったコリントの教会の中にも、そしていつの時代にもいました。現代にも「科学的に復活は…」と言う人がいますし、人体の生理的な面、あるいは目撃した人々の心理学的側面から復活を証明しようと試みる人もいます。
しかし、キリストの復活はそういうこととは次元を異にするものです。わたしたちが経験する事実とは、その経験した事柄そのものであるというよりも、むしろその事柄を経験したわたしたちにとっての意味そのものです。大切なことは、復活という出来事そのものではなく、それがわたしたちにとってどのような意味を持つのかということです。
パウロはここで、復活に躓きを感じていたコリントの教会の人々に、人類の「死」は罪の結果であり、罪のゆえに死がこの世界に入ってきた、しかし、その「罪」を贖(あがな)うためにキリストが来られ、己(おの)が身を捧げて十字架に身代わりとなって死んでくださった、そして、そのキリストが三日後に復活なさり、わたしたちの罪の結果である最後の敵「死」を打ち破ってくださったのだ、と教えています。
■罪―いのちは自分のもの
そもそも罪とは何でしょうか。それは、守るべき法律に違反するといったことではなく、神ならぬものを神とし、神なきが如(ごと)くに振舞い、まことの神との関係を断ち切ってしまうということでした。全能の神を見失い、いのちの源である神を忘れ、溢れるほどの神の愛に気づかない人にとって、すべては自分のものでした。いのちさえも自分のものです。
とすれば、いのちは自分のこの肉体にしか宿らないことになります。そして、死とともに肉体は腐り、滅ぶゆく死によっていのちもまた終わることになります。人々は、自分のいのちを自分のものであると考える傲慢、自分を神の如きものと考える罪によって、死という自分の知恵も力も超えてもたらされるものに対して、決して拭うことのできない絶望と不安を抱き続けざるをえなくなりました。神に背き、神を忘れ、神から逃れようとしたアダムの罪によって、人類に「死」がもたらされたとは、まさにそのことでした。
そして、耳を塞ぎたくなるほどのそうした罪と死による悲鳴が、あちらこちらから、自分の中からさえ聞こえてきます。罪意識もなく、自分の欲望や快楽のために平然と人のいのちを傷つけ、奪うことも、また苦しみや悲しみのあまりに自分のいのちを軽んじ、断ってしまうことも、そのいずれもが、いのちを自分のものだと考える罪から出て来てはいないでしょうか。
しかし、いのちは決してわたしたちのものではありません。いのちは神が与えてくださった、かげかえのないものです。
■永遠のいのち
とすれば、キリストの復活が意味することとは、いったい何なのでしょうか。一言で申しあげれば、それは、神による永遠のいのちへの招きです。
キリストの復活はわたしたちに、神が永遠なるお方であると同時に、いのちの主であることを明らかにしています。御子キリストは死から復活させられたのです。神は、すべてのものにいのちを与えられるお方です。そして生だけでなく、死をも司られるお方です。
そのような神との断絶という、決定的な罪に陥っていたわたしたちが、キリストの十字架の死によって、その罪の一切を赦されました。わたしたちの罪がどれほどのものであろうとも、今も神は、愛のみ手によってわたしたちを救い出し、キリストの復活を通して新しいいのちへと招いてくださっているのです。
パウロが「神がすべてにおいてすべてとなられる」と語るように、今ここに生きている者も、今まで死んでいった者も、すべてものがその御手の中に招き入れられるのです。それは、すべてのこと、すべてのものが神の支配に組み入れられる、神の国が成就する、ということへの確信であり、希望の言葉です。
わたしたちの生も死も、この世の力も富も権威も、生きている者も死んでいる者も、そのすべてが神のものとされるという信仰は、わたしたちをあらゆる不安と絶望から自由にし、わたしたちに苦難に打ち勝つ希望を与えてくれます。すべては主のものです。わたしたちの体も心も、身に着けているものも自分で得たと思っているものも、すべて主のものです。わたしたちのいのちは、主が与えてくださったものです。だから、わたしたちは安んじて、すべてを主に委ね、わたしたちに与えてくださったこのいのちを、生きている今も、死して後も、かけがえのないものとして大切に生きていくことができます。
人のいのちが軽く扱われる、現代のような憂鬱で、悲観的な時代にあって、わたしたちはとくに、神が最終的にはすべてを支配されておられ、やがては平安と安らぎの時がもたらされるのだ、そして今ここに、そのような神の支配がすでに始まっているのだ、という希望を忘れてはなりません。そのような希望の信仰に生きるとき、そのときまで、羊のように弱く愚かなわたしたちであっても、「御国が来ますように。御心が行われますように」と祈りつつ、この人生を歩んでいくことが赦されるのです。
■日々死んでいる
だからこそ、パウロは31節に、「わたしは日々死んでいます」と書くことができました。これはもちろん、本当に死んでいるという意味ではなく、比喩的な言葉です。日々死ぬとは、自分を捨てている、という意味にとることができるでしょう。あるいは自分を委ねている、自分を任せて生きている、というふうに読むこともできるのではないかと思います。 Continue reading