■晩餐の危機
イエスさまは、会堂で、また湖の岸辺や丘で人々に語りかけられました。それだけでなく、弟子たちや徴税人や罪人たちと共に食事をされました。特に、十字架―死の前夜、エルサレムの宿の二階で、弟子たちと「最後の食事」を共にされました。そこにいたのは、イエスさまを裏切ったユダ、イエスさまを三度も知らないと言ったペトロ、イエスさまを見捨てて逃げまどった弟子たち。すべて罪人でした。そうなることを承知の上で、イエスさまは、弟子たちと共に食事をされました。
イエスさまの死後、弟子たちは集まって、そのときのことを想い起しつつ語り合い、そして共に食事をしました。教会はやがて、信徒たちが一つの場所に集まって、賛美し、祈り、み言葉に耳を傾け、信仰を告白するようになりましたが、20節に「一緒に集まって…主の晩餐を食べる」とあるように、その頂点こそ「主の晩餐」でした。
ところが、主の晩餐としてのその共同の食事が無残なあり様になっていました。コリント教会の有力者たちが、その共同の食事を兄弟姉妹と分け合うことをせず、あたかも、自分たちの個人的な食事であるかのように振舞っていたからです。しかし教会の共同の食事は、食事を共に分け合い、分かち合うべきもので、それは、主の体としての教会の一致と平和のしるし、何よりも愛の証しの場であるべきでした。コリントの人々は、キリストのからだである教会を私物化しているだけでなく、意識してか無意識かは別にして、この世の貧富、地位の高低、権力の大小といったあらゆる格差と差別を、一致と愛のしるしたる「主の晩餐」の中に持ち込み、その意義を根こそぎ台なしにしているのではないか。
パウロは22節、「[あなたがたは]神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と厳しく叱責しています。
■引き渡された
この問題を解決するため、パウロは今、イエスさまと弟子たちとの、最後の晩餐のことを人々に思い起こさせようとしています。23節から26節です。
23節の「受けた」「伝えた」という言葉からもわかるように、主の晩餐についての言葉は、教会の中に早くから伝えられていました。パウロは、主の晩餐と呼ばれる共同の食事を、自分の体験から学んだのでも、誰か権威ある人から受け継いだのでもありません。「主から受けた」―この言葉は、主ご自身が自らの死と新しい契約のしるしとして弟子たちにパンと杯を分け与えられたことが、罪人や貧しい人々と共にされた数々の食事とともに、教会の人々の間に語り伝えられていたことを示しています。パウロの時代にまだ福音書はありませんが、イエス・キリストの死と復活の物語は、信仰の中心、核になるものとして、大切に語り継がれていたのです。
パウロは、コリントの人々もよく知っているはずの主イエスの死―十字架の意味を思い起こすようにと、「すなわち、主イエスは、引き渡される夜…」と語り始めます。
ここに「引き渡された」とあるように、御子イエスは父なる神によって、わたしたちのために十字架へと引き渡されたのでした。そして、イエスさまご自身も自ら進んで、その残酷な使命を背負われました。イエスさまの生涯は、人に与え続ける生涯でしたが、その人生の極みとして、進んで自らのいのちをも与えてくださったのです。自分を喜ばせるのではなく、人のために生きる人生―それがイエスさまの人生でした。その極みとしての死、十字架でした。
聖餐の中で、パンと杯をいただくことは、このイエスさまの死を覚え、告げ知らせるものです。ところが、コリントの教会の主の晩餐では、人々は自分のことばかり考え、他人のことはお構いなしというあり様でした。イエスさまから与えられた大きな恵みを考えれば、コリントの人々も自分のことばかりではなく、イエスさまに倣って、人に与えること、人と共に分かち合うことを考えるべきではないのか。そう問いかけるパウロは、「主から受けた」言葉を語り直しつつ「記念として」という言葉を繰り返します。
■記念として
「思い起こす」「想起する」と訳すことのできる、印象深いこの言葉を通して、わたしたち教会は「わたしの記念としてこのように行いなさい」と教えられてきました。パウロは、パンと杯を共にすることを通して、コリントの教会に、イエス・キリストの死—贖(あがな)いのみ業を、過去の出来事としてではなく、自分自身のこととして想い起こさせようとしています。
「記念」という言葉は、出エジプトの「過越」の出来事を連想させます。エジプトを旅立たんとするイスラエルは、犠牲となった子羊の血によって守られつつ、その日、エジプトの抑圧と奴隷としての束縛から解放されました。イスラエルはその後も、その記念すべき日に、神がご自分の民を解放してくださったことを想い起すことで、その神が今も、自分たちを救ってくださっていることを確信し、感謝しました。同じように主の晩餐もまた、神がイエス・キリストの犠牲の死を通して、このわたしたちに今も解放を、罪の赦しを、救いをもたらしてくださっていることを想い起す機会となるものでした。
また「記念」という言葉は、今日の聖餐式では、主の体と血であるパンと杯によって、実際に主イエスが今ここにおられること―つまり主の「現在」を意味する言葉だと理解されていますが、この手紙で語るパウロの言葉をそのように理解することはいささか的はずれかもしれません。制定の言葉の最後、26節を原文の語順通りに訳せば、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主の死を告げ知らせるのです。主が来られる[その]ときまで」となります。主はもはやここにはおられません。それは決定的な不在、今ここにおられるはずなどないという意味ではありませんが、パウロが語る主の晩餐の意義は、主イエスの死―十字架による贖いと救いの真実を記念し、そのことを想い起しつつ、「再び主が来られる」そのことを、確信をもって待ち望むことでした。
■新しい契約
その主の晩餐によってキリストの体と血を分かち合う教会は、主の死がわたしたちのためであることを想い起すと共に、25節に「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とあるように、主の死が、神による「新しい契約」の始まりであることを知らなければなりません。
クリスチャンとは、この新しい契約にあずかる者です。新しい契約のメンバーは、みな神の家族です。主の晩餐にあずかるすべての人は、互いに兄弟姉妹なのです。前回、申し上げたように、自分の本当の家族がお腹を空かせているのに、その人たちのことは全くお構いなしに、自分たちだけガツガツ食べるような人がいるでしょうか。
コリントの一部の豊かな人たちが、他の兄弟姉妹のことを考えずに、自分たちだけでご馳走を食べることは、自分たちが新しい契約にあずかっていること、信じる者はみな本当の兄弟姉妹であるという大切な真理を、その行動によって足蹴(あしげ)にするようなものです。
パウロは今、イエスさまご自身による主の晩餐の制定、とりわけわたしたちのために受けられた苦難と死とを、コリントの人たちに想い起させることで、この大切な真理をよくよく考えるようにと促しているのです。 Continue reading