■滑稽と嘲笑
受難節最後の主日となりました。イエスさまが十字架への道をまっすぐに歩まれたその道のりを、この一月半の間、わたしたちも一緒に歩んできました。そしてついにイエスさまは、自分が十字架につけられることになるエルサレムに到着されます。沿道に敷き詰められた棕櫚の葉の上を、人々の歓呼の声の中、驢馬(ろば)の背に揺られながら、エルサレムに入城されます。今日は、そのことを記念する棕櫚の主日です。
「ホサナ―主に栄光あれ」という勝利を賛美する、凱旋の声に包まれるイエスさまの姿は、しかし、奇妙なものでした。勝利者らしく、たくましい軍馬に跨(またが)って威風堂々と進んできたというのではありません。地面に足がつきそうなほどの小さな驢馬に乗って、とぼとぼと、いかにも頼りない格好で、人々の歓呼の声の中を進み行きます。まるで、痩せこけた馬ロシナンテに跨り、従者サンチョ・パンサを引きつれて遍歴の旅に出かけた、あのドンキホーテのようです。イエスさまの姿は、とても滑稽(こっけい)なものでした。
しかし、滑稽と見えるその人こそが、まことの救い主でした。
その滑稽な姿を冷ややか見ていた人たちがいました。彼らは心ひそかに嘲笑(あざわら)っていたことでしょう、「驢馬に跨ってやってきた、あのみすぼらしい男が救い主であるはずなどない。その正体を白日のもとに晒(さら)しだし、歓呼の声を上げている人々の目を覚ましてやろう」。律法学者やファリサイ派、祭司長たちです。
彼らのもくろみは成功し、今やイエスさまは、衣服をはぎ取られて裸にされ、その上に赤いマントを着せられ、いばらの冠を頭にかぶり、右手に葦の棒をもたせられた、皮肉たっぷりに演出された王の姿で、「ユダヤ人の王、万歳」という歓呼の声の中を歩いています。栄光を讃えるその声は、エルサレムに入られるときとは真逆の、まさにその姿そのもの、嘲りと蔑(さげす)み以外の何ものでもありませんでした。
ゴルゴダの丘へと引かれて行くイエスさまに、ぶどう酒が差し出されます。それは、当時しばしばなされていたように、罪人に与えられる気つけ薬でした。十字架の上で受ける槍の痛みがもっと強いものとなるように、という悪意から与えられるものです。「ユダヤ人の王」という罪状がイエスさまの首にかけられ、二人の強盗と同じと場所に引き出されました。それは、まことの王だ、救い主だとあなたたちが信じたこの男は、強盗と同じような者に過ぎない、ということを意味します。これらすべてことが、嘲りと蔑み以外の何ものでもありませんでした。
しかし、嘲りと蔑みに包まれたその人こそが、まことの救い主でした。
■自分を救え
イエスさまの惨(みじ)めで、弱々しい、無力なその姿を見た人々は、期待が大きかっただけにその失望も大きく、祭司長たちと一緒になって、イエスさまに嘲りと蔑みの言葉を投げつけます。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人(ひと)は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」
罵倒、嘲笑、侮辱の言葉として記されるこれらの言葉に、誰もがハッと気づかされます。そう、この言葉は、福音伝道をこれから始めようとしたとき、荒れ野でイエスさまに囁(ささや)かれた悪魔の誘惑と全く同じものです。
「神の子なら、自分を救ってみろ」「そうすれば、信じてやろう」
人々は、自分のための、自分だけの神しか受け入れようとはしません。自分に何の役にも立たない、そんな神など信じても意味などない。自分さえ救うことのできないお前を神の子だと信じることなどできないし、お前を救うことのできない神は神ではない、そう責め立てます。
自分さえ救えないと責めるのではなく、「他人は救ったのに、自分は救えない」と罵ります。 Continue reading