■失われた羊
5節から6節、「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」
この言葉に、戸惑いを覚えます。当時、ユダヤの人々が、自分たちのことを神に選ばれた民―選民と見做(みな)し、一方、異邦人やサマリアの人々を見下し、罪人と蔑(さげす)んでいたことはよく知られるところです。
イエスさままでもが、そうだったのでしょうか。
ルカによる福音書9章51節以下に、「サマリア人から歓迎されない」という見出しが付けられた記事があります。エルサレムへの途上、イエスさま一行がサマリアの村に差し掛かったときのことです。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」とあります。そのサマリア人に、ヤコブとヨハネは敵意を敵意で返します。
「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」
ヤコブとヨハネは、直前に語られたイエスさまの言葉を誤解しています。
「反対しない者は味方である」と主は言われたではないか。ところが、サマリアの人々は、わたしたちの歩みに逆らっている。エルサレムに行くことに反対している。つまり味方ではない、敵だ。怒りを含んで二人は、「こんなやつらは滅ぼしてしまいましょうか」と言うのです。神の力、神の名をもって滅ぼしてしまいましょう。あなたはそういう神の力を持っておられるはずです。「邪魔者は消せ」ということです。
しかし、「イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った」とあります。歓迎されないのなら、そこを避けて通ればいい。そのようにして、イエスさまはただ、ご自分のめざす道を、十字架への道をひたすらに歩き続けられるのです。なぜなのでしょうか。
ホセア書11章9節の言葉が思い起こされます。
「わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」
ホセアに記された神の言葉は、わたしは人間ではない。神だ。だから殺さない。人間ではない。神だ。だから滅ぼさない、そう語ります。どんなに正当だと思っても、自分の正義の怒りの激しさに酔うようなことはしない。わたしは神であって、人ではない。だから、どうしてもあなたを捨てることができない。どうしてもあなたを滅ぼすことなどできない、そう言われるのです。
この神の言葉ゆえに、イエスさまは人の手に渡され、十字架につけられました。驚くべくことですが、それがイエスさまの歩みでした。そのイエスさまの歩みの中で、弟子たちの無知、無理解が、神の恵み、神の愛への理解へと変えられていきます。十字架を、喜びをもって深く知ることのできる者へと変えられていくことになるのです。
とすれば、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」というこの言葉も、民族主義的、排他的なものではなく、「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあるように、ユダヤの社会の中で、律法学者やファリサイ派の人たちの偽善によって、また律法の束縛の中で、切り捨てられ、傷つけられ、苦しんでいるユダヤの人々への「愛」の言葉として受け止めなければなりません。
まさに「失われた羊」とは、直前にあった「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々のことです。厳しい律法によって、切り捨てられ、差別され、尊厳を奪われた人々のことです。病人たち、とりわけ重い皮膚病を患う人、貧しさゆえに一定の捧げものを神殿で捧げることのできない人、羊飼いや徴税人など汚れた職業に就く人、すべて罪人という烙印を押された人たちのことです。
イエスさまは、今、イスラエルの、そのような人々のところに行きなさい、と弟子たちに言われるのです。行って、その人々の苦しみと悲しみを共に担いなさい、共に歩みなさいと言われるのです。
■平和の挨拶
そうするために、弟子たちは何を、どうすればよいのか。イエスさまは、実に具体的に丁寧に教えられます。11節から13節、
「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」
ここに語られる「ふさわしい人」とは、もちろん「イスラエルの家の失われた羊」と譬(たと)えられている人々のことです。「イスラエルの家」から「ふさわしくない」と切り捨てられ、そこにいてもいないかのように扱われて苦しんでいる、まさに「失われた」人たちこそ、むしろ「ふさわしい人」なのです。その人たちに眼を向け、その人たちを見出し、その人たちのところ・家に行き、そこにとどまって、共に暮らしなさい。 そして何よりも、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」とイエスさまは教えられます。
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