福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 13

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―今日のパン』 マタイによる福音書6章11節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

「糧」と訳されているアルトスは主食にあたる「パン」のことです。「必要な糧」とあります。本当に欠かすことのできない、生きるために「必要な主食」だけが祈り求められています。だからこそ「今日与えてください」と続きます。ルカのように「毎日」でもなく、明日も明後日もその次の日もという連続性の中での「今日も」というのでもなく、あくまでも「今日」です。マタイの「主の祈り」は「今日」に集中します。「今日」を「かけがえのない一日」とします。昨日でもなく明日でもない、ただ「今ここ」をかけがえのない時として生きるように促します。

そして「今日」をかけがえのない一日として生きるということは、「明日」は来ないかもしれないと気づくことです。明日のいのちをだれも保証してくれないのです。イエスのたとえです。ある金持ちが、豊作で手にした作物を収めるために倉を大きく建て直して仕舞い込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と呟きます(ルカ12:16-19)。原文では「作物」は「わたしの作物」、「倉」も「わたしの倉」、「財産」も「わたしの財産」です。「わたしの」「わたしの」「わたしの」と繰り返されます。イエスは財産を持つことを否定されません。ただ、全部「わたしの」ものと言って、与えてくださっている神を忘れ、神との関係をひっくり返し、自分を神のごとくに考えている、その愚かさを問いただされます。

そしてこう続けられます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(同12:20)。天から神の言葉が響きます、「今夜、お前の命は取り上げられる」と。

「今夜」です。金持ちが「これから先何年も」と言った言葉と鋭いコントラストをなしています。明日のいのちはわからないのです。わたしたちのいのちの鍵は神が握っておられ、だれも自分で自分のいのちを自由にすることなどできません。ところがその男には自分しかありません。財産があれば生きていけるものと勘違い、錯覚しました。しかしそれは幻想です。真実は「今夜、お前の命は取り上げられる」という現実の中にあります。

そうです。人のいのちは、蓄えに依存せず、またパンにもよらないのだ、ということです。ただ、神の御心によるのだ、ということです。だからこそ、イエスはこう祈りなさいと教えられるのです。「生きるために最低限必要なパンを、いえ、いのちを、今日、与えてください」と。この日ごとの糧を求める祈りは、自分の死を直視しながら、「今日のいのち」を求める祈りである、と言ってよいでしょう。

神は、明日、肉体は滅んでも、神の復活のいのちの中で「生きよ」と言って、「わたしたち」すべてが生きることをこそ、神は望んでおられます。明日、わたしが、あなたが死ぬことがあっても、「生きよ」という神の言葉が、この祈りと共に、今日、わたしたちの心に響いています。

この祈りを祈るとき、神から「生きよ」と言って、日ごとの食物を与えてくださる神の慈しみに生きる幸いが与えられます。この祈りを祈るとき、この罪深い者を十字架によって赦し、救い、立ち帰って生きよと言って、生かしてくださる神の恵みの中に置かれます。この祈りを祈るとき、わたしたちのいのちが神のものであることを告白し、感謝するようにと導かれています。

2月9日説教抜粋 『こう祈りなさい―御国を』 マタイによる福音書6章10節 沖村 裕史 牧師

「御国が来ますように」。原文では、一度限りの決定的なことが来ますように、といったニュアンスの言葉です。決定的に来るように、そう求めていることとは何か。「御国」です。直訳すれば「あなたの国」、神の国、天の国ということです。死後の世界や天上の場所や空間を想像しがちですが、そうではありません。イエスは「神の国は見える形ではやってこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。神の国とは、どこか遠くの別世界のことでもなく、国土や国家といったものでもなく、今ここにあるものです。そしてそれは、この後に続く祈り、願いの中に示されます。「御心が行われますように」。「あなたの意志が表されますように」です。「神の願い、神の意志」が表される所、それが神の国です。神が願いをもって支配しておられる、今ここにある世界のことです。

とすれば、支配されるその神がどのような方、どのような願いを持つ方であるのかが重要です。恐怖の対象のような神もいれば、物言わぬ神や非人格的な神もいます。暴君のような神も存在するでしょう。イエスは今ここで、「あなたの国」と祈るようと教えられます。「アッバ、父よ」と呼びかけるような親密な関係の中で、神に「あなた」と語りかけます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。暴力を振るう父をもった人には、父は恐ろしい存在でしょう。しかし父とは、子どもにとって何が必要かを知り、それを与え、守り、導く存在のはずです。父なる神は、子であるわたしたちにとって、神の国こそが必要なものであることをよくよくご存じだからこそ、イエス・キリストの十字架を通して、すべての人に必要不可欠なもの―「救い」を与えてくださったのです。「願う前から」です。何の条件も必要ありません。贈り物・プレゼントとして、無償でくださいます。無償というのですから、すべての人に開かれています。神の国とは、ただ一方的に与えられる恵みと愛が支配するところ、神の愛の御手が働くところです。たとえ、どんなにだめな人間、どうしようもない人間だとしても、いえであればなおのこと、神は救いと赦しの手を伸ばし、御国を来らせてくださいます。神の愛の御手が差し出されています。

だからこそ「御国が来ますように」なのです。わたしたちが御国に行くことを祈り願うのではありません。御国が地獄のように思えるこの世界に来るようにと祈るのです。「天におけるように地の上にも」と祈ることができるのです。なぜか。それが「御心」、神の願い、神の意志だからです。

この世にはまだ御心が行われていません。しかし御心が完全に行われているところがあります。天です。御心が天で、わたしたちの見えないところで行われているから、この世で御心が行われていなくとも、絶望しません。天において御心が行われているということが、この祈りを祈ることができる、確かな土台、根拠であり、また大きな励ましです。そもそも、イエスはどこからどこに来られたのか。天から地に、です。これこそ決定的なことです。「神の国は近づいた」と宣言されたイエス・キリストにおいて、この世に御心が始められ、天がこの世に突入してきたのです。天から来られたイエス・キリストがおられるところに、御心は行われ、救いは及ぶのです。だからこそ、「御心が行われますように」と祈ります、祈ることができます。この恵みを感謝いたしましょう。

2月2日説教抜粋 『こう祈りなさい―天の父よ』 マタイによる福音書6章9節 沖村 裕史 牧師

「天におられるわたしたちの父よ」。

イエスの祈りは「神よ」でもなく、「主よ」でもなく、ただ「父よ」と始められます。八木重吉の詩集『神を呼ぼう』の中に、「てんにいます/おんちちをよびて…」という美しい歌がありますが、イエスが実際に祈られた言葉は、アラム語の「アッバ」であったでしょう。それは「父」でもなければ、「おんちち」でもなく、「父ちゃん」です。イエスは、そば近くにいて見守っていてくださるお方として神に祈るように、と教えられます。

イエスは繰り返し、「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」と弟子たちに教えられました。恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。イエスは、今、父なる神の思いを代弁しておられます。もう少しで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のように、愛情あふれるまなざしをもって語りかけられます。「アッバ、父よ」と祈りなさい、と。

愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。傷ついた人の恐れや不安の闇はとても深く、その痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかしどれほど痛くとも、どれほど不安でも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法はたったひとつしかありません。「見て、見て」と駄々をこねる必要はありません。神はわたしたちのことをわたしたち以上によくご存知で、いつも見ていてくださるのですから、父なる神のそのまなざしを背中に感じながら、「父ちゃん、転んでもいいから、思い切ってこいでみるね」と祈りさえすればよいのです。父なる神も、大丈夫、大丈夫、そんな愛のまなざしを注いでくださるのです。

もはや、わたしたちが祈るのではない。父なる神の愛のまなざしに支えられて、わたしたちは祈ることができる、祈ることへと促されるのです。そんな祈りの体験を重ねることで、わたしたちは、祈りが互いを支える力を持つこと、祈り祈られることの中にわたしたちの人生があるのだ、ということに気づかされるようになります。自分のためだけに祈ることがダメなのではありません。祈りに良いも悪いもありません。自分のために祈るとき、その祈りがただ自分のことだけで終わるはずはないからです。人は一人では生きてはいけない、人と人の間を生きるほかない存在だからです。

その意味で、イエスが教えられる「主の祈り」が「わたしたちの父よ」と祈り始められ、この後に続く祈りの主語がすべて、「わたしたち」であることの意味と重みは、とても大きいものです。神にあって、イエスのみ名によって、「わたしたち」は祈り合う。祈り祈られて、共に生きるよう促されます。

そのことを、初代教会は「あえて祈る」と教えます。礼拝前半の「聖書のみ言葉」が終わったところで洗礼を受けていない人は退席します。その後半、「感謝の祭儀」と呼ばれる聖餐式の中で、洗礼を受けた者だけで「主の祈り」が唱えられました。その導入にあたる短い祈りが「我らあえて祈らん」でした。「あえて祈る」。「あえて祈る」べきこの祈りによって、わたしたちは神の御心を問い、ときには自分の願いに反してでも、なすべき新しい生へと押し出されていくことになります。自分の思い、この世の思いを越えた新しい生き方へと、「わたしたち」は押し出されていくことになります。嘆いたり、溜息をついたり、悔やんだり―もしそれだけなら、わたしたちは諦めるしかありません。運命だった、宿命だ、と。しかし信仰とは「祈る」ことです。「あえて祈る」ことです。主の祈りは、自分自身が、自分の思いを越えて動かされていくためにこそ、あえてなされる祈りでした。