■ふたつの憎しみ
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
戦後75年という節目の年、戦争を体験した方々の高齢化が進んでいます。ちなみに、昨年亡くなった被爆者は全国で9254人、被爆者の平均年齢も83.31歳となりました。戦争の「記憶」が薄れるその一方で、力に力をもって対抗することを前提とした改憲論議が頻繁に話題に上り、報道されています。
そのような中だからこそ、パウロの言葉が心に深く染み込んできます。
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。
神戸で暮らしていた、ひとりの少年が書き残した一文です。
「雲の切れ目は早、夏空だ。わたしの頭の中に浮かんでくるのは神戸のこの季節。六甲山の緑は色濃く、広がる海が懐かしい。十四歳の六月までわたしは神戸の地で育った。当時、神戸は最もハイカラな街だった。神戸元町の一角に洋菓子店があった。『ユーハイム』。この店は神戸の人間にとって誇りであった。ここの洋菓子は日本で一番美味しいと言われていた。昭和十五年、戦争が激しくなるとともにユーハイムは閉店した。神戸の灯が消えた。…(略)…
昭和十九年春、父と母は養女を迎えた。わたしは中学二年十四歳。学校から帰ると生後二週間目の恵子が祖母に抱かれていた。痩せた小さな赤ん坊だった。目鼻立ちは整って、これは美人になると思った。…(略)…
六月五日。その日の大空襲は神戸を焼きつくした。父は死に、母は大やけど、わたしと恵子だけが焼け跡に残された。それはちょうど夏至を過ぎた頃だった。二人がいた場所は貯水池と、そこから流れ出る小川があり、夜には無数の蛍が飛びかって草の間を薄く照らしていた。
焼け出されたわたしは福井県春江町に逃げた。…(略)…そこには戦争の影はなかった。駅から三十分位の所の紡織工場跡にゴザを敷いて寝ていた。すべてをそこで賄った。あたりは静か、嘘のようにのんびりしていた。わたしは何も考えず、というより先のことは考えられずただ日々を過ごしていた。助けてくれる人は誰もいない。皆自分の事で精一杯。他人を顧みるゆとりなどなかった。だが恵子を負担に思ったことはない。おしめの替えも当然少ない。まめに貯水池に浸し洗って木の枝にかけ風で乾かす。夜寝る時は知ってる限りの子守唄を歌う。ただ、食べものだけはいかんともしがたく、また赤ん坊にふさわしいものなどない。春江の配給所で焼け出され者用の米の配給があった。わたしも並んだ。量は少ないが紛れもない白い米。その白い米が袋の破れ目から、水の流れる溝にこぼれた。もったいないと思うより、ゆらゆらと水に沈んでいくさまは何とも美しく、わたしはただ見とれていた。わたしに出来るのは精々が、お粥、おじやぐらい。見様見真似で作ったおじやを妹に食べさせるつもりが、つい自分で食べてしまう。米粒は自分、その他を恵子の口に入れる。悪いと判りつつ、これの繰り返し。恵子はたちまちと骨と皮に痩せた。…(略)…
昭和二十年、八月二十一日。川から川へ薪を拾いに行って帰ると、妹が死んでいた。涙は出なかった。…(略)…福井市は空襲を受けたが、春江町は焼けていない。屋根が続き、田畑は青い。辺りはごく普通の生活が営まれている。あくまで静かだった。わたし一人あたり前じゃない。あたり前のところへ戻ろうと思った。しかし戻り方が判らない。妹はわたしが火葬した。
ある限りの力をふりしぼって生きてきた。そして戦争はわたしからすべてを奪い去った。夏のよく晴れた日、今でも恵子を想う。何十年経っても、いたたまれない気持ちはうすれない。
敗けてひと月目。ひと月前まで一億一心撃ちてし止まん、鬼畜米英が食いものを持ってやってきた。一転、人類の味方に変わった。すべての日本人が歓迎したわけでもないが、まず生き永らえたと実感、アメリカ憎しより食いものが先。いつの間にかその憎しはふっ飛び、憧れのアメリカになった。わたしが初めて目にしたのは九月十七日。神戸三ノ宮駅周辺を歩く二人の進駐軍の後ろ姿。当時の日本人はみな小さく、おしなべて栄養失調気味。やせていた。ひきかえ彼らはとにかくでかい。赤い顔の大男。恐かった。すでに自分もアメリカからの物資、大豆やとうもろこしを口にしていた。しかしわたしは味方とは思わず、隙あらば殺そうと思っていた。何といっても、相手は最愛の父を殺し家族をバラバラにした。わたしの人生を踏みつけ壊した。その憎しみは忘れることができない。しかしふた月前に焼け出されたままの格好でふらふら歩くわたしに出来るはずもなかった。」
少年の名は野坂昭如。ご存じアニメ映画の名作「火垂るの墓」の原体験を綴ったものです。
戦争は、わたしたちの体ばかりでなく、わたしたちの心に、わたしたちの人生に、拭いがたい大きな傷跡を残します。そして、その痛みゆえに、そこに愛が、平和への希求が生まれる、と言うことができたらどれほどよいでしょうか。しかしそのようなときに、わたしたちの心の中に生まれるものは、愛ではなく、憎しみでした。それが現実です。「隙あらば殺そうと思っていた」と語る、この少年の憎しみは、彼一人のものではありません。
広島の一人の牧師が、自身の被爆体験をもとにこう語っています。
「原子爆弾は怖るべき武器だった。…しかし戦争を一層悲惨なものにしたのは人間の憎み争う心だ。これまでに誰も経験をしたことがないほどの、前代未聞の大きな爆撃を受けたにも関わらず、広島の人々は参ったとは言わなかった。いや、犠牲が大きければ大きい程、徹底的な復讐を誓った。ここに戦争の愚かさ、恐ろしさ、救い難い残忍さがある」と。
憎しみが憎しみを生み、暴力が暴力を生み、偽りが偽りを生み出すことは、誰もがよく知っていることです。それでも、わたしたちはその負の連鎖から容易に抜け出すことができずにいます。言葉では到底言い表すことのできないほどの戦争の酷さと悲惨さによって絶望を味わったはずなのに、わたしたちの心は、今も、偏見と差別、暴力と争い、何よりも憎しみと復讐に支配されています。世界の各地で争いが絶えず、わたしたちの国も、力に対抗するためには力しかないと、自衛という名の軍事力の行使を公然と可能ならしめようとしています。それは国と国との争いばかりではありません。家庭の中にも、学校の中にも、会社の中にも、地域社会の中にも、目を覆いたくなるほどのものから、心密かなるものまで、憎しみやいさかいが渦巻いています。
■偽りの愛
そんなわたしたちに、今パウロは、「愛に偽りがあってはならない」とわたしたちに語りかけます。偽りの愛に生きてはならない、と。 Continue reading