■たとえが意味する現実
昨年の九月一日から、ご一緒に「山上の説教」を学んで参りました。今日は、その「山上の説教」の最後、締めくくりのみ言葉です。
この箇所を読むと、いつも思い出します。子どもの時のことです。わたしが暮らしていた町の中心を、有帆川という大きな川が流れています。雨が降り続いた夏の夜のこと、眠りを覚ますサイレンの音が鳴り響きました。外は激しい雨と暗闇で何も見えません。消防団員の父は、身支度を整えると、不安げに見送る母に向かって、心配するな、外に出るな、と短く言うやいなや、激しい雨音と一緒に闇の中へと消えていきました。昼近くになって帰ってきた父の話によると、土手が決壊し、川が氾濫、亡くなった人も出たとのこと。恐る恐る聞いていたわたしは、数日後、友だちと一緒にその土手へ出かけました。驚きました。土手近くにあったはずの家が見当たりません。見れば、数十メートル下流あたりに、壊れた家が、まるで浮かぶように土砂の上に乗り上げていました。その近くの大きな木には、無残に砕けた木切れや泥まみれの家具が纏わりつくように重なっていました。
息を飲みました。
イエスさまが言われる通り、家の倒れ方は本当にひどいものでした。
イエスさまのこのたとえも、イエスさまご自身の実際の経験から出てきた言葉ではなかったでしょうか。
ユダヤの荒れ野には、雨期の季節だけ水が流れ、雨の降らない乾期にはすっかり干上がって、平らな川床が露わになる「ワディ」と呼ばれる川があります。ユダヤで「川」と言えば、ほとんどがこの「ワディ」、涸れた川です。水の流れている川は数えるほどしかありません。
乾期のワディは、細かい砂地です。整地された後のように平らです。それだけに、雨期になり豪雨ともなれば、激しい流れが押し寄せます。当時、ユダヤの人々が住んでいた家は「日干し煉瓦」を積み上げ、それを粘土で塗り固めただけのもので、屋根も草を葺(ふ)いた上に粘土を塗っただけの簡単な造りでした。もし、ワディに家を建てれば、粗末で簡素な造りの家はひとたまりもありません。
それがどれほど危険なことか。荒れ野を知っている人なら、すぐにわかることです。そんなところに家を建てたりはしないでしょう。たとえ「見かけ」は平らで、家を建てやすく、住みやすく思えても、ワディの川床を選ぶことはしません。岩がごろごろ転がって、家を建てるのに手間がかかっても、岩場を選ぶことでしょう。
だから、そんな危険な「砂の上」ではなく、安全な「岩の上」に、「人生」という「家」を建てなさい、イエスさまはそう教えておられるのだ。誰にでもわかる、実に分かりやすいたとえだ。わたしも、イエスさまの教えに従って、「岩の上」に「家」を建てよう。そう思われたかもしれません。
しかし「現実」は、それほど単純ではありません。たとえ洪水の危険を知っていても、それでもなお、多くの人が、その平らな場所を選びました。家を建てるのに便利で、交通路としても利用され、地下水が豊富だったからです。古代文明を思い出してください。その多くが、大きな河川流域に誕生しています。なぜか。人々が、何年かに一度起きる大きな氾濫による「いのち」の危険よりも、洪水が運んでくる肥沃な土地による「豊かさ」、そして平らな場所での生活の「便利さ」を求めたからです。「いのち」よりも「生活」の豊かさや便利さを優先し、それを求めて多くの人々が集まり、たくさんの家が建ちました。それが、人の暮らす村や町の姿です。
それこそ、イエスさまが目にし、生きておられた、このたとえの背後にある「現実」ではなかったでしょうか。
■砂の上と岩の上
そして今も、わたしたちは、そんな「砂の上」に集まり、「自分の家」を建て、「自分の人生」を築こうとしています。
「砂の上」の「砂」とは、何か。お金、仕事、能力、名声、趣味、健康、人間関係などなど…どれも人生にとって必要なものばかりです。しかし、人生の「本当の保障」にはなり得ません。
有り余るほどの穀物や財産を倉に収めた後、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」と呟いた金持ちに、神が一言、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と告げられた、イエスさまのたとえ(ルカ12:13~21)にあるように、人生とは、端的に、与えられたいのちを生きること、生かされ生きることでありましょう。
それなのに、わたしたちは、気づかぬ間に、そうした「砂の上」の人生に、あまりにも価値を置きすぎてしまってはいないでしょうか。それらはやがて、朽ち果て、消えていくものに過ぎません。にもかかわらず、そのようなものに決定的に価値があり、それらの上に人生を築き上げれば、大丈夫だとするような「的外れ」。それこそ、聖書の「罪」の本来の意味なのですが、そんな「的外れ」な営みを続けています。そんなわたしたちを御覧になりながら、それを積み重ねれば重ねるほど、倒れた時、その倒れ方は本当にひどい、イエスさまはそう言われるのです。
大雨が降り、激流が襲いかかって、家を押し倒すということは、わたしたちの人生にも、しばしば起こることです。「砂の上」に建てようと「岩の上」に建てようと関係ありません。誰もそれを避けることはできません。そうなった時、たとえ外見は同じでも、いざという時になると、その本当の姿が分かる、その正体が見えてくる。誰もが、それぞれに自分の人生という家を建てるのですが、この地上の歩みの中で、様々な試練が襲いかかって来る時、何よりも終りの日に、神の御前に進み出る時、その激流に耐えることができるかどうか。自分の正体を突きつけられることになります。厳粛な人生の分岐点です。
では、人生を「岩の上」に建てるために、どうすればよいのか。イエスさまは言われます、これに耐えることができるか否かは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か否か、この一点にかかっている、と。
「わたしのこれらの言葉」とはもちろん、「山上の説教」のことです。その「山上の説教」を締めくくるにあたって、この山の上で語ったわたしの言葉をあなたは実践していますか、わたしの教えをあなたは守っていますか、それともしていませんか。そう問いかけられるのです。
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