福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 13

9月6日 ≪聖霊降臨節第15主日礼拝≫ 『弱り果て、打ちひしがれていたとき・・・』マタイによる福音書9章32~38節 沖村裕史 牧師

■十字架への道
 「山上の説教」の後(あと)、8章1節からこの9章38節まで、マタイは、イエスさまによる数々の癒しと奇跡の御業、その一つひとつの出来事を簡潔に、しかし力強く描いて来ました。その小見出しを追ってみれば、重い皮膚病の人の癒しに始まり、百人隊長の僕、多くの病人、嵐を静める、悪霊に取りつかれた人、中風の人、指導者の娘、房に触れた女、盲目の二人……そして、今朝の32節から34節「口の利けない人をいやす」は、その最後の癒しの出来事です。僅か三節の短い出来事ですが、これまでの癒しの御業、奇跡の御業を締めくくる出来事として、マタイはここに、大切な意味を込めて書き記しています。
 「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った。」
 ここでも、苦しみと悲しみの中を生きていた人が、自分からやって来るのではなく、その人のことを気遣う人に連れられて、愛の内に連れられて、イエスさまの所にやって来ます。どのようにして癒されたのか、ただひと言、「悪霊が追い出されると」とだけマタイは記します。
 印象的なのは、この癒し-悪霊追放の出来事を見ていた「群衆」と「ファリサイ派の人々」の、イエスさまへの評価・反応です。真反対です。
 当時、口の利けないのは悪霊の仕業で、悪霊を追い出すことによって初めて癒されると考えられていました。それが常識でした。その常識を前提に、群衆は、イエスさまこそがその「悪霊を追い出す力」を持っておられるお方だ、これほどのお方はひとりとしていないと賞賛しました。ところが、ファリサイ派の人々は、そのイエスさまの御業自体を「悪霊の頭」の力によるものだと非難します。
 しかもファリサイ派の人々によるこの非難が、この後「ベルゼブル論争」へと発展し、さらにはイエスさまに対するその敵意が殺意として燃え上がり、ついには十字架へとつながっていくことになります。
 しかし、イエスさまの十字架は何も、ファリサイ派の人々の敵意だけが原因なのではありません。イエスさまの御業を見て驚き、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と賞賛した群衆もまた、イエスさまを十字架に追いやることになりました。こののち、人々の期待―目の不自由な人が「ダビデの子よ」と呼びかけたのと同じ期待―と、イエスさまご自身との間にズレが生じます。イエスさまというお方が、人々にとって自分の願いを叶えるスーパーマンのような存在でないことが徐々に明らかになるにしたがって、イエスさまを賞賛していた彼らも、イエスさまを憎み始めます。それは、彼らの勝手な期待―エゴイズムの投影-でしたが、でもその期待が大きかっただけに、憎しみもさらに大きくなりました。そしてついには、「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続け」(27:22-23)、イエスさまの十字架を決定づけることになりました。
 マタイによる福音書8章からここまで続いた、イエスさまの癒しの御業、奇跡の御業を締めくくる、この最後の出来事が、実に不思議な仕方ではありますが、裏切りと失望、嘲りと蔑み、血と苦しみに彩られる、あの十字架への道をはっきりと指し示します。

■痛みの愛
 暗い闇を覗き込むようなこの出来事に続いて、マタイはこう記します。35節、
 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」
 さらに続けて、36節、
 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
 わたしたちが注目しなければならない点、それは、イエスさまが8章から9章まで、いくつもの心を込めた愛の御業をなさったにもかかわらず、その御業を目撃した人々の誰一人、イエスさまのことを正しく理解することがなかったという事実です。
 人々の愚かさと言うほかありません。イエスさまは、わたしたちの愚かさを、過ちを、罪を見抜かれるお方です。しかしそのイエスさまが、わたしたちの、その愚かさと向き合ってくださるのです。
 「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエスさまを悪霊の仲間扱いしたファリサイ派の人々に対して、「なんて馬鹿なことを言う」と反論されてもよかったはずです。しかし、イエスさまはそうはなさいませんでした。イエスさまは、悪をもって悪に報いようとはなさらず、今まで通りに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされ」ます。イエスさまは、なすべきことを為し続けられたのです。
 それは、群衆に対しても変わりません。将来、自分につまずき、裏切り、自分を十字架へと決定的に追いやることになる、言わば「敵のような存在」となる、群衆の悲惨な姿、絶望的な姿をご覧になっても、変わることはありませんでした。 いえ、そればかりか、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」、その姿をご覧になって、深く、激しく心を揺さぶられるという体験をされるのです。
 「深く憐れまれた」という言葉は、あの善きサマリア人が、追いはぎにおそわれ瀕死の重傷を負って倒れていた人を見た時、「憐れに思い」近寄ったと同じ言葉です。ギリシア語によると、「はらわた」「内臓」のことです。その内臓が「痛む」という言葉です。
 わたしたちも時に、激しい同情によって胸が熱くなることがあります。しかし、内臓が痛むほどに、同情を寄せることがあるでしょうか。どこかで防衛反応が働き、これ以上、感情移入するとマズイと思い、少し手前のところで、のめり込まないようにセーブするのではないでしょうか。 Continue reading

★9月5日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『山の頂から見渡せば・・・』イザヤ書40章12~17節 沖村裕史 牧師

■すごい!!
 みなさんにとって、この世の中で一番「すごい」と思われるものはどんなもの、どんなことでしょうか。
 何と言っても、この大宇宙だ、と言う人は多いのではないでしょうか。わたしも、生まれてこのかた、いろんな「すごい」ものを見聞きし、感動し、すごい、すごいと言ってきましたが、満天の星空を仰いだときに思わず口をついて出る、「すごい!」は別格なものだという気がします。
 考えてみれば、もともと、この地球の素材は、宇宙の塵や隕石からできています。今は、いろいろな生き物が繁殖し、複雑な生態系へと進化していますが、その素材となっているのは、もとはといえば、すべて宇宙を漂っていた星くずなのです。つまり、このわたしたちは、星くずでできているのであって、星くずの集まりとして宇宙で生まれ、宇宙で死んでいくわけです。その意味で言えば、人間もひとつの星です。
 そして、宇宙を見上げて、「すごい」と言えるわたしという星こそが、「すごい」という気がしてきます。すごい宇宙を「すごい」と思えるこのわたしが、たしかに、ここで生きていることが、奇跡的な「すごい」ことだ、という気がしてきます。
 実は、この世で最もすごいことは「自分がいる」ということなのではないか。そうです。そのことが、今日のみ言葉で、わたしたちに語られていることです。

■自然
 さて、ここに描かれているイザヤの自然の中には、当時、この宇宙を形づくる要素だと考えられていた「天」と「地」と「山」のすべてが出てきます。その高い山の頂きから「天と地と山」を望む光景が、人々の、そして、わたしたちの視野だけでなく、心を、生き方を、信仰をも、伸びやかに広げてくれます。
 イザヤがこの預言を語ったとき、イスラエルの人々が奴隷としてバビロンに連れ去られてから、五十年という歳月が過ぎ去っていました。人々は過酷な苦役に疲れ果て、すっかり希望を失い、天を見上げることも忘れ、うつむき、自分たちの足元しか見えていませんでした。
 イザヤは、そんなイスラエルの人々の心と目を、広大な自然へ向けさせようとしています。冒頭12節、
 「手のひらにすくって海を量り/手の幅をもって天を測る者があろうか。
  地の塵を升で量り尽くし/山々を秤にかけ/丘を天秤にかける者があろうか。」
 自然は、なんと大きく広く、なんと美しいことだろう、そう賛美して終わりというのではありません。わたしたち人間にそれを測ることができるだろうか、人間の力や知恵は神には到底及ばない、そう教え、最後17節では、こう告げます。
 「主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。
  彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。」
 イザヤはここで、わたしたち人間の限界と、神の比べようのない大いなる創造のみ業を証しするために、そしてまた、わたしたち人間の罪を贖(あがな)ってくださる神の限りない愛と、それを必ず成し遂げてくださる神のみ力への信頼を思い起こさせるために、わたしたちの目の前に拡がる雄大な「自然」への新しいビジョン-新しい理解の仕方を教えようとしています。
 そもそも聖書には、「自然」そのものを意味する言葉がありません。自然はただ「造られたもの」として表現されます。つまり、人や生き物、いのちあるすべてをそのふところに抱く自然は、大いなる神の創造のみ業という出来事の中に定められているのです。
 確かに、大自然-例えば、アメリカのヨセミテ国定公園-の中で、わたしたちが痛感することは、自分の無力と小ささです。
 高い山の頂き近くから、後から登って来る人を眺めれば、その姿はまるで蟻(あり)のようです。雲と風が行く手を遮(さえぎ)り、ときに渓谷で雪が溶けて崩れ、また岩山が唸(うな)りでもすれば、わたしたちは恐れに身が竦(すく)むばかりです。予測することのできない力を秘めた山や海は、人間に自然というものを考え直させてくれます。もはや、美しい、雄大だとだけ言ってはおれません。
 緻密(ちみつ)な測量に基づいて建てられた都市から目を逸らせ、荒々しい大自然に、測ることのできない海や山に目を向けさせて、人間にそれを測りうるかと預言者イザヤが問いかけるのは、造り主なる神にのみ、そのことが可能なのだ、ということを強調するためでした。 Continue reading

8月30日 ≪聖霊降臨節第14主日礼拝≫ 『注文なしに・・・』マタイによる福音書9章27~31節 沖村裕史 牧師

■「ダビデの子」から「主」へ
 27節から28節、「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、『わたしにできると信じるのか』と言われた。二人は、『はい、主よ』と言った。」
 目の不自由な二人がイエスさまに「叫んで」「ついて来た」と記されています。この「叫ぶ」という言葉は、金切り声でどなるとか、絶叫するといった意味を持っています。また「ついて来る」は、仲間として同行するという意味です。大声で叫びながら、イエスさまから離れまいと必死について行く、そんな二人の姿が見えてきます。そしてそこに、彼らの、イエスさまの癒しの力に対する大きな期待、すがるような信仰を窺い知ることができます。
 そんな二人が、家に入られたイエスさまに近寄って来た時、イエスさまはご自分の方から、ひとつの問いを投げかけられます。
 「わたしにできると信じるのか」。
 懸命に、イエスさまの憐れみを求めて叫んでいる二人にとって、それは、確かめられるまでもないこと、言わずもがなのことです。イエスさまはなぜ、そんな問いを投げかけられたのでしょうか。しかしこの問いが、大切な言葉を引き出すことになります。彼らは答えます。
 「はい、主よ」。
 二人は、「はい、ダビデの子よ」ではなく、「はい、主よ」と答えます。するとイエスさまは、二人の目に触れ、「あなたがたの信じているとおりになるように」と癒された、とあります。
 「主よ」という二人の言葉に応えて、「信じているとおりに」と癒されたのです。ということは、イエスさまを「ダビデの子よ」と呼ぶ信仰と、「主よ」と呼びかける信仰との間に、大きな隔たり、違いがあるということです。イエスさまが、「わたしにできると信じるか」という言わずもがなの問いを投げかけられたことの意図が、ここにありました。イエスさまは、そう問いかけられることによって、彼らの信仰を「ダビデの子よ」から「主よ」と呼ぶものへと深めようとされたのです。

■注文なしに委ねる
 では、「ダビデの子よ」と呼ぶことと、「主よ」と、呼びかけることの間にある違いとは、どのようなものなのでしょうか。
 「ダビデの子」は、救い主に対する一般的な呼称でした。「ダビデ」とは、イスラエルの二代目の王、旧約聖書に名を連ねる王たちの中の王、特別な存在でした。福音書の冒頭1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるように、ダビデの子孫から救い主・メシアが生まれる、ユダヤの人々はそう信じ、その誕生を待ち望んでいました。イエスさまの時代、その期待は、政治的な解放者という意味合いを強く持つようになっていました。エルサレムに入城するイエスさまを迎えた群衆の叫びが「ダビデの子ホサナ」-「ダビデの子よ、今、救いたまえ」であったことが、そのことをよく示しています。ローマの圧政下にあったユダヤの人々は、入城するイエスさまの救いに、政治的、民族的解放の願いを込め、そう叫んだのでした。
 二人も最初、「ダビデの子よ」とイエスさまに向かって叫んでいます。しかしその叫びは、人々がイエスさまに期待したものと違ったものとならざるを得ません。なぜなら、二人にとって救いは、政治的解放ではなく、盲目ゆえの苦しみと悲しみからの解放だからです。それを癒していただきたい。二人の声は、「わたしたちがここにいるのを見落とさないでください、目の見えないわたしたちを忘れないでください」と自分たちに注意を引こうと、大きな声にならざるを得ません。
 そのとき二人が口にした「ダビデの子よ」という呼びかけには、イスラエルの民全体の解放者であるという信仰はあっても、今ここにいる一人ひとりのための救い主であるという信仰はありません。「ダビデの子よ」と叫ぶとき、盲目ゆえの苦しみと悲しみからの解放を願う二人の祈りは、ただ虚空に漂うだけの頼りない、空しい響きを帯びることになります。だからこそ、彼らはより大きな声にならざるを得ません。
 その二人の願いをじっと見つめつつ、イエスさまは「わたしにできると信じるのか」と言われたのでした。つまり、「わたしは、世間一般、社会一般の期待に応えるために来た救い主というのではなく、あなたの悲しみに触れ、あなたの苦しみに寄り添い、慰めるために来た救い主なのだ、そのことを信じるか」、もっと短く言い換えれば、「わたしが来たのはあなたのため、それをあなたは信じるか」とイエスさまは言われたのです。「わたしにできると信じるのか」とは、そういう問いでした。
 社会全体が変えられ、救われても、憐れみを求めている一人には、届かないという救いが世の中にはあるものです。例えば、社会全体が解放の喜びに沸いている大勝利の陰で、泣いている戦死者の妻がいるように、一人に届かないような救いが、世の中にはあります。イエスさまは、「わたしは、一人の悲しみに届かないような、そんな大きな救いをもたらす救い主ではなくて、まさにあなた一人に届く、慰めをもたらす救い主として来たのだ。そのことを信じるのか」と言われたのです。
 そしてそのとき、二人は「はい、主よ」と応えます。「ダビデの子」とは言いません。それは、「あなたはわたしのために来てくださいました。そのことを信じます」という意味です。一人ひとりに注がれる、イエスさまの憐れみに、愛にこの身を委ねますという告白です。
 「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という最初の言葉には、「憐れんでください」という、イエスさまに対する注文が付けられていました。しかし、「はい、主よ」、この二回目の告白には、もはや注文はありません。ただ、委ねることだけです。
 それは、イエスさまがわたし一人のために来られた方であることを、彼らが信じたことを意味します。イエスさまが、世直し的な救い主ではなく、わたしたち一人ひとりの苦悩に届く、憐れみの方であることを信じたということです。信じたそのとき、彼らの目が開かれました。彼らは救われたのです。
 とすれば、救いとは、注文を引っ込めて、お任せすること、お委ねすることによって開ける世界、見える世界である、ということです。なぜなら、救いはすでに、イエス・キリストによって、一人ひとりに与えられているからです。

■問いの中に共いてくださる
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8月16日 ≪聖霊降臨節第12主日礼拝≫ 『触れる信仰』マタイによる福音書9章18~26節 沖村裕史 牧師

■喜びから悲しみへ
 「イエスがこのようなことを話しておられると」と語り始められます。
 「このようなこと」とは、「花婿(なるイエスさま)が共におられる喜び」のことです。イエスさまが徴税人や罪人たちと食卓を囲み、そんな喜びを分かち合っていたその時、カファルナウムの町の「ある指導者」が、「わたしの娘がたったいま死にました」と言って、喜びの食卓に死の知らせを運んできます。
 それだけではありません。ここにもう一人、喜びとはほど遠いところに置かれていた、出血が止まらないという病に苦しむひとりの女性が、イエスさまによる癒しを求めにやってきた、という出来事も伝えています。
 喜びの中に悲しみがもたらされる。わたしたちの日常も、時にこうした喜びと悲しみのコントラストに彩られます。

■立ち上がって
 ところで、今日お読みしたと同じ出来事をマルコとルカも書き記しています。特にマルコはかなりの誌面を割いて詳細に書き留めていますが、マタイはそれを大胆に削り、言葉を書き足し、書き変えています。そこに、マタイの信仰が、マタイの信じるイエスさまの姿が浮かび上がってきます。
 その一つ。マルコが「会堂長のひとりでヤイロという名の人であった」と説明する人物を、マタイはただ一言、「ある指導者」とだけ記します。
 会堂は、ユダヤの人々の祈りの場であり、聖書を朗読し、律法を学ぶ場でした。いわば信仰、礼拝、教育の中心です。と同時に、生活共同体の中心的な役割―地方裁判所や福祉事務所といった働き―も担っていました。その会堂の管理責任者が会堂長です。ファリサイ派や律法学者は、いわばプロの宗教家ですが、会堂長は、信徒の代表として、共同体のまとめ役、信仰と生活の両面において模範となる人であり、それにふさわしい教養と資産を有していると目される人でした。
 しかしマタイは、そうした地位と立場にあったであろうこの人に、「会堂長」という「色」を付けることを避けます。そして「ある指導者」とだけ記します。とすれば、この人はもはや特定の誰かではなく、わたしたちの身近にいる誰か、あなたやわたしかもしれません。
 その彼が、今、イエスさまの傍近くにまでやって来ます。それも「ひれ伏して」とあります。懇願をしています。
 「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
 マルコやルカでは、自分の幼い娘が死にそうだから助けてほしいと懇願していますが、マタイは、これを「たったいま死にました」と書き変えています。絶望的状況どころではない。もはやどうすることもできません。
 それでもなお、この父親は、まだ望みはある、まだ何かしてやれることがあるはずだ、と決してあきらめません。あきらめきれないその思いの中で、イエスさまに辿り着きます。そして「ひれ伏し」懇願します。地位も立場もある指導者としての見栄も外聞も、すべてをかなぐり捨てて、懇願をします。
 イエスさまのなさった数々の癒しの業、奇跡の業のことは、すでに町中に知れ渡っていました。しかしその一方で、大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人たちの仲間だといった、良くない評判も聞こえていたでしょう。ファリサイ派や律法学者たちの言動からは、イエスさまを敵視し、警戒する様子が見え隠れしています。そんなときにその足もとにひれ伏すなど、後々やっかいなことになることは言うまでもありません。
 しかし、愛する娘を亡くした彼にとって、そんなことなど、どうでもいいことでした。
 わたしたちは何か問題にぶつかると、それまでの経験や知識、立場や周囲への影響力を駆使して、何とか解決の道を切り開こうとします。しかし時に、そうしたことが全く通用しないことが起こることがあります。この時がまさにそうでした。指導者としての知識も財産も、地位や立場も、娘の死を前にしては、まったく何の役にも立たちません。無に等しいのです。
 彼は、どうしたでしょうか。本当に頼るべきお方としてイエスさまを選び、そのお方に賭けました。すると19節、イエスさまは、何の躊躇もなく、そんな彼のすがるような思いに応えてくださいました。
 「イエスは立ち上がり、彼について行かれた」。
 この何気ない一言が、心深くに突き刺さります。

■立ち止まって
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★8月15日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『欠けてなんかない!』ルカによる福音書4章1~13節 沖村裕史 牧師

■誘惑と試練
 イエスさまが言われていることは、たったひとつ。
 「あなたはもうすでに赦されている、受け入れられている、愛されている」という福音(Good News)でした。
 今日ご紹介をする聖書のみ言葉も、様々な試練や誘惑に遭って苦しみ悩むあなたへの、神様からの福音です。
 今、「試練や誘惑」と言いましたが、聖書では両者に大切な違いがあります。苦しみが「誘惑」となるのは、苦しみに打ち負かされそうな自分に気づいているときです。しかし、この苦しみを自分の揺るがぬ確かさを示す機会とすることができれば、それは意味をもった「試練」となります。
 聖書では、「試練」も「誘惑」も、同じ言葉「ペイラスモス」で表します。たとえば、ゲッセマネのイエスさまが、「ペイラスモス」に陥らないように目を覚まして祈りなさい、と弟子を戒めるときには「誘惑」の意味で使っています。それが「試練」の意味になることもあります。たとえば、ヤコブは、いろいろな「ペイラスモス」に出会うとき、それをこの上ない喜びと思いなさいと教えますが、それは、積極的な意味での「ペイラスモス」、つまり「試練」です。さらにパウロが、神様を信じる者を襲う「ペイラスモス」で耐えられないものはなかったし、神様は「ペイラスモス」と共に、それに耐える道をも備えてくださると説くときにも、それは「試練」の意味です。
 「誘惑」と「試練」との境目はぼんやりとしていて、どちらにも転ぶ可能性を秘めています。

■何ひとつ欠けていない
 イエスさまはご自分の歩みを始めるにあたってまず、悪の本質と向かい合われます。 悪の本質が何であるか、その誘惑や試練の正体が何であるかを知っておくことは、わたしたちが本当に豊かな人生を生きる上で、非常に有益だからです。
 悪魔がやって来て、イエスさまに三つの誘惑をもちかけています。その一つひとつにいろいろと説明されますが、ここでは、ひとつのことを強調したいと思います。それは三つともが要するに、「あなたには今、欠けたものがある」という誘惑だ、ということです。あなたは足りない、あなたは持っていない、あなたは愛されていない、と。だから、それをパンで満たせ、権力や富で満足しろ、本当に愛されているのか試してみろ、そう誘惑するのです。
 そしてそれは、わたしたちが今まで、そして今も受け続けてきている誘惑です。「わたしは足りない」、「わたしは欠けている」、「わたしは値しない」。悪魔はその欠けをあおり、その欠けをこの世の富や力で満たさせよう、と誘惑するのです。
 それに対するイエスさまの答えは、とてもシンプルです。欠けは、神様が満たしてくださる。いや、もうすでに神様はあなたを満たしている。「あなたは何ひとつ欠けていない。神様からいのち与えられた神の子どもなのだから。あなたは何も求めなくても、試さなくても、もうすでに神様の愛の中を生きている」と。言うならば、そんな全面的な神様の愛への信頼こそが、信仰によって与えられる恵みです。

■理想と現実
 今思えば、わたしは両親から愛されて育ち、相当自由に生きてきたはずです。しかしそれでも、中学生になると反抗ばかりするようになりました。口先だけの、生意気盛りでした。当然、叱られることもしばしばです。しかし理屈も理由もなく反発ばかりするのですから、次第に腫れ物に触るようにされます。そうされればそうされるほど、いらだち、傲慢な態度とは裏腹に、心の中は萎縮していきました。親は精いっぱい受け入れようとしてくれているのに、「今のこのままでは愛してもらえない!」という思いが、わたしの心の奥深くに沈殿するように閉じ込められていました。
 思春期に誰もが経験する、飢え乾くようなあの「いらだち」の正体は、一体何だったのか。それは、思春期だけのものなのでしょうか。決してそうではありません。理想の自分と現実の自分、その決して埋まることのないはざまに、すべての悩みと苦しみが渦巻いています。理想の自分がないという人はいないでしょう。それをどの程度強く望むかどうかはともかく、だれでも必ず、心のどこかに理想のセルフイメージをもっています。たとえば健康で、美しく、才能にあふれ、だれからも好かれる、明るい自分。そして、だからこそ、いらだつのです。不健康で、さえない、無能で、嫌われる、暗い自分、つまり現実の自分に、いらだつのです。特に、失敗したとき、失望したとき、失恋したときなんかは、最悪です。甘く夢見た理想の自分は崩れ去り、後には決して見たくなかった現実の自分が取り残されている、そんな現実に耐え切れず、わたしたちはつぶやきます。
 「こんな自分なんか、いないほうがましだ」
 たしかに、人は理想がなければ生きていけません。みんな夢見て、憧れて、少しでも現実を理想に近づけようと、けなげな努力を続けています。それこそが、人間らしさの本質だとさえ言えるでしょう。
 でも、もしもその理想が、人を苦しめ、ついには夢見た当の本人が「いないほうがましだ」と消えてしまうならば、それこそ究極の本末転倒というべきです。自分自身を否定するのではなく、本当はこう言うべきではないでしょうか。
 「こんな理想なんか、ないほうがましだ」
 やることなすことうまくいかず、人からは誤解され、自分の弱さにうんざりする夜更け。わたしは鏡の前に立ち、やつれた自分の顔をまっすぐに見つめて、こうつぶやくことにしています。
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8月9日 ≪聖霊降臨節第11主日礼拝≫ 『新しく生きる歓び』マタイによる福音書9章14~17節 沖村裕史 牧師

■躓き
 冒頭14節、「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」。
 マタイは「そのころ」と語り始めています。この言葉を、口語訳は「そのとき」、新改訳は「するとまた」と訳しています。イエスさまに招かれた人たち―マタイを初めとする、大勢の徴税人や罪人たちとイエスさまが共に食卓に着き、食べたり飲んだりしていました。その様子を見て、ファリサイ派の人々は驚き、躓(つまづ)きました。罪汚れた人と一緒に食卓を囲むことは、その汚れを我が身に受けることです。ファリサイ派の人々は、弟子たちに問い糾(ただ)しました、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。ファリサイ派の人々が問題としたのは、「罪人と一緒に食事をする」ことでした。律法に定められた清浄規定―罪汚れたものと清いものとを厳密に分離するよう定めた掟―を守っていないということでした。
 「そのころ」とは、そのやり取りのすぐ後ということです。
 洗礼者ヨハネの弟子たちもまた躓きました。そしてやんわりと抗議します。
 「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。
 「あなたの弟子たちは」とありますが、これは「イエスよ、あなたは」ということです。また「よく断食しているのに」という言葉は、「いま、断食している」「断食の最中である」と訳せる言葉です。ユダヤの人々は、自分や他人の生活を省み、自らの罪を悲しみ、週に一度ないし二度、断食を行うよう定められていました。ヨハネの弟子たちも、そんな断食をしていたのでしょう。ところが、イエスさまの家からは、実に楽しそうな宴会のざわめきが、ときには歌声までも聞こえてきます。
 彼らが躓いたのは、イエスさまが罪人たちと一緒に食事をしていたからではありません。問題は「断食」でした。
 旧約聖書では、断食は最初、悲しみのしるしでした。みんなで一緒にごちそうを食べることが祝いや喜びのしるしであるとすれば、断食は深い悲しみと哀悼のしるしでした。イスラエル最初の王となったサウルが死んだとき、イスラエルの民は、7日間の断食をしています(Iサム31:13)。断食の時には、粗(あら)布(ぬの)を身に纏(まと)い、灰を被(がぶ)りました。それが後に、古代イスラエル暦の第七の月の十日、贖(あがな)いの日に、犠牲(いけにえ)を献げて自らの罪を告白し、断食と祈りの時を守ることが、イスラエルの人々にとって最も大切な儀礼のひとつとなります。バビロン捕囚以降のことと考えられています。国を失い、遠く異国の地に奴隷として連れ去られるという苦難を受けることになったのは、自分たちの罪の故、その罪を悔い改めなければならない。断食は、その「悔い改め」のしるし、となりました。
 自分の罪を覚え、神の前にそれを懺悔(ざんげ)し、悔い改める、そのことを、食事を断つという行為によって、空腹の苦しみを自分に課し、その苦しみに耐えることによって表しました。それは祈りとも結びつきました。ただ食事を断って空腹に耐えるだけでなく、その間、神に定められた祈りを捧げました。悔い改めの祈りです。断食は、ユダヤの人々の信仰の大切な要素、悔い改めの信仰を表わすしるしとなりました。
 ところが、イエスさまと弟子たちはその断食をいたしません。ヨハネの弟子たちの批判はそのことに向けられます、「なぜ、断食をしないのか」「なぜ、悔い改めないのか」。

■喜びの悔い改め
 イエスさまも断食そのものを否定はされません。山上の説教でも、「断食をするときには」(6:16~)と断食について教えておられていますし、何より、イエスさまご自身が、この世での働きに先立って荒野で四十日四十夜の断食をされています(4:2~)。
 ではなぜ、彼らのように断食をされなかったのでしょうか。イエスさまはこうお答えになります。
 「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。
 結婚の宴(うたげ)という喜びの席に招かれて、断食する愚かな客はいない、ということです。当時、花嫁が婚礼の部屋に到着すると、葡萄酒を伴った祝祷をもって結婚を祝う宴が始められました。その宴は、初婚であれば七日間、再婚であっても三日間続けられることになっていました。招かれた「婚礼の客」の務めは、新郎・新婦と宴を共にする間、大いにその席を盛り上げることです。ユダヤの規定にも、その義務を果たすために、宴の時をはずして断食をするようにと定められているほどです。
 「まさに今は喜びの時であり、断食はその喜びの時にふさわしくない」。
 イエスさまはそう言われるのです。「今は喜びの時だ」と言われます。「悔い改めなさい。天の国は近づいた」(4:17)と宣言された福音―喜びの知らせと同じ響きを持つ言葉です。「今は喜びの時」「今こそ救いの時」、「今がその時だ」と言われます。
 イエスさまにとって、まことの悔い改めは、悲しみではなく、むしろ喜びをもたらすものでした。断食の悲しみによって、救いの喜びが生み出されることはありません。ペトロ、重い皮膚病の人、中風の人、徴税人マタイたちがそうであったように、あまりにも大きな神の愛と恵み、それゆえに、自分が本当に罪深いということが分かるのです。
 わたしたちの罪深さは深刻です。「あなたはあんなひどいことをした」「こんなこともやったじゃないか」と言われて、本当にひどいことをやりましたと言えるほど、人は素直ではありません。そんなに簡単なものではありません。「謝ったら赦してあげる」と言われて、赦されたことも、赦したこともない、それがわたしたちの現実です。
 驚くほどの大きな愛と恵みに包まれたとき、あるいは、思いがけない祝福と奇跡が示されたとき、いいえ、「もうあなたの罪は赦されている」と「悔い改めに先立つ赦し」が与えられたからこそ、ペトロもまた「わたしは本当に罪深い者です。イエスさま、わたしから離れてください」と、まことの悔い改めをすることができたのではないでしょうか。悲しみをたたえた、暗い顔で自分の罪を悔い改めるから、赦され、救われるのではありません。まず赦され、救われるからこそ、喜びと感謝をもって心から悔い改めることができるのです。 Continue reading

8月2日 ≪聖霊降臨節第10主日/平和聖日礼拝≫ 『偽りのない愛―平和への祈り』ローマの信徒への手紙12章9~21節 沖村裕史 牧師

■ふたつの憎しみ
 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」
 戦後75年という節目の年、戦争を体験した方々の高齢化が進んでいます。ちなみに、昨年亡くなった被爆者は全国で9254人、被爆者の平均年齢も83.31歳となりました。戦争の「記憶」が薄れるその一方で、力に力をもって対抗することを前提とした改憲論議が頻繁に話題に上り、報道されています。
 そのような中だからこそ、パウロの言葉が心に深く染み込んできます。
 「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。
 神戸で暮らしていた、ひとりの少年が書き残した一文です。
 「雲の切れ目は早、夏空だ。わたしの頭の中に浮かんでくるのは神戸のこの季節。六甲山の緑は色濃く、広がる海が懐かしい。十四歳の六月までわたしは神戸の地で育った。当時、神戸は最もハイカラな街だった。神戸元町の一角に洋菓子店があった。『ユーハイム』。この店は神戸の人間にとって誇りであった。ここの洋菓子は日本で一番美味しいと言われていた。昭和十五年、戦争が激しくなるとともにユーハイムは閉店した。神戸の灯が消えた。…(略)…
 昭和十九年春、父と母は養女を迎えた。わたしは中学二年十四歳。学校から帰ると生後二週間目の恵子が祖母に抱かれていた。痩せた小さな赤ん坊だった。目鼻立ちは整って、これは美人になると思った。…(略)…
 六月五日。その日の大空襲は神戸を焼きつくした。父は死に、母は大やけど、わたしと恵子だけが焼け跡に残された。それはちょうど夏至を過ぎた頃だった。二人がいた場所は貯水池と、そこから流れ出る小川があり、夜には無数の蛍が飛びかって草の間を薄く照らしていた。
 焼け出されたわたしは福井県春江町に逃げた。…(略)…そこには戦争の影はなかった。駅から三十分位の所の紡織工場跡にゴザを敷いて寝ていた。すべてをそこで賄った。あたりは静か、嘘のようにのんびりしていた。わたしは何も考えず、というより先のことは考えられずただ日々を過ごしていた。助けてくれる人は誰もいない。皆自分の事で精一杯。他人を顧みるゆとりなどなかった。だが恵子を負担に思ったことはない。おしめの替えも当然少ない。まめに貯水池に浸し洗って木の枝にかけ風で乾かす。夜寝る時は知ってる限りの子守唄を歌う。ただ、食べものだけはいかんともしがたく、また赤ん坊にふさわしいものなどない。春江の配給所で焼け出され者用の米の配給があった。わたしも並んだ。量は少ないが紛れもない白い米。その白い米が袋の破れ目から、水の流れる溝にこぼれた。もったいないと思うより、ゆらゆらと水に沈んでいくさまは何とも美しく、わたしはただ見とれていた。わたしに出来るのは精々が、お粥、おじやぐらい。見様見真似で作ったおじやを妹に食べさせるつもりが、つい自分で食べてしまう。米粒は自分、その他を恵子の口に入れる。悪いと判りつつ、これの繰り返し。恵子はたちまちと骨と皮に痩せた。…(略)…
 昭和二十年、八月二十一日。川から川へ薪を拾いに行って帰ると、妹が死んでいた。涙は出なかった。…(略)…福井市は空襲を受けたが、春江町は焼けていない。屋根が続き、田畑は青い。辺りはごく普通の生活が営まれている。あくまで静かだった。わたし一人あたり前じゃない。あたり前のところへ戻ろうと思った。しかし戻り方が判らない。妹はわたしが火葬した。
 ある限りの力をふりしぼって生きてきた。そして戦争はわたしからすべてを奪い去った。夏のよく晴れた日、今でも恵子を想う。何十年経っても、いたたまれない気持ちはうすれない。
 敗けてひと月目。ひと月前まで一億一心撃ちてし止まん、鬼畜米英が食いものを持ってやってきた。一転、人類の味方に変わった。すべての日本人が歓迎したわけでもないが、まず生き永らえたと実感、アメリカ憎しより食いものが先。いつの間にかその憎しはふっ飛び、憧れのアメリカになった。わたしが初めて目にしたのは九月十七日。神戸三ノ宮駅周辺を歩く二人の進駐軍の後ろ姿。当時の日本人はみな小さく、おしなべて栄養失調気味。やせていた。ひきかえ彼らはとにかくでかい。赤い顔の大男。恐かった。すでに自分もアメリカからの物資、大豆やとうもろこしを口にしていた。しかしわたしは味方とは思わず、隙あらば殺そうと思っていた。何といっても、相手は最愛の父を殺し家族をバラバラにした。わたしの人生を踏みつけ壊した。その憎しみは忘れることができない。しかしふた月前に焼け出されたままの格好でふらふら歩くわたしに出来るはずもなかった。」
 少年の名は野坂昭如。ご存じアニメ映画の名作「火垂るの墓」の原体験を綴ったものです。
 戦争は、わたしたちの体ばかりでなく、わたしたちの心に、わたしたちの人生に、拭いがたい大きな傷跡を残します。そして、その痛みゆえに、そこに愛が、平和への希求が生まれる、と言うことができたらどれほどよいでしょうか。しかしそのようなときに、わたしたちの心の中に生まれるものは、愛ではなく、憎しみでした。それが現実です。「隙あらば殺そうと思っていた」と語る、この少年の憎しみは、彼一人のものではありません。
 広島の一人の牧師が、自身の被爆体験をもとにこう語っています。
 「原子爆弾は怖るべき武器だった。…しかし戦争を一層悲惨なものにしたのは人間の憎み争う心だ。これまでに誰も経験をしたことがないほどの、前代未聞の大きな爆撃を受けたにも関わらず、広島の人々は参ったとは言わなかった。いや、犠牲が大きければ大きい程、徹底的な復讐を誓った。ここに戦争の愚かさ、恐ろしさ、救い難い残忍さがある」と。
 憎しみが憎しみを生み、暴力が暴力を生み、偽りが偽りを生み出すことは、誰もがよく知っていることです。それでも、わたしたちはその負の連鎖から容易に抜け出すことができずにいます。言葉では到底言い表すことのできないほどの戦争の酷さと悲惨さによって絶望を味わったはずなのに、わたしたちの心は、今も、偏見と差別、暴力と争い、何よりも憎しみと復讐に支配されています。世界の各地で争いが絶えず、わたしたちの国も、力に対抗するためには力しかないと、自衛という名の軍事力の行使を公然と可能ならしめようとしています。それは国と国との争いばかりではありません。家庭の中にも、学校の中にも、会社の中にも、地域社会の中にも、目を覆いたくなるほどのものから、心密かなるものまで、憎しみやいさかいが渦巻いています。

■偽りの愛
 そんなわたしたちに、今パウロは、「愛に偽りがあってはならない」とわたしたちに語りかけます。偽りの愛に生きてはならない、と。 Continue reading

★8月1日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『さあ、新しくやり直そう!』ヨハネによる福音書11章17~44節 沖村裕史 牧師

■ラザロは、今もここに座っている
 島崎光正という詩人を知っていますか。第一回黎明賞(長い道の会)を受賞。日本現代詩人会会員である彼が、八十歳になった自分の生い立ちをこう書き残しています。
 「私は1919年、大正の半ばに福岡の市(まち)でこの世に誕生をみた者である。父は、そちらの大学を出て間もない若い医者だった。ところが、父はそれから一か月後には早くも世を去っている。患者から感染したチブスが原因だった。それからの私は、長崎から嫁いできていた母とも生別れとなって、父親の遺骨と共にその郷里であった信州の田舎に帰り、祖父母によって、ミルクで育てられた。厩(うまや)の跡が平屋の一角に残っていた農家である。
 父の私への遺産とては何もなかった。ただ、光正という創世記の冒頭から借用したかのような私の名前は、自分で考え、原籍のある田舎の村役場に届けるべく、祖父に依頼をした手紙が今も残っている。但し、父みずからは聖書には無関心だったようである。
 それと、どうしたわけか父が使っていたらしい医療器具のメスのセットが福岡から誰かが持ち帰り残されていた。それは大正時代の古い様式のもので、柄(え)は木製のものだった。少年時代となってそれを見つけた私は、生れつきに負った二分(にぶん)脊椎(せきつい)の障害から、変則的な歩行がもとで足の裏に出来やすかったマメを、玩具(がんぐ)がわりのそのメスを使って削った。ふとそれも、父の遺産を感じた。
 こうして、足を引きながら成長した私だったが、村の小学校に通うようになってから、そこでキリスト者の校長と出会い、村人の言い慣わしに従えばヤソの名前を知った。厩の跡に近い軒下(のきした)には季節になると燕(つばめ)がしきりに出入りしては雛(ひな)を育て、歳月をつもらせる。のちに、松葉杖と長靴に頼ることとなり白樺人形を刻むようになった私は、育ての親であった祖父母とも死に別れた時期に遭遇する。つくづくと人間の弱さと頼りなさを味わったあげくを、ヤソの校長がなお健在でそこにいた松本の教会で洗礼を受けた。敗戦後の、三年目の夏のことである。
 それは私にとって、古い罪の人間に死に、墓から呼び出された出来事であったに相違なかった。
 けれど、それからの歳月の中で、いくたびその墓の中に帰ってゆくことを繰り返しがちであったことだろうか。人からは見られない、洞穴(ほらあな)の心安さもそこにはあったからである。だが、その都度呼び戻されたのは、よく気がつかないままに、先(せん)達(だつ)としてのラザロの姿が重なっていたためかも知れない。
 私は今も、足の裏のマメが何時しか褥(じょく)瘡(そう)にかわって包帯に親しむこととなり、治療のためにそれをほどきながら、そのことを思う。ラザロが布をほどかれた時にも、そのように墓の外で、光にさらされていたのだと。」
 島崎は、この後、自らの「琴」という詩を記した後に 、こう付け加えています、「ラザロは、今もここに座っている」と。

■ラザロ、出て来なさい
 そのラザロが、「墓に葬られて既に四日もたっていた」と書き始められています。
 わずかに残された希望は、手の中からこぼれ落ちるようにして消えていきました。今はもう、悲しみを受け入れるべき時、慰めを受けるべき時となっていました。たくさんの人がそのために集まっていました。イエスさまのあまりにも遅すぎる到着に、人々は冷(ひ)ややかな、そして非難を込めた視線を向けます。誰もイエスさまに期待をしていません。
 もうすでに終わってしまったことなのです。
 ここに描かれている出来事は、その終わったところから始まります。
 わたしたちは、自分たちをめぐる状況が、そして自分自身が、いろいろな意味で手遅れになっていくように感じ、焦り、やがて諦めてしまいます。残された希望を過去へと追いやり、わたしたちから意欲と勇気を奪い取っていく、「時間」の力はあまりにも強く、誰もそれに抗(あらが)うことはできないかのように感じています。
 わたしたちの目には、いろいろなことがもはや手遅れになってしまっているように見えるのです。しかしそのように「見える」のは、わたしたちにとってであって、神にとってではありません。イエスさまに手遅れということはありません。神は、そして御子イエスは、どのような状況からでも、新しく始めることのできるお方です。わたしたちにも、何度でも、新しく始めることを求め、またそのために助けてくださるのです。
 43節、「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」
 この言葉は、今ここにいるわたしたちにも、墓から出るように、という招きとなり、促(うなが)しとなり続けています。
 それなのにわたしたちは、あまりにも簡単にあきらめてはいないでしょうか。期待することを、やめてはいないでしょうか。どうせもう、どうしようもない、と。わたしたちも、ラザロのように闇の中に死んでいます。愛されたい、かまわれたい、理解されたい、認められたい……そういう願いがわたしたちの誰の中にもあります。それが満たされないと、どんなにお金があって、子どもの成績がよくて、健康で、何不自由ない生活に見えても、心はボロボロになって、生きている喜びが感じられなくなってしまいます。
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7月26日 ≪聖霊降臨節第9主日礼拝≫ 『食卓への招き』 マタイによる福音書9章9~13節 沖村裕史 牧師

■福音を思うとき
 先週、中風の人の癒しの出来事を通して、イエスさまが宣言されたことは、「あなたの罪は赦されている」ということでした。「神の支配が近づいています。神の愛の御手が今ここに差し出されているのです。だから、あなたの罪はもう赦されています。あなたは救われているのです。ほら、あなたの救いが、床に寝かせたままで連れてきたあの人たちの、その愛の業の中に表れています」。イエスさまはこの福音をわたしたちに示されたのでした。
 この福音を思うとき、いつも懐かしく思い出す人がいます。祖母です。
 わたしには祖母から叱られた記憶がありません。思い出すのは、優しいまなざしで見守ってくれる祖母の笑顔だけです。祖母が幸せで満ち足りた人生を歩んだというわけではありません。戦時下に夫を失い、五人の子どもを抱え、身を粉にして働き続けた祖母です。でも、そんな苦労を全く感じさせない祖母でした。
 わたしの方といえば、悪いことや失敗をしては、いつも叱れてばかりいる子どもでした。叱られても、決して「ごめんなさい」と言わない意固地な子どもでした。悪いことをしたなとは思っても、叱られるのが嫌で言い訳ばかりするわたしに向かって、大人たちが言う言葉はいつも決まっていました。「まず、ごめんなさいだろう。そうすれば、赦してやる」。でも、それを真に受けて「ごめんなさい」と言ったとしても、「本当にごめんなさいと思っているのか」とさらに叱られ、時には、昔のことやそのほかのことまで引き合いに出されながら、延々と責められ続けるだけでした。叱っている大人がどう思っているかはともかく、なんだか生きていること自体が悪い、そんな気持ちになることさえありました。
 頑固で、手のかかる子どもだったはずです。実際、ずいぶん困らせもしました。それでも、祖母は一度も怒ったことはありません。そんな祖母の家に行くときは、バスに乗って、ちょっとした遠足気分です。家につくと大好きなオムライスが出てきます。それなのに、じっとおとなしくできません。調子に乗って、ヤンチャをします。「あっ、またやっちゃった、叱られる」、そう思いながらそっと祖母の顔色を窺(うかが)うと、祖母は「まあまあ」と言いながらも、いつもと変わらず優しく見つめています。それをいいことに、さらに調子に乗って悪さを続けていると、ふと少し悲しそうな顔をします。優しくて大好きな祖母の悲しそうな顔を見ると、たまらなくなります。思わず、心から、本当に素直に「ごめんなさい」と言っていたことを思い出します。なぜそうすることができたのか。それは、祖母がわたしのことを愛してくれている、そして、必ず赦してくれる、そう信じていたからです。
 わたしたちの社会は、非難と告発に満ち満ちています。人と人がきちんと向き合うことによってではなく、過ちや罪に対して相応の罰を与えることによって、社会の秩序―人と人との関係を維持しようとします。法廷では、被害者は加害者の罪を暴き立てより重い罰を求め、加害者は加害者で様々な理由を申し立てて罰を少しでも軽くしようとします。そこに「裁きと罰」はあっても、「赦し」などありえません。そんなところに、心からの「悔い改め」が生まれようはずもありません。当事者の間には、いつまでも消えない憎しみと苦しみだけが残ります。もちろん、すべてがきれいさっぱりというわけにはいかなくとも、それでも、罪の赦しと悔い改めによってもたらされる「和解」への希望がなければ、本当の「平安」が生まれるはずもありません。
 裁判だけのことではありません。わたしたちの日々の生活でも同じことです。必ず赦してもらえる、それでも愛されていると信じることができて初めて、本当の悔い改めと平安が、自分のそれまでの生き方を全く新しく生き直そうとする心からの回心と希望が与えられるのではないでしょうか。

■立ち上がって、従った
 9節、「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 ガリラヤ湖畔の町、カファルナウムでのことです。ペトロたちを弟子に召された時と同じように、「通り過ぎていく」その時、イエスさまは収税所に座っている、マタイに声を掛けられます。「わたしについて来なさい」。
 するとマタイは、すぐに立ち上がり、イエスさまの後について行きます。マタイに、少しの躊躇(ためら)いも見られません。なぜなのでしょう。
 彼も、中風の人が癒された時に告げられたイエスさまの言葉―神の国がもうすでに来ていること、罪の赦しと救いが今ここにもたらされているという宣言を、耳にしていたのかもしれません。
 いえ、それだけではありません。「見かけて」―イエスさまがマタイを「見た」とあります。この「見た」というギリシア語は、「分かる」「理解する」という意味を持つ言葉です。ただ、ぼんやりと見たというのではありません。マタイという人を知って、理解し、受け入れたということです。マタイは、あるがままの一人の人間としてまっすぐに見つめる、イエスさまの柔らかなまなざしに気づき、立ち上がり、従ったのではなかったでしょうか。
 「あるがままの一人の人間として見られる」こと、それはありえないことでした。なぜなら、マタイが徴税人だったからです。
 カファルナウムは、ヘロデ・アンティパスの領地とヘロデ・フィリッポスの領地の境に位置する街です。徴税人マタイは、その境にある収税所、日本風に言えば関所で、領地内へ持ち込まれようとする品物を対象に関税を徴収する仕事に従事していました。
 当時の税の徴収方法は請負制です。一定の地域、一定の期間、一定の額の関税の徴収を請け負います。実際の徴収実績がそれを下回ったときは、自腹を切ってそれを埋め合わせしなければなりません。その代わり、請負額を越える分については自分の収入とすることが許されました。結果、自分の収入を増やすために様々な不正が横行していました。徴税人は、不正な手段で不当に搾取する者、嫌われ者でした。それだけではありません。ユダヤはローマ人の支配下にあります。当然、徴収されるその税金の支払先はローマです。ローマの支配に多かれ少なかれほとんどのユダヤ人が不満を抱いていました。ところが、同じユダヤ人である徴税人がローマ帝国の力を笠に着て、自分たちの血と汗の結晶を搾り取るのです。人々は、憎しみと蔑(さげす)みのまなざしを向けていました。しかも、ユダヤ人はきわめて宗教的な民族です。真の神を信じない異邦人を主人として仕え、しかも穢れた異邦人と富に接触する機会の多い徴税人を、宗教的に汚れた者と見なしていました。
 11節に「徴税人や罪人」とあるように、徴税人マタイは、罪人と並び称される、幾重にも罪深い、人々から忌み嫌われる存在でした。逆を言えば、ユダヤ社会にあって、二重にも三重にも疎外され、除け者にされ、蔑まれる、深い孤独と闇の中に生きる他なかった人でした。
 そのマタイを、イエスさまは弟子に招かれたのです。
 だれもが、その体に触れぬよう離れ、距離を取って、避けよう避けようとする。その中にあって、イエスさまだけが、まっすぐなまなざしを向け、近寄り、声をかけ、わたしのところに来なさいと招いてくださったのです。この招きを受けて、マタイが躊躇(ためら)う様子も見せず従ったのは、イエスさまの方からマタイに近づいて来られたからであり、そして、とげとげしい、険しいまなざしではなく、穏やかでやさしいまなざしでイエスさまがまっすぐに見つめてくださったからです。 Continue reading

7月19日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫ 『愛されて、赦されて』 マタイによる福音書9章1~8節 沖村裕史 牧師

■その人たちの「信仰」を見て
 イエスさまは、ガダラ人の地を離れ、ガリラヤ湖を渡り、第二の故郷カファルナウムに戻って来られました。その時のことです。
 「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。」
 この時の様子を、マルコとルカは、マタイよりも詳しく描いています。 しかしマタイは、そうした状況説明の一切を省きます。そしてひと言、
 「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた」
 そう書くだけです。
 そうすることで、マタイは「罪の赦し」という一点に視線を集中します。
 そのきっかけとなったのは、「その人たちの信仰」をご覧になられたことでした。イエスさまはここで、何をご覧になっていたのか。マルコやルカによれば、屋根をこわして、病人を吊り降ろす四人の男たちの行為を見て、です。乱暴で、人の迷惑も考えない、直情的な行為です。マタイによれば、寝たきりの人を床(とこ)に寝かせたまま、連れてきたことです。そのどこに、「信仰」が見えたというのでしょう。少なくとも、わたしたちがイメージするような信仰深さや信仰的な態度は、ここにはまったく示されていません。
 イエスさまが、この人たちの中に見た「信仰」とは、いったい何なのでしょうか。
 何度かお話をしてきたことですが、「信仰」と訳された言葉の意味について確認しておきたいと思います。ギリシア語のピスティスという言葉、これを「信仰」と訳すことに、わたしは違和感を持っています。日本語訳の聖書はいずれも、ピスティスを「信仰」と訳します。でも、この「信仰」という日本語は「信じ仰ぐこと」と書く通り、何かを信じて仰ぐ態度、あるいはその行為を表わすものです。一方、このピスティスを辞書で引くと、最初に「信頼や信仰を呼び起こすもの」と記されています。ピスティスは、何かを信仰するというよりも、むしろ、誰かから信頼され、信用されるに足る事実、現実、有様を指す言葉のようです。「本当に信ずるに足る確かなもの」「疑う余地のない事実」「誠実で信頼の置ける態度」「見るからに本気で、一途で、ひたむきなさま」といった意味の言葉です。
 ちなみに、旧約聖書のエムーナーというヘブライ語が、このピスティスに相当しますが、旧約聖書の日本語訳では、エムーナーという言葉は「真実」とか「まこと」とか「確かさ」という日本語に訳され、驚くべきことに、「信仰」という訳はほんの数回しか出てきません。それが新約聖書になると、なぜか、繰り返し「信仰」という日本語が使われます。しかもそのほとんどは、旧約聖書のエムーナーと同じく、「信仰」と訳すよりも、「信実」とか「まこと」、それがわかりにくければもっと噛(か)み砕いて、「誠実さ」「確かさ」「ひたむきさ」と訳す方が自然に思えます。
 ここも、「彼らの信仰を見て」ではなく、「彼らのひたむきさを見て」と訳すべきでしょう。イエスさまならきっと癒してくださる、そう深く信頼している彼らの姿、態度を見て、また、寝たきりの人をその寝床ごと運んで連れてくるほどに、その人を癒していただきたいと願う、彼らの切実な愛を見て、つまり、彼らの誠実で、ひたむきな愛の姿、愛の業を見て、イエスさまは「あなたの罪は赦される」と言われたのでした。

■「罪の赦し」のしるし
 それにしても、「あなたの罪は赦される」というこの言葉は、そこに居合わせた人々の意表を突くものだったのではないでしょうか。なぜなら、彼らの願いは、ただ病が癒されることだったからです。ところが、イエスさまは、そうはなさらず、「罪の赦し」を宣言されます。ちょっとしたすれ違いが起こっているようにも見えます。
 それともイエスさまは、この病は罪の引き起こした結果であると考えて、その赦しを宣言されたのでしょうか。そんなはずはありません。ヨハネによる福音書9章の冒頭、目の不自由な人について言われた、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」というイエスさまの言葉からすれば、何らかの罪ゆえにこの人が罰として病を患っている、そう考えておられたとは到底思えません。
 わたしたちは、この人そのものの姿に、深く注目しなければなりません。彼は身体(からだ)が麻痺(まひ)しているため、働くことはもちろん、日々の生活の中で自分ができることなど何一つとしてありませんでした。それは、単なる病人というのではなく、その全存在が鉄のような縄目に縛られ、深い闇の中にとじ込められていた、そう言うほかない状況です。しかもユダヤ教社会では、そのような不幸を罪の結果と見る、因果応報の考えが浸透していたため、世間の人々からの断罪のまなざしに晒(さら)されていたに違いありません。いわば、死の呪縛(じゅばく)に閉じ込められた、そんな存在でした。
 イエスさまによる「罪の赦し」の宣言は、この縄目を断ち切り、そのいのちを死の呪縛から解き放ち、いのちの尊厳、かけがえのなさを取り戻すものでした。この人は、神の裁きによって打たれていると、世の人々は見たかも知れません。そして、この人自身もそう思い込み、自分を蔑(さげす)み、悩み苦しんでいたことでしょう。しかし、そうではない、あなたは神の赦しにあずかっている。そうイエスさまは宣言されるのです。
 イエスさまは、あらゆる癒(いや)しの業を通して、「時は満ち、天の国は近づいた」という福音を、つまり、神の愛による支配を宣言し、今ここの出来事としてそれを示そうとしてくださるのです。「罪の赦し」は、「天国行きの切符を取得する」というようなものではありません。「罪赦される」とは、破壊された人と人の関係が回復され、孤立していた人が神によって健やかな関係の中に引き戻される、ということ以外の何ものでもありません。中風の人が、彼をなんとか助けようとする人たちに運ばれ、イエスさまの前に置かれているという愛の業それ自体が、彼の罪が赦されているということのしるしであり、この場面そのものが、神の国―神の愛の御手がここに差し出されていることのしるしなのです。
 辞書によれば、罪と訳されるハマルティアの意味として第一に挙げられているのは、「罪」と並んで「(罪深い)行為」です。罪とは、単なる概念ではありません。それは何よりも、具体的な行為です。聖書は、人と人との間に生まれる、差別やむさぼり、傷つけ合いや殺し合い、尊厳の蹂躙(じゅうりん)、そういった愛の業に対立する行為を「罪」と考えているようです。
 神に逆らうことが罪であるという考えが間違いと言うのではありません。その意味で、罪ゆえに裁くことも、その罪を赦すことも、それができるのは神のみであるということも間違いではありません。しかし、であればこそ、裁くことも赦すことも、人がなすべきことではありません。それはすべて、神に委ねる他ないことです。しかも、聖書に繰り返し語られる神は、「裁きの神」であるよりもむしろ、「赦しの神」です。それなのに、世間の人々が、律法学者が、この人は罪人だと裁くとすれば、それは愚かなこと、それこそ「罪」です。
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★7月18日 ≪土曜礼拝―Saturday Worship≫ 『何もかも知った上で・・・』ヨハネによる福音書21章15~19節 沖村裕史 牧師

■本当ですか?
 教会で結婚式をするとき、喜びの中にいる二人に、こんな約束をしてもらいます。
 「あなたはいま、この方と結婚することを神の御旨と信じ、今から後、幸せな時も災いに遭う時も、豊かな時も貧しい時も、健康な時も病気の時も、互いに愛し、敬い、仕え、共に生涯を送ることを約束しますか」。
 牧師であるわたしが、そう尋ね、それぞれに「はい、そう信じ、約束します」と答えていただきます。
 さて、ここで想像してみてください。あなたが「はい、そう信じて約束します」と答えた時、もし、牧師であるわたしが「本当ですか?」と問い返したら、どうなると思われますか。そしてあなたが「本当です!」と答えた後で、さらにもう一度、「本当に本当ですか?」と、わたしが聞き直したらどうなるでしょう。だれも教会で結婚式を挙げようとは思わなくなるかもしれません。いえ逆に、だからこそと思うカップルもおられるかも知れません。
 こんなことを聞いたことがあります。
 「わたしは、結婚式の時に、本当に牧師からそう聞かれてしまいました。わたしのことをよくご存じの方でしたからでしょうね。思わず『本当です』と答えましたが、妻は今も、そのことを口にします。でもその時、さらに重ねて問われていたらどう答えたでしょうね…」。
 幸いにも、笑い話ですみました。

■悲しくなった
 しかし、今ここで、それと似たようなことが起こっています。
 イエスさまがペトロに向かって三度、「あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになり、そのたびにペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。そして三度目に問われた時、「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあります。
 「悲しくなった」。ニュアンスのままに訳せば、「情けなくなった」です。自分の言うことを信じてもらえないのか、ということです。イエスさまに問われ、答えているうちに、ペトロは、かつて自分がイエスさまに言った言葉、自分のとった行動を思い出していたのかもしれません。
 イエスさまが十字架につけられる、前の晩のことでした。最後の食事を弟子たちと共にとっていたイエスさまが、ペトロに向かってこう言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と。すると「ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう』」(13:37-38)。
 事実、イエスさまの言葉どおりになりました。
 「イエスを知らない」と言ったのが三度。
 「わたしを愛しているか」と問われたのも三度。
 「悲しくなった」というこの言葉の背後には、そのことを思い出していたペトロの、身のすくむような思いが込められているのでしょう。
 「ああ、この方は覚えておられる」
 イエスさまに「裁かれている」という思い、イエスさまに「試されている」という思いです。だからこそと言うべきか、あるいは、それにもかかわらずと言うべきか、ペトロの三度目の答えは、それまでの答えにはなかった言葉で始まっています。
 「主よ、あなたは何もかもご存じです」。

■何もかも知った上で…
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7月12日 ≪聖霊降臨節第7主日礼拝≫ 『憎しみから解き放たれる』 マタイによる福音書8章28~34節 沖村裕史 牧師

■ガダラという町
 「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。」
 イエスさまはカファルナウムを後にし、家族や故郷の安穏(あんのん)とした空気の中にとどまろうとする思いを断ち切るようにして、異邦の地へと船出されました。目指す先は、「向こう岸のガダラ人の地方」、ヨルダン川東岸、古来よりアンモン人の住む異邦の地で、そこでは豚飼いたちが無数の豚を飼育している、と言われています。ユダヤ人から見れば、受け入れることも交わることも難しい、汚れた罪人たちが住んでいる土地でした。しかし、イエスさまは今、激しい嵐を乗り越えてまで、あえてそこに渡られます。
 ガダラは、ガリラヤ湖畔の南東に位置する町です。マルコとルカは、この地を「ゲラサ」と呼んでいます。しかしゲラサは、デカポリス地方、ガリラヤ湖の南東55キロにある内陸の町です。舟で渡られたことを考えれば、マタイの言う「ガダラ」の方が正しいのかもしれません。もともとは、カナン人やペリシテ人の町でしたが、時代に翻弄され、目まぐるしく入れ替わる支配者に翻弄され、搾取され、幾度も戦争に巻き込まれてきました。
 聖地を巡る旅行に参加された方から、このゲラサやガダラのことをお聞きしたことがあります。いずれの町にも大変立派な遺跡があり、ギリシア風の都市として栄えていたことが伺えるものだった、とのことでした。今朝の話だけを読んでいると、ガリラヤ湖の向こう岸の、豚しか住んでいない辺鄙な田舎に行ったかのように錯覚してしまいがちです。しかし当時、この地は圧倒的な軍事力に踏みにじられた、しかし文化的にも、経済的にも豊かな地域でした。
 そして今も、ガダラの町をはじめとするデカポリスの町々は、ヨルダン王国に属し、イスラエルから追い出されたパレスチナ難民、またシリアやイラクから逃れてきた多くの難民を抱える地域となっています。そこには、戦争や紛争の傷が深く刻まれ、軍隊によって土地や家や肉親を奪われた人々の怒りや悲しみがあふれています。その地は、今も、憎しみと暴力の連鎖に支配された悪霊が多くの人々にとりついている、そう言えるのかも知れません。

■悪霊に取りつかれた二人
 舟を下りたイエスさまのところに真っ先にやってきたのは、その悪霊にとりつかれ、戦争の傷と悲しみ、怒りをにじませる、二人の男たちでした。
 その姿を、マルコが詳しく書き留めています。
 「墓場に住みついており…鎖をもってしても彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまった…彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」
 墓は不浄な場所、汚れた悪霊の住処です。彼らは、その墓場に自分から住み着いたのでしょう。周りの人が墓場に追いやり、縛り付けておこうとしても、鎖を引きちぎるほどの力を持った彼らです。鎖を引きちぎり、行きたいところ、快適なところに行くことができたはずです。彼らはきっと、自分から暮らしていた町を捨て、家を飛び出し、墓場に住み、自分の体を石で打って傷つけ続けるほかなかったのでしょう。それが、どんなに悲しく、つらいことであったのか、マルコの文章は彼らの姿をよく伝えています。
 しかしマタイは、それをたった一行の言葉で表現します。
 「非常に狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほどであった。」
 たったこれだけです。墓場に住むこの人たちがどんなに苦しみ叫んでいたか、どんなに自分を傷つけていたかということには一言も触れません。ただ、彼らがどれほど狂暴であったか、そのため、だれもその辺りの道を通ることもできず、周りの人にどれだけ迷惑をかけていたことか、そのことだけを伝えます。
 しかしそうすることでかえって、禍々しいほどの暴力の姿がはっきりと浮かび上がってきます。暴力そのものといってよい彼らは、人々にとってはもはや、恐怖の対象でしかありません。彼らに近寄る者など、だれ一人いません。だれかに触れられることも決してなかったでしょう。嫌われ、疎んじられ、除け者にされます。そうされればされるほど、ますます頑なになり、憎しみを募らせ、暴力を振るうようになります。だれもその辺りの道を通れなくなります。そうすることで、ますます遠ざけられます。
 一人の若い精神科医が、病院に勤務するようになって最初に衝撃を受けたことは、三十年も四十年も入院している患者がいるという現実であった、と語ってくれたことを思い起こします。心の病のために暴力を振るうようになり、家族が限界を覚え、入院したものと思われます。でもそのあとも、家族が不安を覚え、家に帰ることができません。そのうち、親も高齢になり、そのため、人生の大半を病院で過ごすようになった人がおられるのです。そう話してくれました。事実、わたしの関わりのある人も、四十年近く入院しています。二十代の時に入院していますから、人生の三分の二は入院生活です。墓場を住みかとしている人というと、わたしはいつも、その人たちのことを思い浮かべます。
 恐れが恐れを、憎しみが憎しみを、暴力が暴力を生み出してしまう。そんなわたしたちの罪深さをマタイは、「狂暴で、誰もそのあたりを通れないほどだった」という、この一言に込めているのではないでしょうか。

■今こそ、解放の時
 そんな二人が、突然叫びます。
 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時でもないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」 Continue reading

7月5日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『慌てふためくとき・・・』 マタイによる福音書8章23~27節 沖村裕史 牧師

■招かれる
 23節に「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。
 まず、イエスさまが舟に乗り込まれ、その後に続いて、弟子たちがその舟に乗り込む、という順番です。信仰に生きるということは、わたしたちが自分で準備し十分に整えた舟に、さらに確かな「お守り」のようにして、イエスさまをお迎えすることではなく、むしろその逆、イエスさまが乗っておられるその舟に、わたしたちの方が乗り込み、共に航海を始めること、それこそが信仰生活なのだ、ということでしょう。
 そのようにしてイエスさまに招かれ、従って、舟に乗り込んだ直後のことでした。
 「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」
 「そのとき」を直訳すれば、「すると見よ」です。あの重い皮膚病の人がやって来た時と同じく、予想外の事態が押し寄せてきたことを表す言葉です。イエスさまが舟を用意されていたのでしょうか。弟子たちは、イエスさまがお乗りなったその舟に乗り込むようにと招かれます。そして乗り込んだ結果、突然、激しい嵐に襲われ、その舟が波に飲み込まれそうになった、というのです。

■嵐の中
 ガリラヤ湖は、南北に21キロ、東西に13キロの、それも海抜マイナス213メートルという海よりも低い所にある、切り立った山に囲まれた、大きなお盆のような湖です。そのため、天気が少しでも変われば、たちまち風が強く吹く、よく荒れる湖でした。湖畔にある博物館には、数十年前に発掘された、イエスさまの時代の漁船が展示されています。当時のごく一般的な舟だと言います。写真を見ると、こんな粗末で小さな舟に乗って、よくもガリラヤ湖を渡って行こうとしたものだ、と驚かされます。
 もちろん、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロたちも、そのことはよく知っていたはずです。空、雲、風、波の動きに目を凝らし、舟を進めていたことでしょう。しかし気づかぬうちに、嵐がすぐそこにまで忍び寄ってきていました。向こう岸に着くどころではありません。思いもかけない「激しい嵐」に襲われ、死の危険に晒されることになります。
 「激しい嵐」と訳されている言葉は「地震」と訳すべき言葉です。ただ、それでは意味が通じにくいため、マルコ、ルカ福音書に揃(そろ)えて「激しい嵐」と訳されていますが、マタイにとって、これは「地震」そのものです。終わりの時の天変地異としての地震(24:7)、イエスさまが十字架で殺された時に起こった地震(27:54)、そのイエスさまが復活された時の異変としての地震(28:2)です。マタイは、この嵐を、神に敵対する悪しき力として描き出そうしています。それほどまでに恐ろしい、そして邪悪な力が襲いかかります。大波が押し寄せては舟に流れ込み、ついには沈むばかりになります。
 ところが、そのようなときにも、イエスさまは舟の中で一人、ぐっすりと眠っておられます。弟子たちは慌てふためきます。そして必死に呼び起こします。
 「主よ、助けてください。おぼれそうです。」
 イエスさまのことを、神の御子として信頼をしていたというのではないようです。もしそうならば、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言うはずもありません。
 「あなたがこの舟で向こう岸に行けとお命じになったから、こんな災難にあっているのに。わたしたちは、こんなに一生懸命にがんばっているのに。ああ、もうどうしようもない。それなのに、それなのにあなたは、手を貸そうとしないばかりか、目を覚まそうとさえなさらない」。
 それでも、弟子たちの中には、「お守り」としてのイエスさまが乗っておられるから・・・と思った人もいたかも知れません。しかし、嵐は嵐として起こるのです。イエスさまというお守りがあるから嵐は起こらない、とは決して約束されていません。きっとこの時、多くの弟子たちは「こんなはずじゃなかった」と、イエスさまに従ったことを後悔したのではないでしょうか。
 わたしたちはどうでしょう。この世の生き方は「神抜き」の考え方によって成り立っています。そこでは「全てを統(す)べ治める神は不在」です。そのため、わたしたちの心の中には、「自分の力でどうにかしなくちゃ」という声が、いつも聞こえて来ます。当然、そうした心の中に平安はなく、次から次へと心配や不安、恐れが起こってきます。そして、そうした思いを払拭しようと、一層、真剣になり、努力をします。そして、がんばっているのに、これだけがんばってきたのに、どうして、と呟(つぶや)くことになるでしょう。途方にくれ、ああ、あの時、こうしていればよかった、ああしておけばよかった、そうだ、あの時、「向こう岸に行こう」とせず、あのままカファルナウムに残ればよかったのだ、と自らの境遇を嘆くばかりになってしまうでしょう。
 弟子たちの姿は、ひとごとではありません。耐えられない苦しみが重なって、神の姿、イエスさまの姿を見失い、どこにおられるのか、なぜ見捨てられるのか、とただ嘆くばかりになってしまいます。それが、わたしたちの姿です。

■静かに眠る
 しかし、その大きく揺れる小舟の中にあってなお、静かに眠っておられるイエスさまの姿は、それとは、いかにも対照的です。 Continue reading

★7月4日 ≪土曜礼拝―Saturday Worship≫ 『生き直せばいいんだ』 ルカによる福音書24章13~32節 沖村裕史 牧師

 

■記憶としての人生

 わたしたちの誰もが、自分の人生を歩んできたと思っています。楽しい時もあれば、つらい時もあったけれど、他の誰のものでもない、確かに自分の人生を歩んできたと信じています。でも実は、わたしたちのこれまでの人生は、わたしたち一人ひとりの記憶の中にあるに過ぎないのかもしれません。
 母と話していて、「高校生の時、あなたはこうだったわよね」と言われ、そんな記憶などこれっぽっちもなくて、驚いたことがあります。封印してしまった記憶があるようです。親が共働きで、幼い頃から寂しい思いを抱えていたわたしは、父からも母からも愛されていないと勝手に思い込んでいました。そのため、中学生から大学生になるころまで、反抗に反抗を重ねては悪態をつく、実にひどい息子でした。そんなわたしが、曲がりなりにも二人の子どもの親となり、四十に手が届こうかという年齢(とし)になったある日、ふと思い出しました。熱を出して寝込んだ夜、仕事と家事と畑仕事に疲れ切っていたはずの母が、一睡もせずに、水で冷たくしたタオルを何度も換えて額に押し当てながら、「大丈夫よ」と声をかけ、添い寝をして抱きしめていてくれていたことを。子どもだから忘れていたというのではありません。妻と二人で、あの時こうだったねと話をしていて、同じ時に、同じものを目にし、同じことを体験したはずなのに、まるで違う出来事を体験していたのではないかと思わされることがあります。
 わたしの人生はこうだったと思っている、その記憶はずいぶんといい加減なもののようです。わたしたちの記憶は、それが満足できるものであれ、不満だらけのものであれ、実にあいまいで、自分がこうだと思っているだけのようです。とすれば、ひどい人生だった、二度とご免だと思っているわたしたちの人生も、過去の記憶を新たに辿り直すことによって、全く違った、意味ある人生になるのではないでしょうか。

 

■「暗い顔」は消えて「心が燃え」る

 聖書の中にも、自分の記憶―自分の物語を辿り直すことによって、全く新しい人生を歩み始めた人が描かれています。
 それが、クレオパです。彼は、エマオに向かって、金曜日からの出来事を友人と語り合いながら歩いていました。暗い顔をして歩いていました。なぜなら、自分たちを救ってくれると期待していたイエスさまが、金曜日に殺され、しかもその遺体が消えてしまったからです。彼は、自分の見てきた「一切の出来事」から、彼なりの物語を作り上げて、悲しみに暮れていました。きっと、自作の悲劇を何度も何度も道連れに話しながら、エマオまで歩いてきていたのでしょう。とても惨(みじ)めな昼下がりでした。
 そのクレオパの行く道に、よみがえられたイエスさまがいきなり現れます。イエスさまはクレオパ自作の物語を聞こうと近づかれます。クレオパは待ってましたとばかりに語り出しました。ところが、これを聞いていたイエスさまは、そのクレオパの物語を遮るようにして、金曜からの物語を、クレオパとは違う別の角度から説明し始められます。
 イエスさまの語られた物語は、神様の栄光を表す壮大な物語でした。この三日間の出来事を、当時からさらに千年以上も昔の、モーセにまで遡(さかのぼ)ってお話になります。クレオパとイエスさまは、同じ三日間を体験していました。しかし、同じ現場から語られたその物語はまったく違ったものでした。
 クレオパはこの違いに強烈なショックを受けます。その証拠に、イエスさまの新しい物語を聞かされたクレオパたちは、イエスさまを見失った後に、こうつぶやいています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 今まで、ちっぽけな自作の物語に浸っていた人が、神様の示される新しい物語に触れ、心が燃えるほどに息を吹き返したのです。クレオパはイエスさまの物語を通して、自分の人生に別の物語が隠されていることを知りました。クレオパ個人の体験が、神様の救いの歴史の中にはっきりと位置づけられたのです。例えて言えば、クレオパの「私小説」が、神様の「大河ドラマ」の中に組み入れられたようなものです。
 そのようにして、閉じられたひとりの人間の物語が、壮大な神様の物語の中に組み入れられるとき、その人の「暗い顔」は消え、そして「心が燃え」始めました。

 

■クレオパのようにあなたも

 だれにも、悲しい「金曜日」からの三日間の思い出があるでしょう。わたしたちは、自分だけの物語を作り、その「自分が主人公の悲劇」を思い出しては、今日もため息をついています。わたしたちはみな、クレオパのようです。エマオに向かって歩きながら、みな暗い顔で生きています。
 夕方、街角に立ってみてください。無表情で家路に急ぐ女や男を観察してみてください。みんなそれぞれ、自分だけの物語に浸って、夕日を浴びて無口に歩いてはいませんか。ああ、みんな、いったいどんな自分だけの物語を抱え、重い足をひきずるように歩いているのでしょう。
 街角を家路に急ぐそんな時、イエスさまがわたしたちへ近づいてこられます。わたしたちも、「金曜日」からの自分なりの詳しい説明はいったん横において、イエスさまが語ってくださる物語―「良い知らせ」Good News に一緒に耳を傾けてみてはいかがでしょう。わたしたちの物語をせめて一日でもいい、横においてみてはいかがでしょう。
 そして、沈黙してみてください。そうして、神様の物語に耳を傾けてみましょう。自分の身に起こっていたことを、神様がどのように受け止め、新たな物語を作っておられるのかを聞いてみましょう。もしも、この地上の物語として理解していたわたしたちの人生が、神様の愛の物語として理解されるようになったら、しめたものです。聖書の物語の中に、わたしたち自身の姿を見出すようになったら、チャンスです。その時、わたしたちはたぶん、心が燃えます。無表情の暗い顔が、熱いいのちを発しはじめることでしょう。
 クレオパ。イエスさまに巡り会い、自らの物語を捨て、神様の物語を受け入れた人。そして自分だけの物語に別れを告げ、初めて心が燃え始めた人。その姿は、自分の記憶、思い出、人生に苦しみ、夕陽を浴びて家路に急ぐ、今のわたしたちと何ひとつ変わるところはありません。そんなわたしたちに、今も、イエスさまが「愛の物語」を語り掛けてくださっています。

 

お祈りします。神様、わたしたちは何度も、あなたの姿、あなたの愛を見失ってしまいます。まったく的外れのところで、あなたを捜し求めてしまいます。でもあなたは、わたしたちが捜し求める前から、ずっと一緒に歩んでいてくださいました。愛を語りかけ、背負うようにして歩んでくださいます。どうか、あなたのみ言葉を通して、わたしたちがそのことに気づくことができますように。この祈り、主のみ名によって。アーメン。

6月28日 ≪聖霊降臨節第五主日礼拝≫ 『共に旅する者』 マタイによる福音書8章18~22節 沖村裕史 牧師

■恐れつつ従う
 ここには、二人の人とイエスさまとのやりとりが記されています。
 最初は、律法学者です。山上の説教に感動し、ガリラヤでの奇跡の出来事に眼を開かれた人であったかもしれません。彼はイエスさまに近づき、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と告げます。立派な決意表明です。
 ところがイエスさまは、この人の決意に水をさすかのように、わたしに従うことは並大抵のことではない、と教え諭(さと)します。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
 「人の子」とは、イエスさまのことです。「あなたは、わたしの行く所ならどこへでも従って行くと言うけれど、そのわたしには枕する所もない。安住の地もなければ、心の休まる暇もない旅をしていくことになる。そのわたしに本当に従うことができるのか。」
 ご注意をいただきたいのは、この言葉に先立って、イエスさまが弟子たちに、「向う岸へ行く」ようにと命じておられることです。唐突に思えるこの言葉は、この後、23節以下の場面を準備する言葉です。その小見出しに「嵐を静める」「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」とあります。つまり「向う岸」とは、単なるガリラヤ湖の東側のことではなく、悪霊の支配する、大きな戦いが待ち受けている、その場所を指しています。そればかりか、そこに向かうために舟で湖を渡ろうとしたとき、弟子たちは、いのちの危機に晒されるほどの激しい嵐に襲われます。そんな大きな試練と厳しい戦いに向けて旅立つことを、イエスさまは弟子たちにお命じになっておられるのです。
 もう一つ、1世紀当時のガリラヤでは、「賢者」と呼ばれた教師の弟子たちはしばしば家を離れ、師に従って各地を転々と旅して歩くのが普通の暮らしでした。巡回伝道者の一行と言えば聞こえはいいのですが、その実態はホームレスの集団です。貧しく、食べるものにも事欠く、そんな日々に耐えなくてはなりません。「枕する所もない」というイエスさまの言葉は、単なる比喩ではなく、現実でした。空腹を抱えて麦畑を横切り、星空を仰ぎながら野宿をすることも珍しくなかったに違いありません。それが、イエスさまと弟子たち、そして従っていた群衆の姿でした。それに対して、律法学者は、安定した生活を営み、指導的な地位に立っていた人です。
 イエスさまの旅は、紛れもなく「枕する所もない」歩みです。イエスさまに従うということは、厳しい試練が待ち受ける、そしてついには十字架へと至る、険しい旅路を共に歩むということです。だから悪いことは言わない、そんな覚悟もないのに、わたしに付いて行くなんて言うのはやめた方がいい。イエスさまは、そう言っておられるかのようです。
 正直なところ、この厳しい言葉に怯(ひる)み、腰が引けてしまいそうになります。
 しかし、そこでなお目を止めていただきたいことがあります。それは、この言葉がいわば、すばらしい決意、立派な信仰を告白した人に対して語られているということです。
 ペトロのことを思い出されないでしょうか。イエスさまから「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたとき、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、実にすばらしい決意を表明したペトロですが、イエスさまに十字架刑が下されたその法廷の中庭で、彼は三度も「あの人のことなど知らない」と言ってしまいました。
 イエスさまに従う旅路、十字架への道は厳しいのです。
 イエスさまはその厳しさを、今、はっきりと教えておられます。であればこそ、その旅路をわたしたちの決意と努力によって、つまり人間的な力によって歩むことができるなどと考えたり、そういう思いで高ぶったり、誇ったりすることは、また逆に、そんな思いから人を軽んじたりすることがあるとすれば、それはとんでもなく傲慢なこと、罪深いことです。
そう、今ここで、弟子たちに、そしてわたしたちにできることは、決然として進むことではなく、ただ恐る恐る、頼りなげであっても、それでもなお、主のみ後に従うこと、ただ、それだけです。

■何を第一とするか
 最初の人とのこのやり取り以上に、驚き、戸惑う他ない言葉が、さらに続きます。
 もう一人は「弟子の一人」です。 この弟子は、律法学者のように自分から従いますと申し出たというのではなく、イエスさまから「従いなさい」と招かれたのでしょう。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」とやんわりと断ります。「主よ、あなたは従いなさいと言われるけれど、わたしのことを、わたしの父が亡くなったことをご存知ですか。ご存じないのでしょう」とでも言いたげな言葉です。
 しかしここでも、イエスさまは、驚くべき、厳しい言葉を告げられます。
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」 Continue reading

6月21日 ≪聖霊降臨節第四主日礼拝≫ 『患いを負い、病を担ってくださる』 マタイによる福音書8章14~17節 沖村裕史 牧師

■ペトロの家
 「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。」
 ヨハネによる福音書1章44節に、「アンデレとペトロの町、ベトサイダ」とあります。ベトサイダとは「漁師の町」という意味です。カファルナウムから直線距離にして8キロ東にあった漁村、そこにペトロの家がありました。
 思えば、イエスさまは荒れ野で悪魔からの誘惑を退けられた後、「湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ」(4:13)、そこを拠点に伝道を始められました。そのカファルナウムからベトサイダへと足を伸ばされたとき、ペトロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と二人を招かれました。二人はすぐに「網」を捨てて、イエスさまに従ったのでした。その後、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも同じように声をかけられます。二人もまた、すぐに「舟と父親を残して」、イエスさまに従ったとあります。
 八木重吉に「わたしの詩(うた)」という詩があります。
 「裸になってとびだし
 基督のあしもとにひざまずきたい
 しかしわたしには妻と子があります
 すてることができるだけ捨てます
 けれど妻と子をすてることはできない
 妻と子をすてぬゆえならば
 永劫の罪もくゆるところではない
 ここにわたしの詩があります
 これがわたしの贖(いけにえ)です。・・・」
 ペトロもそうでした。妻を、しゅうとめをかかえて、イエスさまに従っていました。コリントの信徒への第一の手紙9章5節にも、ペトロや他の使徒たちの中には、信者である妻と一緒に伝道していた人たちがいた、とあります。イエスさまに招かれた後も、ペトロは妻、しゅうとめと暮らしています。ペトロは、自分の暮らし、人生、家族-そのすべてを棄てて従ったのではなく、そのすべてを丸ごと抱え込んだままに、苦しみも、悩みも、患いも、そのすべてをあるがままに委ねて従ったのでした。
 それこそが、信じて従う者―弟子の姿でした。

■しゅうとめに触れる
 そのペトロの家に行ってみると、しゅうとめが高い熱を出して、苦しみ、寝込んでいました。
 この時のしゅうとめの姿を想像してみてください。妻の母である彼女が、ペテロの家で一緒に暮らすことなど、あり得ないことでした。当時の男性中心のユダヤにあって、年老いた親の面倒を見るのは、跡取り息子の仕事でした。しゅうとめに男の子がいなかったのか、死んでしまったのか、あるいは離縁させられたのか。いずれにせよ、嫁にやった娘の家に引き取られてくることなどあり得ません。彼女は、どんなに肩身の狭い思いであったでしょう。 Continue reading

6月14日 ≪聖霊降臨節第三主日/こどもの日・花の日家族礼拝≫ 『かみさま、みーつけた!』使徒言行録17章22~28節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
リタニー  (別紙)
讃 美 歌  こどもさんびか115 (別紙)
聖  書  使徒言行録17章22~28節
お 話 し  「かみさま、みーつけた!」
お 祈 り
献  金  Continue reading

6月7日 ≪聖霊降臨節第二主日・三位一体主日礼拝≫ 『あなたのひと言が欲しい』マタイによる福音書8章5~13節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
讃  美  歌 18 (1, 2節)
招  詞 ヨハネの第一の手紙1章1節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 119篇41~48節 (137p.)
讃  美  歌 351 (1, 3節) Continue reading

5月31日 ≪聖霊降臨第一主日礼拝≫ 『新しく生まれる』 ガラテヤの信徒への手紙1章13~24節 沖村 裕史 牧師

■聖霊の風
 春の桜や秋の紅葉が風に吹かれて、その花びらや葉っぱが一斉に踊るようにして舞うのを見ると、うっとりとします。夏、汗をいっぱい掻きながら、自転車をこげば、顔に当たる風が暑さを吹き飛ばしてくれます。白い雪を運んでくる冬の風はとても冷たいけれど、身も心も引き締まるようです。
 誰も、その風を目で見ることも、手でつかむことも、鼻でにおいをかぐことも、口で味わうこともできません。でも、木の枝が揺れ、雲が流れ、花が舞い、葉がざわざわと音を立て、この頬(ほお)に当たるのを感じれば、風が吹いているのだとわかります。不思議です。神様のようです。神様も、風のように目には見えませんし、手に触れることもできません。それでも、神様がいつも、わたしたちと一緒にいてくださり、どのようなときにもわたしたちを支え導いてくださっている、そう感じることができます。目には見えず、掴めもしないからこそ、いつでも、どこででも、わたしたちに吹いてくる、それが神の働き、神の霊、聖霊です。
 広島でのこと。とても気持ちのよい五月の昼下がり、川沿いの公園へ出かけました。木の間から陽の光がきらきらと洩れてきます。小さな男の子が遊んでいるそばで、お父さんとお母さんが楽しそうに話をしています。そこに、緑色の葉を揺らして風が吹いてきました。緑の風です。ふと見ると、男の子がまんまるの綿毛になったたんぽぽを手に持って、ふうーっと息を吹きかけて飛ばしています。綿毛が緑の風に乗って、ふわん、と飛んでいきます。男の子はその綿毛に、「待ってえー」とかわいい声で呼びかけ、それでも待ってくれないたんぽぽの綿毛を追いかけます。綿毛は風に吹かれ、ふわふわ、飛んでいきます。男の子は、綿毛を風の中に見失わないようにと、きれいな目をしっかりと見開いて、追いかけていきます。やがて綿毛が地面に落ちます。それでも男の子は、しゃがみ込み、地面の綿毛をじーっと見つめ続けていました。
 わたしたちは、人と仲たがいをしたり、大切なものを失くしてしまったりすると、もうどうしていいかわからない、もう駄目だ、もうどうでもいいと、悲しく、苦しくなることがあります。そんなとき、神様は、わたしたちにふうーっと聖霊の風を吹きかけて、たんぽぽの綿毛のように、わたしたちを安心できる場所へと運んでくださいます。それだけではありません。神様は、聖霊の風を吹きかけながら、あの男の子のようなきれいな瞳で、わたしたちのいのちのゆくえを、どこまでも追い続け、見守ってくださいます。

■御心のままに
 今日のみ言葉には、そんな風に吹かれて、御子キリストのもとに運ばれ、御子キリストと出会うことになった、パウロの姿が描かれています。15節から16節です。「御心のままに、御子をわたしに示して・・・」
 パウロは告白します、神様が、わたしの内に、御子イエス・キリストを啓示してくださった、と。それは、彼が誰よりも律法のことをよく知っていたからでも、彼が善き業を行うことに熱心だったからでもありません。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし・・・」とあります。「しかし」、「しかし・・・神が、御心のままに・・・」です。御子との出会いは父なる神の御心ゆえだった、パウロはそう振り返ります。
 使徒言行録9章1節以下に記される、パウロの回心が思い出されます。
 「さて、サウロ(こと、パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。・・・アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」
 「しかし・・・神が、御心のままに・・・」とは、アナニアが「聖霊で満たされるように」と語っているように、すべては、神様の側からの一方的な働きかけであって、そこに人間的な要素の入り込む余地など、少しも残されていなかった、ということでしょう。
 そのようにして「聖霊に満たされ」たパウロに、神様は、「御子を(わたしに)示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とあります。聖霊によって啓示されたもの、それは、「御子」イエス・キリスト、そして「その福音」でした。御子に出会うということは、「その福音」に生きる者とされるということでした。
 「福音」とは、イエス・キリストがこの地上で最初に語られた、「時は満ち、神の国は近づいた」という喜びの知らせのことです。神の支配が、神の愛のみ手がもうすでにここにもたらされている、救いのみ手が今ここに差し出されている。だから、生きる向きを、あなたのまなざしを、わたしに向け、わたしの愛を信じ、その愛に生きることをあなたの人生の土台としなさい、という神様からの招きです。
 「その福音」に、パウロは「救い」を見出しました。それは、救われるために律法を固く守るようにと教えていた、当時のユダヤ教の指導者たちの言葉とは、正反対のものでした。神の救いは、人間の行いや力によって得られるものではなく、「御心のままに」、ただ一方的に、神の恵みとして与えられる。そのことに気づかされ、自分ばかりを見つめていたまなざしを、父なる神の「御心」―神様の愛へと向け直したとき、キリストを信じる者たちを迫害していたはずのパウロが、そのキリストを信じ、「その福音を・・・告げ知らせる」者にされた。それが、「聖霊に満たされた」パウロの中で起こった回心の出来事でした。

■後で考え直す
 マタイ福音書21章28節から32節に、こんなたとえがあります。
 「・・・ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと・・・」。
 最初ここを読んだとき、いやいや、そうじゃない。父親の求めに、最初から「承知しました」と答え、そして、その通りに実行するのが一番良いし、それが父親の望むところであったのではないか、そう思いました。
 ところがイエスさまは、最初「いやです」と答え、後から考え直した兄の態度が「父親の望みどおり」であった、そう言われます。神様の望まれることは、「後で考え直す」ことなのだ、ということです。その必要もないほどに、立派に生きることではない。「後で考え直す」必要のない、そんな優等生のような人間を、神様はお望みではない、そう言われます。
 わたしたちは、さきほどの兄のように、「いやです」と思慮を欠いた拒否をしたり、ときには弟のように、「承知しました」と口先だけの従順を示したりします。神様は、そんな人間の現実をよくよくご存知です。それを百も承知の上で、「後で考え直す」ことを望んでおられるのです。神様のお望みになることは、ただ一つ、「後で考え直す」、悔い改めること、回心すること、それだけです。
 では、「後で考え直す」の「後」とは、いつのことなのでしょう。「後の祭り」ということもありますから、いくら「後で考え直す」といっても、あまり「後」過ぎては、間に合わなくなるのではないでしょうか。イエスさまは、「実のならないいちじくの木」のたとえ(ルカ13:6-9)で、三年間、実がならなかったいちじくの木を切り倒せ、と命令する主人に対して、園丁に次のように答えさせています。
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5月24日≪復活節第七主日礼拝≫ 『御心ならば』 マタイによる福音書8章1~4節 沖村 裕史 牧師

■み言葉とみ業
 今朝の出来事を、マルコとルカは数々の奇跡の中のひとつとして描きますが、マタイは、直前までの「山上の説教」と、ここから始まるイエスさまのみ業とを、注意深く繋(つな)げています。
 7章28節から29節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とありました。これに続けて、マタイは「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」と、この章を書き始めます。「山上の説教」の舞台となった、その「山を下りられ」たとき、山の上でイエスさまのみ言葉を聞いていた「群衆が(そのまま、あるいはふたたび、イエスさまに)従った」。明らかに、山の上のみ言葉と山を下りて行われるみ業とを、繋ぎ合わせようとしています。
 そうすることで、イエスさまの力あるみ業を、権威あるイエスさまのみ言葉が目に見える形で現れたものとして描こうとしています。山の上で教えてくださった「父の御心」-神の愛が現実の出来事となった、マタイはそう信じ、今、イエスさまの驚くべきみ業を語り始めます。

■ほら見てごらん!
 その最初のみ業として、マタイが取り上げたのは、「重い皮膚病を患っている人をいやす」と題される、奇跡の出来事でした。
 2節以下、「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り・・・・・・」。
 「すると」とあります。マルコにもルカにもない、マタイの特別な思いが込められている言葉です。直訳すれば、「見よ」。「ほら、見てみなさい!」と訳してよいでしょう。衝撃的な出来事が起こったことを表す言葉です。
 今、重い皮膚病の人がイエスさまに会うために、大勢の群衆のいるそのただ中にやって来た、それは、驚くべく出来事、あり得ないことだった、と言うのです。そして、
 「この人を、ほら、見てごらん!」。
 ここにも、耐えがたい痛みと如何(いかん)ともしがたい苦しみに、人生を覆(おお)われ、人としての歩みを遮(さえぎ)られている人がいる、そうマタイは言います。
 たったひと言、「重い皮膚病」と記されているだけですが、それはまさに、堪(た)えがたい苦しみでした。
 レビ記に、こうあります。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13:45)。
 重い皮膚病を患った人は、自分のことを「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければならず、罪人として、人に近づくことも、触れることも一切許されませんでした。当然のこと、故郷の懐かしい人々からも、親しい友人からも、家族からさえも、見放され、追い払われるようにして、村や町の外で生きる外ありませんでした。
 この「重い皮膚病」の人々と同様の境遇を強いられた、ハンセン病を患ったひとりの人の言葉が、今もわたしの心に突き刺さっています。岡山県にある邑久光明園入園者、中山秋夫の「白い遺言」です。
 「わたしは昭和十四年に入所した。・・・・・・療養所というからには病を養い、癒す所であるはずだが、療養所に初めから火葬場があり、さらに監禁室があり、死亡してからも持ち帰ることのできない骨のための納骨堂があった。(中略)患者は当然死に絶える、誰もいなくなる。そして死に絶えた療養所に骨堂が残る。どこへも行くことの出来なかった骨が残される。これでいいのだろうか。病気は治ったというのに、このような形で清算されていいのだろうか。(中略)日本の敗戦とともに、軍国主義と一つになった強制収容の嵐が終わり、病気が治る時代に入ってもなお、療養所で死んだ者の骨が、家へ帰ることが憚かられなければならないのは、なぜか。そうしたことに国や国民がなんの責任もとらずに、ライ医療(行政)は終った、と言い切れるのは、なぜか。療養所の一角に、骨の収容所が残るという、このことの責任を誰がとるのだろうか。わたしの骨は、そのことを世の中に問う証拠物件として光明園の納骨堂に残ることになるだろう。なぜ、なぜ、そうなのかを、骨になっても、やはりわたしは、問いたいのである。」
 「重い皮膚病を患っていた」この人の苦しみもまた、肉体だけではありません。「汚れた者」というレッテルによる宗教的な断罪、そして何よりも社会的な疎外-三重の苦しみを背負わされ、治療の手立ても、回復する希望もなく、社会から抹殺された、まさに死の世界を生きるほかない人でした。

■「御心ならば」とひれ伏す
 しかし、その彼が、「イエスに近寄り、ひれ伏し」た、とあります。
 これと同じ出来事を記したルカは、この時の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(5:12)と伝えています。「いてはいけない人が、そこにいた」というニュアンスです。本来、いるべく定められた場所を抜け出して、そこにいた、ということです。
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