「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」
「糧」と訳されているアルトスは主食にあたる「パン」のことです。「必要な糧」とあります。本当に欠かすことのできない、生きるために「必要な主食」だけが祈り求められています。だからこそ「今日与えてください」と続きます。ルカのように「毎日」でもなく、明日も明後日もその次の日もという連続性の中での「今日も」というのでもなく、あくまでも「今日」です。マタイの「主の祈り」は「今日」に集中します。「今日」を「かけがえのない一日」とします。昨日でもなく明日でもない、ただ「今ここ」をかけがえのない時として生きるように促します。
そして「今日」をかけがえのない一日として生きるということは、「明日」は来ないかもしれないと気づくことです。明日のいのちをだれも保証してくれないのです。イエスのたとえです。ある金持ちが、豊作で手にした作物を収めるために倉を大きく建て直して仕舞い込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と呟きます(ルカ12:16-19)。原文では「作物」は「わたしの作物」、「倉」も「わたしの倉」、「財産」も「わたしの財産」です。「わたしの」「わたしの」「わたしの」と繰り返されます。イエスは財産を持つことを否定されません。ただ、全部「わたしの」ものと言って、与えてくださっている神を忘れ、神との関係をひっくり返し、自分を神のごとくに考えている、その愚かさを問いただされます。
そしてこう続けられます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(同12:20)。天から神の言葉が響きます、「今夜、お前の命は取り上げられる」と。
「今夜」です。金持ちが「これから先何年も」と言った言葉と鋭いコントラストをなしています。明日のいのちはわからないのです。わたしたちのいのちの鍵は神が握っておられ、だれも自分で自分のいのちを自由にすることなどできません。ところがその男には自分しかありません。財産があれば生きていけるものと勘違い、錯覚しました。しかしそれは幻想です。真実は「今夜、お前の命は取り上げられる」という現実の中にあります。
そうです。人のいのちは、蓄えに依存せず、またパンにもよらないのだ、ということです。ただ、神の御心によるのだ、ということです。だからこそ、イエスはこう祈りなさいと教えられるのです。「生きるために最低限必要なパンを、いえ、いのちを、今日、与えてください」と。この日ごとの糧を求める祈りは、自分の死を直視しながら、「今日のいのち」を求める祈りである、と言ってよいでしょう。
神は、明日、肉体は滅んでも、神の復活のいのちの中で「生きよ」と言って、「わたしたち」すべてが生きることをこそ、神は望んでおられます。明日、わたしが、あなたが死ぬことがあっても、「生きよ」という神の言葉が、この祈りと共に、今日、わたしたちの心に響いています。
この祈りを祈るとき、神から「生きよ」と言って、日ごとの食物を与えてくださる神の慈しみに生きる幸いが与えられます。この祈りを祈るとき、この罪深い者を十字架によって赦し、救い、立ち帰って生きよと言って、生かしてくださる神の恵みの中に置かれます。この祈りを祈るとき、わたしたちのいのちが神のものであることを告白し、感謝するようにと導かれています。