■激励
11章1節に「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると」とあります。
10章の冒頭、十二人の弟子を選ばれたイエスさまが、5節に「この十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた」とある、その教えを締めくくるために語られたイエスさまの言葉が、今朝の40節から42節です。
イエスさまはこれまで、十二弟子にこう語りかけられました。
「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(6-8)
「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」(14-15)
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16)
「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(21-23)
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26)
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」(34-35)
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(39)
十二弟子に向けて語られたこれまでの言葉は、すべての信仰者、わたしたちに向けられた言葉でもあります。戸惑い、思わず後ずさりしてしまいそうになる、厳しい迫害と分断を予感させる10章の教えを締めくくるとき、イエスさまは改めて、わたしたちへの励ましとして今朝の言葉を語ってくださいます。
■受け入れる
その冒頭40節、
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」
これとよく似た表現がマルコ福音書9章37節にありました。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」
マルコでは、一人の幼な子をイエスさまの名のゆえに受け入れるとなっていますが、マタイは、幼な子を弟子たちに書き替えます。この弟子たちは、イエスさまのものとして聖別され、派遣されたのだと信じ、彼らをその名ゆえに「受け入れ、もてなし、耳を傾ける」(これが「受け入れる」デフォマイの意味ですが、そうする)人は、イエスさまご自身を受け入れたこと、またその父である神を受け入れたに等しい、そう言われます。
この40節を言い換えるようにして、さらに41節の言葉が語られます。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」
弟子たちはこの言葉に従って、イエスさまがなさったのと同じように町や村をめぐり歩き、福音を宣べ伝えました。その弟子たちのわざを受け継いだ後の教会、たとえばマタイの教会でも、福音を宣べ伝える者たちが旅をしていました。41節の「預言者」とは、当時の教会の職務のひとつだったと考えられます。パウロの手紙にも、使徒や教師と区別された預言者の職務が語られています(ローマ12:6、1コリ12:10,28、エフェ4:11)。巡回説教者ともいうべき預言者たちが、イエスさまの福音を携えて旅をしました。「正しい者」も、預言者ではないとしても、同じようにイエスさまを救い主キリストと信じる、文字通り「義」とされていた信徒たちのことと思われます。 Continue reading