■記憶を辿り直す
8月30日の信徒研修会で学んだ、ウィリアム・ウィリモンの “Sunday Dinner” 『日曜日の晩餐』第1章は、こんな言葉で結ばれていました。
「わたしたちの名によって、二人、三人と集まる者のところに、わたしたちは、彼らのただ中にいる。」(マタイ18:20)
そうです、わたしたちがキリストにおいて兄弟姉妹と共に集まるとき、パンが裂かれ、祝福されるとき、パンとワインが与えられるとき、わたしたちは、主がわたしたちのただ中にいてくださることを、喜びをもって想い起すのです。あのエマオでの、日曜日の夕方の晩餐の時の最初の弟子たちのように、わたしたちの「目は開かれ」、そしてわたしたちは見るのです(ルカ24:31)。
今朝の御言葉は、そのエマオでの出来事です。
クレオパは、エマオに向かう道すがら、金曜日からの出来事を友人と語り合いながら、ヨタヨタと歩いていました。 暗い顔をして歩いていました。なぜなら、自分たちを救ってくれると期待していたイエスが、金曜日に惨殺され、しかもその遺体が消えてしまったからです。彼は、自分の見てきた「一切の出来事」から、彼なりの物語を、人生を作り上げて、悲しみに暮れていました。きっと、この自作の悲劇を何度も道連れに話しながら、エマオまで歩いてきていたのでしょう。実に惨めな昼下がりでした。ところがこのクレオパの行く道に、復活されたイエスがいきなり立ち現れ、 クレオパ自作の物語を聞こうと近づかれます。すると、クレオパは待ってましたとばかりに語り出します。
「イエスさまが十字架にかかり、もう希望も何もありゃしない。それから三日たった今日、今度はイエスさまのご遺体がなくなったと、女たちが騒いでいる。しかも驚いたことに、天使が現れ、『イエスは生きている』と言ったというんだ。しかしあんた、本当かどうか分かりゃしない。それに…」。
これを聞いていたイエスは、クレオパの物語を遮るようにして、イエスご自身の物語を、金曜からの物語を、クレオパとは違う別の角度から説明し始められます。
イエスの語られる物語、それはクレオパのものと決定的に違っていました。大のおとなのクレオパたちが、「一緒に泊まってもっと話してください」と無理矢理引き止めるほどでした。そして、クレオパのそれと違い、イエスの記憶、物語は、神の栄光までも現わす壮大な物語でした。この三日間の出来事を、当時からさらに千年以上も昔の、モーセにまで関連づけてお話になりました。クレオパもイエスも、金曜日から日曜日までのエルサレムでの出来事は知っていました。二人とも、同じ三日間を同じ場所で体験していました。しかし、その同じ現場から語られた物語ははっきりと違っていました。
クレオパはこの違いに強烈なショックを受けたに違いありません。その証拠に、イエスの新しい物語を聞かされたクレオパは、イエスを見失った後にこうつぶやいています。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
今まで、ちっぽけな自作の物語に浸っていた人間が、神が示された新しい物語に触れ、心が燃えるほどに息を吹き返したのでした。クレオパはイエスの記憶、その物語を通して、初めて自分の人生に異質な物語が隠されていることを知りました。神の視点から見た「一切の出来事」を悟りました。クレオパの個人的な三日間の体験が、神の救いの歴史の中にはっきりと位置づけられたのです。例えて言えば、クレオパの「私小説」が、神の「大河ドラマ」の中に組み入れられたようなものです。個人的な悲しい思い出を綴ったわたしたちの記憶が、復活の出来事を通して示される「神の救いの歴史」という、イスラエルの、神の民の物語に書き込まれました。クレオパはイエスと出会い、自分の知っている「一切の出来事」を、個人の視点からではなく、聖書全体、神の救いの歴史全体から俯瞰することができたのです。このようにして、個人の閉鎖的な物語が壮大な神の物語の中に組み入れられるとき、人の「暗い顔」は消えてしまいます。そして「心が燃え」始めます。
■クレオパのようにあなたも
誰にも、悲しい「金曜日」からの三日間の思い出があるものです。わたしたちはそれぞれに自分だけの物語を作って生きてきました。そして、その「自分が主人公の悲劇」を思い出しては、今日も確かにため息をついています。その意味でわたしたちはみな、クレオパのようです。エマオに向かって歩きながら、みんな暗い顔で生きています。夕方、街角に立ってみてください。無表情で家路に急ぐ女や男を観察してください。みんなそれぞれ、自分だけの物語に浸って、夕日を浴びて無口に歩いてはいないでしょうか。ああ、みんな、いったいどんな自分だけの物語を抱え、重い足をひきずるように歩いているのでしょうか。
街角で家路に急ぐそんな時、イエスさまがわたしたちへ近づいてきます。わたしたちも「金曜日」からの自分なりの詳しい解説はいったん横において、そろそろイエスが語られる物語―「福音」に一緒に耳を傾けたいものです。わたしたちの物語を、せめて一日でもいい、横においてみましょう。そして沈黙しましょう。その代わりに、神が記憶してくださった神の物語に耳を傾けてみましょう。自分の身に起こっていたことを、神がどのように理解し、新たな物語を作っておられるのかを聞いてみましょう。もしも、この地上の文脈だけで理解していたわたしたちの人生が、神の国の文脈で理解されるようになったらしめたものです。聖書の物語の中に、わたしたち自身の姿を見出すようになったら、チャンスです。その時、わたしたちはたぶん、心が燃えます。無表情の暗い顔が、熱いいのちを発し始めることでしょう。
クレオパ。イエスに巡り会い、自らの物語を捨て、神の物語を受け入れた人。そして自分だけの物語に別れを告げ、初めて心が燃え始めた人。その姿は、自分の記憶、思い出、人生に苦しみ、夕陽を浴びて家路に急ぐ、現代のわたしたちと何ひとつ変わりません。そんなわたしたちに、今ここで、イエスは出会い、福音の物語を語り掛けてくださるのです。
■愛のシンボル
とはいえ、誰もが、このイエス・キリストとの出会いに気づくわけではありません。
悩みを持つ人が「話を聞いてほしい」と、しばしば教会を訪れます。「暗い顔」をした人は、それぞれ地上の「一切の出来事」を自分の「物語」に作り変えて、延々と語り始めます。悲しみが始まった、それぞれの「金曜日」からの物語を、わたしにしんみりと朗読してくれます。そこにはその人なりに考えた世界が展開されていきます。それを聞きながら、わたしはためらいがちに答えます。「そう考えているのはあなただけじゃないの?もっと違う受けとめ方ができないかな。わたしはその出来事をこう見るけれど…」。そして付け加えてみます。「あなたの苦しみは、神から救われるための試練かもしれません。神の大きな救いの計画の中に、あなたの苦しみはすでに組み込まれています。その計画の中で、今回の苦しみを新たに、長期的に見直せないでしょうか」。こう言っても、ほとんどの人は受け入れてはくれません。たいていは、「あなたは、わたしのことが全然分かっていない!」そう言われ、泣かれたり、暴れられたりします。当たり前です。自分でも、そう言われたら暴れるかもしれません。そこでわたしはあきらめ、再び暗い物語を聞かされ続けることになります。 Continue reading