福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 13

6月14日 ≪聖霊降臨節第三主日/こどもの日・花の日家族礼拝≫ 『かみさま、みーつけた!』使徒言行録17章22~28節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
リタニー  (別紙)
讃 美 歌  こどもさんびか115 (別紙)
聖  書  使徒言行録17章22~28節
お 話 し  「かみさま、みーつけた!」
お 祈 り
献  金  Continue reading

6月7日 ≪聖霊降臨節第二主日・三位一体主日礼拝≫ 『あなたのひと言が欲しい』マタイによる福音書8章5~13節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
讃  美  歌 18 (1, 2節)
招  詞 ヨハネの第一の手紙1章1節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 119篇41~48節 (137p.)
讃  美  歌 351 (1, 3節) Continue reading

5月31日 ≪聖霊降臨第一主日礼拝≫ 『新しく生まれる』 ガラテヤの信徒への手紙1章13~24節 沖村 裕史 牧師

■聖霊の風
 春の桜や秋の紅葉が風に吹かれて、その花びらや葉っぱが一斉に踊るようにして舞うのを見ると、うっとりとします。夏、汗をいっぱい掻きながら、自転車をこげば、顔に当たる風が暑さを吹き飛ばしてくれます。白い雪を運んでくる冬の風はとても冷たいけれど、身も心も引き締まるようです。
 誰も、その風を目で見ることも、手でつかむことも、鼻でにおいをかぐことも、口で味わうこともできません。でも、木の枝が揺れ、雲が流れ、花が舞い、葉がざわざわと音を立て、この頬(ほお)に当たるのを感じれば、風が吹いているのだとわかります。不思議です。神様のようです。神様も、風のように目には見えませんし、手に触れることもできません。それでも、神様がいつも、わたしたちと一緒にいてくださり、どのようなときにもわたしたちを支え導いてくださっている、そう感じることができます。目には見えず、掴めもしないからこそ、いつでも、どこででも、わたしたちに吹いてくる、それが神の働き、神の霊、聖霊です。
 広島でのこと。とても気持ちのよい五月の昼下がり、川沿いの公園へ出かけました。木の間から陽の光がきらきらと洩れてきます。小さな男の子が遊んでいるそばで、お父さんとお母さんが楽しそうに話をしています。そこに、緑色の葉を揺らして風が吹いてきました。緑の風です。ふと見ると、男の子がまんまるの綿毛になったたんぽぽを手に持って、ふうーっと息を吹きかけて飛ばしています。綿毛が緑の風に乗って、ふわん、と飛んでいきます。男の子はその綿毛に、「待ってえー」とかわいい声で呼びかけ、それでも待ってくれないたんぽぽの綿毛を追いかけます。綿毛は風に吹かれ、ふわふわ、飛んでいきます。男の子は、綿毛を風の中に見失わないようにと、きれいな目をしっかりと見開いて、追いかけていきます。やがて綿毛が地面に落ちます。それでも男の子は、しゃがみ込み、地面の綿毛をじーっと見つめ続けていました。
 わたしたちは、人と仲たがいをしたり、大切なものを失くしてしまったりすると、もうどうしていいかわからない、もう駄目だ、もうどうでもいいと、悲しく、苦しくなることがあります。そんなとき、神様は、わたしたちにふうーっと聖霊の風を吹きかけて、たんぽぽの綿毛のように、わたしたちを安心できる場所へと運んでくださいます。それだけではありません。神様は、聖霊の風を吹きかけながら、あの男の子のようなきれいな瞳で、わたしたちのいのちのゆくえを、どこまでも追い続け、見守ってくださいます。

■御心のままに
 今日のみ言葉には、そんな風に吹かれて、御子キリストのもとに運ばれ、御子キリストと出会うことになった、パウロの姿が描かれています。15節から16節です。「御心のままに、御子をわたしに示して・・・」
 パウロは告白します、神様が、わたしの内に、御子イエス・キリストを啓示してくださった、と。それは、彼が誰よりも律法のことをよく知っていたからでも、彼が善き業を行うことに熱心だったからでもありません。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし・・・」とあります。「しかし」、「しかし・・・神が、御心のままに・・・」です。御子との出会いは父なる神の御心ゆえだった、パウロはそう振り返ります。
 使徒言行録9章1節以下に記される、パウロの回心が思い出されます。
 「さて、サウロ(こと、パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。・・・アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」
 「しかし・・・神が、御心のままに・・・」とは、アナニアが「聖霊で満たされるように」と語っているように、すべては、神様の側からの一方的な働きかけであって、そこに人間的な要素の入り込む余地など、少しも残されていなかった、ということでしょう。
 そのようにして「聖霊に満たされ」たパウロに、神様は、「御子を(わたしに)示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とあります。聖霊によって啓示されたもの、それは、「御子」イエス・キリスト、そして「その福音」でした。御子に出会うということは、「その福音」に生きる者とされるということでした。
 「福音」とは、イエス・キリストがこの地上で最初に語られた、「時は満ち、神の国は近づいた」という喜びの知らせのことです。神の支配が、神の愛のみ手がもうすでにここにもたらされている、救いのみ手が今ここに差し出されている。だから、生きる向きを、あなたのまなざしを、わたしに向け、わたしの愛を信じ、その愛に生きることをあなたの人生の土台としなさい、という神様からの招きです。
 「その福音」に、パウロは「救い」を見出しました。それは、救われるために律法を固く守るようにと教えていた、当時のユダヤ教の指導者たちの言葉とは、正反対のものでした。神の救いは、人間の行いや力によって得られるものではなく、「御心のままに」、ただ一方的に、神の恵みとして与えられる。そのことに気づかされ、自分ばかりを見つめていたまなざしを、父なる神の「御心」―神様の愛へと向け直したとき、キリストを信じる者たちを迫害していたはずのパウロが、そのキリストを信じ、「その福音を・・・告げ知らせる」者にされた。それが、「聖霊に満たされた」パウロの中で起こった回心の出来事でした。

■後で考え直す
 マタイ福音書21章28節から32節に、こんなたとえがあります。
 「・・・ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと・・・」。
 最初ここを読んだとき、いやいや、そうじゃない。父親の求めに、最初から「承知しました」と答え、そして、その通りに実行するのが一番良いし、それが父親の望むところであったのではないか、そう思いました。
 ところがイエスさまは、最初「いやです」と答え、後から考え直した兄の態度が「父親の望みどおり」であった、そう言われます。神様の望まれることは、「後で考え直す」ことなのだ、ということです。その必要もないほどに、立派に生きることではない。「後で考え直す」必要のない、そんな優等生のような人間を、神様はお望みではない、そう言われます。
 わたしたちは、さきほどの兄のように、「いやです」と思慮を欠いた拒否をしたり、ときには弟のように、「承知しました」と口先だけの従順を示したりします。神様は、そんな人間の現実をよくよくご存知です。それを百も承知の上で、「後で考え直す」ことを望んでおられるのです。神様のお望みになることは、ただ一つ、「後で考え直す」、悔い改めること、回心すること、それだけです。
 では、「後で考え直す」の「後」とは、いつのことなのでしょう。「後の祭り」ということもありますから、いくら「後で考え直す」といっても、あまり「後」過ぎては、間に合わなくなるのではないでしょうか。イエスさまは、「実のならないいちじくの木」のたとえ(ルカ13:6-9)で、三年間、実がならなかったいちじくの木を切り倒せ、と命令する主人に対して、園丁に次のように答えさせています。
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5月24日≪復活節第七主日礼拝≫ 『御心ならば』 マタイによる福音書8章1~4節 沖村 裕史 牧師

■み言葉とみ業
 今朝の出来事を、マルコとルカは数々の奇跡の中のひとつとして描きますが、マタイは、直前までの「山上の説教」と、ここから始まるイエスさまのみ業とを、注意深く繋(つな)げています。
 7章28節から29節に「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とありました。これに続けて、マタイは「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った」と、この章を書き始めます。「山上の説教」の舞台となった、その「山を下りられ」たとき、山の上でイエスさまのみ言葉を聞いていた「群衆が(そのまま、あるいはふたたび、イエスさまに)従った」。明らかに、山の上のみ言葉と山を下りて行われるみ業とを、繋ぎ合わせようとしています。
 そうすることで、イエスさまの力あるみ業を、権威あるイエスさまのみ言葉が目に見える形で現れたものとして描こうとしています。山の上で教えてくださった「父の御心」-神の愛が現実の出来事となった、マタイはそう信じ、今、イエスさまの驚くべきみ業を語り始めます。

■ほら見てごらん!
 その最初のみ業として、マタイが取り上げたのは、「重い皮膚病を患っている人をいやす」と題される、奇跡の出来事でした。
 2節以下、「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り・・・・・・」。
 「すると」とあります。マルコにもルカにもない、マタイの特別な思いが込められている言葉です。直訳すれば、「見よ」。「ほら、見てみなさい!」と訳してよいでしょう。衝撃的な出来事が起こったことを表す言葉です。
 今、重い皮膚病の人がイエスさまに会うために、大勢の群衆のいるそのただ中にやって来た、それは、驚くべく出来事、あり得ないことだった、と言うのです。そして、
 「この人を、ほら、見てごらん!」。
 ここにも、耐えがたい痛みと如何(いかん)ともしがたい苦しみに、人生を覆(おお)われ、人としての歩みを遮(さえぎ)られている人がいる、そうマタイは言います。
 たったひと言、「重い皮膚病」と記されているだけですが、それはまさに、堪(た)えがたい苦しみでした。
 レビ記に、こうあります。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(13:45)。
 重い皮膚病を患った人は、自分のことを「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければならず、罪人として、人に近づくことも、触れることも一切許されませんでした。当然のこと、故郷の懐かしい人々からも、親しい友人からも、家族からさえも、見放され、追い払われるようにして、村や町の外で生きる外ありませんでした。
 この「重い皮膚病」の人々と同様の境遇を強いられた、ハンセン病を患ったひとりの人の言葉が、今もわたしの心に突き刺さっています。岡山県にある邑久光明園入園者、中山秋夫の「白い遺言」です。
 「わたしは昭和十四年に入所した。・・・・・・療養所というからには病を養い、癒す所であるはずだが、療養所に初めから火葬場があり、さらに監禁室があり、死亡してからも持ち帰ることのできない骨のための納骨堂があった。(中略)患者は当然死に絶える、誰もいなくなる。そして死に絶えた療養所に骨堂が残る。どこへも行くことの出来なかった骨が残される。これでいいのだろうか。病気は治ったというのに、このような形で清算されていいのだろうか。(中略)日本の敗戦とともに、軍国主義と一つになった強制収容の嵐が終わり、病気が治る時代に入ってもなお、療養所で死んだ者の骨が、家へ帰ることが憚かられなければならないのは、なぜか。そうしたことに国や国民がなんの責任もとらずに、ライ医療(行政)は終った、と言い切れるのは、なぜか。療養所の一角に、骨の収容所が残るという、このことの責任を誰がとるのだろうか。わたしの骨は、そのことを世の中に問う証拠物件として光明園の納骨堂に残ることになるだろう。なぜ、なぜ、そうなのかを、骨になっても、やはりわたしは、問いたいのである。」
 「重い皮膚病を患っていた」この人の苦しみもまた、肉体だけではありません。「汚れた者」というレッテルによる宗教的な断罪、そして何よりも社会的な疎外-三重の苦しみを背負わされ、治療の手立ても、回復する希望もなく、社会から抹殺された、まさに死の世界を生きるほかない人でした。

■「御心ならば」とひれ伏す
 しかし、その彼が、「イエスに近寄り、ひれ伏し」た、とあります。
 これと同じ出来事を記したルカは、この時の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(5:12)と伝えています。「いてはいけない人が、そこにいた」というニュアンスです。本来、いるべく定められた場所を抜け出して、そこにいた、ということです。
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5月17日≪復活節第六主日礼拝≫ 『激流が押し寄せてきても』 マタイによる福音書7章24~29節 沖村 裕史 牧師

■たとえが意味する現実

 昨年の九月一日から、ご一緒に「山上の説教」を学んで参りました。今日は、その「山上の説教」の最後、締めくくりのみ言葉です。

 この箇所を読むと、いつも思い出します。子どもの時のことです。わたしが暮らしていた町の中心を、有帆川という大きな川が流れています。雨が降り続いた夏の夜のこと、眠りを覚ますサイレンの音が鳴り響きました。外は激しい雨と暗闇で何も見えません。消防団員の父は、身支度を整えると、不安げに見送る母に向かって、心配するな、外に出るな、と短く言うやいなや、激しい雨音と一緒に闇の中へと消えていきました。昼近くになって帰ってきた父の話によると、土手が決壊し、川が氾濫、亡くなった人も出たとのこと。恐る恐る聞いていたわたしは、数日後、友だちと一緒にその土手へ出かけました。驚きました。土手近くにあったはずの家が見当たりません。見れば、数十メートル下流あたりに、壊れた家が、まるで浮かぶように土砂の上に乗り上げていました。その近くの大きな木には、無残に砕けた木切れや泥まみれの家具が纏わりつくように重なっていました。

 息を飲みました。

 イエスさまが言われる通り、家の倒れ方は本当にひどいものでした。

 イエスさまのこのたとえも、イエスさまご自身の実際の経験から出てきた言葉ではなかったでしょうか。

 ユダヤの荒れ野には、雨期の季節だけ水が流れ、雨の降らない乾期にはすっかり干上がって、平らな川床が露わになる「ワディ」と呼ばれる川があります。ユダヤで「川」と言えば、ほとんどがこの「ワディ」、涸れた川です。水の流れている川は数えるほどしかありません。

 乾期のワディは、細かい砂地です。整地された後のように平らです。それだけに、雨期になり豪雨ともなれば、激しい流れが押し寄せます。当時、ユダヤの人々が住んでいた家は「日干し煉瓦」を積み上げ、それを粘土で塗り固めただけのもので、屋根も草を葺(ふ)いた上に粘土を塗っただけの簡単な造りでした。もし、ワディに家を建てれば、粗末で簡素な造りの家はひとたまりもありません。

 それがどれほど危険なことか。荒れ野を知っている人なら、すぐにわかることです。そんなところに家を建てたりはしないでしょう。たとえ「見かけ」は平らで、家を建てやすく、住みやすく思えても、ワディの川床を選ぶことはしません。岩がごろごろ転がって、家を建てるのに手間がかかっても、岩場を選ぶことでしょう。

 だから、そんな危険な「砂の上」ではなく、安全な「岩の上」に、「人生」という「家」を建てなさい、イエスさまはそう教えておられるのだ。誰にでもわかる、実に分かりやすいたとえだ。わたしも、イエスさまの教えに従って、「岩の上」に「家」を建てよう。そう思われたかもしれません。

 しかし「現実」は、それほど単純ではありません。たとえ洪水の危険を知っていても、それでもなお、多くの人が、その平らな場所を選びました。家を建てるのに便利で、交通路としても利用され、地下水が豊富だったからです。古代文明を思い出してください。その多くが、大きな河川流域に誕生しています。なぜか。人々が、何年かに一度起きる大きな氾濫による「いのち」の危険よりも、洪水が運んでくる肥沃な土地による「豊かさ」、そして平らな場所での生活の「便利さ」を求めたからです。「いのち」よりも「生活」の豊かさや便利さを優先し、それを求めて多くの人々が集まり、たくさんの家が建ちました。それが、人の暮らす村や町の姿です。

 それこそ、イエスさまが目にし、生きておられた、このたとえの背後にある「現実」ではなかったでしょうか。

 

■砂の上と岩の上

 そして今も、わたしたちは、そんな「砂の上」に集まり、「自分の家」を建て、「自分の人生」を築こうとしています。

 「砂の上」の「砂」とは、何か。お金、仕事、能力、名声、趣味、健康、人間関係などなど…どれも人生にとって必要なものばかりです。しかし、人生の「本当の保障」にはなり得ません。

 有り余るほどの穀物や財産を倉に収めた後、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しもう」と呟いた金持ちに、神が一言、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と告げられた、イエスさまのたとえ(ルカ12:13~21)にあるように、人生とは、端的に、与えられたいのちを生きること、生かされ生きることでありましょう。

 それなのに、わたしたちは、気づかぬ間に、そうした「砂の上」の人生に、あまりにも価値を置きすぎてしまってはいないでしょうか。それらはやがて、朽ち果て、消えていくものに過ぎません。にもかかわらず、そのようなものに決定的に価値があり、それらの上に人生を築き上げれば、大丈夫だとするような「的外れ」。それこそ、聖書の「罪」の本来の意味なのですが、そんな「的外れ」な営みを続けています。そんなわたしたちを御覧になりながら、それを積み重ねれば重ねるほど、倒れた時、その倒れ方は本当にひどい、イエスさまはそう言われるのです。

 大雨が降り、激流が襲いかかって、家を押し倒すということは、わたしたちの人生にも、しばしば起こることです。「砂の上」に建てようと「岩の上」に建てようと関係ありません。誰もそれを避けることはできません。そうなった時、たとえ外見は同じでも、いざという時になると、その本当の姿が分かる、その正体が見えてくる。誰もが、それぞれに自分の人生という家を建てるのですが、この地上の歩みの中で、様々な試練が襲いかかって来る時、何よりも終りの日に、神の御前に進み出る時、その激流に耐えることができるかどうか。自分の正体を突きつけられることになります。厳粛な人生の分岐点です。

 では、人生を「岩の上」に建てるために、どうすればよいのか。イエスさまは言われます、これに耐えることができるか否かは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」か否か、この一点にかかっている、と。

 「わたしのこれらの言葉」とはもちろん、「山上の説教」のことです。その「山上の説教」を締めくくるにあたって、この山の上で語ったわたしの言葉をあなたは実践していますか、わたしの教えをあなたは守っていますか、それともしていませんか。そう問いかけられるのです。

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5月3日 ≪復活節第四主日礼拝≫ 『狭い門から』 マタイによる福音書7章13~14節 沖村 裕史 牧師

≪礼拝式順≫  午前10時15分

黙 祷

讃美歌  13

招 詞  申命記30章14節

信仰告白 信徒信条 (93-4B)

交読詩編 100篇1~15節

讃美歌   327

祈 祷   ≪各自でお祈りください≫

聖 書  マタイによる福音書7章13~14節 Continue reading

4月26日 ≪復活節第三主日礼拝≫ 『よいものをくださる』 マタイによる福音書7章7~12節 沖村 裕史 牧師

黙   祷
讃 美 歌 12
招   詞 エレミヤ書29章12~14節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 107篇1~22節
讃 美 歌 323
祈 祷 ≪各自でお祈りください≫
聖 書 マタイによる福音書7章7~12節
讃 美 歌 478
説 教「よいものをくださる」
祈 祷 Continue reading

4月19日 ≪復活節第二主日礼拝≫ 『灰色を生きる』 マタイによる福音書7章1~6節 沖村 裕史 牧師

黙 祷
讃美歌 11
招 詞 ローマの信徒への手紙5章1~5節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 36篇1~13節
讃美歌 324
祈祷 ≪各自でお祈りください≫
聖書 マタイによる福音書7章1~6節
讃美歌 449
説教「灰色を生きる」
祈 祷
献金 65-2
主の祈り 93-5A
讃美歌 526
黙祷 Continue reading

4月12日 ≪復活日・イースター礼拝≫ 『ガリラヤでお目にかかれる』 マルコによる福音書16章1~8節 沖村 裕史 牧師

黙  祷
讃 美 歌 10
招  詞 ローマの信徒への手紙6章8~9節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 118篇13~29節
讃 美 歌 575
祈  祷 ≪各自、お祈りください≫
聖  書 マルコによる福音書16章1~8節
讃 美 Continue reading

4月5日説教抜粋 『十字架にふさわしい』マタイによる福音書11章1~11節 沖村 裕史 牧師

 エルサレム入城の場面です。8節から10節は、子ロバに乗ったイエスが救い主メシアとして、真の王としてエルサレムの人々によって熱狂的に迎え入れられた場面を描いている、としばしば説明されます。しかしそれは本当でしょうか。ここにある人々の叫びは詩編118篇からの引用です。「ホサナ」とは「どうかお救いください」という意味ですが、それは当時の「仮庵祭」で巡礼者たちが行列しながら歌った掛け声です。仮庵祭は、わたしたちの暦で言えば、十月頃の秋祭りです。祭りのムードは「喜び」一色。行列を組んで「ハレルヤ」―詩編113篇から118篇を歌いながら、左手にエトログ―レモンの一種を持ち、右手には三種類―なつめやし、ミルトス、川柳の枝をかかげて、「ホサナ」の句に合わせて、両手を上下左右―四方に揺り動かします。すべての方角に神の支配を感じるためです。これが「仮庵祭」の喜びの表現でした。ハレルヤ詩編は他にも過越祭、七週祭でそれぞれ一日だけ唱えられます。しかし祭りのすべての期間を通してこのように盛大に唱えられるのはこの仮庵祭のときだけです。この祭りを背景に置けば、人々の異様とも思われる熱狂ぶりもとても自然なものとして目に映るでしょう。イエスのエルサレム入城はこの仮庵祭の最中であったと考えられます。とすれば、「葉のついた枝」を慌てて「野原から切って」きたとは考えにくく、最初から手にかかげ持っていたものでしょうし、そして何よりも、エルサレムの人々がこぞってイエスを救い主として歓迎して迎え入れたというよりも、正確には、その喜びにあふれた祭りの行列の中にイエスが子ロバに乗ったまま突っ込んだ、そう受け取るのが自然です。

 エルサレムの人々は仮庵の祭りの喜びの中にありました。彼らは、十字架に架けられ、無力な姿を露呈しながら殺される人が、今、その喜びの中に来られたなどとは思いもしなかったことでしょう。仮にイエスを歓迎したとしても、それが果たして熱狂的なものであったのかどうか。本当に救い主、真の平和の王として迎え入れられたのかどうか。少なくともマルコは、そこに暗い陰りを、十字架の兆を感じ取っているように思われます。人々がイエスを歓迎したとしても、それは、イエスの驚くべき御言葉、奇跡の御業の数々を聞いていたからであり、それがローマからの解放という政治的な関心と結びついていたからでしょう。しかしそれは、神の愛の御手が今ここに、しかもすべての人々、とりわけ罪人にもたらされているという福音を語り、人々に真の悔い改めを迫っておられたイエスにとって、「誤解」以外の何ものでもなかったはずです。その時、イエスは子ロバを見つけ出し、それにお乗りになりました。それは、勇ましい軍馬ではなく柔和な子ロバに乗ることによって、人々の「誤った期待」に水を差し正しい理解を求めようとされたかに見えます。しかしそうではありません。イエスは真の王として熱狂的に迎え入れられたのではありません。ただ仮庵祭の歓喜の中に子ロバに乗って押し入って来られたに過ぎません。つまり、誤解に抗議するためではなく、「ろばの子に乗って」という預言をただ成就するために、誤解はそのままにしてそうされたのです。イエスは人々の誤解を正そうとされたのではありません。誤解をそのままに受け止め、むしろ誤解の中こそが、ご自分の進むべき道、十字架への道として入城されたのです。人はみな理解を求めます。しかし神は、救いの業をなさるにあたり、それをお求めになりません。救いの業は、人間の誤解を一切そのままにして、むしろそのただ中に、一方的になされるのです。それこそが十字架でした。子ロバに乗るイエスが示されているのはまさにそのことでした。

3月29日説教抜粋 『いのちの装いのままに』マタイによる福音書6章25~34節 沖村 裕史 牧師

 「思い悩む」という言葉が6回も繰り返される今朝の言葉は、いったい誰に向かって語られたものか。弟子たちでしょう。彼らは寝食も含め、師であるイエスと行動を共にしていました。家を離れて師に従い、各地を転々と旅して歩く。巡回伝道者の一行、そう言うと聞こえはいいのですが、実態はホームレスの集団です。貧しく食にも事欠く日々に耐えなくてはなりません。そのため、弟子入りに際しては、それまでの人間関係も含めて、すべてを捨てる覚悟が求められました。空腹を抱えて麦畑を横切り、星空を仰ぎながら野宿することもめずらしくなかったでしょう。直前24節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」もまた、天の父なる神に従う者となるために、地上の富を求めず、むしろそれを放棄することを弟子たちに求めるものです。イエスはこの教えに続けて、弟子たちに向かって「だから、言っておく」と語り始められます。

 弟子たちは、すべてを棄てて、何の保障もなく、ただ父なる神からの助けにのみ支えられて、神の国の福音を宣べ伝えるイエスの後に従って行きました。当然「思い煩い」の日々であったでしょう。イエスはそんな弟子たちの姿を見つめながら今朝の言葉を語られました。とすれば、これは弟子たちへの厳しい叱責の言葉などではなく、日々思い悩むことの多い、貧しく困窮する弟子たちへの愛と慰めの言葉であったのでしょう。弟子たちは、空の鳥を指さすイエスの言葉に、造り主なる神の愛が身におし迫るのを覚えたに違いありません。

 そもそも、この「思い悩む」には「心配する」「心を配る」という意味があり、元々は、自分の心を一つひとつに配分すること、向けることです。この言葉が、野の花の姿、空の鳥の生き方との関わりの中で語られています。空の鳥は種も蒔かず、刈り取ることも、倉に納めることもしない。また野の草花は働きもせず、紡ぎもしない。つまり鳥や花は、一つひとつの事柄について心を配ることをしていない。それでも草花は美しく咲き、鳥は空を飛び、そこに悩みも悲しみも見出せない。なぜか。それは、自分の命も体もすべてを、大地にあるいは大空に委ねているからです。イエスが「思い悩むな」と何度も言われたのは、心を一つひとつに配っているのは、神であって、あなたたちではない。だから、あなたたちはただ神にすべてを委ねなさい、そう言われているのでしょう。

 事実、私たちにこの心を配ることが本当にできるかと問われれば、否と答えざるを得ません。これができるのは神だけで、私たちにできるのは、野の草花が揺るぎない信頼をもって大地に根を張り、陽にも雨にも風にもすべてを任せているように、また自由に飛ぶ鳥が大空という広い場所にすべてを委ねているように、思い悩みをすべて神に投げ入れ、神へ信頼をすることだけのようです。

 逆に、私たちが思い悩むのは、自分の力で解決しようという思いが強く、神にすべてを委ねきれず、信頼しきれずにいるからだと言えるでしょう。自分の力で支えようとすれば、支え切れず倒れるだけです。自分の力で飛ぼうとすれば、疲れきってしまうだけです。私たちは自分の限界を知ることになるのでしょう。そしてそのとき、その向こうに大空のような広く大きな神が見えてこないでしょうか。そう思えたとき初めて「神への信頼」が生じ、これが実は、神の義と神の国を求めている姿でもあるのです。思い悩むのは私たちではなく、神のなさること。恵み、導き、祝福してくださるのは、私たちに対する神の心配りなのです。鳥は空で、野の花は大地で、身を委ねています。私たちも神から与えられた場所で、いのちの装いのままに、あるがままに生かされ生きたいものです。

 

 

 

3月22日説教抜粋 『天と地、あなたはどっち』マタイによる福音書6章19~24節 沖村 裕史 牧師

 「だれも、二人の主に仕えることはできない。なぜなら、一方を憎み、他方を愛するからである。あるいは一方を支え、他方を軽んじるからである。神と富とに兼ね仕えることはできない」。三つの言葉がわたしたちに語っていること、それは、あなたは天の父に仕えるのか、地上の富に仕えるのか、どっちなのか、ということです。「仕える」という言葉を英語の聖書は ”serve” と訳します。「仕える者」とは、serveする者、servant奴隷ということです。あなたはお金の奴隷となるのですか、それとも神の奴隷となるのですか。奴隷が、二人の人に同時に仕えることなどできようはずもありません。奴隷のいのちもその人生も、主人のもの、主人が握っています。主人が滅びれば、奴隷も生きる術を失います。両方という訳にはいきません。あなたは、どっちですか。

 そしてこう教えられます。「あなたがたは地上に富を積んではならない。むしろ、その富は天に積みなさい。…あなたの富のあるところに、あなたの心もある」。「地上に富を積んではならない」と教えます。なぜなら、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。どんなに価値ある物も、ずっとそのままの価値を保つことなどありえない。富には限界があり、最終的に頼りになるものではないからです。「『愚かな金持』のたとえ」という小見出しが付けられたイエスのたとえ話を思い出します(ルカ12:16-21)。そこでイエスは、富に、蓄財に頼ることの愚かさに加え、「神の前に豊かになる生き方」を求めておられます。「神の前に豊かになる生き方」とは「本当に大事なことを大事にする生き方」と言い換えてもよいでしょう。

 『人生の四季を生きる―教会のおとなたちに贈る34のワーク集』という本の中に、こんなワークシートがあります。「あなたは、持ち物を全部船に乗せ、『人生洋』という大海原を航海しています。『春の海』を出帆して、楽しい海の旅が続きました。ところが、予想もしなかった大嵐に遭遇!あなたの船は、大波にもまれて今にも沈みそうです。あなたの生命を守るために、船を軽くすることが必要です。あなたが大切にしている積み荷を、どれから順に海に投げ捨てるか決めてください。捨てた荷物は、二度とあなたのものにはなりません」。そして「積み荷のコンテナは10あります」とあって、そこに「①健康②生きがい③若さ④魅力⑤家族⑥名誉⑦仕事⑧能力⑨快適な生活、そして⑩財産」とあります。皆さんはどう答えられるでしょう。10の項目はどれも大切です。しかもこれらには共通点があります。すべてが神からの贈物です。ということは、いつかは神にお返しする時が必ずやって来るということです。

 愚かな金持は、お金に固執し、それを貯めることばかりに心を奪われ、何が大切なのかが見えていません。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある…目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い…その暗さはどれほどであろう」とある通りです。与えられたものを抱え込み、倉の中にしまうのではなく、与えてくださった神の御心、愛をもってそれを用いることこそが求められています。なぜなら、本当の意味でわたしを支えてくれるのは、ここにある10の事柄ではなく、それを与えてくださる神ご自身だからです。天の父に仕えるということは神のものを神に返すということでした。

 

 

 

 

3月15日説教抜粋 『顔を洗って』 マタイによる福音書6章16~18節 沖村 裕史 牧師

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」。「偽善者」。身がすくむような言葉ですが、イエスの言われる「偽善」とは何でしょう。辞書に偽善とは「本心からではなく見せかけにする善い事」とあります。「見せかけにする善い事」。悪いことをすると言うのではありません。「偽善」の問題は「見せかけ」です。人は誰でも見た目に弱いものです。見せかけで人を欺くこともできます。しかし神を見せかけで欺くことはできるでしょうか。人間が見せかけの蔭に隠した本心を見抜くものこそ神です。それなのに、それができると思って偽善的に振る舞うとすれば、それは神を見せかけでだませると見誤っている、神を信じていないのと同じです。イエスの言われる「偽善」とは、人が人を見せかけでだましていることではなく、人が神を見せかけで騙している「不信仰」のことです。偽善者たちの内に「神は生きていない」。彼らは口を開けば神ですが、見せかけの信仰で神を欺いているのです。

しかしイエスは人の目など気にするなと言われているのではありません。人を人として意識した時、何かしら緊張と恥じらいを感じ、それを周囲の目として意識するのは自然なこと、人間として大切なことです。問題は、人を見ているのは、その周囲の目だけではないということです。もう一つの目、すなわち神の目も人を見ているということです。そして神の目に見つめられていることに気づかされる時、人は自分の小ささ、弱さ、愚かさを示され、のさばっていた自我が打ちのめされ、人としての貧しさに恥じ入り、へりくだりに導かれ、心を開いて、天からのものに満たされることを切に祈る者とされます。

それこそが、悔い改めとしてのまことの断食の姿です。断食は苦しみや悲しみの表現であると同時に、悔い改め、神への方向転換のしるしでした。神の御前に今までの自分の生き方が間違っていたと認めるなら、ただ口先だけでそれまでの自分の生き方の過ちを認めるのではなく、食事も喉を通らないほどの激しい悔い改めこそがふさわしい。そう考えられました。そのことは、洗礼者ヨハネが悔い改めのしるしである洗礼を授けた時、形ばかりの悔い改めを口にする者たちに向かって「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と語った言葉からも窺い知ることができます。

イエスも、その洗礼者ヨハネの下で悔い改めの洗礼を受けられました。しかし、洗礼者ヨハネとは違って断食をするように教えられることはありませんでした。イエスの信仰は断食の中にではなく、イエスのつくられた食卓の中にありました。イエスは頻繁に徴税人や売春婦など罪人と共に食卓を囲まれました。これを見た洗礼者ヨハネの弟子たちがイエスに尋ねます。「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。イエスは答えられます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」イエスにとって悔い改めは喜びでした。

なぜか。悔い改めは、私たちが神に向きを変える前に、神が私たちにみ顔を向けてくださることによって、つまり神の赦しから生まれるからです。イエスは言われます。神をアッパ父と呼びなさい。その父の前で言葉を重ねて弁解などしなくてもよい。父はどんなときにもあなたに御顔を向けられておられる。神に生きようとしない偽善者のように、髪振り乱し、悲しい顔をする必要などない。頭に油をつけ、顔を洗いなさい。あなたは私の喜びの宴の客だ。そう言われるのです。頭に油をつけ、顔を洗う、それは宴に出で行く者の晴れ姿です。断食が喜びの祝宴に変えられるのです。キリストにおいて、この世に来られた神が私たちに代わって高い代価を支払ってくださったのです。だからこそ、私たちは喜びます。私たちは顔を洗って出直すことができるのです。

3月8日説教抜粋 『赦されて、また赦されて』 マタイによる福音書6章14~15節 沖村 裕史 牧師

今、イエスは教え諭されます。もし、あなたが本当に救われているのなら、本当に神の赦しを受け取ったことのある人なら、他の人々を赦さずにはいられないはずだ。信じる者とは、他の人々を赦さずにはいられない、そういう人たちのことだ、と。さて、私たちはどうでしょう。偽物のクリスチャンかもしれません。なぜなら、赦したくないと思っているからです。「絶対にあいつだけは」とか、「絶対にあの人だけは。あの時のあの発言、あの行為、あれだけは」と、今もずっと根に持って、夢の中にまで敵意を抱き続けているかもしれません。しかし、もし私たちが赦さなければ、私たちは神の赦しを知ることも、経験することもできません。いえそれは、私たちが未だ神の赦しを本当には経験したことがない者だということの証拠に過ぎません。

イエスさまは、そんな私たちを解放したい、そこから救いたい、と心から願っておられるのです。だから言われました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」と。人を赦すことは、私たちが赦されること、私たち自身を解放することなのです。イエスは教えられます。たとえ他の人に不満や敵意を抱くことがあっても、父なる神があなたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい、と。父なる神があなたを赦してくださったように。これがキーワードです。

私たちは赦された者です。人を赦そうと考えるその前に、クリスチャンだから人を赦さなければいけないと考えるその前に、その前にすでに私たちは赦されています。その赦しがどんなに大きなものだったのか。その赦しを受けるために、父なる神が御子キリストにおいてどれだけの犠牲を払ってくださったのか。そしてそのイエスを十字架に架けたのは誰だったのか。思い出してください。讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」の1節にこうあります。「あなたもそこにいたのか、/主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと/深い深い罪に/私はふるえてくる」。私たちが、罪のなき独り子イエスに与えた傷、与えた辱め。私たちがイエスの顔につばを吐いたのです。晒し者にしたのです。真っ裸にして鞭打ったのです。そして釘で両腕両足を十字架に打ちつけました。そのときそこにいたならば、私たちは自分の手でそうしたでしょう。いえ、今も私たちはイエスの「赦しなさい」という言葉に背き、憎みと不満と敵意をもって、イエスを十字架に苦しめ続けています。それほどひどいことをしてもなお、私たちは無条件で赦されたのだと聖書は教えます。私たちは赦されざる罪人であるにもかかわらず、赦されるとイエスは言われます。赦し、それは神の御業です。神の恵みです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださらなければ、誰にも知られなかった驚くべき「赦し」です。それを今、私たちはいただいているのです。

ホロコーストの生存者、コーリー・テンブーンの言葉です。「赦しは怒りの扉を開き、憎しみの手錠を外す鍵である。それは悲痛の鎖を断ち、利己心という足かせを断つものである」「他人を赦すことができない者は、自分が渡らなければならないブリッジを壊すことになります」。神が赦してくださったように、私たちが人を赦さないならば、私たちを救おうとして神が架けてくださったブリッジ、天の国への架け橋を自らの手で破壊することになります。「もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」のです。

天の国への架け橋を壊さぬよう、赦しましたように赦してくださいという主の祈りを教会で絶えることなく祈り続けなければなりません。私たちが人を完全に赦すことができるというのではありません。それでも、赦しますと祈り続け、赦そうとし続けることはできるでしょう。それだけが、私たちが赦された者であることの、クリスチャンであることの唯ひとつの確かな証です。

3月1日説教抜粋 『こう祈りなさい―救い出してください』 マタイによる福音書6章13節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。

この言葉を読んですぐに思い出すのは、ルカによる福音書22章39節以下に描かれる「ゲッセマネでの祈り」の場面です。39節から40節、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた」。静かに穏やかに祈られていたのではありません。今まさに捕らえられ、十字架にかけられようとしていました。その危機的な状況の中に祈りながら、弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。

「誘惑」と訳されるペイラスモスというギリシア語は、試練や試みとも訳されます。積極的な意味では試練として試みるという意味になりますが、消極的意味では堕落や滅亡への誘惑といった意味になります。現実には、試練と誘惑を区別することなどできません。わたしたちの生活のすべてが試練であると同時に誘惑でもあります。四方八方を誘惑や試練に囲まれています。そしてわたしたちはその試練や誘惑に対して実に無力です。

そのわたしたちに、イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るようにと教えられます。高みに立って、そう教えられるのではありません。イエスご自身が激しい試練や誘惑の中にありました。41節以下、「石を投げて屆くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』」。できれば十字架を回避したいと願われたのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈るイエスが「誘惑に陥らないように祈りなさい」と教えられたのです。

今日のこの祈りは、勇ましい祈りでも英雄的な祈りでも決してありません。何よりも人間の弱さ、自分の無力を知っている人の祈りです。試練や誘惑の前で、まったく無力であることをよくよく知っている人の祈りです。試練と誘惑に遭えば、あのアダムとエバのようにひとたまりもありません。この祈りは、そんな無力さの中で必死に祈る「父よ、助けてください」という祈りです。

ところが、人は、この一言をなかなか口にすることができません。「助けてください!」できるなら、そんなことを言わずにすむ、穏やかな生涯を送りたくとも、どんなに恵まれた境遇の人であっても一度や二度は思わず叫ぶはずです。もはや、自分の力ではどうすることもできず、思わず天を仰いで、「助けて!」と。聖書には「助けてください!」と叫ぶ人の姿が描かれています。イエスが通りかかったときに、「わたしを憐れんでください!」と大声で叫んだ盲人の話など。イエスは、それら必死な叫びに必ずこたえて、病気を癒し、障がいを取り除くのですが、そのときイエスはいつもこう言われました。「あなたの信仰が、あなたを救った」と。たしかに、人は頼りにならないし、弱みを見せては生きていけない社会です。しかしだからこそ、絶対頼りになり、弱みをこそ受け止めてくれる力を信じて、「助けてください」と言うしかありませんし、それを言えたときに、実は人は「もう助かった」のです。自分では自分を救えないことを思い知り、そんな自分を助ける大いなる力を、最後の最後に信じて叫んだ、そのときに、です。

自分は弱い。弱いままなのです。けれども神は強い。神がその力強い御翼の影にわたしたちを置いてくださいます。そして御子イエスこそが、わたしたちを救いに来られたお方だから、わたしたちは信仰の英雄になって「苦しみよ、来たれ」と強弁するのではなく、単純素朴に神に向かって「助けて?」と叫ぶことが許されています。それこそが、主の祈りの最後に置かれた祈りでした。

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―ゆるしてください』 マタイによる福音書6章12節 沖村 裕史 牧師

マタイでは、「罪」ではなく「負い目」です。これは、オフェイレ―マというギリシア語ですが、負債とも訳されます。そして原文の順序はこうです。

「そして、ゆるしてください、われわれに/もろもろの負債を われわれの/そのように また/われわれが ゆるした/負債者たちに われわれの」

わたしたちがいつも唱える主の祈りと異なり、マタイでは「わたしたちのもろもろの負債をゆるしてください」が先に記されます。「神さま、ゆるしてください」が先です。そのあとに「そのようにまた、わたしたちもわたしたちに負い目のある人々をゆるしました」です。大切なことは、わたしたちのゆるしは条件ではなく、それに先立って、神さまのゆるしがあることです。

そのことをはっきり知ることができるのが、同じマタイによる福音書18章23節以下です。とてつもない負債を持つわたしたちのため、イエスさまは腸を揺り動かし、ゆるしてください、とわたしたちと一緒に神さまの前にぬかずいておられます。腸を揺り動かし、我が身を切るようにしてイエスさまは、十字架にお架かりになり、わたしたちの罪をゆるしてください、と祈ってくださったお方です。そのイエスさまが一緒に祈ってくださっている祈り、それが今日の祈りです。

わたしたちが罪から目を逸らそうとするのはどうしてでしょうか。それは、ゆるしがないからです。自分の足りなさ、失敗によって、負債を背負う時、損害を与えてしまった相手にわたしたちが必要とするゆるしを乞うことができないのは、責められると分かっているからです。だから、自分の罪を認めることができない。責められると、すぐに相手の落ち度や、足りなさを責めることに転じてしまう。責任を負うべきなのが本当は誰なのか、犯人捜しに夢中になってしまう。いえ相手に責任をかぶせようとします。

しかし、神がわたしたちの罪を語られるのは、失敗しても、過ちを犯しても、責められることのない、大きなゆるしの中で、です。今一緒に祈ってくださるイエスさまは神にゆるしを願っていいと言われるのです。神は、ただゆるしの中でのみ、わたしたちを見ていてくださるのだ、ということです。ゆるされて生きることができたら、自分がある人との関係においてゆるされていると知ることができたら、そこに、本当に生きる力を与えられるでしょう。

逆に、ゆるされることがなければ、わたしたちは生きていけません。イエスさまを裏切ったユダのように、です。聖書の登場人物の中で必ずしも、ユダが特別な悪人、罪人とは言えません。事実、ユダは冷酷な悪人になり切れていません。裏切ったその後、自分の罪に苦しみます。マタイによる福音書27章3節以下です。ユダの悲劇、それはイエスさまを売り渡したこと、神の子を売り渡すという救い難い罪を犯したことではなく、罪を犯した後で間違った場所に帰ったことでした。悔い改めの言葉を告白するユダを、祭司長や長老たちは突き放します。「お前の罪はお前自身の問題だ。自分で考えろ」。ユダに必要なのは考えることではありません。ただ告白を受けとめてもらうこと、ゆるしてもらうことです。崩れ落ちる自分を抱きしめてもらうことです。しかし、そんな人はどこにもいません。死ぬしかありませんでした。たとえ踏みとどまったとしても、死んだように投げやりに生きるしかありません。

ユダが、イエスさまのもとに帰って、罪の告白をすることができなかったのは、なぜでしょうか。彼は、イエスさまの、今日のこの祈りを正しく聴くことができていなかったからです。彼にとって神は、正しいことをなし、正しいことを要求する方でした。ふさわしくない者は厳しく裁き、滅ぼされる方でした。一方、ペトロやパウロたちが出会い、信じた神は、イエスさまがこの祈りによって教えられ、あの十字架によってイエスさまのいのちによって示された、限りなく罪をゆるして、全ての人を救ってくださる、愛の神でした。そのことを心より感謝し、わたしたちの罪をゆるしたまえ、わたしたちも罪をゆるします、愛し合います、と真摯に祈り続けたい、そう願います。

2月16日説教抜粋 『こう祈りなさい―今日のパン』 マタイによる福音書6章11節 沖村 裕史 牧師

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」

「糧」と訳されているアルトスは主食にあたる「パン」のことです。「必要な糧」とあります。本当に欠かすことのできない、生きるために「必要な主食」だけが祈り求められています。だからこそ「今日与えてください」と続きます。ルカのように「毎日」でもなく、明日も明後日もその次の日もという連続性の中での「今日も」というのでもなく、あくまでも「今日」です。マタイの「主の祈り」は「今日」に集中します。「今日」を「かけがえのない一日」とします。昨日でもなく明日でもない、ただ「今ここ」をかけがえのない時として生きるように促します。

そして「今日」をかけがえのない一日として生きるということは、「明日」は来ないかもしれないと気づくことです。明日のいのちをだれも保証してくれないのです。イエスのたとえです。ある金持ちが、豊作で手にした作物を収めるために倉を大きく建て直して仕舞い込み、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と呟きます(ルカ12:16-19)。原文では「作物」は「わたしの作物」、「倉」も「わたしの倉」、「財産」も「わたしの財産」です。「わたしの」「わたしの」「わたしの」と繰り返されます。イエスは財産を持つことを否定されません。ただ、全部「わたしの」ものと言って、与えてくださっている神を忘れ、神との関係をひっくり返し、自分を神のごとくに考えている、その愚かさを問いただされます。

そしてこう続けられます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(同12:20)。天から神の言葉が響きます、「今夜、お前の命は取り上げられる」と。

「今夜」です。金持ちが「これから先何年も」と言った言葉と鋭いコントラストをなしています。明日のいのちはわからないのです。わたしたちのいのちの鍵は神が握っておられ、だれも自分で自分のいのちを自由にすることなどできません。ところがその男には自分しかありません。財産があれば生きていけるものと勘違い、錯覚しました。しかしそれは幻想です。真実は「今夜、お前の命は取り上げられる」という現実の中にあります。

そうです。人のいのちは、蓄えに依存せず、またパンにもよらないのだ、ということです。ただ、神の御心によるのだ、ということです。だからこそ、イエスはこう祈りなさいと教えられるのです。「生きるために最低限必要なパンを、いえ、いのちを、今日、与えてください」と。この日ごとの糧を求める祈りは、自分の死を直視しながら、「今日のいのち」を求める祈りである、と言ってよいでしょう。

神は、明日、肉体は滅んでも、神の復活のいのちの中で「生きよ」と言って、「わたしたち」すべてが生きることをこそ、神は望んでおられます。明日、わたしが、あなたが死ぬことがあっても、「生きよ」という神の言葉が、この祈りと共に、今日、わたしたちの心に響いています。

この祈りを祈るとき、神から「生きよ」と言って、日ごとの食物を与えてくださる神の慈しみに生きる幸いが与えられます。この祈りを祈るとき、この罪深い者を十字架によって赦し、救い、立ち帰って生きよと言って、生かしてくださる神の恵みの中に置かれます。この祈りを祈るとき、わたしたちのいのちが神のものであることを告白し、感謝するようにと導かれています。

2月9日説教抜粋 『こう祈りなさい―御国を』 マタイによる福音書6章10節 沖村 裕史 牧師

「御国が来ますように」。原文では、一度限りの決定的なことが来ますように、といったニュアンスの言葉です。決定的に来るように、そう求めていることとは何か。「御国」です。直訳すれば「あなたの国」、神の国、天の国ということです。死後の世界や天上の場所や空間を想像しがちですが、そうではありません。イエスは「神の国は見える形ではやってこない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。神の国とは、どこか遠くの別世界のことでもなく、国土や国家といったものでもなく、今ここにあるものです。そしてそれは、この後に続く祈り、願いの中に示されます。「御心が行われますように」。「あなたの意志が表されますように」です。「神の願い、神の意志」が表される所、それが神の国です。神が願いをもって支配しておられる、今ここにある世界のことです。

とすれば、支配されるその神がどのような方、どのような願いを持つ方であるのかが重要です。恐怖の対象のような神もいれば、物言わぬ神や非人格的な神もいます。暴君のような神も存在するでしょう。イエスは今ここで、「あなたの国」と祈るようと教えられます。「アッバ、父よ」と呼びかけるような親密な関係の中で、神に「あなた」と語りかけます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」だからです。暴力を振るう父をもった人には、父は恐ろしい存在でしょう。しかし父とは、子どもにとって何が必要かを知り、それを与え、守り、導く存在のはずです。父なる神は、子であるわたしたちにとって、神の国こそが必要なものであることをよくよくご存じだからこそ、イエス・キリストの十字架を通して、すべての人に必要不可欠なもの―「救い」を与えてくださったのです。「願う前から」です。何の条件も必要ありません。贈り物・プレゼントとして、無償でくださいます。無償というのですから、すべての人に開かれています。神の国とは、ただ一方的に与えられる恵みと愛が支配するところ、神の愛の御手が働くところです。たとえ、どんなにだめな人間、どうしようもない人間だとしても、いえであればなおのこと、神は救いと赦しの手を伸ばし、御国を来らせてくださいます。神の愛の御手が差し出されています。

だからこそ「御国が来ますように」なのです。わたしたちが御国に行くことを祈り願うのではありません。御国が地獄のように思えるこの世界に来るようにと祈るのです。「天におけるように地の上にも」と祈ることができるのです。なぜか。それが「御心」、神の願い、神の意志だからです。

この世にはまだ御心が行われていません。しかし御心が完全に行われているところがあります。天です。御心が天で、わたしたちの見えないところで行われているから、この世で御心が行われていなくとも、絶望しません。天において御心が行われているということが、この祈りを祈ることができる、確かな土台、根拠であり、また大きな励ましです。そもそも、イエスはどこからどこに来られたのか。天から地に、です。これこそ決定的なことです。「神の国は近づいた」と宣言されたイエス・キリストにおいて、この世に御心が始められ、天がこの世に突入してきたのです。天から来られたイエス・キリストがおられるところに、御心は行われ、救いは及ぶのです。だからこそ、「御心が行われますように」と祈ります、祈ることができます。この恵みを感謝いたしましょう。

2月2日説教抜粋 『こう祈りなさい―天の父よ』 マタイによる福音書6章9節 沖村 裕史 牧師

「天におられるわたしたちの父よ」。

イエスの祈りは「神よ」でもなく、「主よ」でもなく、ただ「父よ」と始められます。八木重吉の詩集『神を呼ぼう』の中に、「てんにいます/おんちちをよびて…」という美しい歌がありますが、イエスが実際に祈られた言葉は、アラム語の「アッバ」であったでしょう。それは「父」でもなければ、「おんちち」でもなく、「父ちゃん」です。イエスは、そば近くにいて見守っていてくださるお方として神に祈るように、と教えられます。

イエスは繰り返し、「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」と弟子たちに教えられました。恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。イエスは、今、父なる神の思いを代弁しておられます。もう少しで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のように、愛情あふれるまなざしをもって語りかけられます。「アッバ、父よ」と祈りなさい、と。

愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。傷ついた人の恐れや不安の闇はとても深く、その痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかしどれほど痛くとも、どれほど不安でも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法はたったひとつしかありません。「見て、見て」と駄々をこねる必要はありません。神はわたしたちのことをわたしたち以上によくご存知で、いつも見ていてくださるのですから、父なる神のそのまなざしを背中に感じながら、「父ちゃん、転んでもいいから、思い切ってこいでみるね」と祈りさえすればよいのです。父なる神も、大丈夫、大丈夫、そんな愛のまなざしを注いでくださるのです。

もはや、わたしたちが祈るのではない。父なる神の愛のまなざしに支えられて、わたしたちは祈ることができる、祈ることへと促されるのです。そんな祈りの体験を重ねることで、わたしたちは、祈りが互いを支える力を持つこと、祈り祈られることの中にわたしたちの人生があるのだ、ということに気づかされるようになります。自分のためだけに祈ることがダメなのではありません。祈りに良いも悪いもありません。自分のために祈るとき、その祈りがただ自分のことだけで終わるはずはないからです。人は一人では生きてはいけない、人と人の間を生きるほかない存在だからです。

その意味で、イエスが教えられる「主の祈り」が「わたしたちの父よ」と祈り始められ、この後に続く祈りの主語がすべて、「わたしたち」であることの意味と重みは、とても大きいものです。神にあって、イエスのみ名によって、「わたしたち」は祈り合う。祈り祈られて、共に生きるよう促されます。

そのことを、初代教会は「あえて祈る」と教えます。礼拝前半の「聖書のみ言葉」が終わったところで洗礼を受けていない人は退席します。その後半、「感謝の祭儀」と呼ばれる聖餐式の中で、洗礼を受けた者だけで「主の祈り」が唱えられました。その導入にあたる短い祈りが「我らあえて祈らん」でした。「あえて祈る」。「あえて祈る」べきこの祈りによって、わたしたちは神の御心を問い、ときには自分の願いに反してでも、なすべき新しい生へと押し出されていくことになります。自分の思い、この世の思いを越えた新しい生き方へと、「わたしたち」は押し出されていくことになります。嘆いたり、溜息をついたり、悔やんだり―もしそれだけなら、わたしたちは諦めるしかありません。運命だった、宿命だ、と。しかし信仰とは「祈る」ことです。「あえて祈る」ことです。主の祈りは、自分自身が、自分の思いを越えて動かされていくためにこそ、あえてなされる祈りでした。