■恐れつつ従う
ここには、二人の人とイエスさまとのやりとりが記されています。
最初は、律法学者です。山上の説教に感動し、ガリラヤでの奇跡の出来事に眼を開かれた人であったかもしれません。彼はイエスさまに近づき、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と告げます。立派な決意表明です。
ところがイエスさまは、この人の決意に水をさすかのように、わたしに従うことは並大抵のことではない、と教え諭(さと)します。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
「人の子」とは、イエスさまのことです。「あなたは、わたしの行く所ならどこへでも従って行くと言うけれど、そのわたしには枕する所もない。安住の地もなければ、心の休まる暇もない旅をしていくことになる。そのわたしに本当に従うことができるのか。」
ご注意をいただきたいのは、この言葉に先立って、イエスさまが弟子たちに、「向う岸へ行く」ようにと命じておられることです。唐突に思えるこの言葉は、この後、23節以下の場面を準備する言葉です。その小見出しに「嵐を静める」「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」とあります。つまり「向う岸」とは、単なるガリラヤ湖の東側のことではなく、悪霊の支配する、大きな戦いが待ち受けている、その場所を指しています。そればかりか、そこに向かうために舟で湖を渡ろうとしたとき、弟子たちは、いのちの危機に晒されるほどの激しい嵐に襲われます。そんな大きな試練と厳しい戦いに向けて旅立つことを、イエスさまは弟子たちにお命じになっておられるのです。
もう一つ、1世紀当時のガリラヤでは、「賢者」と呼ばれた教師の弟子たちはしばしば家を離れ、師に従って各地を転々と旅して歩くのが普通の暮らしでした。巡回伝道者の一行と言えば聞こえはいいのですが、その実態はホームレスの集団です。貧しく、食べるものにも事欠く、そんな日々に耐えなくてはなりません。「枕する所もない」というイエスさまの言葉は、単なる比喩ではなく、現実でした。空腹を抱えて麦畑を横切り、星空を仰ぎながら野宿をすることも珍しくなかったに違いありません。それが、イエスさまと弟子たち、そして従っていた群衆の姿でした。それに対して、律法学者は、安定した生活を営み、指導的な地位に立っていた人です。
イエスさまの旅は、紛れもなく「枕する所もない」歩みです。イエスさまに従うということは、厳しい試練が待ち受ける、そしてついには十字架へと至る、険しい旅路を共に歩むということです。だから悪いことは言わない、そんな覚悟もないのに、わたしに付いて行くなんて言うのはやめた方がいい。イエスさまは、そう言っておられるかのようです。
正直なところ、この厳しい言葉に怯(ひる)み、腰が引けてしまいそうになります。
しかし、そこでなお目を止めていただきたいことがあります。それは、この言葉がいわば、すばらしい決意、立派な信仰を告白した人に対して語られているということです。
ペトロのことを思い出されないでしょうか。イエスさまから「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われたとき、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と、実にすばらしい決意を表明したペトロですが、イエスさまに十字架刑が下されたその法廷の中庭で、彼は三度も「あの人のことなど知らない」と言ってしまいました。
イエスさまに従う旅路、十字架への道は厳しいのです。
イエスさまはその厳しさを、今、はっきりと教えておられます。であればこそ、その旅路をわたしたちの決意と努力によって、つまり人間的な力によって歩むことができるなどと考えたり、そういう思いで高ぶったり、誇ったりすることは、また逆に、そんな思いから人を軽んじたりすることがあるとすれば、それはとんでもなく傲慢なこと、罪深いことです。
そう、今ここで、弟子たちに、そしてわたしたちにできることは、決然として進むことではなく、ただ恐る恐る、頼りなげであっても、それでもなお、主のみ後に従うこと、ただ、それだけです。
■何を第一とするか
最初の人とのこのやり取り以上に、驚き、戸惑う他ない言葉が、さらに続きます。
もう一人は「弟子の一人」です。 この弟子は、律法学者のように自分から従いますと申し出たというのではなく、イエスさまから「従いなさい」と招かれたのでしょう。彼は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」とやんわりと断ります。「主よ、あなたは従いなさいと言われるけれど、わたしのことを、わたしの父が亡くなったことをご存知ですか。ご存じないのでしょう」とでも言いたげな言葉です。
しかしここでも、イエスさまは、驚くべき、厳しい言葉を告げられます。
「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」 Continue reading