≪説教≫
■未来と将来
京都学派の一人であり、信濃町教会の教会員であった宗教哲学者、波多野精一の『全集』の中に『時と永遠』という一文があります。愛する妻を亡くした悲しみの中に書かれたものだと言われています。
その中で、波多野は「未来」と「将来」に触れ、その二つが決して同じではない、と語ります。「未来」とは、その字のごとく「未だ来ていない時」であって、時が過去から現在を経て未来へと至る、一方向への流れとしての時間がイメージされている、と言います。当然、未来はいつでも、時がこちらから向こうへと、今の自分から遠ざかるように流れ去っていく、その先にあるものです。それに対して「将来」とは、文字通り「将(まさ)に来たらんとする時」のことであって、時の流れは、未来とは正反対にあちらからこちらへ向かって流れてきます。将来はあちらからわたしたちの現在に向かって到来する、もたらされる時です。
わたしたちは今、「小黙示録」と言われる、世の終わり、最後の審判の時、キリスト再臨の時をめぐる24章の言葉をご一緒に味わっていますが、実は、ここに語られている一連のイエスさまの言葉は、波多野の言葉を借りれば、自分とは何のかかわりなく流れ去っていく「未来」のことではなくて、今のわたしたちのところに向って到来する「将来」のこととして語られています。
シリア地方の教会で何がしかの責任を担っていたマタイは、この教会のために何をなすべきか、この教会に何を語るべきかと案じつつ、23章まで書き進んできたに違いありません。24章を前に、マルコによる福音書と手元にあった様々な資料を前にして、マタイはこう考えていたかもしれません。
「人の子」の到来としての終末のことを書かなければならないだろう。どのように書くべきか。イエスさまの十字架と復活の後、すぐにやって来ると思っていた「終末」の時は、明らかに遅れている。そのため、教会の人々から緊張感は薄れ、みんな自分勝手に生きているようにさえ見える。どうしても終末のことは伝えておかなければならない。でも、終末の到来を強調するだけでは、教会の人々の心には響かないだろう。そうだ、いつの日か分からない終末の時を語りながら、しかしそれを待ち望むこと、それにふさわしい信仰者としての生き方についてこそ書き記そう。事実、それこそがイエスさまの言われていたことではなかったか、と。
■日々の生活の中で
直前35節、イエスさまははっきりと「天地は滅びる」と言われました。「天地」の中に、被造物のすべてが含まれます。わたしたちも、です。でもこのことが、自分たちが滅びる、死ぬということを受け止めることがなかなかできません。
そこで、イエスさまは創世記のノアの出来事について語られます。ノアは隠れて箱舟を作ったのではありません。洪水が起こると声を大にして人々に訴え、森のど真ん中、人々の目の前で箱舟作りに精を出しました。しかし、人々は聞いても聞かず、見ても見ませんでした。ノアと人々との違いはどこにあったのでしょうか。神の言葉に対する姿勢の違いにあったのだと言う外ありません。神の言葉、それが警告であれ、約束であれ、そうした神が語られた言葉を額面通り受けるのか、それとも割り引いて聞こうとするのか、そうした神の言葉への姿勢に違いがあったのでしょう。
しかしイエスさまは今、そのことを責めておられるのではありません。ましてや「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないと脅しておられるのでもありません。そうではなく、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言われます。その日、その時は、父だけがご存じで、それ以外の者は、たとえ天使であっても、また子であるわたしであっても知らない、ただあなたがたの「父なる神」だけが、と言われます。
思い出してください。「祈ることを教えてください」と求める弟子たちに、イエスさまは「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えてくださいました。神を「父」と呼ぶことなど普通はあり得ないことでした。しかしイエスさまは、神を「父」と呼ぶように教えられました。しかも、実際に使われたその言葉は「アッバ」という、とっても砕けた呼び方でした。「お父さん/お父ちゃん」です。イエスさまは、そのアッバ父に、「日ごとの糧を今日、与えてください」と祈るよう教えられました。わたしの分だけ、あるいはわたしの家族だけの糧ではありません。わたしたちすべての者に「日ごとの糧」をお与えください、です。
そうです。「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないどころか、飲み食いする物を求めるようにと教えておられるのが、他ならぬイエスさまご自身なのです。ですから、飲み食いに意味がないと言われているはずはありません。飲み食いはとても大切です。めとること、嫁ぐことも大事です。ただ、その大切な日々の生活の中でも、いえ、その日々の生活の中でこそ、終わりの日が来ること、またわたしたち自身に、土は土に、塵は塵に帰る時が来ることを忘れないように、と教えておられるのです。
■ちょっとそこまで
終末は、確かにいつ来るか分からない将来のことですが、と同時に、今のわたしたちの生活の只中にもたらされるものです。そのことをルカはこう言い換えます。
「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)
では、わたしたちの生活の只中にもたらされる神の国、終末とは終末とは何でしょうか。
それは、人の死であるかも知れません。また、一日の終りの時であり、別れの時、終了の時、喪失の時かも知れません。はたまた、木々が葉を落とす時、一粒の麦が地に落ちる時、鮭が川に上りその一生を終える時も、わたしたちが目にする終末の時と言えるかも知れません。それら小さな「終末」のすべてが、誰もその日その時を知らない、あの大きな終末、人の子が到来する終末を指し示しているのではないでしょうか。
わたしたちは終末を生きているのです。イエスさまは、大きな終末の日がいつ来るかについて、エホバの証人や旧統一教会のように、あたかもそれを知っているかのようにふるまい、人々を惑わすのではなく、今ここを、終末に備えてどう生きるのかを、わたしたちに問いかけ、教えておられるのです。
ヨハネによる福音書16章12節から24節の言葉が思い出されます。
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」 Continue reading