≪説 教≫
■過去に縛られて
元旦を迎え、わたしたちは、家族や親類、友人と新年の挨拶を交わし、おせちやお雑煮を食べ、新しい年の始まりを祝います。そんな心浮き立つ元旦に、芥川龍之介がこんな一句を詠んでいます。
元日や 手を洗ひをる 夕ごころ
賑(にぎ)やかな元旦も何とはなしに気忙しく、ふと気づくと外は夕暮れ。祝いの喧騒からひとり離れ、芥川は、穏やかな気持ちで手を洗っているのでしょうか。ほっとした気持ちと少し疲れた心を、「夕ごころ」と表現しています。静かな憂愁の漂う新しい年の夕べを、ひとりしみじみと噛みしめる一句です。
しかし、わたしたちの新年はと言えば、芥川のように洗うようにして心が新しくされる時というわけには、なかなかいかないようです。高桑闌更(たかくわらんこう)という、松尾芭蕉の句風を受け継ぎ発展させた俳人が詠っています。
正月や 三日過ぐれば 人古し
新年を迎えて感慨も新たに、「今年こそは」と目標を立てたものの、正月も三が日を過ぎると正月気分も薄れ、そんなことも忘れてしまう。いつのまにか、いつもと何も変わらぬ日常生活に戻っている。高桑は、「新しく」変わることなく、「古い」ままでいる自分を自嘲気味に揶揄(やゆ)しているようです。
「新しい」年のその始まりに「人古し」とは、なんとも皮肉な言葉ですが、高桑の言葉は、わたしたちの生き様、時間感覚を言い得て、妙です。
わたしたちの「新年」は、賑やかさと喧騒の中に毎年のように巡り来て、そしてまた、いつものように過ぎ去って行きます。その「新しさ」は、確かに、昨日とも去年とも違うものかもしれません。しかし、年毎にさほど異なるものでもないようです。春夏秋冬、四季が巡るように、わたしたちの新しい年、新しい時々は、何の変哲もなく「同じように」やってきて、「同じように」過ぎ去っていく。それは、日本的な無常観、ただぐるぐると回りめぐるだけの円環的な時間感覚と呼んでいいものかもしれません。
そうした感覚に慣れ親しんでいるわたしたちの「今」は、とりわけ「明日」という時間は、新しい「時」としてよりも、むしろ、過去につながれた、過去が積み重なり、堆積された「時」として意識されがちです。わたしたちの現在や未来は、過去から説明され、過去を通して理解され、過去に基づいて決定され、過去に縛られ、そして過去に支配されることになります。温故知新と言えばまだしも、「あんなことがあったから、今こうなんだ」「今こんな状態だから、明日もきっとこうにちがいない」「あのこともこのことも忘れられない、いや決して忘れるものか」ということになりかねません。
弟子たちも、盲目の人を前にイエスさまに尋ねました。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネ9:2)
人間は弱い存在です。わたしたちは、自分たちの苦しみや悲しみを、それが大きければ大きいほど、その原因を探し出してきて、時に過去の出来事によって、時には過去にいた人に結び付けて、その理由を説明することで、苦しみや悲しみを受け入れ、納得しようとします。ところがそうする時、わたしたちは逆に、消し去ることのできない過去に囚われ、縛られて、「だからもう駄目だ」「どうしようもない」と出口のないところへと自身を追い込み、苦しみや悲しみをより深刻なものにしてしまいます。消し去ってしまいたい、しかし拭い難い過去に支配され、「自分はどうしようもない者だ」「あのことさえなければ」「あの人さえいなければ」と自分も他人をも否定する罪に囚われ、そこから抜け出せずに、もがきます。それが罪なのは、そんな時にも、いえ、そんな時にこそ、愛の神様が共にいてくださることを見失っているからです。
■見たことも聞いたこともない Continue reading