≪説教≫
■裁きとしての奇跡
イチジクの話です。この出来事もまた、イエスさまがなさった奇跡のひとつです。しかしこの奇跡は、イエスさまの他の奇跡―特に直前に描かれていた「目の見えない人や足の不自由な人たち…をいやされた」奇跡とはずいぶん異なっています。言ってみれば、「裁き」としての奇跡です。いったい、この話は何を語っているのでしょうか。
考える糸口は、直前の出来事にあります。エルサレムに来られたイエスさまは真っ先に神殿にお入りになりました。過越祭の最中です。神殿は巡礼の人々でごったがえしていました。それをご覧になったイエスさまは、何かに取りつかれたかのように、「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを」ひっくり返されます。一種、異様な姿です。そして続けて、こう言われます。
「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人々の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」
神殿が今や祈りの家ではなく、強盗の巣になってしまっている。礼拝が行われていないのではありません。毎日、たくさんの犠牲がささげられ、多くの献金がなされていました。形の上では正しい、立派な礼拝がなされていました。しかしそれを「強盗の巣」と呼ばれます。形だけで心が込められていないというのでもありません。「強盗」とは、人間の貪欲の罪のことです。
問題は、貪欲、貪りの場になってしまっていることです。人々がどのような礼拝をしているかが問われています。人々は、「律法」に基づいて「神殿」で正しい捧げものをして礼拝をすることで、自分は神様をちゃんと礼拝している、正しい者であることを確認・確証し、平安と慰めを得ようとしていました。しかしそうする中で彼らは、その礼拝に共に集っている他の人々、特に弱さや苦しみを抱えて、神様の救いを切実に求めている人々のことが目に入らなくなっていました。だからこそ「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」のでした。弱く、小さな人々が打ち捨てられている礼拝の姿を、イエスさまは「強盗の巣」とお呼びになったのでした。
そして今、葉ばかりで実をつけないイチジクの木にも、神の民と呼ばれるだけで内実のない、イスラエルの人々の貪欲さが表れていました。
■空腹を覚えられた
冒頭に「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とあります。直前17節に、「都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった」とありますから、お泊りになったベタニアで、何も食べられなかったのでしょう。
すでにお話したように、ベタニアという町の名は「悩みの家」「貧困の家」という意味です。エルサレムの人々が蔑んでつけた名前です。その「悩みの家」「貧困の家」に上がり込んで、ご馳走になろうなどとイエスさまは考えもされなかったでしょうし、どだい無理な注文というものです。受難の一週間、イエスさまがベタニアからエルサレムへと毎日のように通われたその歩みは、穢れた罪人として蔑まれていたベタニアの人々の悩みと屈辱を背負われる歩みであり、その飢えを背負われる歩みであった、と言うことができるでしょう。
その途上に、葉のよく茂ったイチジクの木があったのです。「イエスは空腹を覚えられた」とは、マルコが書いているように、本当に「飢えておられた」のでしょう。本当に飢えていたからこそ、呪われたのでしょう。
いやいや、飢えていたくらいで呪うなんて、イエスさまらしくもないと思われるかもしれません。しかし、聖書大事典の「のろい」の項目にこう書かれています。「呪いは、敵が誰かが不明なために自分で罰することができない場合、あるいは相手が強すぎるため、罰したいと思ってもできない場合に、至る所で用いられた」、また「権利を持たぬ者や暴力にさらされている者にとっては、呪うことが唯一の武器であった」と。そう、呪いとは弱者の武器、そしてその本質は、嘆き、悲しみ、怒りだったのです。イエスさまは、ベタニア村の嘆き、悲しみ、怒りを、そして飢えの苦しみを背負って歩まれました。その途上で、葉のよく茂ったイチジクに出くわしたのです。
飢えた者にその果実を提供することなく、ただ見栄えだけは芳しい、そのイチジクの木。イエスさまはそこに何をご覧になったのか。そのイチジクこそ、弱く苦しむ人々を打ち捨て自分たちの平安だけを求める、欺瞞に充ちたエルサレム、神殿そのものでした。イエスさまはそのイチジクに、呪いをぶつけられます。ベタニアの嘆き、悲しみ、怒りをぶつけておられるのです。マルコに「イチジクの季節ではなかった」とあります。そんなことが問題なのではありません。せっぱ詰まった飢餓に苦しむ人に、まだその季節ではないから気長に待ちなさいなどとはとても言えません。むしろ、呪わざるを得なかったイエスさまの思い、ベタニアの思いをこそ、わたしたちは読み取り、受け止めなければなりません。
■呪われる者となって
この時のイエスさまのお顔はきっと、子ロバに乗って入城された時の「柔和な」お顔ではなく、緊迫感に包まれた厳しいお顔だったに違いありません。
イエスさまは三年の公生涯を歩んでこられました。弟子たちを育て、福音宣教に心血注いで来られました。しかし、「神の民」と呼ばれるイスラエルの民、エルサレムの人々はその福音を受け入れません。そして、この数日後には十字架が待っています。地上の生涯の清算の時です。だからこそ、イエスさまは目を覚まして欲しかったのです。自分の足元の危うさに気づいて欲しい。寝食を共にし、ご自身の心血を注いで教え育てて来た弟子たちすら分かっていないのです。気づいて欲しい。目を覚まして欲しい。そんな切なる願いから、彼らの目の前で呪いの言葉を告げられたのでしょう。
「今から後いつまでも、お前には実がないように」
イエスさまはイチジクの木に向かって呪いの言葉をかけられました。しかしこの呪いの言葉は、イチジクの木だけでなく、当時のエルサレムの人々、弟子たち、そしてわたしたちにも向けられています。わたしたちの誰もが枯らされても不思議のない、貪欲で罪深い存在です。しかしイエスさまは、そのわたしたちが朽ち果てていくことを良しとはなさいません。そんなわたしたちをご覧になり、わたしたちの呪いを自らが受け自ら呪われる者となってくださいました。パウロの言葉です。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)
イエスさまは木にかけられ、呪われた者となりました。わたしたちが身に受けるべき呪いを、すべて身に引き受け、わたしたちを生かすためです。イエスさまは、呪いから最も遠い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神からの祝福をもって歩み出されたお方です。祝福を受けるのに最もふさわしい存在、それがイエスさまです。しかしそのお方が、それにふさわしくない呪いを、一手に引き受けて死に逝く道を歩まれました。十字架への道です。そこに、イエスさまのわたしたちへの愛が示されました。 Continue reading