≪説 教≫
■赦されるべきは?
西宮に住んでいた頃のことです。今は広島大学の教授をされているT先生から中古のバイクをいただき、早速そのバイクに乗って、教会に向かって走っていました。と、右側後方から追いついてきたワゴン車が、ウィンカーもつけずに急に目の前で左折しました。危ない!なんてひどい運転をする人だろう。腹を立てて、追いかけて行って注意をしました。
「危ないでしょう。あんな曲がりかたして」
すると、「うるさい。バカヤロー!」なんて無礼な。
それでわたしはどうしたか。スゴスゴとひき返しました。クヤシイ!でも、牧師になろうとする者がケンカするわけにもいきません。
ある日、教会の駐車場に勝手に駐車した車の後ろに、教会の青年が駐車したまま、どこかに行ってしまいました。さて、前に駐車した人は出ようにも出られません。「カギを教会に預けないなんて非常識な!」と怒っていましたが、どちらが非常識なのか、よくわかりません。
結局のところ、わたしたち人間はみんなエゴイストだということです。自分中心で、自分のしていることは正しくて、人のしていることは間違いだらけ。しかし、本当にいちばんひどいのは自分自身だ、とは気がつきません。
旧約聖書にも、ダビデ王が預言者ナタンから、「それは、あなただ」と罪を指摘されるところがあります。サムエル記下12章の場面です。自分の部下ウリヤの妻を奪うために彼を戦場に向かわせて殺した、その罪をナタンから告げられるまで、偉大な王と言われたダビデでさえ、自分の過ちに気がつかなかったのです。
ある時、イエスさまは、ファリサイ派の人の家に食事に招かれました。するとそこに、その町で「罪の女」というレッテルを貼られていた女が入って来て、自分の流す涙でイエスさまの足を洗って、それを自分の髪で拭い、そして足に接吻し、香油を塗りました。ファリサイ派の人は、そんなことを許しているイエスさまを軽蔑しました。するとイエスさまは、たくさんの借金を帳消しにしてもらった人と、少しだけ借金をしていてそれを帳消しにしてもらった人と、どちらが赦してくれた人をより愛するだろうかと、譬えを用いてお尋ねになりました。弟子のシモンが、「帳消しの額の多いほうだと思います」と答えると、この女性こそ、多く帳消しにしてもらったと思って誰よりも深く感謝しているのだ、と言われました。
つまり、人を裁いている間は、自分こそいちばん赦されねばならなかった者だという自覚がないのだ、ということを示されたのでした。
今、イエスさまが「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われる時、それは、赦す「忍耐」を求められたのではなく、実に、自分こそ裁く資格のない人間であることに気づけ、と言われたのではないでしょうか。
■我慢くらべじゃない
とは言え、「七の七十倍するまでも赦しなさい」と言われると、わたしたちはどうしたらいいのだろうかと考え込んでしまいます。
「我慢をしなさい。お互い人間なのだから過ちもあるだろう。赦してやりなさい」。イエスさまに教えられなくても、誰もが知っている知恵です。当時のユダヤ教の教師、ラビたちも民衆に意見を求められ、我慢して、耐えて、赦してやらなければいけないと教えたようです。でも、どこまで我慢したらよいのか。そのことが問題となりました。そこでラビたちは、「三回までは赦してやりなさい」と教えました。「仏の顔も三度まで」ということわざと同じです。三という数字は、完全数―聖なる数の一つです。三度までは神様も勘弁してくれるだろう。神様が赦してくださるなら、わたしたちも、そこまでは赦してあげなければならない。とはいえ限度があります。四度目になると、もう赦す必要はなくなる。そこまで寛容になる必要はありません。
ペトロが「七回までですか」という問いは、この「三回まで」という世間の常識の超えるものでした。驚きの言葉です。イエスさまは、世間の常識よりももっと深い愛を説くお方だ。ペトロはそういうことを計算に入れて、少し先回りをして、先生に褒めてもらいたいと思ったのかもしれません。世間の人は三回までと言っているけれど、もっと増やして、七回まで赦してやればよいのでしょうか。七も完全数の一つです。七回も赦せば、完璧な赦しになると思ったのでしょう。
ところが、イエスさまは「七の七十倍するまでも赦しなさい」とお答えになります。そしてその意味を説明するかのように、一万タラントンを赦した王の譬えをお話しになります。
でもこの譬え話、七の七十倍するまでも赦すのはなぜか、ということの直接の説明にはなっていません。この話の中に、たとえば、ある人がペトロの言うように自分の仲間の罪を七回までは赦してやった。ところが、八回目の罪を重ねた時に、もう我慢ができなくて殴り倒してしまったか、牢獄に放り込んでしまったかした。そういう姿が描かれていて、それに対してもっと忍耐深く、もっと愛の大きな人が、それとは別に七の七十倍するまでも赦してやった。そういう話が語られているのではありません。
もともと赦しは、道徳の問題―自分の徳の高さや寛容さの問題ではありません。一度しか赦せない人間よりも、三度まで赦せる人間の方が偉い。三度しか赦せない人間よりも、七回赦せる人間の方が偉い。七回しか赦せない人間よりも七回を七十倍するまで赦せる人間は偉い。そういう話ではありません。偉さの問題ではないのです。
七の七十倍する、それだけの忍耐力を持っている人間が四百九十回は赦せたが、四百九十一回目の罪を重ねられた時には、どうするのか。七回我慢した人間が八回目にやり返すよりも、四百九十回我慢したときの報復の方がはるかに激しいかもしれません。わたしたち人間のすることは、そういうことでしかありません。こんなに我慢してあげているのに、まだ分からないのかということになってしまうのです。 Continue reading