■ぶどう園の主人は神様
イエスさまのたとえは、こう始められます。
「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」
この農夫たちはわたしたちで、ぶどう園の主人は神様です。そして、ぶどう園はわたしたちの生きる場所、働く所、置かれている場です。つまり、このたとえ話は、わたしたちが神様の備えてくださったぶどう園でどのように生きていくべきなのかを教えようとするものです。
ぶどう園の主人はまず、農夫たちにぶどう園を貸す前に、十二分な準備をしなければなりません。ルカは「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し」としか書いていませんが、マルコは「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」と丁寧に書いています。
ぶどう園造りは簡単な仕事ではありませんでした。パレスチナは、水さえあれば豊かな土地でしたが、その多くは畑にすることもできないほど石だらけでした。邪魔になる大きな石を取り除くだけでもたいへんな作業です。次に、取り除いたその石を利用して垣根をつくり、隣地との境界線にします。さらに、野生動物による被害を防ぐために、いばらのようなとげのある植物をその垣の上に這わせます。続いて、見張りのための「やぐらを立て」、ぶどうを搾るための「酒ぶねの穴」をそのすぐ傍に掘ります。その穴は、大きな硬い花崗岩をくり抜いてつくります。大変な労力です。そこまでの準備をしてようやく、ぶどうの苗を植えるのですが、収穫できるようになるまでには三年から四年もかかります。ぶどう園の主人は、そのすべてのことを整えて苗まで植え終えたあと、農夫たちに任せて、やっと旅に出たのでした。
お話ししたいのは、神様は、わたしたちに必要なものをすべて与え備えてくださるお方だ、ということです。「雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになった」とパウロも語っているように、神様はこの世界に雨を降らせ、日を昇らせ、愛を注いでくださいます。このぶどう園の主人も、愛を与え、必要なものを備えてくれる人でした。
しかも、それだけではありません。「任せて旅に出た」とあるように、農夫を信頼しています。この主人は、収穫の時まで何も言いません。
神様はわたしたちに導きを与える方です。モーセに十戒を与え、人殺しや姦淫をしてはいけない、嘘をついてはいけない、両親を敬いなさいと言われました。そうすることで、本当に幸せになれるよ、と十戒を与えてくださいました。火の柱や雲の柱をもって、導きを与えてくださったこともあります。しかも、そのようなときには、必ず自由をも与えてくださいます。
不思議に思われるかもしれません。導きのしるしを与えながらも、その一方で自由を与えてくださるのです。エデンの園でも、木の実は食べてもよいが、一つだけは食べてはいけないと言われました。自由を与え、信頼し、多くのものを託していださっていました。そして、それを用いるのはあなた自身だとおっしゃるのです。
そして何よりも、このぶどう園の主人である神様は、忍耐の神です。
収穫時の季節になったので約束の賃貸料を納めてほしいと、僕(しもべ)を遣わしました。農夫たちは、その僕を袋叩きにしました。二人目も袋叩きにし、侮辱を与えました。三番目の僕には傷を負わせました。そこで、四度目、自分の息子を派遣したところ、何と農夫たちはその息子を殺してしまいました。普通でしたら、最後の僕が傷を負わされたところで、それなりの準備もし、大きな権力を持って農夫に迫ったに違いありません。しかし、そうはされませんでした。まさに忍耐の方です。イスラエルの民は何度も裏切り、罪を犯しました。それでもなお、神様は、この民を愛し続けられ、導かれました。
神様が、愛の神であり、すべてを与え備えてくださる神であり、わたしたちを信頼して任せてくださる自由の神であり、実を結ぶようにと願っておられる忍耐の神であることを、このぶどう園の主人は教えてくれています。
■農夫は現代のわたしたち
ところが農夫たちは、その主人の言葉を無視し、拒みます。いっこうに耳を傾けようとしません。たとえ、あなたから与えられたものではあっても、その後、苦労をしてぶどうの木を育て、ぶどうの実を稔らせたのはわたしです、あなたではありません、それを今さら、というわけです。
「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」
これが、農夫たちの本音です。本当の所有者に代わり、自分が所有者になること、自分が神の座につく、ということです。
わたしたち人間は、「自分のもの」という意識を、何歳ごろから持ち始めるのでしょうか。赤ちゃんのときは「自分」という意識も「自分の」という所有感覚もないのですから、「自分のもの」という思いもなかったはずです。何も持たず、しかし、すべてがある世界。もはや記憶にはありませんが、それは間違いなく幸福な楽園だったはずです。ベッドもタオルも、ミルクもおもちゃも、すべてちゃんと用意してあって、独占欲もなければ、失う恐れもありません。両親から自分という存在を与えられ、必要な環境を整えられて、根源的な充足感を味わっていたのです。
ところが。赤ちゃんであってもいつしか所有ということを覚え、あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しいという所有欲がふくらんできます。当然それは、奪われたくない、失いたくない、という恐れを生み出し、手にしたものを取り上げられれば、火が付いたように泣きだします。幼稚園に入るころには自分のものに自分の名前を書くように教えられ、小学校に上がるころには他人のものをうらやマしく思い、中学生や高校生になって、自分は何のとりえもない、何も持っていないなどと思い始めるころ、悪魔が来て、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、耳元でささやきます。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。
そんな悪魔を拝んで苦しんでいるのが、わたしたちが生きる現代社会の姿です。蜃気楼のような繁栄の幻影に目をくらまされて悪魔を拝み、すべてを得ているようでいて、何ひとつ満ち足りていない社会。あらゆる情報、あらゆる刺激、あらゆる快楽に満ちあふれているようでいて、苦しみばかりが増していく社会。それこそ、自分のものにしたいという欲望と、自分のものにできないという不満に満ち満ちた、失楽園の本質です。
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