福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 9

★5月1日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『勇気を出して!』ヨハネによる福音書16章25~33節 沖村裕史 牧師

■裂け目の中から

 「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語りかけてくださるイエスさまのこの言葉に、わたしたちは驚く外ありません。

 このとき、イエスさまは何処で何をしておられたのか。

 穏やかな満ち足りた日々、静かな部屋で、親しく弟子たちといつものように晩餐を楽しんでおられた、というのではありません。「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう祈りながら、すぐそこに迫り来る十字架への道をまっすぐに歩んでおられました。イエスさまが望まれた道ではありません。しかし、耐え難いほどの苦難と恥辱の中にあってなお、ご自身のためにではなく、弟子たちを愛し、励まし、導くために、イエスさまは今、「勇気を出しなさい」と語りかけられるのです。

 絶望の中からの呼びかけです。イエスさまの言葉が、わたしたちの胸に力強い福音の響きを持って迫ってきます。福音は、人と神との間に横たわる厳然たる隔たり、裂け目の中から生まれてくるものです。その裂け目に、わたしたちが橋を架けることはできません。福音は、その隔たりを越えようとするわたしたちの努力とは何の関係もなく、ただ神の一方的な恵みとして、わたしたちがもう駄目だと絶望する外ないようなその隔たり、裂け目の中から、わたしたちに届けられるのです。「勇気を出しなさい」と。

 

■十字架の上で

 いざとなったときに、寄り添うべき人に寄り添うことのできない、わたしたちです。語るべきことを語ることのできない、わたしたちです。自分を守りたい一心で、この世になびき信念を取り下げてしまう、わたしたちです。迷子のように道を見失い途方にくれる、わたしたちです。わたしたちは、弟子たちと同じように、実は、足を洗ってくださるイエスさまのことを理解することのできない、不甲斐ないものです。

 しかし、イエスさまはそんなわたしたちに語りかけられます。

 「勇気を出しなさい」

 自分の罪を、自分の弱さを自分で担う勇気、強さを持ちなさい、と言っておられるのではありません。31節以下、

 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」

 イエスさまは、わたしたちのことを十分にご存知です。すべて承知の上で、わたしたちの弱さも、愚かさも、不甲斐なさも、そのすべてを十字架の上で担ってくださったのです。

 

■友愛

 なぜ、そうまでしてくださるのでしょうか。27節にこう書かれています。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

 「あなたがたを愛しておられる」「あなたがたがわたしを愛し」と訳されている「愛する」というこの言葉は、「友愛」を示す言葉です。神様と友だちなんて、そんな畏れ多いと思われるでしょうか。しかしイエスさまは、15章で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という新しい掟を示されたその後に、わたしの父があなたがたを友として愛しておられる、そして、あなたがたはわたしを友として愛する、と言われました。

 ここには、わたしたちが考えていることよりも遥かに深く、遥かに確かな、神秘としか呼びようがない、父なる神とわたしたちとの関わりが語られています。わたしたちは神と親子であるだけでなく、友人でもある。父と子の関係がただ親子であるというだけでなく、まるで友人のように親しいという思いを抱くとき、成人した息子と初めて酒を酌み交わす父親のように、わが子への新鮮な愛を覚えて喜ぶものです。そのように、イエス・キリストはご自分の父をわたしたちの友であると言ってくださるのです。そのことが、わたしたちの生きる力となります。

■奇跡

 「1949年、昭和24年4月17日復活節の朝、『天よりの大いなる声』は全国にさきがけて広島で最初に売り出された。市民17人の手になるこの手記は、奪うように市民の間に拡がっていった。人々は一本を求めて霊前に供え、死者の冥福を心こめて祈った。本を手にして、初めてわたしは心の平安を得ましたと涙ながらに告白する母もあった。百部二百部と求めて、亡き愛児の記念のために友人や縁者の間に頒つものもある。

 原子爆弾の体験は、本書を得て再び生々しく人々の心に甦ってきた。しかし、これは単なる悲劇の再現としてではない。厳粛なる平和への熱願として、天よりの大いなる声としてである」

 被爆体験を記憶として残すための魁となった「天よりの大いなる声」の改訂版に寄せられた、日本YMCA同盟の末包敏夫の一文です。この後に末包は次のようなエピソードを記している。 Continue reading

4月18日 ≪復活節第3主日礼拝≫ 『豊かに実る』マタイによる福音書13章31~35節 沖村裕史 牧師

■聞いて分かる

 今朝も、イエスさまが天の国について語られた「種」に纏(まつ)わる譬えです。イエスさまはいくつもの種の譬えと共に、繰り返し「耳のある者は聞きなさい」(9節、43節)と語られました。この譬えに注意深く耳を傾けなさいと言われます。イエスさまの譬えは決して難解なものではありません。分かりやすいものです。にもかかわらず、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。

 聞いて分かるとは、どういうことなのでしょう。

 分かるときに大切なことは、その言葉を聞きながら、具体的なイメージが心の中に浮かんでくることです。イエスさまの言葉が具体的な姿を取ってくる、そのために譬え話をなさいました。聞く人々の日常生活に材料を得て、いくつもの譬えを語られました。

 今朝の譬えは、「『毒麦』のたとえ」とその「説明」の間に挟まれるようにして置かれています。その毒麦のたとえはこう始められていました。24節以下、

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」

 「人々が眠っている間に」とあります。マルコによる福音書では、この毒麦の譬えの代わりに「『成長する種』のたとえ」が置かれ、そこには「夜昼、寝起きしているうちに」と書かれています。

 「夜昼」です。「昼夜」ではありません。なぜか。日が暮れる時から新しい日が始まると考えられていたからです。太陽が沈めば、明日になる。わたしたちとは生活感覚が違います。生活感覚が違うということは、人生の捉え方も違うということです。さあ働くぞ、というのではなくて、さあ寝るぞ、というところから一日が始まります。寝ることから起きることへ、また寝ることから起きることへと生活のリズムが作られます。床に入って、憩い安らぐ、その時に不安を抱えていたのでは眠れません。そのためでしょう。詩編には、夜、眠れない人の歌がいくつも出てきます。眠れないままに、神を想う歌です。言い換えれば、安らかに眠りにつくことができるのは、その人が神にすべてを委ねているからなのでしょう。一日、一所懸命に種を蒔いた、新しい日が来た、さあどうするか、ではありません。日暮れまでの「昨日」の働きの実りを神にお任せして床に入る、そこから「今日」が始まります。そんな寝起きが繰り返されていく中に、豊かな実りがもたらされるのです。

 今朝のからし種と同じように、蒔かれた一粒の「種」とその成長の姿の中に、天の国の象徴的な姿が映し出されます。

 わたしたち人間が知らないうちに、太陽が、雨が、大地が種を大きく成長させてくれる。だからこそ、種蒔く人は、種を蒔いた後、夜と昼が繰り返される時の自然な流れに身を委ねながら、ただじっと待つことができます。人知の及ばないところで、また人知れずひとりでに、新しい、若い芽が大地の中から顔を出し、成長し、実を結ぶ。この成長の「事実」の中に、天の国、神の支配、神の救いがあります。神の愛の御手を見ることができます。農夫は長年の経験から、この成長の驚くべき秘密を知っているので、「自然」を信頼して、安心して、時間の流れに委せて、眠りにつくことができます。農夫の知っている秘密とは、信頼の対象である「自然」の背後に、すべてを慈しみ、育んでくださる神の愛の働きがある、ということです。農夫には、具体的なイメージとして、そのことが分かるのです。

 そしていつしか、実りを刈り入れる時が訪れます。この「刈り取り」としての「収穫」は、天の国の到来、完成を思い起こさせます。わたしたち人間の思惑とは全く関わりなく、ただ圧倒的な力をもって、わたしたちにもたらされる神の支配、神の救い、神の愛。そしてそれは、この世界を覆うほどの驚くほどの豊かさを持って、今ここに始まっている、もたらされている。そのことを聞いて悟りなさい、「耳のある者は聞きなさい」とイエスさまは言われます。

 

■驚きの世界

 今朝もそんな天の国の譬えです。「からし種とパン種のたとえ」とあります。その譬えがこう始まります。

 「天の国はからし種に似ている」

 天の国の象徴として、「からし種」が選ばれます。「からし種」の「種」は、「穀粒(こくつぶ)」、穀物の小さな種のことです。そのからし種が選ばれたのは、初めはごく小さな種が成長して大きな木のようになる、驚くほどの豊かな実りを表すためです。蒔かれるときは「どの種よりも小さい」その一粒の種が、成長したときには「野菜の中でも最も大きくなり」ます。これは黒芥子のことだろうと言われます。直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラムの種、それが成長すると、3メートルにもなります。

 種の成長が段階を追って語られます。

 「ある人が(それを)取って彼の畑に蒔くと、どの種よりも小さいのに、成長すれば、野菜の中でも最も大きくなり、一本の木となる。そのため、空の鳥がやって来て、その枝の下に巣を作るようになる」

 「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。驚くばかりです。

 わたしの郷里、山口県の船木で幼少期を過ごした小説家、国木田独歩は、後に東京は富士見町教会で植村正久牧師から洗礼を授けられます。その国木田に『牛肉と馬鈴薯』という小さな作品があります。青年たちが熱っぽく将来の夢を語る場面が出てきます。ある者はダーウィンのような大科学者になりたいと語り、ある者は宇宙の神秘を解明する大哲学者や大宗教家になりたいと言います。その中で、ひとり岡本という青年が何も言わないで、ただほほ笑みながら皆の言うことに耳を傾けています。周りの者がそれに気づいて、彼に将来の夢を語るよう促すと、その青年は自分の夢は皆とは違って、「宇宙の神秘に驚くことだ」と言います。宇宙の神秘を知りたいとは言わず、驚きたいとのだと語ります。

 この「からし種のたとえ」も、天の国、神の支配、神の救いは、取るに足らない小ささと想像を絶するほどの大きさとの対比に驚嘆するほかない、そんな驚きの世界なのだ、と教えてくれます。

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★4月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『1パーセントだけでも』ルカによる福音書9章18~27節 沖村裕史 牧師

■分水嶺
 ペトロの信仰告白と続く山上の変貌は福音書の「分水嶺」である、と言われます。分水嶺。高い山、そしてその山の頂から水が右左に分かれて流れる場所です。広島にいた頃、年に四度、丸一日使って島根県の隠岐島にある教会を訪ねていました。その途中、岡山から米子に向かう中国山地の頂で、この分水嶺を目にします。列車に沿って流れている川の流れが全く逆向きになります。そこが分水嶺です。
 山登りが、若い人たち、特に若い女性の間でブームになっています。どうして人は山に登りたいと思うのか。「そこに山があるから」はよく知られた名文句ですが、わたしがそう思うのは、ただ山の向こうが見たいからです。中学校を卒業するまで、山々に囲まれた小さな盆地からほとんど出ることなく育ったわたしにとって、その思いは「山のあなたの空遠く」の歌に重なるものでした。あの山の向こう側に何があるのだろう。そんな憧れに似た思いを抱いていました。一生、あの向こう側を見ることなどないのではないか、そんな恐れを感じることさえありました。どうしても向こうを見たい。向こう側が見えれば、安心して、またここに戻って来ることができる。きっとあの向こうに何かがあるにちがいない。そう思っていました。
 小学校最後の夏休み、隣の町との境にある峠へと向かって歩き始めました。中ほどまでやって来て、振り返ったとき、暮らしている町を見渡すことができました。安らぎがこみ上げてきます。今まで自分がいた世界が広く、新しく感じられます。長い、長い山道を辿り、ようやく峠を登りつめて向こう側を見たとき、言葉にならない喜びが湧き上がりました。今まで自分に見えなかったものが見えるのです。もうしばらく下りて行けさえすれば、あそこに行き着く。その道が見えていました。
 今日の言葉が「分水嶺である」とは、ここで初めてイエスさまが、そこから先、どこに向かって坂道を下るように、まっすぐに進み行こうとしているのか、神の救いへのその道が見えるのだということでしょう。それはとりもなおさず、イエスさまとは誰かということがはっきりするということでもあります。

■だれにも言わないように
 イエスさまが弟子たちに、人々がわたしを誰だと言っているか、とお聞きになったそのすぐ後で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。
 ペトロは精一杯の思いを込めて答えます、「神からのメシアです」。
 原文は「メシア」ではなく「キリスト」です。また「神からの」ではなく「神の」です。シンプルに「神のキリストです」。イエスさま、あなたは「神のキリスト」、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」。ペトロはまっすぐにそう告白しました。
 この告白に続けて、イエスさまはこう告げられます。
 「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」
 イエスさまは今、わたしが「神のキリスト」であることを誰にも言ってはいけない、と言われます。その上で、ご自分のことを「神のキリスト」とは言わず、「人の子」とわざわざ言い換え、その「人の子は必ず多くの苦しみを受け…」と応じておられます。まるで、ペトロが「神のキリスト」「救い主なる神」と言ったそのことが言い過ぎ、間違いであるかのようです。しかし、そうではありません。イエスさまはただ、当時の人々が思い浮かべていたであろう「救い主キリスト」というその名を隠そうとされているのです。受難と、十字架と結びつかないキリスト告白を拒絶、否定しようとされているのです。
 そもそも、人の知恵で、神の御子であるイエスさまの正体を理解することなどできるのでしょうか。そうしようとするときにはきっと、そしていつも、わたしたちの中に誤解が生まれることでしょう。ペトロもまた同じです。その点から言えば、わたしたち人間は皆、分水嶺のこちら側にいるのです。向こう側が見えません。こちら側にいる人間が、あちら側にこんな道があるはずだ、この道を通って行ったら救いに至るはずだと言っているに過ぎません。あそこにイエスさまが立っておられる、あのイエスさまが指し示される道はこうだ、とみんなで見当をつけてみます。ところが、登ってイエスさまのところに近づけば近づくほど、全くの誤解であることに気づかされるのです。
 事実、「神のキリスト」という言葉は実に多くの誤解にとり囲まれていました。23章35節、十字架の場面にこんな言葉が記されています。
 「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシア〔神のキリスト〕で、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」
 ペトロが口にした「神のキリスト」という言葉がここにも出てきます。神のキリストとは、神の救いのみわざを果たす者であるはずではないか。実際に他人を救うことができた者なら、自分を救うことなど何でもないではないか。ところが救えない。「神のキリスト」と呼ばれ、救い主ぶってみても、自分のいのちさえ救えないのか、と嘲笑ったのです。
 「神のキリスト」と胸を張って告白したペトロの思いも、イエスさまを嘲った人々の思いと同じものだったのかもしれません。イエスさまの十字架、無残な死がはっきりと見えてきたとき、その告白の言葉は忽ちのうちに嘲笑の言葉に変わりました。期待と希望が深い失望と絶望に変わりました。分水嶺に立って見えていたもの、そこに立っておられるイエスさまが弟子たちのキリスト告白の中に見ておられたものは、そんな嘲笑と絶望だったのではないでしょうか。
 だからこそ、その告白の言葉を、今は誰にも言ってはならない、イエスさまはそう言われるのです。

■自分の十字架を背負って
 しかしそこでなお、イエスさまの言葉は続きます。
 「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのである」
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4月4日 ≪復活日・イースター礼拝≫ 『思い出してごらん』ルカによる福音書23章56節b~24章12節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏 喜び祝え、わが心よ (R.モーザー)
讃美歌 16 (1,3,5節)
招 詞 ローマの信徒への手紙6章8~9節
信仰告白 使徒信条
讃美歌    207 (1,3節)
祈 祷
聖 書    ルカによる福音書23章56節b~24章12節 (新159p.)
讃美歌    333 (1,4節)
説  Continue reading

★4月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『もう、与えられているのに…』ルカによる福音書20章9~19節 沖村裕史 牧師

■ぶどう園の主人は神様

 イエスさまのたとえは、こう始められます。

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」

 この農夫たちはわたしたちで、ぶどう園の主人は神様です。そして、ぶどう園はわたしたちの生きる場所、働く所、置かれている場です。つまり、このたとえ話は、わたしたちが神様の備えてくださったぶどう園でどのように生きていくべきなのかを教えようとするものです。

 ぶどう園の主人はまず、農夫たちにぶどう園を貸す前に、十二分な準備をしなければなりません。ルカは「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し」としか書いていませんが、マルコは「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」と丁寧に書いています。

 ぶどう園造りは簡単な仕事ではありませんでした。パレスチナは、水さえあれば豊かな土地でしたが、その多くは畑にすることもできないほど石だらけでした。邪魔になる大きな石を取り除くだけでもたいへんな作業です。次に、取り除いたその石を利用して垣根をつくり、隣地との境界線にします。さらに、野生動物による被害を防ぐために、いばらのようなとげのある植物をその垣の上に這わせます。続いて、見張りのための「やぐらを立て」、ぶどうを搾るための「酒ぶねの穴」をそのすぐ傍に掘ります。その穴は、大きな硬い花崗岩をくり抜いてつくります。大変な労力です。そこまでの準備をしてようやく、ぶどうの苗を植えるのですが、収穫できるようになるまでには三年から四年もかかります。ぶどう園の主人は、そのすべてのことを整えて苗まで植え終えたあと、農夫たちに任せて、やっと旅に出たのでした。

 お話ししたいのは、神様は、わたしたちに必要なものをすべて与え備えてくださるお方だ、ということです。「雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになった」とパウロも語っているように、神様はこの世界に雨を降らせ、日を昇らせ、愛を注いでくださいます。このぶどう園の主人も、愛を与え、必要なものを備えてくれる人でした。

 しかも、それだけではありません。「任せて旅に出た」とあるように、農夫を信頼しています。この主人は、収穫の時まで何も言いません。

 神様はわたしたちに導きを与える方です。モーセに十戒を与え、人殺しや姦淫をしてはいけない、嘘をついてはいけない、両親を敬いなさいと言われました。そうすることで、本当に幸せになれるよ、と十戒を与えてくださいました。火の柱や雲の柱をもって、導きを与えてくださったこともあります。しかも、そのようなときには、必ず自由をも与えてくださいます。

 不思議に思われるかもしれません。導きのしるしを与えながらも、その一方で自由を与えてくださるのです。エデンの園でも、木の実は食べてもよいが、一つだけは食べてはいけないと言われました。自由を与え、信頼し、多くのものを託していださっていました。そして、それを用いるのはあなた自身だとおっしゃるのです。

 そして何よりも、このぶどう園の主人である神様は、忍耐の神です。

 収穫時の季節になったので約束の賃貸料を納めてほしいと、僕(しもべ)を遣わしました。農夫たちは、その僕を袋叩きにしました。二人目も袋叩きにし、侮辱を与えました。三番目の僕には傷を負わせました。そこで、四度目、自分の息子を派遣したところ、何と農夫たちはその息子を殺してしまいました。普通でしたら、最後の僕が傷を負わされたところで、それなりの準備もし、大きな権力を持って農夫に迫ったに違いありません。しかし、そうはされませんでした。まさに忍耐の方です。イスラエルの民は何度も裏切り、罪を犯しました。それでもなお、神様は、この民を愛し続けられ、導かれました。

 神様が、愛の神であり、すべてを与え備えてくださる神であり、わたしたちを信頼して任せてくださる自由の神であり、実を結ぶようにと願っておられる忍耐の神であることを、このぶどう園の主人は教えてくれています。

 

■農夫は現代のわたしたち

 ところが農夫たちは、その主人の言葉を無視し、拒みます。いっこうに耳を傾けようとしません。たとえ、あなたから与えられたものではあっても、その後、苦労をしてぶどうの木を育て、ぶどうの実を稔らせたのはわたしです、あなたではありません、それを今さら、というわけです。

 「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」

 これが、農夫たちの本音です。本当の所有者に代わり、自分が所有者になること、自分が神の座につく、ということです。

 わたしたち人間は、「自分のもの」という意識を、何歳ごろから持ち始めるのでしょうか。赤ちゃんのときは「自分」という意識も「自分の」という所有感覚もないのですから、「自分のもの」という思いもなかったはずです。何も持たず、しかし、すべてがある世界。もはや記憶にはありませんが、それは間違いなく幸福な楽園だったはずです。ベッドもタオルも、ミルクもおもちゃも、すべてちゃんと用意してあって、独占欲もなければ、失う恐れもありません。両親から自分という存在を与えられ、必要な環境を整えられて、根源的な充足感を味わっていたのです。

 ところが。赤ちゃんであってもいつしか所有ということを覚え、あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しいという所有欲がふくらんできます。当然それは、奪われたくない、失いたくない、という恐れを生み出し、手にしたものを取り上げられれば、火が付いたように泣きだします。幼稚園に入るころには自分のものに自分の名前を書くように教えられ、小学校に上がるころには他人のものをうらやマしく思い、中学生や高校生になって、自分は何のとりえもない、何も持っていないなどと思い始めるころ、悪魔が来て、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、耳元でささやきます。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。

 そんな悪魔を拝んで苦しんでいるのが、わたしたちが生きる現代社会の姿です。蜃気楼のような繁栄の幻影に目をくらまされて悪魔を拝み、すべてを得ているようでいて、何ひとつ満ち足りていない社会。あらゆる情報、あらゆる刺激、あらゆる快楽に満ちあふれているようでいて、苦しみばかりが増していく社会。それこそ、自分のものにしたいという欲望と、自分のものにできないという不満に満ち満ちた、失楽園の本質です。

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3月28日 ≪棕櫚の主日礼拝≫ 『十字架からの声』ルカによる福音書23章32~43節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
前 奏   あがないの主に (G.F.カウフマン)
讃美歌   15 (1,3,5節) [日11-1,3]
招 詞   イザヤ書 56章1節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   309 (1,3節)
祈 祷
聖 書   ルカによる福音書23章32~43節(新158p.)
讃美歌 Continue reading

★3月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『くつろいでますか?』マルコによる福音書3章20~27節 沖村裕史 牧師

■ペトロの家
 20節、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」
 昔も今も変わらず、どの家にも亀裂が走っていました。
 愛に満ち、ひとつとなっているはずの家族の絆(きずな)はほころび、ずたずたになっていました。重い皮膚病、手や足の障がい、原因不明の出血、やもめであること、外国人であること、徴税人であること、貧しさゆえに律法を守ることができないでいること―そんな様々な理由から、穢れた者、罪人であると見なされ、家にいてもそこに居場所はなく、時には家から追い立てられていた人々が、孤独のうちに苦しみ、もがいていました。誰もが迷い、傷つき、ひたすらに愛を求めて生きていました。
 そんな人々のために、イエスさまは故郷ナザレを離れ、カファルナウムの家を拠点に福音を宣べ伝え、癒しの御業を行っておられました。その噂を聞きつけた多くの人々が、イエスさまたちが食事をする暇(いとま)もないほどに、そこに押し寄せてきます。ペトロの姑も、イエスさまに病を癒していただいて以来、イエスさまの身のまわりのお世話をしていました。この時も、しばらく山に行って留守しておられたイエスさまがお帰りになるというので心待ちにし、イエスさまを家に迎え、イエスさまのお体を気遣ってハラハラしていたはずです。一所懸命つくった食事を口にされる時間もないからです。
 群衆も、弟子たちも、ペトロの姑も、イエスさまと共に生きることを望み、喜んでいる、まるでひとつの家族のようでした。

■気が変になっている
 そんな場所に、群衆や弟子たちとは全く違う態度を見せる人々が登場します。
 21節、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」
 「気が変になっている」。この言葉のもともとの意味は、「自分の存在、自分のあるべき場所の外へ出てしまう」です。あるべき場所―「常識」の外に出てしまうことです。それが「気が変になっている」ということです。
 わたしたちが大人になって行くとき、誰もが、「常識」と呼ばれる世界観、既成の枠の中に自分を位置づけ、自らのアイデンティティを形成します。アイデンティティとは、それがなくなったらもう自分だとは言えない、そんな「何か」のことです。その「何か」が様々な形で、人を支配しています。人は自分が何かでないと不安なので、常に自分が何であるかを確かめようとし、さらに何かであろうとし続けます。しかし「何かである」ことは「自分である」こととは違います。「何か」とはほとんどの場合、旧来の慣習や見方であり、逸脱を許さない一つの制度や枠組みです。それが「常識」と呼ばれるものです。
例えば、「自分は女である」というとき、それは単に生物学的な分類を言っているのではなく、わたしは「女」という慣習や文化、制度や枠組みに支配されています、と言っているのです。よく言われるように、「人は女に生まれてくるのではなく、女にされていく」のです。
 わたしたちの世界では、その「常識」と呼ばれる世界観に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な、おかしな人間と見做されます。誰もが一度ならず「世間体を考えなさい。そんなことをして恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中、地域にいることは、身内の恥、地域社会にとってはリスクでしかありません。
 そこで、わたしたちは、家族、地域社会、組織の誰かが問題を起こしたとき、その人のことを理解しようとするよりも先に、家族の、地域社会の、組織の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。その人との関係、絆を回復しようというのではありません。むしろ関係を断ち切って、外に出さないようにします。ここでも、家族がイエスさまを自分たちの手の中にもう一度引き戻そうとしたのは、イエスさまのためではなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
 イエスさまがご自分の生家を出て、カファルナウムの家、弟子であるペトロの家をご自分の家と定められ、そこを自分にふさわしい家とされましたのは、なぜか。それは、「常識」に囚われて、イエスさまを縛り付け、抑えつけようとする「身内」のところではなく、ひたすらに愛を求め、共に生きることを望み喜びとする多くの人々、弟子たちのいるところにこそ、まことの家がある、本当の家族がいる、そう思われていたからでしょう。それが49節以下のイエスさまの言葉の意味なのでしょう。
 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」

■ 神の国
 自分の家に帰ってきた、あの放蕩息子の物語が思い起こされます。過ちを、罪を犯した者であっても、いえ、であればこそ、本当に休めるところ、心から寛(くつろ)ぐことができるところ、それが、まことの家、本当の家族ではないでしょうか。寛ぐことのできる居場所です。
 「寛ぐ」という言葉はもともと、物が固いままではなく、それが柔らかくなっていく時、あるいは柔らかくなっているものが発する音を聞き取って、「寛ぐ」と言い表したのだ、と言います。また「寛ぐ」は、口を開くという意味の言葉である「くち、ひらく」、それが「くつろぐ」になったのだ、とも言います。確かにそうです。わたしたちは緊張していると、口をぐっと閉じて開こうとしません。特に心が頑なになっている時には、口をつぐんでしまいます。こどもたちがときどき放心状態になったり、ぼんやりしたりすることがあります。そんなときは決まって、かわいい口をポカンと空けています。わたしの幼い時の写真にさえ、そういう写真があります。
 家というのは、家族というのは、口を開こうが、何をしようが、全く無防備でいることができる場所。「どこまでも共にあろう」とすることのできる場所。それこそ、寛ぎであり、憩いです。寛ぐ姿は、強い緊張(ストレス)から解放されて、緩められている、いわば「あるがままに共にある」ことのできる人の姿です。
 そのように寛ぐためにこそ、イエスさまは、わたしたちのところに来られ、「神の国」を宣べ伝えられました。もう神の国が来ている。神様が共にいてくださって、霊によって働いてくださり、神の愛の御手が差し出されている。今こここそ、わたしたちの寛ぎと憩いの家、まさに神の国だと言われます。
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3月7日 ≪受難節第3主日礼拝≫ 『ふさわしくないままで—聖餐(6)』コリントの信徒への手紙一11章17~22, 27~29節 沖村裕史 牧師

■言葉だけでなく

 教会では、洗礼(バプテスマ)を受けたいと希望する人に、「どうして洗礼を受けようと思うのですか」と、ひと言だけお聞きします。すると、それぞれに違った答えが返って来ます。信仰の道は、十人いれば十人、すべて違います。中に、ひと言、ふた言言いかけて、何も言えないで涙をこぼす人がおられました。言葉も大切ですが、その涙が多くのことを語っていました。信仰によって人と人が出会うとき、振る舞い、まじめな姿が重んじられます。

 教会は続けて、これからも続いて集会に出席するよう、特に聖餐を重んじこれを守るようにと勧め、洗礼のときには、神と全会衆の前で、誠実にこれを守ることを約束していただきます。こうして、洗礼を受けられた方は、「現住陪餐会員」と呼ばれることになります。

 人は、その心にあるものを言葉で言い表しますが、言葉だけでなく、振る舞いや動作でも表します。キリスト教は、聖書の宗教であると言われます。しかし、言葉だけでは表せない、振る舞いや動作で表すより他ない、大切なものがあります。それが、洗礼と聖餐と呼ばれる、二つのサクラメント(聖礼典)です。

 

■主の晩餐

 イエスさまは、会堂で、また海辺や山で人々に語りかけられました。それだけでなく、弟子たちや徴税人や罪人たちと共に食事をされました。特に、十字架―死の前夜、エルサレムの宿の二階で、弟子たちと「最後の食事」を共にされました。そこにいたのは、イエスさまを裏切ったユダ、イエスさまを三度も知らないと言ったペトロ、イエスさまを見捨てて逃げまどった弟子たち―すべて罪人でした。そうなることを承知の上で、イエスさまは、弟子たちと共に食事をされました。

 イエスさまの死後、弟子たちは集まって、そのときのことを想い起しつつ語り合い、そして共に食事をしました。教会はやがて、信徒たちが一つの場所に集まって、賛美し、祈り、言葉に耳を傾け、信仰を告白するようになりましたが、20節に「一緒に集まって…主の晩餐を食べる」とあるように、その頂点は「主の晩餐」でした。

 ウィリアム・ウィリモンの著書『日曜日の晩餐』の中に、その時の様子がこんなふうに描かれています。

 日曜日の夕方、安息日の後にエルサレムでの普段の生活が再び始まる日のことです。太陽が沈みかけ…商人たちは品物を片付け、労働者たちは街角でごった返し、一人の農夫が一匹のロバを馬小屋の中から家の方へと誘い出していました。…目を凝らすと、建物の後ろへとつながる小さな扉の中に入って行く、男や女たちが見えます。老いた者や若い者、ローマ人の奴隷、金持ちそうなユダヤ人の夫婦、明らかに街の外からやってきた羊飼いと思われる年老いた男、服装から判断して役所に雇われているに違いない若い男、顔をベールで隠す二人の若い女など、たくさんの人が入り混じっています。彼らの持っているランプの光が入り口で揺らぎ、そして消えていきます。彼らは何のために集まっているのでしょうか。…

 30名か40名のグループが、シンプルな木製の食卓の周りに集まっています。その大きい部屋の中で、一人の男がひとつの巻物から、ヘブライ人の預言者が書いたと思われるものを読んでいます。その顔がふたつの小さいランプによって照らされます。彼が読み終わるまで、人々はじっと耳を傾けます。彼は巻き物を巻いて、後ろの方へと退きます。年老いたひとりの男、明らかに人々から敬意を払われている様子の人が、光の中を前の方へと足を踏み進め、そして話をし始めます。彼は説教の中で、聖なる書物で聞いてきたことを自分たちの生活の中で成就するようにと会衆を励まします。

 年老いた男が説教を終えると詩編歌が歌われます。それからすべての人が手を上げ、天に向かって目を開き、手を伸ばして、一人ずつ、他者のための短い祈りを捧げます。彼らの中には、皇帝を拝むことを拒んだために処刑された者がいました。彼らはその人のために祈ります。他に、裁判を待ちながら、拘留されている者もいます。彼らはその人たちのためにも祈ります。病気、迫害、貧困、子どもの誕生―それらすべてのことを祈ります。祈りは、すべての人たちのアーメンで終わります。彼らは祈りを閉じ、夕方の食事の準備をするにあたって、「平和のキス」と呼んでいるものをもって、互いに抱き合います。

 今、(「給仕に奉仕する執事」を意味する)ディアコンと呼ばれる人たちが会衆の間に移動し、人々が持ち寄った葡萄酒の瓶と小さなパンを集めます。食べ物は集められ、食卓の上に置かれます。新鮮なパンと新しい葡萄酒の香りが会場を満たします。司祭は、食卓の後ろに立ち、献げものの上に彼の腕を伸ばして感謝の祈りを捧げます。祈りの中で彼は、世界の創造に、神の愛に、そしてイエス・キリストに示された神の御業に感謝を捧げます。彼は、二階の部屋で弟子たちと共にされたキリストの食事のことを、キリストがパンを裂き、「わたしの記念としてこれを行いなさい」という言葉をもって、彼らにパンと杯とをお与えになったことを思い起こさせます。

 祈りは、すべての人が大きな声で言うアーメンをもって終わります。

 一人ひとり、祝福された大きなパンの一片(ひとかけら)を与えられ、それぞれがひとつの大きな杯から葡萄酒を少しずつ回し飲みします。すべての人が食べた後、執事は残ったパンと葡萄酒を集めます。残ったものは、会衆の中の孤児と未亡人に与えられます。厳しい迫害のために、養わなければならない多くの人がいました。病気や困窮にある人々もまた献げものから受け取ることになるでしょう。執事が食物を亜麻布に包(くる)んで欠片(かけら)をきれいにすると、司祭は「富める者が貧しい者を助けるために来て、わたしたちはいつも一緒にいることになる」と言葉を付け加えます。その後、司祭は人々の上に彼の手を挙げて祝福します。…

 彼らは食べ物を与えられました。彼らは養われました。彼らは主とずっと一緒でした。そして今、この世界に戻る準備が整います。この世界へと戻る道を照らすランプをそれぞれが灯しつつ、扉を出て、暗闇の中へと滑り込みます。

 彼らは日曜日に集まりました。この主の日に、彼らは集まって、読み、聞き、祈り、宣べ伝え、そして食べました。

これが主の晩餐です。[i]

 

■ふさわしくないままで

 主の晩餐のときに読まれていたのが、コリントの信徒への第一の手紙11章23節から26節までに記されている言葉でした。しかし問題は、その後27節から29節です。わたしも、そして皆さんも気になる言葉です。

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★3月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『手を差し伸べて、触れて』ルカによる福音書5章12~26節 沖村裕史 牧師

■千切れほどの愛
 今日は、二つの言葉に注目して、お話しをしたいと思います。
 ひとつは、13節の言葉です。
 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」
 誰でも病気になります。それはごく当たり前なことです。ところが、当時のユダヤでは、その病ゆえに、地域社会から、家族からも見捨てられ、つまはじきにされて失望し、苦しんでいるたくさんの人たちがいました。特に、治る見込みのない重い病は、その人の罪ゆえ、罪の穢れゆえだと信じられ、病人に触れることさえ禁じられています。その戒めを守らず、病人に触れた人は、その人自身もまた罪穢れると信じられていました。
 しかし、イエスさまは、はっきりと言われました、「よろしい。清くなれ」。直訳すれば、「わたしの心です。きよくなれ」です。「わたしの心」とは「わたしが願うこと」ということでしょう。上から目線で「まあ、いいだろう」と言われたのではなく、「わたしは心から願っています」、そう言われて、重い皮膚病に苦しむ人を癒されました。
 このことから気づかされる第一のことは、イエスさまの憐れみ、神様の愛です。
 ここには記されていませんが、イエスさまが癒しのみ業をなさるときには決まって、「深い憐れみ」によってそうされたと記されています。同じ出来事を記すマルコによる福音書には、「深く憐れんで」とはっきりと書かれています。イエスさまが手を触れられたのは、この病人を憐れんでくださったからです。当時の人々が避けて通った病人のところを、イエスさまは避けることなく、むしろ深く憐れんで、手を差し伸べられました。深く憐れむという言葉は、腸(はらわた)の痛むほどの思いで憐れむという意味です。聖書では、腸とはわたしたち人間の生、いのちそのものを意味します。イエスさまは、全身を重い皮膚病に覆われて苦しむこの人を見て、心の奥底から、ご自身のいのちのこととして憐れみを抱き、その人のことを愛されたのだということです。
 続く「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とは、腫れ物に触るようにして触れ、同情を示されたというのではありません。この人とひとつとなる、この人のいのちそのものに触れるということです。迷子になった自分の子どもが見つかったとき、わたしたちの誰もが、わが子がどんなに汚れていても、ぎゅっと抱きしめることでしょう。そうせずにはおれません。イエスさまが手を差し伸べて触れられるとはまさに、ぎゅっと抱きしめる、そんな感じに違いありません。
 そして何よりも、手を差し伸べて触れるということは、イエスさまもその人たちと同じように罪穢れた者と見なされ、除け者にされるということです。どこか高みから、口先だけで「清くなりなさい」と言われたのではありません。この人たちを罪の苦しみから解き放ち、罪から自由にするために、その罪と重荷、痛みと苦しみを自ら背負ってくださったのだということです。
 いのちに触れるということはまさに、わたしたちの罪を、痛みも苦しみをも、すべて引き受けてくださったということです。それほどまでに、イエスさまは愛してくださるのです。

■信仰に先立つもの
 この癒しは、イエスさまを信じて、癒しを求めた重い皮膚病の人自身の信仰によって引き起こされたのだと説明されることがあります。続くもうひとつの出来事も、中風の人をイエスさまの所に連れてきた友人たちのその信仰ゆえに、中風の人は救われたのだと言われます。
 信仰がなければ救われなかったのか、確かにそうとも言えます。がしかし、もっと大切なことがあります。それは、この人たちの信仰に先立ってイエスさまが憐れんでくださっている、神様が愛してくださっていることです。
 信仰とは、わたしたちの知識や努力の結果ではありません。信仰、それさえも神様からの賜物です。決まりや道徳を守り、法律や常識に従って、人から非難されることのない、いわゆる「立派な人間」として「清く正しい」生活を送ることが、信仰に生きることではありません。仮にそうだとすれば、わたしたちは、律法学者やファリサイ派の人々が、病気の人たちを罪人として謂われのない苦しみに陥れたのと同じように、誰かを罪に定めて裁き、その罪を理由にその人の存在を、いのちを無視し、傷つけるという罪を平気で犯すことになるでしょう。そうではなく、わたしたちの信仰、努力、何者であるのかに「先立って」、イエスさまが、神様がわたしたちを「愛していてくださっている」のです。全ての人が無条件に、あるがままに、存在そのものが愛されていることに気づかされて、わたしたちが、驚くべきその愛への感謝と信頼をもって生きる者となること、それが信じて生きるということでしょう。

■罪赦される
 その信仰を見て、イエスさまは宣言されます。
 「人よ、あなたの罪は赦された」
 この印象的な言葉を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。
 中風の人を連れて来た四人の男たちは、イエスさまのところにさえ連れて行けば、もう後は必ずどうにかなるという、絶対の信頼をもってイエスさまのもとに来ました。その信仰を見て、イエスさまはそうして連れて来られた人に、「あなたの罪は許された」と宣言されたのです。「もう大丈夫。神様が愛してくださるから、何の心配もない。今までどのように生きて来たとしても、神様はあなたを赦し、あなたを癒し、あなたを生かしてくださる」。イエスさまはそう宣言されるのです。
 律法学者たちはびっくりして文句を言います。
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2月28日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『だれが家族?』マタイによる福音書12章46~50節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

黙 祷
讃美歌  11(1,3節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節a
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
讃美歌  313(1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書12章46~50節
讃美歌  161(全)
説 教   Continue reading

2月21日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『しるしを欲しがるとき』マタイによる福音書12章38~45節 沖村裕史 牧師

■きちんと掃除したのに

 今朝のみ言葉の後半、43節から45節には「汚れた霊が戻って来る」という奇妙なタイトルがつけられています。

 汚れた悪霊が、住み着いていた人から一度は出たけれど、行き場がないので戻って来た。すると余りにきちんとしているので、仲間を引き連れてもう一度入り直した。こうして、その人の状態は一層悪くなった。そういう話です。

 首を傾げてしまいます。掃除が行き届かず、家の中がひっくり返ったような状態であれば、悪霊たちも入り直すことなどなかった、掃除をきちんとしていたのが悪かったのだ、ということになります。きちんと掃除をし、整えることの、どこがいけなかったのでしょうか。

 

■ベルゼブル論争

 このたとえ話は、22節以下の「ベルゼブル論争」の「結び」にあたります。

 悪霊にとりつかれて目も見えず、ものも言えなかった人を、イエスさまが癒されました。これを見て群衆はひどく驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言います。正直で、率直な反応です。それこそ、イエスさまによる「しるし」でした。しかし、イエスさまを罪に陥れようとしていたファリサイ派の人々は、それを悪霊の頭ベルゼブルによる業だと難癖をつけます。これがきっかけとなって論争が展開されます。イエスさまは言われます。28節、

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 働いているのは神の霊だ。その神の霊の業を通して、神の国がすでに来ている。神の支配が始まっている。神は今ここにおられる。神の愛の御手があなたたちに差し出されている。まさに福音が宣言されます。さらに続けて31節以下、

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」

 癒しの業によって悪霊が追い出された。それは、神が今ここにおられ、神の霊として働いてくださっていることの証拠だ。わたしに言い逆らう者は赦されても、神の霊が今ここに働いてくださっていることを否定する者は永遠に赦されることがない。そして、名指しではっきりと言われます。34節、

 「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」

 

■「しるし」論争

 このベルゼブル論争が「しるし」を巡る論争へと移ります。今朝の38節以下です。

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」
 
 そこまで言うのなら、そのことを証明してみなさい。その「しるし」を見せてもらおうじゃないか、ということです。

 「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

 イエスさまは、ヨナの出来事を思い出させます。

 ヨナは神から、当時の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに行って、そこに暮らす人々に悔い改めを迫るよう、命じられます。しかし彼は、その神から逃れようとし、ヤッファからタルシシュヘ行く船に乗り込みます。ところがその船が大風に遭い、沈みかけます。船では、誰のせいでこんな災難が降りかかったのか、くじを引いてはっきりさせようということになり、ヨナのせいだということになって、彼は海の中に放り出されます。放り出された彼は大きな魚に飲み込まれ、三日三晩の後に海岸に打ち上げられますが、その場所こそがニネベでした。こうしてヨナは改めて神の言葉を伝えることになり、それを聞いたニネベの人々はみな神の前に悔い改めた、という話です。

 大切なことは、ヨナが自らの力ある業によってニネベの人々を悔い改めに導いたのではない、ニネベの人々は神からヨナに与えられた預言の言葉によって悔い改めに導かれたのだ、ということです。

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★2月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『みんな一緒に』ルカによる福音書21章1~4節 沖村裕史 牧師

■こどものけんか

 小さなこどもたちが遊んでいる姿を見ていて、はっとさせられることがあります。遊ぶというと「みんな一緒に」と思われるかも知れませんが、遊びの始まりは「一人遊び」です。一人遊びが始まると、けんかが増えてきます。理由は、大抵、おもちゃの取り合いです。こどもたちにとって、周りにあるおもちゃはみんな、「自分のもの」です。保育園や幼稚園にあろうが、お店にあろうが、お家にあろうが、それはみんな、自分のものです。それで、けんかが始まります。それでも、遊びながらけんかすることを繰り返し、こどもたちは学んでいきます。おもちゃを独り占めするよりも、けんかをするよりも、ともだちといっしょに遊んだ方がもっと楽しいことに気が付き始めます。おもちゃは、「みんなのもの」で、みんなで一緒に遊ぶためのもの、ということがわかるようになります。こどもたちは、今、手にしているものを独り占めするのではなく、「みんなと一緒」ということの大切さと、楽しさを知るようになります。こうして、こどもたちは成長し、大人になっていきます。

 ところが、わたしたちが大人になって、たくさんのものを手に入れ、身につけ、それを自由に使うことができるようになると、まるで、二歳か三歳のこどもにもどったかのように、それを独り占めしようとして、又々、けんかをするようになってしまいます。

 

■やもめの「真実」

 今日のみ言葉には、そんな愚かなわたしたちの姿が描かれています。

 わたしたちが先ず、何よりも目を留めなければならないのは、金持ちたちとは如何にも対照的な、わずか二枚のレプトン硬貨―今で言えば、缶ジュース一本分のお金を神様にささげた、「やもめの姿」です。そのやもめのささげものに、イエスさまは「真実」を見出されます。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 「確かに言っておくが」とは、直訳すれば「真実をもって、わたしはあなたがたに言う」です。真実としてあなたがたに言う。真実がここにある、そのことをあなたがたに語る、ということです。

 やもめの何を真実だとご覧になったのでしょうか。

 神殿で献金を献げると、祭司が名前とその額を大声で告げ、記帳します。「だれそれ、レプトンふたつ」と大声で告げられます。恥ずかしさで身が縮むようです。

 貧しいやもめは、どのような思いで、どのような姿で、わずかばかりのお金を神様にお献げしたのでしょうか。

 「これは、ここにいる祭司に差し出したのではない、神様にささげるのだ」という信仰によるのでなければ、到底できることではありません。やもめはこのとき、ただ神様への真実をもって、その銅貨をおささげしたのでしょう。

 それでもなお、わたしたちは戸惑いを覚えます。イエスさまは言われます、

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 生活費全部を献げることが真実の尺度となるなら、今日の、また明日からの生活は一体どうなるのでしょうか。持っているものすべてを献げることは、本当に良いことなのでしょうか。ローンや教育費はどうするのか。

 金持ちたちは「有り余る中から献金した」とありますが、「有り余る中から」という言葉にも引っ掛かります。「有り余る中から」献げている人などいるのでしょうか。だれしも老後の生活費、介護の費用、病気のときの治療費のことが心配です。子どもや孫のことも考えます。心配は尽きません。「有り余る」、捨てるほどあるという人などどこにもいない、そう思われます。

 貧しいやもめは、どうして、自分の持っているものをすべて献げることができたのでしょうか。

 

■神様が与えてくださる

 その答えを、イエスさまはわたしたちに繰り返し教えてくださっていました。

 イエスさまは、蒔くことも、育てることも、刈入れることもしない、あの鳥が養われ、明日には炉に投げ入れられ、焼かれる他ない、野の花が美しく装われているように、「あなたがたの天の父は…あなたがたに必要なことをご存じである」と言われました。

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2月14日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『良い倉から取り出す』マタイによる福音書12章33~37節 沖村裕史 牧師

聖日礼拝 「降誕節第8主日」
2021年 2月 14日 式次第

前 奏  キリスト、神のひとり子よ (J.プレーガー)
讃美歌  9 (2,4節)
招 詞  詩編34篇9~10節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  53 (1,3節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書12章33~37節 (新23p.)
讃美歌 Continue reading

2月7日 ≪降誕節第7主日礼拝≫ 『救い主が罪人と一緒に』ルカによる福音書5章27~32節 沖村裕史 牧師

■もっと注意しなさい

 ウィリアム・ウィリモンは、聖餐について記した著書『日曜日の晩餐』の第四章を、こう語り始めます。

 「イエスの粗探しをしていた人たちを怒らせたのは、イエスが選んだ晩餐の同席者だった。ルカが言うように、イエスの友人たちは雑多な寄せ集めだった。徴税人、ファリサイ派の人々、売春婦たち、粗野な漁師たち、様々な女たち。ファリサイ派の人々はイエスに言い続けた、『あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない』と。

 あなたは、もっと注意しなさい。

 晩餐の食卓は、とても親密で、神聖で、輝きに包まれる、神秘的な場所なのだから、あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない。

 ある人が、全き者でも、価値ある者でも、人間らしい者でも、兄弟や姉妹でもないのなら、そのような人を晩餐に招待しないよう、注意しなさい。十分に注意しなさい。」

 

■徴税人レビ

 レビの召命の出来事と続く宴会でのイエスさまの言葉は、一世紀のパレスチナ世界へと、わたしたちを誘います。

 「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」

 当時、人頭税や土地税といった直接税はローマ人によって雇用された徴税人によって集められ、通行料、関税、手数料などは収税所で徴税請負人によって集められていました。収税所に座っているレビは明らかに徴税請負人です。徴税請負人は、そうした料金を集める権利を手に入れるために、前もって、所定の金額を税金として支払っていました。当然、集めた金の中から前もって払った金額を差し引いた残りの金は自分の懐に入ることになります。多めに徴収して私腹を肥やすこともできました。しかも、徴税請負人たちの多くは収税所のある地域の住民ではなかったようです。何の遠慮もありません。ローマの官憲に賄賂を渡し、その力をちらつかせて税を徴収するそのやり口は、あくどく、容赦ないものでした。彼らは人々から蛇蝎(だかつ)の如くに嫌われ、蔑(さげす)みの対象にさえなっていました。しかも、彼らが取り扱っていたのは、カエサル〔ローマ皇帝〕の肖像が刻印された「汚れた」金です。ウィリモンが言うように、「彼らは、詐欺師であり、裏切り者であるばかりか、偶像礼拝者でもあった」のです。

 今、イエスさまがそんなレビを「見て」、とあります。この「見る」というギリシア語は「分かる」「理解する」という意味を持つ言葉です。ただぼんやりと見たというのではありません。レビという人を知って、理解し、受け入れたということです。徴税請負人の中でレビが悪人ではなかった、とは一言も書いてありません。だれもが、その体に触れぬよう離れ、距離を取り、避けよう避けようとする。そんな中、イエスさまだけが、まっすぐなまなざしを向けて、近寄り、声をかけ、わたしのところに来なさいと招いてくださったのです。

 「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。

 この招きを受けて、レビが躊躇(ためら)う様子も見せず従ったのは、イエスさまの方からレビに近づいて来られたからであり、そして、刺々しい、険しいまなざしではなく、あるがままの一人の人間としてまっすぐに見つめる、柔らかなイエスさまのまなざしに気づいたからでしょう。

 「あるがままの一人の人間として見られる」。レビにとって、ありえないことでした。

 

■ファリサイ派の告発

 レビは、今や、イエスさまと宴会を共にする最初の人になります。

 「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」

 ファリサイ派の人々が、家の出入り口から中の様子を伺っていました。するとそこに、イエスさまと弟子たちがレビの整えたその食卓に着いておられる姿が見えます。このならず者たちと一緒に食事をするその光景は、彼らにとって思いもよらないこと、驚くべきことでした。

 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」

 ルカは、ファリサイ派の人々のことを、律法に文字通りに従うことを誇りとし、人の弱さや欠けにはいささかの関心も示さない、宗教的エリート意識の強い鼻持ちならない俗物、いかにも聖人ぶった人々として描いています。彼らは、神の律法を日々の具体的な生活の中で守るために、様々な解釈と条件を付けた規則を作り出しました。そして、それを厳しく守ることで、自分の正しさを誇ろうとしていました。イエスさまは、そんなファリサイ派の人々のことを、律法を複雑にすることに熱心で、小さな事柄に囚われ過ぎるあまり、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)と批判し、「偽善者」「白く塗られた墓」(マタイ23:27)―うわべだけの空しい者たちと呼ばれました。

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★2月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『わたしたちは神様のもの』ローマの信徒への手紙14章1~9節 沖村裕史 牧師

■軽蔑

 パウロは今、具体的で、日常的な生活の問題を通して、わたしたちに語りかけます。その問題とは何か。3節です。

 「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」

 この世の中には、生き方が違い、考え方が違う人がいます。当然のことです。ところが、そうすると、どうしても自分と考えの違う人を「軽蔑し」「軽んじて」しまいます。「軽蔑する」「軽んずる」とは、相手を重く見ないということですが、もともとのギリシア語の意味は、ただ相手を重く見ないだけではなく、存在を認めないという、もっと強い「拒絶」を意味する言葉です。そこにその人がいるのに、いないことにしてしまう、というほどの意味です。

 謙虚に、心の内にある自分自身の姿を振り返ってみると、意識してか無意識かは別にして、自分の気にいらない人を、その人はいないことにするという形で解決をしてしまっていることにハタと気づかされることはないでしょうか。そのような解決方法が、実は何の解決にもならないばかりか、自分自身のあり方をひどく歪(ゆが)めていることに愕然(がくぜん)とされることはないでしょうか。わたしたちは、人と人との関係を生きるほかない存在です。ですから、相手の存在を心の中で打ち消そうとすることは、わたし自身の存在そのものをも否定しようとすることです。仮にそうせざるを得ないとすれば、それは、とても深刻で悲しいことです。

 にもかかわらず、その時々に、その人がそこにいることが邪魔になります。しかもここでは、食べる者が食べない者を軽んずるだけでなく、食べない者も食べる者を裁いています。「裁く」ということは、「軽んずる」よりももっとはっきりと意識して、相手の罪を問い、罪ある者として非難し、罰しようとする、頑なな心です。

 

■裁く

 わたしたちは、互いを「拒絶」し、「断罪」し、疎外し合うような、頑な心を、どのように克服することができるのでしょうか。4節、

 「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」

 裁くことは決してよくないとわたしたちも知っています。なぜいけないのか。相手の人権を重んじなければならない、自由を奪ってはならないと言われるかもしれません。けれども、あなたの裁いている人、その人は他人の召使い、他人の僕(しもべ)ですよ、という言い方をするでしょうか。「あなたが裁いているのは」あなたの家の者ですか、他人の家の者ではないのですか、あなたにその人を裁く権限があるのですか。

 この「他人」という言葉は、言うまでもなく、わたしたち以外の人のことです。わたしたちは、誰のものでもなく、主のもの、神様のものなのだ、とパウロは言います。人はすべて、主のもの、神様のもの―これが人間の尊厳の根拠です。人のいのちは神様から与えられ、イエス・キリストによってかけがえのないものとして贖われたものです。それを人が裁いたり、軽んじたり、差別したり、支配したりすることは赦されません。「誰にも」赦されることではないのです。

 

■しかし立ちます

 ですから、主人である神様が引き立ててくれればその人は立つし、打ち倒されたらその人はもうどうしようもなくなる、そう言った後でパウロはすぐにこう言います。

 「しかし、召し使いは立ちます」

 確かに、わたしたちは倒れることもあるのですが、しかし、倒れても、立たしてくださるのは、神様である主人のなさることです。主は、わたしたちを立たせてくださることができるのです。僕、召し使いであるわたしたちを鞭(むち)でひっぱたいておいて、死ぬほどまで苦しめておいて、わたしはお前の主人だぞというのではなく、過ちと罪のために倒れている僕を、わたしを立たされるのです。そういう主がわたしたちと共におられ、今、わたしたちすべてを立たせてくださっている、というのです。

 そういう主がおられるのです。

 

■悲しみや苦しみ

 生きていく中で、言葉では言い尽くせぬほどの困難や悲しい出来事に出会うことがあります。そのような困難や悲しみをわたしたちが、そのままに受け入れることができればよいのですが、過去を振り返り、今を見据(みす)える時、そうした出来事の多くが如何(いか)にも理不尽に思えます。それでも、その困難を乗り越えなければなりません。そうしなければ生きていくことさえできません。

 わたしたちは、泣いて諦めようとしたり、それと気づかないままに心の中に封をして忘れ去ろうとしたり、ときには誰かを責めることで自分の重荷を軽くしたり、もしかすると、すべてを神様のせいにしたりするかもしれません。また、そのような悲しみや苦しみは、一人では担(にな)えなくても、二人であればまだ担いやすいように思え、溺れる者が藁(わら)をも掴むように、誰かにすがりつこうとするかもしれません。確かに神様は、一人では重すぎる人生の重荷を、二人で担い合うようにと男と女を造られましたが、そのようにして結ばれたパートナーであっても、悲しみや苦しみが大きければ大きいほど、それを担う合うことは決して容易なことではありません。

 

■主のもの

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