■裂け目の中から
「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語りかけてくださるイエスさまのこの言葉に、わたしたちは驚く外ありません。
このとき、イエスさまは何処で何をしておられたのか。
穏やかな満ち足りた日々、静かな部屋で、親しく弟子たちといつものように晩餐を楽しんでおられた、というのではありません。「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう祈りながら、すぐそこに迫り来る十字架への道をまっすぐに歩んでおられました。イエスさまが望まれた道ではありません。しかし、耐え難いほどの苦難と恥辱の中にあってなお、ご自身のためにではなく、弟子たちを愛し、励まし、導くために、イエスさまは今、「勇気を出しなさい」と語りかけられるのです。
絶望の中からの呼びかけです。イエスさまの言葉が、わたしたちの胸に力強い福音の響きを持って迫ってきます。福音は、人と神との間に横たわる厳然たる隔たり、裂け目の中から生まれてくるものです。その裂け目に、わたしたちが橋を架けることはできません。福音は、その隔たりを越えようとするわたしたちの努力とは何の関係もなく、ただ神の一方的な恵みとして、わたしたちがもう駄目だと絶望する外ないようなその隔たり、裂け目の中から、わたしたちに届けられるのです。「勇気を出しなさい」と。
■十字架の上で
いざとなったときに、寄り添うべき人に寄り添うことのできない、わたしたちです。語るべきことを語ることのできない、わたしたちです。自分を守りたい一心で、この世になびき信念を取り下げてしまう、わたしたちです。迷子のように道を見失い途方にくれる、わたしたちです。わたしたちは、弟子たちと同じように、実は、足を洗ってくださるイエスさまのことを理解することのできない、不甲斐ないものです。
しかし、イエスさまはそんなわたしたちに語りかけられます。
「勇気を出しなさい」
自分の罪を、自分の弱さを自分で担う勇気、強さを持ちなさい、と言っておられるのではありません。31節以下、
「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」
イエスさまは、わたしたちのことを十分にご存知です。すべて承知の上で、わたしたちの弱さも、愚かさも、不甲斐なさも、そのすべてを十字架の上で担ってくださったのです。
■友愛
なぜ、そうまでしてくださるのでしょうか。27節にこう書かれています。
「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」
「あなたがたを愛しておられる」「あなたがたがわたしを愛し」と訳されている「愛する」というこの言葉は、「友愛」を示す言葉です。神様と友だちなんて、そんな畏れ多いと思われるでしょうか。しかしイエスさまは、15章で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という新しい掟を示されたその後に、わたしの父があなたがたを友として愛しておられる、そして、あなたがたはわたしを友として愛する、と言われました。
ここには、わたしたちが考えていることよりも遥かに深く、遥かに確かな、神秘としか呼びようがない、父なる神とわたしたちとの関わりが語られています。わたしたちは神と親子であるだけでなく、友人でもある。父と子の関係がただ親子であるというだけでなく、まるで友人のように親しいという思いを抱くとき、成人した息子と初めて酒を酌み交わす父親のように、わが子への新鮮な愛を覚えて喜ぶものです。そのように、イエス・キリストはご自分の父をわたしたちの友であると言ってくださるのです。そのことが、わたしたちの生きる力となります。
■奇跡
「1949年、昭和24年4月17日復活節の朝、『天よりの大いなる声』は全国にさきがけて広島で最初に売り出された。市民17人の手になるこの手記は、奪うように市民の間に拡がっていった。人々は一本を求めて霊前に供え、死者の冥福を心こめて祈った。本を手にして、初めてわたしは心の平安を得ましたと涙ながらに告白する母もあった。百部二百部と求めて、亡き愛児の記念のために友人や縁者の間に頒つものもある。
原子爆弾の体験は、本書を得て再び生々しく人々の心に甦ってきた。しかし、これは単なる悲劇の再現としてではない。厳粛なる平和への熱願として、天よりの大いなる声としてである」
被爆体験を記憶として残すための魁となった「天よりの大いなる声」の改訂版に寄せられた、日本YMCA同盟の末包敏夫の一文です。この後に末包は次のようなエピソードを記している。 Continue reading →