■いのちの木
母の日の意味は、単に「お母さん、ありがとう」ではなく、「神様、お母さんをありがとう」です。すべてのものにいのちを与え、育んでくださる方へ感謝を捧げる日です。そんな母の日、昨日の雨が嘘のように、爽やかな朝になりました。庭の花も木も草も、みずみずしく、青々としています。いのちがあふれています。色鮮やかに咲く花も神秘的ですが、緑の美しさは格別です。山々を彩る木々の、棚田の水面を覆う苗の緑が、いのちの神秘をわたしたちに教えてくれているかのようです。
そして今ここにも、主の息吹が与えられ、いのちが躍動しています。今日のみ言葉は、そんな美しい緑に装われた「ぶどうの木」にたとえられる、まさに「いのち」についての言葉です。
ヨハネによる福音書は、平易で分かりやすいギリシア語で書かれた福音書ですが、しかしそれはとても格調高く、リズムの整った言葉で、イエスさまの言葉を伝えています。今日のみ言葉は格別です。何度も繰り返して読んでいると、イエスさまがまるで讃美の歌を歌っておられるようにさえ思えてきます。そして冒頭、ヨハネによる福音書のイエスさまは、こう賛美されます。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」
わたしはまことのぶどうの木。この「まことの」(アレーテース)という言葉は、「真理の」「真実の」「本当の」という意味です。偽物のぶどうの木がいくつもあるかもしれない、しかしわたしこそ「まことのいのちを養う木」。わたしの父なる神はそのぶどうの木を養う「農夫」、あなたがたはその木に連なる「枝」、そして、その枝は豊かに実を結ぶ、いのちを生み出す、「いのちの木」だ、そう繰り返すように歌われます。
■豊かな実
小さい時からぶどうはよく食べていても、「本当の」ぶどうの木を見たことがあるという人は案外少ないかもしれません。こどもたちを連れて日帰りのキャンプに瀬戸内の小島に出かけたときのこと、スイカが畑の土の上になっているのを見て、「スイカって、ぶどうみたいに木になっているんじゃないんだね」と驚かれたことがあります。こどもたちのイメージはぶどう棚になっているスイカだったようです。もちろん、わたしたちがそんな間違いをすることはないでしょうが、それでも、ぶどう棚になっている手のひらよりも少し大きなぶどうの房ではなく、まるで大木のような、幹が直径45センチ、枝の張りが9メートルを超えるぶどうの木になっている、5キロ以上もあるぶどうの房を見ることはなかなかないでしょう。しかし、それがパレスチナのぶどうの木でした。
今の季節、地中海の石灰質の白い大地を覆う、ぶどうの鮮やかな新緑がとりわけ美しいときですが、秋になり収穫のときを迎えると、一度に食べ切れないほどの、実り豊かなぶどうの房を、ずしりと手に感じながら持って食べることができるほどになります。
ぶどうは、ぶどうの木は、まさに豊かな実りの象徴、シンボルでした。
イエスさまはここで、わたしたちに、あなたたちの人生も、そのように実り豊かないのちを生きることができる、そう約束していてくださっています。たとえ、どんなに強い人であっても、弱い人であっても、あるいは人生の長い人であっても、短い人であっても、あるいは幸せな人であっても、不幸せな人であっても、その人の人生は、豊かに実を結ぶことができるのです。農夫である父なる神が、ぶどうの木、枝、実を豊かに育み、養ってくださるからです。言葉を変えると、永遠の神が、わたしたち一人ひとりをそのままに包み込むようにして育んでくださるからです。
信じて生きるということは、このたとえのままに言えば、わたしたちの人生が実り多く、わたしたちのいのちがあふれるほど豊かなものとされていることを確信することです。ほんの僅かな実りがあって、それを慰めとするというのではありません。実りが豊かなことを喜ぶ、たっぷりの実りに生きることができることを喜ぶのです。11節の「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」というイエスさまの言葉は、その喜びを歌い、祝福しておられる、そこに現れる神のみわざを賛美し、喜んでおられるのではないでしょうか。
■生かされ生きている
そんな豊かで美しい約束の言葉に続いて、イエスさまはエッと息を飲むような言葉を告げられます。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」
イエスさまは、わたしこそがまことのぶどうの木と言われ、イエスさまの父なる神は天の彼方に美しく、しかし冷たく静かに輝いている星のような存在ではなく、経験豊かで情愛にあふれる農夫である、と言われました。しかし今、その農夫が「実を結ばない枝はみな…取り除かれる」と言います。
イエス・キリストにつながっていて、しかも、実をつけない、とは一体どういうことなのでしょうか。
ヨハネによる福音書13章に、ペトロたちがイエスさまから足を洗っていただいたことが記されています。十字架の死という別れを前にして、イエスさまは弟子たちをもう一度、ご自身に結びつけておこうとされたのです。ご自分から弟子たちのしもべ、奴隷になって、その汚れた足を洗うことによって、です。そこにイエスさまの燃えるような、激しい「最後までの」愛があります。
それほどのイエスさまの愛、愛の奉仕に、何も感じない、何とも思わない、無関心であるなら、それは、愛そのものであるイエスさまを理解せず、拒むということです。そういう人は当然、互に愛するということをしません。互に仕え合うということもありません。そう、「実」を結ばないのです。
そこで農夫である父は、その枝を取り除いて、風通しを良くされるのです。わたしたちが、そしてイエスさままでもが、どうにかつないでおこうと努めたとしても、父なる神はこれを取り除かれるのです。 Continue reading