■結婚の祝福
「そちらから書いてよこしたことについて言えば」
コリントから様々な質問や問い合わせがパウロのもとに寄せられていました。誕生して間もないコリントの教会にとっては、信仰のことだけでなく、実際の生活上の導きをパウロに仰がなければなりません。パウロが最初に取り上げたのは「結婚について」でした。コリントの信徒たちが教会という交わりの中で共に生きようとしていたそのとき、彼らは結婚生活に関わる大きな混乱を味わっていました。いえ、むしろ結婚生活こそ、共に生きることが試され、それぞれの信仰の姿が外に現れる場所であったと言えるのかもしれません。
パウロはストレートにこう答えます。1節後半、
「男は女に触れない方がよい」
結婚はしない方がいい、肉体関係を持つこと自体避けた方がよい、ということでしょう。しかし続く2節ではこう言っています。
「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」
これは結婚の容認、いえ、ただ結婚してもよいというのではありません。「男はめいめい自分の妻を持ちなさい、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」。持ちなさい。命令です。結婚しなさい、と命じています。どういうことでしょうか。結婚はしない方がいいという1節と、結婚しなさいという2節。これはどうつながるのでしょうか。
それをつなげているのが、2節の始め「みだらな行いを避けるために」という言葉だ、と説明されます。結婚はできるだけしない方がよい。しかし人間はすべての生き物と同じように、神の創造の御業の時に「産めよ、増えよ」(創1:22,28)と祝福され、繁殖する力、性的欲求を持って造られた。いわば祝福された本能だ。ただ、それが間違った仕方で発揮され、みだらな行いに走ってしまうことがある。そのことを防ぐために、結婚して夫婦の間だけにその欲求を留めておく。そのために結婚が容認されている、と。
長くそう読まれ、説明されてきました。しかしこの読み方は正しいのでしょうか。この読み方によれば、結婚は本当はしない方がよいのだが、人間の弱さ、とめどない欲望への配慮として認められた、いわば必要悪だということになります。パウロは結婚をそういうふうに考えているのでしょうか。それが結婚についての聖書の教えなのでしょうか。だとすると、教会が結婚式を行うのは、本当はしない方がよいことをやむを得ずしている、ということになるのでしょうか。
結婚の意義について語られている最も重要な聖書箇所は、創世記2章18節以下です。そこには、人は男と女に、つまり互いに異なるものとして創造され、その相異なる二人が「結ばれ…一体となる」、結婚は神の御心によることだ、と語られます。その御心とは、18節にある「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということでした。この御心によって、向かい合って、助け合い、共に生きる相手として男と女が造られ、「ひとつ」とされたのです。神は、人が結婚して「向かい合い、助け合い、共に生きていく」ことを「良い」ことと考え、そのように人をお造りになった。結婚を必要悪として、やむを得ず認めるというのではありません。むしろ、結婚を神の「祝福」と見ています。これが、聖書の結婚観です。
パウロもまたその教えを受け入れていたはずです。その彼が「みだらな行いを避けるために結婚しなさい」と言うのは、「そもそも結婚はみだらな行いを避けるためにある」と結婚の目的を語っているとは到底考えられません。
直前6章後半からのつながりで言えば、「みだらな行いを避ける」のは、神から与えられた、かけがえのないこの体を傷つけたり、損なったりすることなく、神の栄光を現わすために用いていくためでした。そのためには、結婚をすることがふさわしい、パウロはそう勧めているのではないでしょうか。
■務めを果たす
では「男は女に触れない方がよい」とは、どういうことなのでしょうか。
実は、これはパウロの言葉ではなく、「そちらから書いてよこしたこと」の内容ではないか、と考えられます。とすれば、ここの訳は「そちらから書いてよこした、男は女に触れない方がよい、ということについて言えば」となります。最近のいくつかの英語訳聖書でもそう訳されています。コリント教会の中に、「男は女に触れない方がよい」という、結婚を否定し、独身であることをよしとする人々がいたのだ、ということです。
この独身主義は、今日見られるような、個人のライフスタイルの多様化によって起ってきたことではありません。信仰的理由によるものです。教会の中にそうした主張が出てきたことには、いくつかの理由があります。
その一つは、イエス・キリストご自身が独身であったこと、そしてこの手紙を書いているパウロも独身であったことです。7節に「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」とあるように、パウロは、自分が独身であることを喜んでいますし、それを人々にも勧めています。しかしそれは、クリスチャンは皆、そうすべきだということではありません。パウロにとって、その方が、主に仕え、主の栄光を現わしていくためには「よりよい」ことという意味でした。いずれにせよ、キリストやパウロが独身であったために、それに倣って、独身を貫こうとする人々が教会の中に出てきました。そのこと自体が問題というのではありません。しかしそこには、もう一つ別の理由があったようです。
パウロのように主に仕えるために独身でいるというよりも、聖なる者とされた信徒は、性的関係によって汚れてはならない、夫婦であっても性的な交渉は避けるべきだ、と極端な主張をする人たちがいたようです。結婚など無意味だ、肉体に関わる事柄に囚われたくない。そんな思いから結婚しない人や、わざわざ離婚して独身になろうとする人や、結婚はしていても肉体的、性的な関係を拒む人も出たようです。
しかし、パウロはそのような考えに賛成しません。すでに結婚している夫婦は性的関係を断つべきではないというのが、まずここで教えられていることです。3節に「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫に、その務めを果たしなさい」とあります。「務めを果たす」というのは、4節に「体を意のままにする」とあることからわかるように、肉体関係を持つことを含んでいます。夫婦が互いに相手に対して、その務めを果たしなさい、肉体関係を拒んではならない、とパウロは言います。肉体関係を含む結婚は、決して汚れたことや罪ではなく、創世記に「結ばれ…二人は一体となる」「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(2:24-25)とあるように、それはむしろ、神が定められたこと、祝福なのだ、と聖書が教えているからです。 Continue reading