■霊の人と肉の人
パウロがここで「あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えなかった」と語っているのは、いったいどういうことなのでしょうか。
そのことを考えるヒントとなるのが、2節後半の言葉です。あなたたちには乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。それは「まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」とあります。あなたたちは今でもまだ、固い物を食べることができない。あなたたちが信仰者となり、この教会が生まれてから、もうずいぶんと時が経つのに、いまだに乳飲み子のままで固い物を食べることができないでいる。あなたたちは成長できていない。パウロはそう言います。
そう言いながら、パウロが見つめているのは、3節のことです。
「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」
「肉の人」という言葉は、一節にもありました。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」。「肉の人」とは、まだ固い物を食べることのできない乳飲み子のことです。そして、その「肉の人」が「霊の人」との対比で語られています。「肉の人」と「霊の人」とは、2章14節以下の「自然の人」と「霊の人」のことです。「霊の人」とは、神からの霊、聖霊を受けて、神の恵みを知らされている人ということでした。それに対して「自然の人」というのは、神からの霊を受けておらず、従って神の恵みを悟ることができずにいる人のことです。口語訳聖書の「生れながらの人」です。人間は誰もが元々は「自然の人」で、神の恵みがわかっていませんでした。そこに神からの霊が与えられることによって初めて、神の恵みを知ることができるようになった。それが霊の人です。
「肉の人」とは、この「自然の人」のことです。生まれながらの普通の人間ということです。3節に、肉の人は「ただの人として歩んでいる」とあります。「ただの人」とありますが、「ただの」という言葉は原文にはありません。直訳すれば「人として歩んでいる」です。生れながらの普通の人間のままに生きている、それが「肉の人」です。
■ねたみ争い
では、肉の人、生れながらの人間であるということが、どこに表われるのか。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」ことの中に、です。
パウロがこの手紙を書き送った第一の理由はここにありました。4節にも記される、分裂と争いがあるということこそ、あなたたちがまだ肉の人であり、乳飲み子のような状態に留まっているということだ、そう言います。
ここでパウロが、この党派争いのことを「ねたみや争い」と言っていることに注目してください。党派を結んで対立し合っていくことの根本には、「ねたみ」の思いがあるものです。ねたみとは、人をうらやむ心です。人が自分よりもよいものを持っていると面白くないという心です。それはお金や持ち物だけのことではありません。才能、財力、あるいは家庭環境、性格、健康など、あらゆることに及びます。とにかく、人が自分よりも勝っている、優れていることが腹立たしいという思いです。自分がその人よりも劣っていることを思い知らされ、プライドを傷つけられるからです。
誰もがプライド、誇りをもって生きています。それを自分の心の拠り所としています。そのプライドを傷つけられることは、その人にとってナイフで切りつけられるよりも大きな苦痛となります。人を殺すのにナイフは要りません。拠り所としている誇り、プライドを徹底的に否定すればよい。それは、その人を殺すことと同じです。人はそのようなプライド、誇りに生きています。そこに、ねたみが生まれます。
そういう思いがねじ曲がった仕方で、人と人とが結びついていきます。そこでは、自分のプライドが守られ、満足するようなグループが作られます。それが党派です。そういう党派は必ず閉鎖的になります。よそ者が入って来て、自分たちのプライドが傷つけられることを嫌います。自分と違う意見が語られると、プライドを傷つけられ、人格を否定されたかのように感じてしまい、些細な違いがプライドとプライドの衝突の原因となります。プライドによって結び合う党派は、他のプライドによって結び合う党派と対立し、そこに「争い」が生まれます。そんなグループ同士の対立、争いがコリント教会にあったのでしょう。
パウロは、そのようなねたみや争いがあるということは、あなたがたが肉の人であり、乳飲み子の域を脱していないからだ、と言います。自分のプライドにこだわり、「ねたみや争い」に陥っていくのは、生れながらの人間の姿そのものです。神の霊を受け、信仰を与えられて生きる者は、そのようなことから解放され、新しくされているはずだ、パウロはそう言うのです。
■十字架の愛を知るなら
信仰者はねたみや争いから解放される。これは、信仰者たる者、自分の心を磨き、人のことをねたんだり争ったりしない者になるべきだ、という道徳的な教訓の話ではありません。パウロが問題としているのは、そうした人間的な努力のことではなく、コリント教会の人々が、神からの霊によって示される神の恵みを、本当に自分のこととして受けとめていない、そのことです。
神からの霊によって示される神の恵みとは、これまで繰り返し語られてきた、十字架につけられたキリストという恵みのことです。神がその独り子をこの世に遣わしてくださり、その十字架の死によってわたしたちすべての罪を赦し、贖ってくださったという恵みです。神がそれほどまでにわたしたちを愛していてくださっているという恵みのことです。
この恵みが本当にわかる時、わたしたちは、ねたみの思いから解き放たれます。プライドにこだわる必要がなくなるからです。わたしたちを愛し、わたしたちの罪を背負って、いのちを捨ててくださった方の中に、真実の拠り所、確かな支えを見出すことができるからです。キリストの十字架に示された神の愛を本当に知った者には、拠り所、支えを自分自身の中に確保しておこうとする必要などありません。と同時に、どちらがより優れているかと、自分と人とを比べようという思いからも解放されます。自分より優れた、よい賜物を持ち、よい働きをしている人を、自分のプライドが傷つけられるという思いで見るのではなく、その人の働きを喜び、感謝して受け入れる者とされます。それは、自分の努力によってそうするというのでなく、イエス・キリストの十字架の恵みを本当に自分のこととして受け取ることで、わたしたちはそのように新しくされていくのです。
コリント教会の人々は、この新しさに生きることができていませんでした。そのために、ねたみや争いが起こり、党派の対立が起こってきたのです。そのような状態を指してパウロは、あなたがたはまだ乳飲み子で、乳しか飲むことができない、固い物を食べることができない、と言っているのです。
パウロは、キリストの十字架による神の恵みを繰り返し、繰り返し語りました。十字架の恵みとは別の、何かもっと分かりやすい、初心者向きの教えを語っていたというのではありません。ということは、乳を飲んでいるというのは、同じキリストの十字架による神の恵みが語られているのに、それが聞く人自身のものになっていない、その人の生き方を変えるようなものになっていない、その状態を指していることになります。とすれば、乳と固い食物の違いは、語られていることの違いではなく、それを聞き、受けとめる側の違いによって生じてくる、ということになります。問題は、わたしたちがみ言葉をどう聞き、どう受けとめているか、ということでした。 Continue reading