■時間と感動
クリスマスと新年の準備に忙しいこの季節、12月師走(しわす)を迎えて、ふと立ち止まったとき、ああ、もう一年が過ぎたのか!と、毎年溜息をついている自分がいます。
以前にもお話をしたことがあるかもしれません。わたしたちの時間の感じ方は時計で刻むようなものではなく、その時間内に脳が何回強い印象を受けたか、という回数によるのだそうです。「すごくきれい」とか「わあ、おもしろい」と脳が驚きや感動を感じると、それが脳の中の「海馬(かいば)」という器官のフィルターを通って脳の深みに達し、意味のある記憶となって「カウント」されます。脳は、そのカウント量で時間を感じるので、カウントが多いほど時間は長く感じられ、カウント量が少ないと時間は早く過ぎてしまうのだそうです。
こどものうちはまだ経験したことのないことが多いので、必然的に「わあ」とか「すごい」と感じることが多く、時間も長く感じられるというわけです。確かに、こども時代は見るもの聞くものが初めてで、何もかも新鮮で、一日中、一年中「わあ」「すごい」と思っていました。家の庭で梅の木にぶら下がっているミノムシを見つけたときのことを、今も覚えています。たくさんぶら下がっている奇妙な光景にワクワクしました。その一つひとつに幼虫が入っていることにときめいたものです。
しかし、大人になった今、ミノムシを見てもワクワクなどしません。それはつまり、そのぶんだけ時間が早く過ぎてしまったということです。大人になると、あっというまに月日が過ぎてしまうのも当然のことです。もったいない気もしますが、「慣れる」とはそういうことです。無論、この忙しい毎日の生活の中で、ミノムシを見るたびに、いちいち「すごい」なんて言っていられないというのも事実ですが、下手をすると、まる一日感動のない日もありますし、もしもそれがずーっと続いたらどうなるでしょうか。
そんな時間感覚で言えば、その一年はなかったも同然ということになるのではないでしょうか。それは何も、忙しいときばかりではありません。心にかかる、不安なこと、恐ろしいこと、苦しいこと、悲しいことばかりに囚われているとき、わたしたちは、目の前にあるものの美しさやかけがえのなさを見過ごし、一日一日の大切さに気づかず、与えられている恵みを見失ってしまい、ただ日々を空しく過ごしてしまうことになります。
しかし逆に、人生を「すごい」「わあ」といった感動でいっぱいにすれば、時間は無限にあるということになります。何も特別な出来事を求めなくとも、そんなまなざしさえあれば、すぐ身近にそんな感動があふれていることに、それこそ「すごい」「わあ」と驚くはずです。今から60年前に、坂本九が「見上げてごらん夜の星を 小さな星の/小さな光が ささやかな幸せを うたってる/見上げてごらん夜の星を 僕らのように/名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる/手をつなごう僕と 追いかけよう夢を/二人なら苦しくなんかないさ」と歌っていた、そんな感動です。
まるでこの星を初めて訪れた人のように、見るもの聞くものを新鮮に受け止めることができるなら、存在の神秘に打たれて、こどもの魂で「わあ」と言えるなら、いつもそんな一瞬を生きることができるとき、わたしたちは「永遠」なるお方がすぐ傍にいてくださることに気づかされるに違いありません。
■内から粘りつく恐れ
このときのアブラムも、神様からあふれるほどの恵みと祝福を受けながら、不安と恐れに心を奪われて、神様への信頼を、永遠なる神様がいつも共にいてくださるという約束を見失いかけていました。
今日の言葉は、「これらのことの後で…」という言葉で始まっています。「これらのこと」とは、直前14章までに描かれていたことです。アブラムはそれまで、神様の絶対的とも言える導きと恵みによって、順風満帆の歩みを続けていました。莫大な財産を手に入れたばかりか、他の都市国家と肩を並べるほどの勢力を持つようになっていました。
ところが、それほどの祝福に満たされているはずのアブラムが恐れていた、と記されます。
「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」
アブラムが抱いていた恐れ、不安とは、一体何だったのでしょうか。それが何であれ、沈み込むアブラムの耳に、神様の声が響きます。外から飛んで来る矢には恐れを抱かなかったアブラムも、内から粘りつく恐れという剣には、それを防ぐ盾を必要としていました。「アブラムよ。わたしがその盾になろう」という神様の声が、「この世からは受けない、また受けられない真の報いをわたしが与えよう。それも大きな報いを」との神様の約束が与えられます。
その祝福の約束に対して、アブラムの口をついて出たのは「わたしに何をくださるというのですか」という冷淡な言葉でした。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」
老いを迎え、自らの死を見つめ始めていたアブラムにとって、子どものいない、いわば「家族」というものを味わうことができないでいるその孤独は深く、寂しさと悲しさは日ごと心を苛み続けていたのでしょう。主よ、あなたは、子孫を与えようと約束してくださいました。しかしその約束がいまだに果たされないままです。それなのに今、大きな報いを与えようと約束をしてくださっても…。それは詮無(せんな)いことです。 Continue reading