≪説教≫
■二つの主
イエスさまを罪に陥れようと仕掛けられた一連の論争も、今朝最後の「もはやあえて質問する者はなかった」という言葉によって終わりを告げようとしています。最後のこの場面で、イエスさまは自分の方からお尋ねになります。
「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか』」
「メシア」と訳されている言葉は、ギリシア語の「クリストス」、救い主「キリスト」のことです。ファリサイ派の人々は即答します。
「ダビデの子です」
彼らは、ダビデの末からキリスト・救い主が出ると教えていましたし、多くのユダヤ人もまたそう信じていました。旧約聖書の多くの箇所にも、メシア・救い主はダビデの子として生まれる、と預言されています。そのことは、旧約聖書に親しんでいるユダヤの人々にとっての常識でした。
ところが今、イエスさまはその常識を覆すようなことを言われます。
「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」
いったい何のことか。分かり難い言葉です。イエスさまがここで引用しているのは詩編110篇です。王が即位するときに歌われていたこの詩編を、ユダヤの人々はダビデの作と信じていました。その冒頭、
「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」
救い主の勝利とその支配を主なる神ご自身が告げておられると歌われていますが、問題は、イエスさまの「主は、わたしの主にお告げになった」です。詩編では「わが主に賜った主の御言葉」となっています。いずれにも「主」という言葉が二度使われています。イエスさまが語られた「主」と訳されている言葉は二つとも同じギリシア語ですが、詩編の原文、ヘブライ語ではこの二つは全く別の言葉になっています。「主の御言葉」の方の「主」は「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」と読まれる、イスラエルの神の名を指す固有名詞です。それに対して、「わが主に賜った」の「主」は「主人」という意味の普通名詞です。つまり元の詩編では、「イスラエルの神ヤハウェが、わたしの主(あるじ)にこうお告げになった」となります。
この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、来るべき救い主のことを「わたしの主」「わたしのご主人様」と呼んだということになります。イエスさまはそのことを指摘しておられるのです。このように、ダビデが救い主キリストを「わたしの主(あるじ)」と呼んでいるなら、キリストはダビデの子ではなく、ダビデの主(あるじ)であるはずではないか、と。
■十字架のキリスト
イエスさまは、何のために、このようなことを言われたのでしょうか。
すぐに考えられるのは、ファリサイ派の人々が「キリストはダビデの子なのだから、イエスはキリストではあり得ない」と言っていたのではないかということです。
この福音書の冒頭にある系図は、アブラハムからダビデを経て、父ヨセフに至るものです。ルカ福音書3章の系図もやはり、ヨセフからダビデ、そしてアダムまで遡っていくものです。父ヨセフはダビデの末裔です。しかしマタイもルカも、イエスさまが厳密な意味では、ヨセフの子ではないことを証言しています。ヨセフの許嫁(いいなずけ)であったマリアは、ヨセフによってではなく、聖霊によってみごもってイエスを生んだ、そう語っているからです。「聖霊によって」、そのことを信じようとしない人々にとっては、イエスさまは不義密通による子どもです。ファリサイ派の人々もその噂を盾に、イエスという男はダビデ家の子孫などではない、どこの馬の骨とも分からない者が神からの救い主キリストであるはずはない、と言っていたのでしょう。そういう批判、疑いに対して、イエスさまはこのように反論なさったのではないか、ということです。
でも早合点をしないでください。「お前はダビデの子ではないからキリストではない」と批判されたイエスさまが、「ダビデ自身が言っているじゃないか。救い主キリストはダビデの子じゃないよ」と開き直りとも言える弁明をされたというのではありません。イエスさまは、神殿にいた大勢の人々に、ファリサイ派の人々がキリストについて抱いている根本的な思い違い、姿勢の間違いをはっきりと指摘し、教えようとしておられるのです。では、キリストについての根本的な思い違いとは何でしょうか。
先程の詩編110篇1節の先に、こう記されています。
「主〔ヤハウェ〕はあなた〔キリスト〕の力ある杖をシオン〔エルサレム〕から伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。…主〔ヤハウェ〕はあなた〔キリスト〕の右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる」(2,5節)
詩編が描くキリストの姿は、権力と武力を揮(ふる)ってユダヤ人の周辺の敵国を撃破し、かつてのダビデ王国の独立と栄光を取り戻す戦士の姿です。イエスさまの時代のユダヤ人の間では、キリスト理解をめぐって様々な見方があった中で、最も有力だった「ダビデの子」という見方は、まさに軍事的、政治的、民族的なものでした。 Continue reading