■神の企て
「そのとき、十二人の一人でイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした」
前回お話をしたように、この時、イエスさまと祭司長たちの双方が十字架の時期について、それぞれ異なることを考えていました。イエスさまは弟子たちに、「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(2節)と告げ、十字架の出来事は二日後の過越祭のときに起こると言われます。一方、イエスさまを捕らえ、殺害しようと相談していた祭司長や長老たちは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」(5節)と言い、過越祭に続く除酵祭が終わった後、十日余り後のことを考えています。
十字架の時期がズレています。人間が策を練りに練り、用意周到に準備していました。しかし、祭司長たちの思惑は外れ、祭りの最中―神様が、イエスさまが決めておられた二日後に、多くの民衆の前で、イエスさまは十字架につけられることになります。多くの人が言うように、「人の企ては貫かれなかった。神の企てが貫かれた」ということなのかもしれません。
そして今日の箇所には、その神の企てのために、決定的な役割を果たす一人の人物が登場します。イスカリオテのユダです。マタイは、他でもないイエスさまの十二弟子の一人であるユダが敵の手にイエスさまを引き渡した、それもお金で売ることをユダの側から持ちかけた、という衝撃的な事実をわたしたちに伝えています。
ユダが訪ねた相手は祭司長たちでした。ユダが持ちかけてきた話は祭司長たちにとって、まさに「渡りに舟」でした。過越祭前後のエルサレムには、普段の三倍を超える巡礼者が訪れていました。その大勢の「民衆の中に騒ぎ」を起こさせず、群衆の中に紛れ込んでなかなか掴めなかったイエスの居場所を突き留め、混乱を最小限に抑えた上で、密かにイエスを逮捕することができる。最高の提案でした。しかもユダの方から、「あの男をあなたたちに引きわたせば、幾ら貰えますか」と報償金の額の交渉まで持ちかけてきました。祭司長たちは、ユダの決意は固い、そう確信することができたはずです。
■選ばれたユダ
とはいえ、十二人の弟子はほかならぬイエスさまご自身が選ばれた者たちです。ルカによる福音書によれば、徹夜の祈りをもって使徒となるべき十二人を選ばれたと記されています。選ばれたその一人による裏切りです。そのユダを選んだイエスさまの選び方に責任はなかったのでしょうか。
さらにわたしたちを混乱させるのは、24節の発言です。ユダを弟子にしたイエスさまの口から、「生れなかった方が、その者のためによかった」という言葉が飛び出します。何とも悲しく、淋しい思いにさせられる言葉です。
このとき、ユダは何を思い、何を考えていたのでしょうか。
この過越の食事の席にユダがいたということは、彼もイエスさまを来るべきメシア救い主として心に迎えていたからでしょう。しかし、イエスさまと寝食を共にしながら、次第にある違和感を覚えるようになっていたのかもしれません。この時のユダの心の内を、中野京子が『名画と読むイエス・キリストの物語』の中に、こう描いています。
「いくつもの鬱屈(うっくつ)がユダの中で重なったのは間違いない。使徒のうち、ただひとりガリラヤ出身ではない疎外感。教団の金庫番という立場の困難。イエスに愛されるマグダラのマリアやペテロやヨハネヘの嫉妬(しっと)。何よりイエスがユダの期待に応えようとしないこと―イエスは今の政治状況をドラスティックに変革する気はなく、弟子を増やして教団を大きくするつもりもなかった。エルサレムで鞭(むち)打たれ、十字架にかけられると予言し、その予言を自ら引き寄せようとするかのように神殿で暴れ、関係者を舌鋒(ぜっぽう)鋭く攻撃した。権力側へ喧嘩を売ったのだ。さらに悪いことに、売ったこの喧嘩によって、民衆の人気はいっそう高まり、その先の具体的な政治行動を期待させてしまった。イエスにその気が全くないとわかった時、人々の失望はどんな反動をもたらすだろう。ユダは自らに照らし、そのリアクションの大きさが想像できた。
イエスに見切りをつけ、黙って教団を去る選択もユダにはできた。社会を現実的に変えようとする別の師を探すか、あるいはこれまでの経験をふまえ、自らの弟子を集めればいい。なのにそうはせず、裏切りの道を選んだのは、イエスへの歪(いびつ)な愛ゆえだったろうか?自分ひとりのものにできないくらいならいっそ、という捻(ね)じれた愛の形は、これまでもこれからも古今東西、延々と続けられる、哀れな人間の珍しくもない心の動きなのだから。
それともユダは、イエスがほんものの救世主かどうかを確かめたかったのだろうか?いくつもの奇蹟を見てきてなおユダが信じきれていなかったことは、『最後の晩餐(ばんさん)』の場において明らかになる。イエスが裏切り者の存在を告げた時、驚いた皆が『主(=キリスト)よ、我なるか』と問うのに対し、ユダだけ『主』と呼ばず、『ラビ(=師)、我なるか』と言うからだ。思わず口をついて出た言葉だけに、日ごろの思いがあらわれている。しかし仮にそれが理由だったなら、どうしてユダはイエスの死を見届ける前に、首を吊って自殺してしまうのか、なぜ『死の三日後の復活』まで待たなかったのか。いずれにせよユダは行動を起こした」
いかがでしょう。これまで、すべてを投げうってイエスさまについて来たユダにしてみれば、自分が裏切る前に、イエスさまに裏切られた、「心痛む」そんな思いが募り、期待が恨みに変わり、憎しみとなっていったのではないかとも想像できます。
■わたしたちの問題
しかしそれは、ひとりユダだけではありませんでした。
20節に「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた」とあります。「イエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」ユダを含む十二人が、この食卓に招かれました。その席でイエスさまは言われます、
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」
イエスさまは何のためにこのようなことを言われたのでしょうか。裏切ろうとしているユダに「お前の計画は全てお見通しだぞ」と言って、思い止まらせるためでしょうか。そうではないでしょう。イエスさまのこの言葉を聞いたユダが思いとどまった形跡など、どこにも見当たりません。 Continue reading