■転石、苔を生ぜず
「転石、苔を生ぜず」という諺(ことわざ)があります。転がる石には苔がつかない、外山(とやま)滋比古(しげひこ)という英文学者がこの諺について、こんなことを書いています。
このことわざは英語の “A rolling stone gathers no moss.” の訳だけけれども、イギリスとアメリカでは全く反対の意味で使われるようになった。イギリスでは、一箇所に長く腰を落ち着けることができず、たえず商売替えをするような人間にはmoss苔はつかない、つまりお金が貯まらないという意味で使われているけれども、アメリカでは、優秀な人間なら引く手あまた、席の暖まる暇もなく動き回る、じっとしていたくてもそうはさせてくれない、次から次へと新しい職場に引き抜かれていく、こういう人はいつもぴかぴか輝いていて、新しくて、苔が付着する暇もない、そういう意味で使われている、と。
外山は続けて、定住社会と移動社会の違い、風土から生まれる感覚の違いから、苔を良いものと思うのか、それとも何の価値のないものと思うのか、その理由を説明します。なるほどと思いつつ、わたしたち日本人はどちらかと言うと、イギリス人と同じ感性を生きているのではないか、と思わされました。
わたしたちは今、新しいことは良いことだという時代を生きていますが、それでも、古いものは良いものだということもよく知っています。その二つの思いを融通無碍(ゆうずうむげ)に、いえ、自分に都合良く使い分けて生きているのではないか、そのことを心に止めながら、今日のみ言葉をご一緒に味わいたいと思います。
■新しい人生、新しいいのち
元日の朝、わたしたちに与えられた聖書のみ言葉は、ルカによる福音書5章33節以下ですが、それ先立ってこの5章には、神様のご用に召された二人の人物の記事が出てきます。初めの一人は漁師だったペトロ、もう一人は徴税人レビ、またの名をマタイという人です。それと、病に苦しんでいた二人の人のことも書かれています。一人は今でいうハンセン病の人、もう一人は中風の人で、この二人の癒し、救いの出来事が記されています。
なぜ、この四人の記事がここに一緒に記されているのでしょうか。この四人に共通していることとは何でしょうか。
それは、この人たちが皆、罪人と見なされていたということ、そして何よりも、イエスさまに出会い、新しい人生を歩み始めた人たちだったということです。神様に召されるとは、この四人のように、まったく新しい人生を、まったく新しいいのちを与えられるということです。それはとても喜ばしいことです。神様に召されるのは、わたしたちがそれにふさわしいからではなく、ただ神様の愛ゆえです。そんなすばらしい、大きな愛に包まれて、新しいいのちを、新しい人生を歩み始めること、それが召されるということです。
ある先輩牧師の体験です。
高等学校二年生のときのこと、田舎の学校にはめずらしいクリスチャンの同級生がいた。クリスチャンの女子高生は何人かいたが、男子は他にいなかった。わたしは彼に議論を仕掛けた。世の中の矛盾や世界の不条理を引き合いに出し、神が存在するなら、なぜこんなことが起こるのかと問い詰めた。わたしはクリスチャンである彼を追及しているつもりでいたが、たぶん胸の奥には自分の生きる根拠を求めるあがきがあったのだと思う。彼の答えはしどろもどろだった。それでも、話の終わりに彼はいつもこう言っていた。
「いちど教会に来てみろよ」
で、教会に行き始めたのがその年の秋。教会に行き始めて、礼拝をしている姿に強い印象を受けた。二十数名の会衆が聖書の言葉に耳を傾け、起立して讃美を献げている。ここには道があるな、と思った。まっすぐに前に向かって行く道がある。駅前の飲み屋に育ったわたしには新鮮な驚きだった。人生にはドロドロした愛憎の世界しかないと思っていたからだ。あきらめ、断念し、なるようにしかならないと投げ出すように生きていた。
踏み入ったのは、思いもかけない世界だった。教会の大きな窓からは、見なれた入り江の対岸の山並みが見えていた。よその世界の風景のようだった。翌年、高等学校三年のクリスマスに洗礼を受けた。
考えてみれば、あのとき精神的に荒廃し、あがいていたんだろうと思う。苦しまぎれに目の前に現れた扉を開いたら、前方に向かう道があった、ようやっと見つけることができた、それがわたしの信仰への歩みだった。
しかしそれは、神の側からいえば、神が迷い出た羊を探し出し、見つけ出してくださったプロセスだった。放蕩息子は自分の足で歩いて帰って行った。「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて…抱き、接吻した」(ルカ15:20)。息子が行きづまり、転落し、父をあえぎ求めるよりもはるかに切実に激しく、父は息子を待っていた。そのことは、神のふところに抱かれたあとでわかったことだった。自分が帰ったのではない。神が自分を見つけ出してくださったのだ、と。少しずつわかってくる。次第にわかってくる。(小島誠志『55歳からのキリスト教入門』一部変更)
この先輩牧師も、そして「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白したペトロも、軽蔑され嫌われていた徴税人のレビも、穢れた者として誰からも触れられることさえなかったハンセン病の人も、体がまったく動かず家族の重荷となって絶望していた中風の人も、彼らすべてがイエスさまによって見出され、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と宣言されたイエスさまによって、その罪を赦され、救われ、大きな喜びに包まれて、まったく新しい人生を歩み始めました。 Continue reading