福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 10

7月18日 ≪聖霊降臨節第9主日礼拝≫ 『繰り返し、繰り返し』 マタイによる福音書15章29~39節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   ヴェルソ (D.ツィポリ)
讃美歌   10 (2,4,6節)
招 詞   ローマの信徒への手紙12章15~18節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   354 (1,3節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書15章29~39節 (新30p.)
讃美歌   Continue reading

★7月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『アッバ、父よ』ローマの信徒への手紙 8章15~17節 沖村裕史 牧師

■最初のひと言

 人がいのちを与えられて、最初に発するひと言は何でしょう。それは、だれもが同じ、「おぎゃ」という泣き声でしょう。その後(ご)、どんなにたくさんの立派なことをしゃべるようになっても、だれもが人生の最初をそんな泣き声で始めたはずです。

 いつしか大人になり、何でもできる気になっていますが、ときには、自分の人生最初の、そのひと時を想像してみるのもいいかもしれません。

 何もできず、何も言えず、何もわからず、まるでそうすることが生きることのすべてであるかのように泣くわたしたち。不安そうに見開いたその目は、何を求めていたのでしょう。その震える小さな手は、何をつかもうとしていたのでしょうか。

 言うまでもないことですが、そうして生まれて間もないわたしたちが、言葉にならない言葉を発するのは、それを聞き、それに応えてくれる存在がいるからです。生まれ出たら、そこには確かに生みの親がいて、泣けば、呼べば、たちどころにその要求を満たしてくれるとその本能で知っているからこそ、安心して泣き声を上げるのです。

 抱き上げられて、抱き締められて、天使のようにほほえむためにこそ、あの天地を揺るがすほどの声を上げる。わたしたち人間は、そうして泣くために、求めて呼ぶために生まれてきたのだ、と言えるのかもしれません。

 

■アッバ

 「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」

 「アッバ」というアラム語もまた、如何にもという感じです。生まれて間もない赤ん坊が、少し物心がつき、やがて目の前にいる人に向かって、パッパッとか、ンマンマとか、アブアブと聞こえる音を発するようになります。それをそのまま表記しただけの言葉です。しかしそんな言葉によって、幼な子は親を求めるようになり、慕うようになり、信頼し切って呼ぶようになります。

 井上洋治という人が「私にとっての祈り」という一文の中に、こんなことを書いています。

 祈りとは、「アッバ、父よ」という言葉を口にすることだ。「アッバ、父よ」というのは、幼な子の言葉。成長して、ひとりの息子が、今日は父親と話し合いたいことがあると身構えて、「親父!」と言うように呼びかける言葉とは違う。父と子が向かい合っているところで使われる言葉ではなく、むしろ父親の腕の中に抱(だ)かれている幼な子が、自分を暖かく包み込んでいてくれているその人に向かって、自然に発する声―「自ずからなる呼びかけだと思う」、と。

 「自ずからなる」呼びかけ。何も考えず、ただ思わず口を突いて出て来る言葉ということです。父親にやさしく抱かれながら、その顔を見ながら、「アッバ、アッバ」と呼ぶ。信頼し、喜びに満ちてそう呼びかけます。

 この「呼ぶ」という言葉も、どうにも抑え切れない心の奥底から出てくる声、叫びといった意味の言葉です。何の心配事もないときに、安心して「アッバ、父よ」と呼ぶというのではありません。そうせずにおれない、そうするほかないようなところで、父である神が、わたしたちをそのみ腕の中に幼な子を抱くようにして支えてくださっている。だからこそ、わたしたちはどんなときにも、いえ、どうしようもないときにこそ、「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのだと言います。大きな恵みだとは思いませんか。

 

■父の姿

 とは言え、こどものときであればともかくも、大人になっても、「アッバ、アッバ」「アブアブ」と呼びかけることは、それほど簡単なことではないかもしれません。

 「おやじはキライだ」。

 自分ではよくは覚えていないのですが、大学に入ったわたしは母親にそう言ったそうです。中学になったころから、父親に対して根深い抵抗感を持ち続けていました。その抵抗感が次第にとけ始めたのは、皮肉にも「キライだ」と言った大学生になってからのことでした。親元を離れ、少し距離をおくことができたからかも知れません。四十歳も間近になって、自分のこどもが思春期を迎え、自分自身がこどもとの距離に悩み始めた頃、そして父親の頭に白髪が目立ち始めた頃、何とはなしに、ときに意識しながら突き放していた父親の姿が、ようやく、でも、はっきりと近づいてきたように思えました。

 こどもの頃は何の抵抗もなく「父ちゃん」と呼んで、頼り切り、信頼していたのに、成長し、背たけが伸びてくると、頑固一徹な父親の存在がどうにも煙たいものに思えました。父親が変わったというのではありません。わたしが父に追いつき、追い越そうと、もがき始めていたのでしょう。しかしそれは到底叶わぬこと。であればこそ、余計に反発を感じていたのでしょう。そのときのわたしは明らかに、父の姿を見失っていました。見失っていたからこそ、「父ちゃん」「父さん」と呼びかけることができずにいました。

 でも本当は、そんなときこそ、そんなときだからこそ、「アッバ、父よ」「父ちゃん」と言って、父親に真正面からぶつかっていけばよかったのだ。それは自分が父と同じ親になって初めて、気づかされたことでした。

 

■神の子どもとして

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7月11日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫ 『恵みは十分』 マタイによる福音書15章21~28節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   カンツォーネ (J.フレスコバルディ)
讃美歌   9 (1,3節)
招 詞   詩編103篇11~13節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   149 (1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書15章21~28節 (新30p.)
讃美歌  Continue reading

7月4日 ≪聖霊降臨節第7主日礼拝≫ 『飢えている―聖餐(8)』 ルカによる福音書12章13~21節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏  み言葉をください (小山章三)
讃美歌  8 (2,4節)
招 詞  詩編148篇5~6節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  58 (1,3節)
祈 祷
聖 書  ルカによる福音書12章13~21節 (新131p.)
讃美歌  483 (2,4節)
説 教   Continue reading

★7月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『ありがとう』マタイによる福音書6章5~15節 沖村裕史 牧師

■父のまなざし
 「天におられるわたしたちの父よ」
 天の父なる神に、滔々とお祈りをする必要はありません。わたしたちの両親に「お父さん、お母さん」というように呼びかけ、ありのままに話をすればよい。親が、真面目に、けなげにやっている子どもに、必要とする以上の物を与えようとしないなどということがあるでしょうか。ですから、「異邦人のように、くどくどと祈るな。」「彼らのまねをしてはならない。(なぜなら)、あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ(から)」と言われます。 父なる神は、わたしたち一人一人にいのちを与えてくださった方だからです。
 昔のことを思い出します。
 小さいころ、初めて自転車に乗る練習をしたときのことです。乗るまえの不安と、乗っているときの緊張。転んだときの痛さと、ついに乗れたときの喜び。だれもが体験する、ささやかな人生のひとこまですが、今にして思えば、生きるうえでの非常に重要な体験であったように思えます。
 多くの方がそうであったように、わたしの場合も自転車の乗り方を教えてくれたのは父でした。父は、自転車の後ろを両手で支え、「さあ、ちゃんと持ってるから、思いっきりこいでみろ」と言います。恐る恐るペダルを踏むと、思いのほか簡単に進みます。歩くのとは違う爽快なスピード感に胸が躍ります。ところがふと気がついて振り向くと、なんと、父はとっくに手を放してしまっているではありませんか。しかもニコニコと笑いながら。
 その瞬間、「すごいぞ、ぼくは自分ひとりで乗れてる!」と喜び、そのままこぎ続けることができる人がいるとすれば、その人はきっと大人物になるでしょう。悲しいかな、わたしを含め、多くの人はこう思ってしまいます。「うわっ、父さん、手を放してる。もうだめ、転ぶ!」
 事実、転んでしまいました。
 痛い体験でしたが、これは大変貴重な体験です。
 転ぶ前は、ちゃんと乗っていました。後ろで父が押してくれていると信じていたからとはいえ、たしかにひとりで乗っていたのです。しかし、自分ひとりでこいでいると気づいた瞬間、「うわっ、もうだめだ、転んじゃう!」と思い、そのとおりに、転んでしまう。
 その後も、何度転んでも、父はニコニコ笑うばかりです。そんなまなざしに見守られ、やがて転ぶのにも慣れてきたころ、いつしかこう思うようになります。「いつまでも怖がっていてもしようがない。もう、転んでもいいから、ともかく思い切ってこいでみよう」。そうして勇気を出してこいでみると、不思議なことに転ばないのです。スイスイこげるようになり、なんでこんな簡単なことができなかったんだろう、とさえ思うようになります。
 これは、祈りにとって、また生きる上でとても大切な体験です。
 聖書の中で、イエスさまは弟子たちに繰り返し「恐れるな」「心配するな」「思い煩うな」「勇気を出せ」と言われます。そうした恐れや思い煩いや不安こそが人を縛り、この世を苦しめる最大の原因であることを知っておられたからです。人が真の自由と幸福を手に入れるためには、そうした恐れや不安を乗り越えなければならないことを知っておられたからです。イエスさまは、父なる神の思いを代弁しておられます。もうちょっとで自転車に乗れるようになるわが子を見守る父親のような、天の父の愛情あふれる思いを語っておられるのです。「天のお父さま」と祈りなさい、と。
 愛を失って傷ついた人は、愛することを恐れるばかりか、愛されることさえも不安の種になります。特に幼いころに傷ついた人の恐れや不安の闇は深いものです。愛を失った痛みは、自転車で転ぶ痛みの比ではありません。しかし、どれほど痛くとも、その闇から解き放たれ、真の自由と幸福を手に入れる方法は、たったひとつしかありません。愛にあふれる父なる神のまなざしを背中に感じながら、「転んでもいい、思い切ってこいでみよう」と思ったとき、わたしたちは新しいいのちへと招かれます。

■土台は神の愛
 では、その「天の父」にどう祈ればよいのか。イエスさまは、手を取り足を取るように懇切丁寧に教えてくださいます。
 「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように」
 この世の終わりにやってくる神の御国の到来が早く来るように、父なる神の御心が地上でも行われますように祈りなさい、と言われます。神の国の到来とは神の御心がこの地上で成就するときのことです。そのときを、いつか分からない遠い事柄としてではなく、今、ここに来たらせ給えと祈るということは、そのような父なる神がわたしたちと共に、今ここにいてくださることを確信するということです。
 ところが、実際のわたしたちの祈りはそれとはほど遠く、「こうしてください、ああしてください」と祈ることばかりです。それがいけないというのではありません。それも確かに、自分や家族が様々な困難を避けることができますようにという切実な祈りではあります。
 しかしイエスさまは、まず神の御業、神の御国が現われますように、神の御心が成就しますようにと祈り、それから「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈りなさい、そう教えておられます。明日の糧、その先の糧ではなく、ただ、今日一日の糧のことを祈る。それで十分なのです。神の御国が来ている、神の愛の御心がもたらされている、神の愛の御手が今ここに差し出されているからです。 Continue reading

6月27日 ≪聖霊降臨節第6主日礼拝≫ 『口から出るもの』マタイによる福音書15章1~20節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
前 奏  喜び迎えん、慈しみ深きイエスよ (J.S.バッハ)
讃美歌   7 (1,3,5節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  348 (1,4節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書15章1~20節 (新29p.)
讃美歌   Continue reading

6月20日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝≫ 『手を伸ばして』マタイによる福音書14章22~36節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏     イエスキリスト 主にのみたのみまつる (J.パッヘルベル)
讃美歌     6 (2,3節)
招 詞     ヨエル書2章21~22節
信仰告白    使徒信条
讃美歌     342 (1,4節)
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6月13日 ≪聖霊降臨節第4主日/こどもの日・花の日合同礼拝≫ 『なんどでも、やり直せる!』ルカによる福音書19章1~10節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   かみさまのあいは (佐久間 彪)
リタニー  (別紙)
讃美歌   60(1,2/こ58)
聖 書   ルカによる福音書19章1~10節 (新146p.)
お話し   「なんどでも、やり直せる!」 沖村 裕史
お祈り
献  Continue reading

5月30日 ≪聖霊降臨節第2主日/三位一体主日礼拝≫ 『いとおしい』マタイによる福音書14章13~21節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   来たれ全能の主 (H.ウィラン)
讃美歌   3 (1,3,5節)
招 詞   イザヤ書35章3~4節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   340 (1,3,5節,頌栄)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書14章13~21節 (新28p.)
讃美歌  Continue reading

5月16日 ≪復活節第7主日/昇天後主日礼拝≫ 『先駆者の死』マタイによる福音書14章1~12節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
黙 祷
讃美歌  1 (2,3節)
招 詞  イザヤ書35章3~4節
信仰告白 使徒信条
交読詩編 119篇105~112節 (141p.)
讃美歌  336 (1,3節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書14章1~12節 (新27p.)
讃美歌  193 (1,3,5節)
説 教 Continue reading

★5月1日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『勇気を出して!』ヨハネによる福音書16章25~33節 沖村裕史 牧師

■裂け目の中から

 「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語りかけてくださるイエスさまのこの言葉に、わたしたちは驚く外ありません。

 このとき、イエスさまは何処で何をしておられたのか。

 穏やかな満ち足りた日々、静かな部屋で、親しく弟子たちといつものように晩餐を楽しんでおられた、というのではありません。「父よ、御心なら、この(苦しみの)杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そう祈りながら、すぐそこに迫り来る十字架への道をまっすぐに歩んでおられました。イエスさまが望まれた道ではありません。しかし、耐え難いほどの苦難と恥辱の中にあってなお、ご自身のためにではなく、弟子たちを愛し、励まし、導くために、イエスさまは今、「勇気を出しなさい」と語りかけられるのです。

 絶望の中からの呼びかけです。イエスさまの言葉が、わたしたちの胸に力強い福音の響きを持って迫ってきます。福音は、人と神との間に横たわる厳然たる隔たり、裂け目の中から生まれてくるものです。その裂け目に、わたしたちが橋を架けることはできません。福音は、その隔たりを越えようとするわたしたちの努力とは何の関係もなく、ただ神の一方的な恵みとして、わたしたちがもう駄目だと絶望する外ないようなその隔たり、裂け目の中から、わたしたちに届けられるのです。「勇気を出しなさい」と。

 

■十字架の上で

 いざとなったときに、寄り添うべき人に寄り添うことのできない、わたしたちです。語るべきことを語ることのできない、わたしたちです。自分を守りたい一心で、この世になびき信念を取り下げてしまう、わたしたちです。迷子のように道を見失い途方にくれる、わたしたちです。わたしたちは、弟子たちと同じように、実は、足を洗ってくださるイエスさまのことを理解することのできない、不甲斐ないものです。

 しかし、イエスさまはそんなわたしたちに語りかけられます。

 「勇気を出しなさい」

 自分の罪を、自分の弱さを自分で担う勇気、強さを持ちなさい、と言っておられるのではありません。31節以下、

 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」

 イエスさまは、わたしたちのことを十分にご存知です。すべて承知の上で、わたしたちの弱さも、愚かさも、不甲斐なさも、そのすべてを十字架の上で担ってくださったのです。

 

■友愛

 なぜ、そうまでしてくださるのでしょうか。27節にこう書かれています。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」

 「あなたがたを愛しておられる」「あなたがたがわたしを愛し」と訳されている「愛する」というこの言葉は、「友愛」を示す言葉です。神様と友だちなんて、そんな畏れ多いと思われるでしょうか。しかしイエスさまは、15章で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という新しい掟を示されたその後に、わたしの父があなたがたを友として愛しておられる、そして、あなたがたはわたしを友として愛する、と言われました。

 ここには、わたしたちが考えていることよりも遥かに深く、遥かに確かな、神秘としか呼びようがない、父なる神とわたしたちとの関わりが語られています。わたしたちは神と親子であるだけでなく、友人でもある。父と子の関係がただ親子であるというだけでなく、まるで友人のように親しいという思いを抱くとき、成人した息子と初めて酒を酌み交わす父親のように、わが子への新鮮な愛を覚えて喜ぶものです。そのように、イエス・キリストはご自分の父をわたしたちの友であると言ってくださるのです。そのことが、わたしたちの生きる力となります。

■奇跡

 「1949年、昭和24年4月17日復活節の朝、『天よりの大いなる声』は全国にさきがけて広島で最初に売り出された。市民17人の手になるこの手記は、奪うように市民の間に拡がっていった。人々は一本を求めて霊前に供え、死者の冥福を心こめて祈った。本を手にして、初めてわたしは心の平安を得ましたと涙ながらに告白する母もあった。百部二百部と求めて、亡き愛児の記念のために友人や縁者の間に頒つものもある。

 原子爆弾の体験は、本書を得て再び生々しく人々の心に甦ってきた。しかし、これは単なる悲劇の再現としてではない。厳粛なる平和への熱願として、天よりの大いなる声としてである」

 被爆体験を記憶として残すための魁となった「天よりの大いなる声」の改訂版に寄せられた、日本YMCA同盟の末包敏夫の一文です。この後に末包は次のようなエピソードを記している。 Continue reading

4月18日 ≪復活節第3主日礼拝≫ 『豊かに実る』マタイによる福音書13章31~35節 沖村裕史 牧師

■聞いて分かる

 今朝も、イエスさまが天の国について語られた「種」に纏(まつ)わる譬えです。イエスさまはいくつもの種の譬えと共に、繰り返し「耳のある者は聞きなさい」(9節、43節)と語られました。この譬えに注意深く耳を傾けなさいと言われます。イエスさまの譬えは決して難解なものではありません。分かりやすいものです。にもかかわらず、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。

 聞いて分かるとは、どういうことなのでしょう。

 分かるときに大切なことは、その言葉を聞きながら、具体的なイメージが心の中に浮かんでくることです。イエスさまの言葉が具体的な姿を取ってくる、そのために譬え話をなさいました。聞く人々の日常生活に材料を得て、いくつもの譬えを語られました。

 今朝の譬えは、「『毒麦』のたとえ」とその「説明」の間に挟まれるようにして置かれています。その毒麦のたとえはこう始められていました。24節以下、

 「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」

 「人々が眠っている間に」とあります。マルコによる福音書では、この毒麦の譬えの代わりに「『成長する種』のたとえ」が置かれ、そこには「夜昼、寝起きしているうちに」と書かれています。

 「夜昼」です。「昼夜」ではありません。なぜか。日が暮れる時から新しい日が始まると考えられていたからです。太陽が沈めば、明日になる。わたしたちとは生活感覚が違います。生活感覚が違うということは、人生の捉え方も違うということです。さあ働くぞ、というのではなくて、さあ寝るぞ、というところから一日が始まります。寝ることから起きることへ、また寝ることから起きることへと生活のリズムが作られます。床に入って、憩い安らぐ、その時に不安を抱えていたのでは眠れません。そのためでしょう。詩編には、夜、眠れない人の歌がいくつも出てきます。眠れないままに、神を想う歌です。言い換えれば、安らかに眠りにつくことができるのは、その人が神にすべてを委ねているからなのでしょう。一日、一所懸命に種を蒔いた、新しい日が来た、さあどうするか、ではありません。日暮れまでの「昨日」の働きの実りを神にお任せして床に入る、そこから「今日」が始まります。そんな寝起きが繰り返されていく中に、豊かな実りがもたらされるのです。

 今朝のからし種と同じように、蒔かれた一粒の「種」とその成長の姿の中に、天の国の象徴的な姿が映し出されます。

 わたしたち人間が知らないうちに、太陽が、雨が、大地が種を大きく成長させてくれる。だからこそ、種蒔く人は、種を蒔いた後、夜と昼が繰り返される時の自然な流れに身を委ねながら、ただじっと待つことができます。人知の及ばないところで、また人知れずひとりでに、新しい、若い芽が大地の中から顔を出し、成長し、実を結ぶ。この成長の「事実」の中に、天の国、神の支配、神の救いがあります。神の愛の御手を見ることができます。農夫は長年の経験から、この成長の驚くべき秘密を知っているので、「自然」を信頼して、安心して、時間の流れに委せて、眠りにつくことができます。農夫の知っている秘密とは、信頼の対象である「自然」の背後に、すべてを慈しみ、育んでくださる神の愛の働きがある、ということです。農夫には、具体的なイメージとして、そのことが分かるのです。

 そしていつしか、実りを刈り入れる時が訪れます。この「刈り取り」としての「収穫」は、天の国の到来、完成を思い起こさせます。わたしたち人間の思惑とは全く関わりなく、ただ圧倒的な力をもって、わたしたちにもたらされる神の支配、神の救い、神の愛。そしてそれは、この世界を覆うほどの驚くほどの豊かさを持って、今ここに始まっている、もたらされている。そのことを聞いて悟りなさい、「耳のある者は聞きなさい」とイエスさまは言われます。

 

■驚きの世界

 今朝もそんな天の国の譬えです。「からし種とパン種のたとえ」とあります。その譬えがこう始まります。

 「天の国はからし種に似ている」

 天の国の象徴として、「からし種」が選ばれます。「からし種」の「種」は、「穀粒(こくつぶ)」、穀物の小さな種のことです。そのからし種が選ばれたのは、初めはごく小さな種が成長して大きな木のようになる、驚くほどの豊かな実りを表すためです。蒔かれるときは「どの種よりも小さい」その一粒の種が、成長したときには「野菜の中でも最も大きくなり」ます。これは黒芥子のことだろうと言われます。直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラムの種、それが成長すると、3メートルにもなります。

 種の成長が段階を追って語られます。

 「ある人が(それを)取って彼の畑に蒔くと、どの種よりも小さいのに、成長すれば、野菜の中でも最も大きくなり、一本の木となる。そのため、空の鳥がやって来て、その枝の下に巣を作るようになる」

 「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。驚くばかりです。

 わたしの郷里、山口県の船木で幼少期を過ごした小説家、国木田独歩は、後に東京は富士見町教会で植村正久牧師から洗礼を授けられます。その国木田に『牛肉と馬鈴薯』という小さな作品があります。青年たちが熱っぽく将来の夢を語る場面が出てきます。ある者はダーウィンのような大科学者になりたいと語り、ある者は宇宙の神秘を解明する大哲学者や大宗教家になりたいと言います。その中で、ひとり岡本という青年が何も言わないで、ただほほ笑みながら皆の言うことに耳を傾けています。周りの者がそれに気づいて、彼に将来の夢を語るよう促すと、その青年は自分の夢は皆とは違って、「宇宙の神秘に驚くことだ」と言います。宇宙の神秘を知りたいとは言わず、驚きたいとのだと語ります。

 この「からし種のたとえ」も、天の国、神の支配、神の救いは、取るに足らない小ささと想像を絶するほどの大きさとの対比に驚嘆するほかない、そんな驚きの世界なのだ、と教えてくれます。

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★4月17日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『1パーセントだけでも』ルカによる福音書9章18~27節 沖村裕史 牧師

■分水嶺
 ペトロの信仰告白と続く山上の変貌は福音書の「分水嶺」である、と言われます。分水嶺。高い山、そしてその山の頂から水が右左に分かれて流れる場所です。広島にいた頃、年に四度、丸一日使って島根県の隠岐島にある教会を訪ねていました。その途中、岡山から米子に向かう中国山地の頂で、この分水嶺を目にします。列車に沿って流れている川の流れが全く逆向きになります。そこが分水嶺です。
 山登りが、若い人たち、特に若い女性の間でブームになっています。どうして人は山に登りたいと思うのか。「そこに山があるから」はよく知られた名文句ですが、わたしがそう思うのは、ただ山の向こうが見たいからです。中学校を卒業するまで、山々に囲まれた小さな盆地からほとんど出ることなく育ったわたしにとって、その思いは「山のあなたの空遠く」の歌に重なるものでした。あの山の向こう側に何があるのだろう。そんな憧れに似た思いを抱いていました。一生、あの向こう側を見ることなどないのではないか、そんな恐れを感じることさえありました。どうしても向こうを見たい。向こう側が見えれば、安心して、またここに戻って来ることができる。きっとあの向こうに何かがあるにちがいない。そう思っていました。
 小学校最後の夏休み、隣の町との境にある峠へと向かって歩き始めました。中ほどまでやって来て、振り返ったとき、暮らしている町を見渡すことができました。安らぎがこみ上げてきます。今まで自分がいた世界が広く、新しく感じられます。長い、長い山道を辿り、ようやく峠を登りつめて向こう側を見たとき、言葉にならない喜びが湧き上がりました。今まで自分に見えなかったものが見えるのです。もうしばらく下りて行けさえすれば、あそこに行き着く。その道が見えていました。
 今日の言葉が「分水嶺である」とは、ここで初めてイエスさまが、そこから先、どこに向かって坂道を下るように、まっすぐに進み行こうとしているのか、神の救いへのその道が見えるのだということでしょう。それはとりもなおさず、イエスさまとは誰かということがはっきりするということでもあります。

■だれにも言わないように
 イエスさまが弟子たちに、人々がわたしを誰だと言っているか、とお聞きになったそのすぐ後で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。
 ペトロは精一杯の思いを込めて答えます、「神からのメシアです」。
 原文は「メシア」ではなく「キリスト」です。また「神からの」ではなく「神の」です。シンプルに「神のキリストです」。イエスさま、あなたは「神のキリスト」、「あなたこそキリスト、救い主なる神です」。ペトロはまっすぐにそう告白しました。
 この告白に続けて、イエスさまはこう告げられます。
 「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている』」
 イエスさまは今、わたしが「神のキリスト」であることを誰にも言ってはいけない、と言われます。その上で、ご自分のことを「神のキリスト」とは言わず、「人の子」とわざわざ言い換え、その「人の子は必ず多くの苦しみを受け…」と応じておられます。まるで、ペトロが「神のキリスト」「救い主なる神」と言ったそのことが言い過ぎ、間違いであるかのようです。しかし、そうではありません。イエスさまはただ、当時の人々が思い浮かべていたであろう「救い主キリスト」というその名を隠そうとされているのです。受難と、十字架と結びつかないキリスト告白を拒絶、否定しようとされているのです。
 そもそも、人の知恵で、神の御子であるイエスさまの正体を理解することなどできるのでしょうか。そうしようとするときにはきっと、そしていつも、わたしたちの中に誤解が生まれることでしょう。ペトロもまた同じです。その点から言えば、わたしたち人間は皆、分水嶺のこちら側にいるのです。向こう側が見えません。こちら側にいる人間が、あちら側にこんな道があるはずだ、この道を通って行ったら救いに至るはずだと言っているに過ぎません。あそこにイエスさまが立っておられる、あのイエスさまが指し示される道はこうだ、とみんなで見当をつけてみます。ところが、登ってイエスさまのところに近づけば近づくほど、全くの誤解であることに気づかされるのです。
 事実、「神のキリスト」という言葉は実に多くの誤解にとり囲まれていました。23章35節、十字架の場面にこんな言葉が記されています。
 「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシア〔神のキリスト〕で、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」
 ペトロが口にした「神のキリスト」という言葉がここにも出てきます。神のキリストとは、神の救いのみわざを果たす者であるはずではないか。実際に他人を救うことができた者なら、自分を救うことなど何でもないではないか。ところが救えない。「神のキリスト」と呼ばれ、救い主ぶってみても、自分のいのちさえ救えないのか、と嘲笑ったのです。
 「神のキリスト」と胸を張って告白したペトロの思いも、イエスさまを嘲った人々の思いと同じものだったのかもしれません。イエスさまの十字架、無残な死がはっきりと見えてきたとき、その告白の言葉は忽ちのうちに嘲笑の言葉に変わりました。期待と希望が深い失望と絶望に変わりました。分水嶺に立って見えていたもの、そこに立っておられるイエスさまが弟子たちのキリスト告白の中に見ておられたものは、そんな嘲笑と絶望だったのではないでしょうか。
 だからこそ、その告白の言葉を、今は誰にも言ってはならない、イエスさまはそう言われるのです。

■自分の十字架を背負って
 しかしそこでなお、イエスさまの言葉は続きます。
 「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うのである」
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