■聞いて分かる
今朝も、イエスさまが天の国について語られた「種」に纏(まつ)わる譬えです。イエスさまはいくつもの種の譬えと共に、繰り返し「耳のある者は聞きなさい」(9節、43節)と語られました。この譬えに注意深く耳を傾けなさいと言われます。イエスさまの譬えは決して難解なものではありません。分かりやすいものです。にもかかわらず、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。
聞いて分かるとは、どういうことなのでしょう。
分かるときに大切なことは、その言葉を聞きながら、具体的なイメージが心の中に浮かんでくることです。イエスさまの言葉が具体的な姿を取ってくる、そのために譬え話をなさいました。聞く人々の日常生活に材料を得て、いくつもの譬えを語られました。
今朝の譬えは、「『毒麦』のたとえ」とその「説明」の間に挟まれるようにして置かれています。その毒麦のたとえはこう始められていました。24節以下、
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた」
「人々が眠っている間に」とあります。マルコによる福音書では、この毒麦の譬えの代わりに「『成長する種』のたとえ」が置かれ、そこには「夜昼、寝起きしているうちに」と書かれています。
「夜昼」です。「昼夜」ではありません。なぜか。日が暮れる時から新しい日が始まると考えられていたからです。太陽が沈めば、明日になる。わたしたちとは生活感覚が違います。生活感覚が違うということは、人生の捉え方も違うということです。さあ働くぞ、というのではなくて、さあ寝るぞ、というところから一日が始まります。寝ることから起きることへ、また寝ることから起きることへと生活のリズムが作られます。床に入って、憩い安らぐ、その時に不安を抱えていたのでは眠れません。そのためでしょう。詩編には、夜、眠れない人の歌がいくつも出てきます。眠れないままに、神を想う歌です。言い換えれば、安らかに眠りにつくことができるのは、その人が神にすべてを委ねているからなのでしょう。一日、一所懸命に種を蒔いた、新しい日が来た、さあどうするか、ではありません。日暮れまでの「昨日」の働きの実りを神にお任せして床に入る、そこから「今日」が始まります。そんな寝起きが繰り返されていく中に、豊かな実りがもたらされるのです。
今朝のからし種と同じように、蒔かれた一粒の「種」とその成長の姿の中に、天の国の象徴的な姿が映し出されます。
わたしたち人間が知らないうちに、太陽が、雨が、大地が種を大きく成長させてくれる。だからこそ、種蒔く人は、種を蒔いた後、夜と昼が繰り返される時の自然な流れに身を委ねながら、ただじっと待つことができます。人知の及ばないところで、また人知れずひとりでに、新しい、若い芽が大地の中から顔を出し、成長し、実を結ぶ。この成長の「事実」の中に、天の国、神の支配、神の救いがあります。神の愛の御手を見ることができます。農夫は長年の経験から、この成長の驚くべき秘密を知っているので、「自然」を信頼して、安心して、時間の流れに委せて、眠りにつくことができます。農夫の知っている秘密とは、信頼の対象である「自然」の背後に、すべてを慈しみ、育んでくださる神の愛の働きがある、ということです。農夫には、具体的なイメージとして、そのことが分かるのです。
そしていつしか、実りを刈り入れる時が訪れます。この「刈り取り」としての「収穫」は、天の国の到来、完成を思い起こさせます。わたしたち人間の思惑とは全く関わりなく、ただ圧倒的な力をもって、わたしたちにもたらされる神の支配、神の救い、神の愛。そしてそれは、この世界を覆うほどの驚くほどの豊かさを持って、今ここに始まっている、もたらされている。そのことを聞いて悟りなさい、「耳のある者は聞きなさい」とイエスさまは言われます。
■驚きの世界
今朝もそんな天の国の譬えです。「からし種とパン種のたとえ」とあります。その譬えがこう始まります。
「天の国はからし種に似ている」
天の国の象徴として、「からし種」が選ばれます。「からし種」の「種」は、「穀粒(こくつぶ)」、穀物の小さな種のことです。そのからし種が選ばれたのは、初めはごく小さな種が成長して大きな木のようになる、驚くほどの豊かな実りを表すためです。蒔かれるときは「どの種よりも小さい」その一粒の種が、成長したときには「野菜の中でも最も大きくなり」ます。これは黒芥子のことだろうと言われます。直径0.95~1.6ミリ、重さ約1ミリグラムの種、それが成長すると、3メートルにもなります。
種の成長が段階を追って語られます。
「ある人が(それを)取って彼の畑に蒔くと、どの種よりも小さいのに、成長すれば、野菜の中でも最も大きくなり、一本の木となる。そのため、空の鳥がやって来て、その枝の下に巣を作るようになる」
「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。驚くばかりです。
わたしの郷里、山口県の船木で幼少期を過ごした小説家、国木田独歩は、後に東京は富士見町教会で植村正久牧師から洗礼を授けられます。その国木田に『牛肉と馬鈴薯』という小さな作品があります。青年たちが熱っぽく将来の夢を語る場面が出てきます。ある者はダーウィンのような大科学者になりたいと語り、ある者は宇宙の神秘を解明する大哲学者や大宗教家になりたいと言います。その中で、ひとり岡本という青年が何も言わないで、ただほほ笑みながら皆の言うことに耳を傾けています。周りの者がそれに気づいて、彼に将来の夢を語るよう促すと、その青年は自分の夢は皆とは違って、「宇宙の神秘に驚くことだ」と言います。宇宙の神秘を知りたいとは言わず、驚きたいとのだと語ります。
この「からし種のたとえ」も、天の国、神の支配、神の救いは、取るに足らない小ささと想像を絶するほどの大きさとの対比に驚嘆するほかない、そんな驚きの世界なのだ、と教えてくれます。