■狼と羊
9章の終わりに、とても印象的な言葉がありました。
群衆をご覧になった時、それは、まるで「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿であった、という言葉です。そのさまをご覧になって、イエスさまは「深く憐れまれた」とあります。お腹が痛くなるほどに憐れまれた。上から目線で見降ろして、同情しているのではありません。憐れな人々の姿をご覧になると、他人事とは思えず、我が子を思う母親の愛情のような、胸がしめつけられるような思いになられました。
そこでイエスさまは、そのような人々のもとへ十二人の弟子たちを選び、派遣されます。その派遣に際して、イエスさまは彼らに懇切丁寧な教えをお与えになりました。5節からの言葉です。あれもこれも持って行かず、裸一貫で行きなさい、と言われます。信仰という名の杖だけを持って行きなさい、と。あなたたちを待っている、あの迷える羊たちのもとへ行きなさい。そうお命じになられるのでした。
今日の個所は、その続きです。ここにも動物の名前が出てきます。まず、狼と羊、そして蛇と鳩、続けざまに出てきます。
イエスさまは、飼い主のいない羊のような姿の群衆のもとへ行くように、と弟子たちを伝道活動へ押し出してくださいます。ところが、その場面に続いて与えられている今日の個所では、さあ、あなたたちはあの飼い主のいない羊のような者たちのところへ行きなさいではなく、あなたたちがあの人たちのもとへ行くということ、それは狼の群れの中に行くようなものだと言われます。
この矛盾。
「飼い主のいない羊」であった人々が、ここでは「狼の群れ」になっています。どういうことなのでしょうか。
しかしこれが矛盾ではないことは、きっとお分かりいただけるのではないでしょうか。この世のさま、そしてこの世に生きる人々のさまは、まさに、迷える羊のようであり、と同時に、お腹を空かせた狼のようでもあるからです。それは、どこか、誰かの話ではありません。わたしたち自身、わたしたち一人ひとりのことです。
自分という存在は、ある意味、飼い主のいない羊のような、弱く、心もとない、不安に包まれています。飼い主のいない羊、別の言い方をすれば、糸の切れた凧、あるいは砂漠の中を歩いているような状態、わたしたちはいつでも、そのような不安定さの中に置かれています。
しかし、そんなわたしたちは同時に、狼のような凶暴さも持ち合わせています。貪欲な心を持っています。あらゆる欲望もまた、わたしたちの中にあります。おとなしい羊であるばかりでなく、獰猛な狼のようでもあるのです。
だから、イエスさまは、さあ、あの飼い主のいない羊のような彼らのもとへ行きなさいと言われると同時に、あなたたちを遣わすのはまるで羊を狼の群れの中に送り込むようなものだ、と言われたのです。
■蛇と鳩
しかしそのとき、羊は羊のまま、もう狼が来たら食い殺されておしまい、それで終わり、とは言われませんでした。
イエスさまは具体的に、二つの動物を引き合いに出しながら、この世に福音を宣べ伝え、生きるすべをお伝えになります。それが、蛇のように賢く、鳩のように素直に、というフレーズです。
蛇と言えば、聖書では、あの創世記の初めにエバとアダムを誘惑した存在として、思い起こされます。その場面でも、蛇は、最も賢いという形容詞が付けられています。賢さの象徴として、蛇が挙げられています。邪悪さの象徴と言うよりも、ここの蛇の賢さは、この世の中で生きて行く、その忍耐強さや、生き抜く力などを表していると言ってよいでしょう。
そして同時に、鳩のように素直に、とも言われます。
人間には、いつでも、どこでも、二面性のようなものがあるのでしょう。大人になって生きていく、社会人として、ある程度の常識人として生きていく、そんな自分ではあるけれども、その中に、子どものような心も持ち合わせています。
しっかりしたところと、ちょっと抜けたところ。だれでも、思い出せば、いろいろな二面性を持っています。飼い主のいない羊のような存在であり、同時に、狼のような面もある。きっと誰もがそうでしょう。福音を宣べ伝え、生きて行く上でも、蛇のような賢さと、鳩のような素直さを持ちなさい、とイエスさまは言われます。
世を生きる逞しさや、適応力も身に着ける必要もあろうし、社会性も必要でしょう。しかし同時に、幼な子のような心、素直な心、まっすぐな心も持ち合わせる。それはけっして矛盾することではありません。
わたしたちも皆、教会を一歩出れば、それなりに社会の荒波の中で生きています。人には言えないような辛さもあることでしょう。きれいごとばかりでは、乗り切れない面もあります。 Continue reading