福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 11

★4月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『もう、与えられているのに…』ルカによる福音書20章9~19節 沖村裕史 牧師

■ぶどう園の主人は神様

 イエスさまのたとえは、こう始められます。

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」

 この農夫たちはわたしたちで、ぶどう園の主人は神様です。そして、ぶどう園はわたしたちの生きる場所、働く所、置かれている場です。つまり、このたとえ話は、わたしたちが神様の備えてくださったぶどう園でどのように生きていくべきなのかを教えようとするものです。

 ぶどう園の主人はまず、農夫たちにぶどう園を貸す前に、十二分な準備をしなければなりません。ルカは「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し」としか書いていませんが、マルコは「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」と丁寧に書いています。

 ぶどう園造りは簡単な仕事ではありませんでした。パレスチナは、水さえあれば豊かな土地でしたが、その多くは畑にすることもできないほど石だらけでした。邪魔になる大きな石を取り除くだけでもたいへんな作業です。次に、取り除いたその石を利用して垣根をつくり、隣地との境界線にします。さらに、野生動物による被害を防ぐために、いばらのようなとげのある植物をその垣の上に這わせます。続いて、見張りのための「やぐらを立て」、ぶどうを搾るための「酒ぶねの穴」をそのすぐ傍に掘ります。その穴は、大きな硬い花崗岩をくり抜いてつくります。大変な労力です。そこまでの準備をしてようやく、ぶどうの苗を植えるのですが、収穫できるようになるまでには三年から四年もかかります。ぶどう園の主人は、そのすべてのことを整えて苗まで植え終えたあと、農夫たちに任せて、やっと旅に出たのでした。

 お話ししたいのは、神様は、わたしたちに必要なものをすべて与え備えてくださるお方だ、ということです。「雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになった」とパウロも語っているように、神様はこの世界に雨を降らせ、日を昇らせ、愛を注いでくださいます。このぶどう園の主人も、愛を与え、必要なものを備えてくれる人でした。

 しかも、それだけではありません。「任せて旅に出た」とあるように、農夫を信頼しています。この主人は、収穫の時まで何も言いません。

 神様はわたしたちに導きを与える方です。モーセに十戒を与え、人殺しや姦淫をしてはいけない、嘘をついてはいけない、両親を敬いなさいと言われました。そうすることで、本当に幸せになれるよ、と十戒を与えてくださいました。火の柱や雲の柱をもって、導きを与えてくださったこともあります。しかも、そのようなときには、必ず自由をも与えてくださいます。

 不思議に思われるかもしれません。導きのしるしを与えながらも、その一方で自由を与えてくださるのです。エデンの園でも、木の実は食べてもよいが、一つだけは食べてはいけないと言われました。自由を与え、信頼し、多くのものを託していださっていました。そして、それを用いるのはあなた自身だとおっしゃるのです。

 そして何よりも、このぶどう園の主人である神様は、忍耐の神です。

 収穫時の季節になったので約束の賃貸料を納めてほしいと、僕(しもべ)を遣わしました。農夫たちは、その僕を袋叩きにしました。二人目も袋叩きにし、侮辱を与えました。三番目の僕には傷を負わせました。そこで、四度目、自分の息子を派遣したところ、何と農夫たちはその息子を殺してしまいました。普通でしたら、最後の僕が傷を負わされたところで、それなりの準備もし、大きな権力を持って農夫に迫ったに違いありません。しかし、そうはされませんでした。まさに忍耐の方です。イスラエルの民は何度も裏切り、罪を犯しました。それでもなお、神様は、この民を愛し続けられ、導かれました。

 神様が、愛の神であり、すべてを与え備えてくださる神であり、わたしたちを信頼して任せてくださる自由の神であり、実を結ぶようにと願っておられる忍耐の神であることを、このぶどう園の主人は教えてくれています。

 

■農夫は現代のわたしたち

 ところが農夫たちは、その主人の言葉を無視し、拒みます。いっこうに耳を傾けようとしません。たとえ、あなたから与えられたものではあっても、その後、苦労をしてぶどうの木を育て、ぶどうの実を稔らせたのはわたしです、あなたではありません、それを今さら、というわけです。

 「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」

 これが、農夫たちの本音です。本当の所有者に代わり、自分が所有者になること、自分が神の座につく、ということです。

 わたしたち人間は、「自分のもの」という意識を、何歳ごろから持ち始めるのでしょうか。赤ちゃんのときは「自分」という意識も「自分の」という所有感覚もないのですから、「自分のもの」という思いもなかったはずです。何も持たず、しかし、すべてがある世界。もはや記憶にはありませんが、それは間違いなく幸福な楽園だったはずです。ベッドもタオルも、ミルクもおもちゃも、すべてちゃんと用意してあって、独占欲もなければ、失う恐れもありません。両親から自分という存在を与えられ、必要な環境を整えられて、根源的な充足感を味わっていたのです。

 ところが。赤ちゃんであってもいつしか所有ということを覚え、あれも欲しいこれも欲しい、もっと欲しいという所有欲がふくらんできます。当然それは、奪われたくない、失いたくない、という恐れを生み出し、手にしたものを取り上げられれば、火が付いたように泣きだします。幼稚園に入るころには自分のものに自分の名前を書くように教えられ、小学校に上がるころには他人のものをうらやマしく思い、中学生や高校生になって、自分は何のとりえもない、何も持っていないなどと思い始めるころ、悪魔が来て、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、耳元でささやきます。「わたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と。

 そんな悪魔を拝んで苦しんでいるのが、わたしたちが生きる現代社会の姿です。蜃気楼のような繁栄の幻影に目をくらまされて悪魔を拝み、すべてを得ているようでいて、何ひとつ満ち足りていない社会。あらゆる情報、あらゆる刺激、あらゆる快楽に満ちあふれているようでいて、苦しみばかりが増していく社会。それこそ、自分のものにしたいという欲望と、自分のものにできないという不満に満ち満ちた、失楽園の本質です。

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3月28日 ≪棕櫚の主日礼拝≫ 『十字架からの声』ルカによる福音書23章32~43節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫
前 奏   あがないの主に (G.F.カウフマン)
讃美歌   15 (1,3,5節) [日11-1,3]
招 詞   イザヤ書 56章1節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   309 (1,3節)
祈 祷
聖 書   ルカによる福音書23章32~43節(新158p.)
讃美歌 Continue reading

★3月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『くつろいでますか?』マルコによる福音書3章20~27節 沖村裕史 牧師

■ペトロの家
 20節、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」
 昔も今も変わらず、どの家にも亀裂が走っていました。
 愛に満ち、ひとつとなっているはずの家族の絆(きずな)はほころび、ずたずたになっていました。重い皮膚病、手や足の障がい、原因不明の出血、やもめであること、外国人であること、徴税人であること、貧しさゆえに律法を守ることができないでいること―そんな様々な理由から、穢れた者、罪人であると見なされ、家にいてもそこに居場所はなく、時には家から追い立てられていた人々が、孤独のうちに苦しみ、もがいていました。誰もが迷い、傷つき、ひたすらに愛を求めて生きていました。
 そんな人々のために、イエスさまは故郷ナザレを離れ、カファルナウムの家を拠点に福音を宣べ伝え、癒しの御業を行っておられました。その噂を聞きつけた多くの人々が、イエスさまたちが食事をする暇(いとま)もないほどに、そこに押し寄せてきます。ペトロの姑も、イエスさまに病を癒していただいて以来、イエスさまの身のまわりのお世話をしていました。この時も、しばらく山に行って留守しておられたイエスさまがお帰りになるというので心待ちにし、イエスさまを家に迎え、イエスさまのお体を気遣ってハラハラしていたはずです。一所懸命つくった食事を口にされる時間もないからです。
 群衆も、弟子たちも、ペトロの姑も、イエスさまと共に生きることを望み、喜んでいる、まるでひとつの家族のようでした。

■気が変になっている
 そんな場所に、群衆や弟子たちとは全く違う態度を見せる人々が登場します。
 21節、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」
 「気が変になっている」。この言葉のもともとの意味は、「自分の存在、自分のあるべき場所の外へ出てしまう」です。あるべき場所―「常識」の外に出てしまうことです。それが「気が変になっている」ということです。
 わたしたちが大人になって行くとき、誰もが、「常識」と呼ばれる世界観、既成の枠の中に自分を位置づけ、自らのアイデンティティを形成します。アイデンティティとは、それがなくなったらもう自分だとは言えない、そんな「何か」のことです。その「何か」が様々な形で、人を支配しています。人は自分が何かでないと不安なので、常に自分が何であるかを確かめようとし、さらに何かであろうとし続けます。しかし「何かである」ことは「自分である」こととは違います。「何か」とはほとんどの場合、旧来の慣習や見方であり、逸脱を許さない一つの制度や枠組みです。それが「常識」と呼ばれるものです。
例えば、「自分は女である」というとき、それは単に生物学的な分類を言っているのではなく、わたしは「女」という慣習や文化、制度や枠組みに支配されています、と言っているのです。よく言われるように、「人は女に生まれてくるのではなく、女にされていく」のです。
 わたしたちの世界では、その「常識」と呼ばれる世界観に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な、おかしな人間と見做されます。誰もが一度ならず「世間体を考えなさい。そんなことをして恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中、地域にいることは、身内の恥、地域社会にとってはリスクでしかありません。
 そこで、わたしたちは、家族、地域社会、組織の誰かが問題を起こしたとき、その人のことを理解しようとするよりも先に、家族の、地域社会の、組織の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。その人との関係、絆を回復しようというのではありません。むしろ関係を断ち切って、外に出さないようにします。ここでも、家族がイエスさまを自分たちの手の中にもう一度引き戻そうとしたのは、イエスさまのためではなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
 イエスさまがご自分の生家を出て、カファルナウムの家、弟子であるペトロの家をご自分の家と定められ、そこを自分にふさわしい家とされましたのは、なぜか。それは、「常識」に囚われて、イエスさまを縛り付け、抑えつけようとする「身内」のところではなく、ひたすらに愛を求め、共に生きることを望み喜びとする多くの人々、弟子たちのいるところにこそ、まことの家がある、本当の家族がいる、そう思われていたからでしょう。それが49節以下のイエスさまの言葉の意味なのでしょう。
 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」

■ 神の国
 自分の家に帰ってきた、あの放蕩息子の物語が思い起こされます。過ちを、罪を犯した者であっても、いえ、であればこそ、本当に休めるところ、心から寛(くつろ)ぐことができるところ、それが、まことの家、本当の家族ではないでしょうか。寛ぐことのできる居場所です。
 「寛ぐ」という言葉はもともと、物が固いままではなく、それが柔らかくなっていく時、あるいは柔らかくなっているものが発する音を聞き取って、「寛ぐ」と言い表したのだ、と言います。また「寛ぐ」は、口を開くという意味の言葉である「くち、ひらく」、それが「くつろぐ」になったのだ、とも言います。確かにそうです。わたしたちは緊張していると、口をぐっと閉じて開こうとしません。特に心が頑なになっている時には、口をつぐんでしまいます。こどもたちがときどき放心状態になったり、ぼんやりしたりすることがあります。そんなときは決まって、かわいい口をポカンと空けています。わたしの幼い時の写真にさえ、そういう写真があります。
 家というのは、家族というのは、口を開こうが、何をしようが、全く無防備でいることができる場所。「どこまでも共にあろう」とすることのできる場所。それこそ、寛ぎであり、憩いです。寛ぐ姿は、強い緊張(ストレス)から解放されて、緩められている、いわば「あるがままに共にある」ことのできる人の姿です。
 そのように寛ぐためにこそ、イエスさまは、わたしたちのところに来られ、「神の国」を宣べ伝えられました。もう神の国が来ている。神様が共にいてくださって、霊によって働いてくださり、神の愛の御手が差し出されている。今こここそ、わたしたちの寛ぎと憩いの家、まさに神の国だと言われます。
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3月7日 ≪受難節第3主日礼拝≫ 『ふさわしくないままで—聖餐(6)』コリントの信徒への手紙一11章17~22, 27~29節 沖村裕史 牧師

■言葉だけでなく

 教会では、洗礼(バプテスマ)を受けたいと希望する人に、「どうして洗礼を受けようと思うのですか」と、ひと言だけお聞きします。すると、それぞれに違った答えが返って来ます。信仰の道は、十人いれば十人、すべて違います。中に、ひと言、ふた言言いかけて、何も言えないで涙をこぼす人がおられました。言葉も大切ですが、その涙が多くのことを語っていました。信仰によって人と人が出会うとき、振る舞い、まじめな姿が重んじられます。

 教会は続けて、これからも続いて集会に出席するよう、特に聖餐を重んじこれを守るようにと勧め、洗礼のときには、神と全会衆の前で、誠実にこれを守ることを約束していただきます。こうして、洗礼を受けられた方は、「現住陪餐会員」と呼ばれることになります。

 人は、その心にあるものを言葉で言い表しますが、言葉だけでなく、振る舞いや動作でも表します。キリスト教は、聖書の宗教であると言われます。しかし、言葉だけでは表せない、振る舞いや動作で表すより他ない、大切なものがあります。それが、洗礼と聖餐と呼ばれる、二つのサクラメント(聖礼典)です。

 

■主の晩餐

 イエスさまは、会堂で、また海辺や山で人々に語りかけられました。それだけでなく、弟子たちや徴税人や罪人たちと共に食事をされました。特に、十字架―死の前夜、エルサレムの宿の二階で、弟子たちと「最後の食事」を共にされました。そこにいたのは、イエスさまを裏切ったユダ、イエスさまを三度も知らないと言ったペトロ、イエスさまを見捨てて逃げまどった弟子たち―すべて罪人でした。そうなることを承知の上で、イエスさまは、弟子たちと共に食事をされました。

 イエスさまの死後、弟子たちは集まって、そのときのことを想い起しつつ語り合い、そして共に食事をしました。教会はやがて、信徒たちが一つの場所に集まって、賛美し、祈り、言葉に耳を傾け、信仰を告白するようになりましたが、20節に「一緒に集まって…主の晩餐を食べる」とあるように、その頂点は「主の晩餐」でした。

 ウィリアム・ウィリモンの著書『日曜日の晩餐』の中に、その時の様子がこんなふうに描かれています。

 日曜日の夕方、安息日の後にエルサレムでの普段の生活が再び始まる日のことです。太陽が沈みかけ…商人たちは品物を片付け、労働者たちは街角でごった返し、一人の農夫が一匹のロバを馬小屋の中から家の方へと誘い出していました。…目を凝らすと、建物の後ろへとつながる小さな扉の中に入って行く、男や女たちが見えます。老いた者や若い者、ローマ人の奴隷、金持ちそうなユダヤ人の夫婦、明らかに街の外からやってきた羊飼いと思われる年老いた男、服装から判断して役所に雇われているに違いない若い男、顔をベールで隠す二人の若い女など、たくさんの人が入り混じっています。彼らの持っているランプの光が入り口で揺らぎ、そして消えていきます。彼らは何のために集まっているのでしょうか。…

 30名か40名のグループが、シンプルな木製の食卓の周りに集まっています。その大きい部屋の中で、一人の男がひとつの巻物から、ヘブライ人の預言者が書いたと思われるものを読んでいます。その顔がふたつの小さいランプによって照らされます。彼が読み終わるまで、人々はじっと耳を傾けます。彼は巻き物を巻いて、後ろの方へと退きます。年老いたひとりの男、明らかに人々から敬意を払われている様子の人が、光の中を前の方へと足を踏み進め、そして話をし始めます。彼は説教の中で、聖なる書物で聞いてきたことを自分たちの生活の中で成就するようにと会衆を励まします。

 年老いた男が説教を終えると詩編歌が歌われます。それからすべての人が手を上げ、天に向かって目を開き、手を伸ばして、一人ずつ、他者のための短い祈りを捧げます。彼らの中には、皇帝を拝むことを拒んだために処刑された者がいました。彼らはその人のために祈ります。他に、裁判を待ちながら、拘留されている者もいます。彼らはその人たちのためにも祈ります。病気、迫害、貧困、子どもの誕生―それらすべてのことを祈ります。祈りは、すべての人たちのアーメンで終わります。彼らは祈りを閉じ、夕方の食事の準備をするにあたって、「平和のキス」と呼んでいるものをもって、互いに抱き合います。

 今、(「給仕に奉仕する執事」を意味する)ディアコンと呼ばれる人たちが会衆の間に移動し、人々が持ち寄った葡萄酒の瓶と小さなパンを集めます。食べ物は集められ、食卓の上に置かれます。新鮮なパンと新しい葡萄酒の香りが会場を満たします。司祭は、食卓の後ろに立ち、献げものの上に彼の腕を伸ばして感謝の祈りを捧げます。祈りの中で彼は、世界の創造に、神の愛に、そしてイエス・キリストに示された神の御業に感謝を捧げます。彼は、二階の部屋で弟子たちと共にされたキリストの食事のことを、キリストがパンを裂き、「わたしの記念としてこれを行いなさい」という言葉をもって、彼らにパンと杯とをお与えになったことを思い起こさせます。

 祈りは、すべての人が大きな声で言うアーメンをもって終わります。

 一人ひとり、祝福された大きなパンの一片(ひとかけら)を与えられ、それぞれがひとつの大きな杯から葡萄酒を少しずつ回し飲みします。すべての人が食べた後、執事は残ったパンと葡萄酒を集めます。残ったものは、会衆の中の孤児と未亡人に与えられます。厳しい迫害のために、養わなければならない多くの人がいました。病気や困窮にある人々もまた献げものから受け取ることになるでしょう。執事が食物を亜麻布に包(くる)んで欠片(かけら)をきれいにすると、司祭は「富める者が貧しい者を助けるために来て、わたしたちはいつも一緒にいることになる」と言葉を付け加えます。その後、司祭は人々の上に彼の手を挙げて祝福します。…

 彼らは食べ物を与えられました。彼らは養われました。彼らは主とずっと一緒でした。そして今、この世界に戻る準備が整います。この世界へと戻る道を照らすランプをそれぞれが灯しつつ、扉を出て、暗闇の中へと滑り込みます。

 彼らは日曜日に集まりました。この主の日に、彼らは集まって、読み、聞き、祈り、宣べ伝え、そして食べました。

これが主の晩餐です。[i]

 

■ふさわしくないままで

 主の晩餐のときに読まれていたのが、コリントの信徒への第一の手紙11章23節から26節までに記されている言葉でした。しかし問題は、その後27節から29節です。わたしも、そして皆さんも気になる言葉です。

 「ふさわしくないままで Continue reading

★3月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『手を差し伸べて、触れて』ルカによる福音書5章12~26節 沖村裕史 牧師

■千切れほどの愛
 今日は、二つの言葉に注目して、お話しをしたいと思います。
 ひとつは、13節の言葉です。
 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」
 誰でも病気になります。それはごく当たり前なことです。ところが、当時のユダヤでは、その病ゆえに、地域社会から、家族からも見捨てられ、つまはじきにされて失望し、苦しんでいるたくさんの人たちがいました。特に、治る見込みのない重い病は、その人の罪ゆえ、罪の穢れゆえだと信じられ、病人に触れることさえ禁じられています。その戒めを守らず、病人に触れた人は、その人自身もまた罪穢れると信じられていました。
 しかし、イエスさまは、はっきりと言われました、「よろしい。清くなれ」。直訳すれば、「わたしの心です。きよくなれ」です。「わたしの心」とは「わたしが願うこと」ということでしょう。上から目線で「まあ、いいだろう」と言われたのではなく、「わたしは心から願っています」、そう言われて、重い皮膚病に苦しむ人を癒されました。
 このことから気づかされる第一のことは、イエスさまの憐れみ、神様の愛です。
 ここには記されていませんが、イエスさまが癒しのみ業をなさるときには決まって、「深い憐れみ」によってそうされたと記されています。同じ出来事を記すマルコによる福音書には、「深く憐れんで」とはっきりと書かれています。イエスさまが手を触れられたのは、この病人を憐れんでくださったからです。当時の人々が避けて通った病人のところを、イエスさまは避けることなく、むしろ深く憐れんで、手を差し伸べられました。深く憐れむという言葉は、腸(はらわた)の痛むほどの思いで憐れむという意味です。聖書では、腸とはわたしたち人間の生、いのちそのものを意味します。イエスさまは、全身を重い皮膚病に覆われて苦しむこの人を見て、心の奥底から、ご自身のいのちのこととして憐れみを抱き、その人のことを愛されたのだということです。
 続く「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とは、腫れ物に触るようにして触れ、同情を示されたというのではありません。この人とひとつとなる、この人のいのちそのものに触れるということです。迷子になった自分の子どもが見つかったとき、わたしたちの誰もが、わが子がどんなに汚れていても、ぎゅっと抱きしめることでしょう。そうせずにはおれません。イエスさまが手を差し伸べて触れられるとはまさに、ぎゅっと抱きしめる、そんな感じに違いありません。
 そして何よりも、手を差し伸べて触れるということは、イエスさまもその人たちと同じように罪穢れた者と見なされ、除け者にされるということです。どこか高みから、口先だけで「清くなりなさい」と言われたのではありません。この人たちを罪の苦しみから解き放ち、罪から自由にするために、その罪と重荷、痛みと苦しみを自ら背負ってくださったのだということです。
 いのちに触れるということはまさに、わたしたちの罪を、痛みも苦しみをも、すべて引き受けてくださったということです。それほどまでに、イエスさまは愛してくださるのです。

■信仰に先立つもの
 この癒しは、イエスさまを信じて、癒しを求めた重い皮膚病の人自身の信仰によって引き起こされたのだと説明されることがあります。続くもうひとつの出来事も、中風の人をイエスさまの所に連れてきた友人たちのその信仰ゆえに、中風の人は救われたのだと言われます。
 信仰がなければ救われなかったのか、確かにそうとも言えます。がしかし、もっと大切なことがあります。それは、この人たちの信仰に先立ってイエスさまが憐れんでくださっている、神様が愛してくださっていることです。
 信仰とは、わたしたちの知識や努力の結果ではありません。信仰、それさえも神様からの賜物です。決まりや道徳を守り、法律や常識に従って、人から非難されることのない、いわゆる「立派な人間」として「清く正しい」生活を送ることが、信仰に生きることではありません。仮にそうだとすれば、わたしたちは、律法学者やファリサイ派の人々が、病気の人たちを罪人として謂われのない苦しみに陥れたのと同じように、誰かを罪に定めて裁き、その罪を理由にその人の存在を、いのちを無視し、傷つけるという罪を平気で犯すことになるでしょう。そうではなく、わたしたちの信仰、努力、何者であるのかに「先立って」、イエスさまが、神様がわたしたちを「愛していてくださっている」のです。全ての人が無条件に、あるがままに、存在そのものが愛されていることに気づかされて、わたしたちが、驚くべきその愛への感謝と信頼をもって生きる者となること、それが信じて生きるということでしょう。

■罪赦される
 その信仰を見て、イエスさまは宣言されます。
 「人よ、あなたの罪は赦された」
 この印象的な言葉を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。
 中風の人を連れて来た四人の男たちは、イエスさまのところにさえ連れて行けば、もう後は必ずどうにかなるという、絶対の信頼をもってイエスさまのもとに来ました。その信仰を見て、イエスさまはそうして連れて来られた人に、「あなたの罪は許された」と宣言されたのです。「もう大丈夫。神様が愛してくださるから、何の心配もない。今までどのように生きて来たとしても、神様はあなたを赦し、あなたを癒し、あなたを生かしてくださる」。イエスさまはそう宣言されるのです。
 律法学者たちはびっくりして文句を言います。
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2月28日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『だれが家族?』マタイによる福音書12章46~50節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

黙 祷
讃美歌  11(1,3節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節a
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
讃美歌  313(1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書12章46~50節
讃美歌  161(全)
説 教   Continue reading

2月21日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『しるしを欲しがるとき』マタイによる福音書12章38~45節 沖村裕史 牧師

■きちんと掃除したのに

 今朝のみ言葉の後半、43節から45節には「汚れた霊が戻って来る」という奇妙なタイトルがつけられています。

 汚れた悪霊が、住み着いていた人から一度は出たけれど、行き場がないので戻って来た。すると余りにきちんとしているので、仲間を引き連れてもう一度入り直した。こうして、その人の状態は一層悪くなった。そういう話です。

 首を傾げてしまいます。掃除が行き届かず、家の中がひっくり返ったような状態であれば、悪霊たちも入り直すことなどなかった、掃除をきちんとしていたのが悪かったのだ、ということになります。きちんと掃除をし、整えることの、どこがいけなかったのでしょうか。

 

■ベルゼブル論争

 このたとえ話は、22節以下の「ベルゼブル論争」の「結び」にあたります。

 悪霊にとりつかれて目も見えず、ものも言えなかった人を、イエスさまが癒されました。これを見て群衆はひどく驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言います。正直で、率直な反応です。それこそ、イエスさまによる「しるし」でした。しかし、イエスさまを罪に陥れようとしていたファリサイ派の人々は、それを悪霊の頭ベルゼブルによる業だと難癖をつけます。これがきっかけとなって論争が展開されます。イエスさまは言われます。28節、

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 働いているのは神の霊だ。その神の霊の業を通して、神の国がすでに来ている。神の支配が始まっている。神は今ここにおられる。神の愛の御手があなたたちに差し出されている。まさに福音が宣言されます。さらに続けて31節以下、

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」

 癒しの業によって悪霊が追い出された。それは、神が今ここにおられ、神の霊として働いてくださっていることの証拠だ。わたしに言い逆らう者は赦されても、神の霊が今ここに働いてくださっていることを否定する者は永遠に赦されることがない。そして、名指しではっきりと言われます。34節、

 「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」

 

■「しるし」論争

 このベルゼブル論争が「しるし」を巡る論争へと移ります。今朝の38節以下です。

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」
 
 そこまで言うのなら、そのことを証明してみなさい。その「しるし」を見せてもらおうじゃないか、ということです。

 「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

 イエスさまは、ヨナの出来事を思い出させます。

 ヨナは神から、当時の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに行って、そこに暮らす人々に悔い改めを迫るよう、命じられます。しかし彼は、その神から逃れようとし、ヤッファからタルシシュヘ行く船に乗り込みます。ところがその船が大風に遭い、沈みかけます。船では、誰のせいでこんな災難が降りかかったのか、くじを引いてはっきりさせようということになり、ヨナのせいだということになって、彼は海の中に放り出されます。放り出された彼は大きな魚に飲み込まれ、三日三晩の後に海岸に打ち上げられますが、その場所こそがニネベでした。こうしてヨナは改めて神の言葉を伝えることになり、それを聞いたニネベの人々はみな神の前に悔い改めた、という話です。

 大切なことは、ヨナが自らの力ある業によってニネベの人々を悔い改めに導いたのではない、ニネベの人々は神からヨナに与えられた預言の言葉によって悔い改めに導かれたのだ、ということです。

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★2月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『みんな一緒に』ルカによる福音書21章1~4節 沖村裕史 牧師

■こどものけんか

 小さなこどもたちが遊んでいる姿を見ていて、はっとさせられることがあります。遊ぶというと「みんな一緒に」と思われるかも知れませんが、遊びの始まりは「一人遊び」です。一人遊びが始まると、けんかが増えてきます。理由は、大抵、おもちゃの取り合いです。こどもたちにとって、周りにあるおもちゃはみんな、「自分のもの」です。保育園や幼稚園にあろうが、お店にあろうが、お家にあろうが、それはみんな、自分のものです。それで、けんかが始まります。それでも、遊びながらけんかすることを繰り返し、こどもたちは学んでいきます。おもちゃを独り占めするよりも、けんかをするよりも、ともだちといっしょに遊んだ方がもっと楽しいことに気が付き始めます。おもちゃは、「みんなのもの」で、みんなで一緒に遊ぶためのもの、ということがわかるようになります。こどもたちは、今、手にしているものを独り占めするのではなく、「みんなと一緒」ということの大切さと、楽しさを知るようになります。こうして、こどもたちは成長し、大人になっていきます。

 ところが、わたしたちが大人になって、たくさんのものを手に入れ、身につけ、それを自由に使うことができるようになると、まるで、二歳か三歳のこどもにもどったかのように、それを独り占めしようとして、又々、けんかをするようになってしまいます。

 

■やもめの「真実」

 今日のみ言葉には、そんな愚かなわたしたちの姿が描かれています。

 わたしたちが先ず、何よりも目を留めなければならないのは、金持ちたちとは如何にも対照的な、わずか二枚のレプトン硬貨―今で言えば、缶ジュース一本分のお金を神様にささげた、「やもめの姿」です。そのやもめのささげものに、イエスさまは「真実」を見出されます。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 「確かに言っておくが」とは、直訳すれば「真実をもって、わたしはあなたがたに言う」です。真実としてあなたがたに言う。真実がここにある、そのことをあなたがたに語る、ということです。

 やもめの何を真実だとご覧になったのでしょうか。

 神殿で献金を献げると、祭司が名前とその額を大声で告げ、記帳します。「だれそれ、レプトンふたつ」と大声で告げられます。恥ずかしさで身が縮むようです。

 貧しいやもめは、どのような思いで、どのような姿で、わずかばかりのお金を神様にお献げしたのでしょうか。

 「これは、ここにいる祭司に差し出したのではない、神様にささげるのだ」という信仰によるのでなければ、到底できることではありません。やもめはこのとき、ただ神様への真実をもって、その銅貨をおささげしたのでしょう。

 それでもなお、わたしたちは戸惑いを覚えます。イエスさまは言われます、

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 生活費全部を献げることが真実の尺度となるなら、今日の、また明日からの生活は一体どうなるのでしょうか。持っているものすべてを献げることは、本当に良いことなのでしょうか。ローンや教育費はどうするのか。

 金持ちたちは「有り余る中から献金した」とありますが、「有り余る中から」という言葉にも引っ掛かります。「有り余る中から」献げている人などいるのでしょうか。だれしも老後の生活費、介護の費用、病気のときの治療費のことが心配です。子どもや孫のことも考えます。心配は尽きません。「有り余る」、捨てるほどあるという人などどこにもいない、そう思われます。

 貧しいやもめは、どうして、自分の持っているものをすべて献げることができたのでしょうか。

 

■神様が与えてくださる

 その答えを、イエスさまはわたしたちに繰り返し教えてくださっていました。

 イエスさまは、蒔くことも、育てることも、刈入れることもしない、あの鳥が養われ、明日には炉に投げ入れられ、焼かれる他ない、野の花が美しく装われているように、「あなたがたの天の父は…あなたがたに必要なことをご存じである」と言われました。

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2月14日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『良い倉から取り出す』マタイによる福音書12章33~37節 沖村裕史 牧師

聖日礼拝 「降誕節第8主日」
2021年 2月 14日 式次第

前 奏  キリスト、神のひとり子よ (J.プレーガー)
讃美歌  9 (2,4節)
招 詞  詩編34篇9~10節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  53 (1,3節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書12章33~37節 (新23p.)
讃美歌 Continue reading

2月7日 ≪降誕節第7主日礼拝≫ 『救い主が罪人と一緒に』ルカによる福音書5章27~32節 沖村裕史 牧師

■もっと注意しなさい

 ウィリアム・ウィリモンは、聖餐について記した著書『日曜日の晩餐』の第四章を、こう語り始めます。

 「イエスの粗探しをしていた人たちを怒らせたのは、イエスが選んだ晩餐の同席者だった。ルカが言うように、イエスの友人たちは雑多な寄せ集めだった。徴税人、ファリサイ派の人々、売春婦たち、粗野な漁師たち、様々な女たち。ファリサイ派の人々はイエスに言い続けた、『あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない』と。

 あなたは、もっと注意しなさい。

 晩餐の食卓は、とても親密で、神聖で、輝きに包まれる、神秘的な場所なのだから、あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない。

 ある人が、全き者でも、価値ある者でも、人間らしい者でも、兄弟や姉妹でもないのなら、そのような人を晩餐に招待しないよう、注意しなさい。十分に注意しなさい。」

 

■徴税人レビ

 レビの召命の出来事と続く宴会でのイエスさまの言葉は、一世紀のパレスチナ世界へと、わたしたちを誘います。

 「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」

 当時、人頭税や土地税といった直接税はローマ人によって雇用された徴税人によって集められ、通行料、関税、手数料などは収税所で徴税請負人によって集められていました。収税所に座っているレビは明らかに徴税請負人です。徴税請負人は、そうした料金を集める権利を手に入れるために、前もって、所定の金額を税金として支払っていました。当然、集めた金の中から前もって払った金額を差し引いた残りの金は自分の懐に入ることになります。多めに徴収して私腹を肥やすこともできました。しかも、徴税請負人たちの多くは収税所のある地域の住民ではなかったようです。何の遠慮もありません。ローマの官憲に賄賂を渡し、その力をちらつかせて税を徴収するそのやり口は、あくどく、容赦ないものでした。彼らは人々から蛇蝎(だかつ)の如くに嫌われ、蔑(さげす)みの対象にさえなっていました。しかも、彼らが取り扱っていたのは、カエサル〔ローマ皇帝〕の肖像が刻印された「汚れた」金です。ウィリモンが言うように、「彼らは、詐欺師であり、裏切り者であるばかりか、偶像礼拝者でもあった」のです。

 今、イエスさまがそんなレビを「見て」、とあります。この「見る」というギリシア語は「分かる」「理解する」という意味を持つ言葉です。ただぼんやりと見たというのではありません。レビという人を知って、理解し、受け入れたということです。徴税請負人の中でレビが悪人ではなかった、とは一言も書いてありません。だれもが、その体に触れぬよう離れ、距離を取り、避けよう避けようとする。そんな中、イエスさまだけが、まっすぐなまなざしを向けて、近寄り、声をかけ、わたしのところに来なさいと招いてくださったのです。

 「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。

 この招きを受けて、レビが躊躇(ためら)う様子も見せず従ったのは、イエスさまの方からレビに近づいて来られたからであり、そして、刺々しい、険しいまなざしではなく、あるがままの一人の人間としてまっすぐに見つめる、柔らかなイエスさまのまなざしに気づいたからでしょう。

 「あるがままの一人の人間として見られる」。レビにとって、ありえないことでした。

 

■ファリサイ派の告発

 レビは、今や、イエスさまと宴会を共にする最初の人になります。

 「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」

 ファリサイ派の人々が、家の出入り口から中の様子を伺っていました。するとそこに、イエスさまと弟子たちがレビの整えたその食卓に着いておられる姿が見えます。このならず者たちと一緒に食事をするその光景は、彼らにとって思いもよらないこと、驚くべきことでした。

 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」

 ルカは、ファリサイ派の人々のことを、律法に文字通りに従うことを誇りとし、人の弱さや欠けにはいささかの関心も示さない、宗教的エリート意識の強い鼻持ちならない俗物、いかにも聖人ぶった人々として描いています。彼らは、神の律法を日々の具体的な生活の中で守るために、様々な解釈と条件を付けた規則を作り出しました。そして、それを厳しく守ることで、自分の正しさを誇ろうとしていました。イエスさまは、そんなファリサイ派の人々のことを、律法を複雑にすることに熱心で、小さな事柄に囚われ過ぎるあまり、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)と批判し、「偽善者」「白く塗られた墓」(マタイ23:27)―うわべだけの空しい者たちと呼ばれました。

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★2月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『わたしたちは神様のもの』ローマの信徒への手紙14章1~9節 沖村裕史 牧師

■軽蔑

 パウロは今、具体的で、日常的な生活の問題を通して、わたしたちに語りかけます。その問題とは何か。3節です。

 「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」

 この世の中には、生き方が違い、考え方が違う人がいます。当然のことです。ところが、そうすると、どうしても自分と考えの違う人を「軽蔑し」「軽んじて」しまいます。「軽蔑する」「軽んずる」とは、相手を重く見ないということですが、もともとのギリシア語の意味は、ただ相手を重く見ないだけではなく、存在を認めないという、もっと強い「拒絶」を意味する言葉です。そこにその人がいるのに、いないことにしてしまう、というほどの意味です。

 謙虚に、心の内にある自分自身の姿を振り返ってみると、意識してか無意識かは別にして、自分の気にいらない人を、その人はいないことにするという形で解決をしてしまっていることにハタと気づかされることはないでしょうか。そのような解決方法が、実は何の解決にもならないばかりか、自分自身のあり方をひどく歪(ゆが)めていることに愕然(がくぜん)とされることはないでしょうか。わたしたちは、人と人との関係を生きるほかない存在です。ですから、相手の存在を心の中で打ち消そうとすることは、わたし自身の存在そのものをも否定しようとすることです。仮にそうせざるを得ないとすれば、それは、とても深刻で悲しいことです。

 にもかかわらず、その時々に、その人がそこにいることが邪魔になります。しかもここでは、食べる者が食べない者を軽んずるだけでなく、食べない者も食べる者を裁いています。「裁く」ということは、「軽んずる」よりももっとはっきりと意識して、相手の罪を問い、罪ある者として非難し、罰しようとする、頑なな心です。

 

■裁く

 わたしたちは、互いを「拒絶」し、「断罪」し、疎外し合うような、頑な心を、どのように克服することができるのでしょうか。4節、

 「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」

 裁くことは決してよくないとわたしたちも知っています。なぜいけないのか。相手の人権を重んじなければならない、自由を奪ってはならないと言われるかもしれません。けれども、あなたの裁いている人、その人は他人の召使い、他人の僕(しもべ)ですよ、という言い方をするでしょうか。「あなたが裁いているのは」あなたの家の者ですか、他人の家の者ではないのですか、あなたにその人を裁く権限があるのですか。

 この「他人」という言葉は、言うまでもなく、わたしたち以外の人のことです。わたしたちは、誰のものでもなく、主のもの、神様のものなのだ、とパウロは言います。人はすべて、主のもの、神様のもの―これが人間の尊厳の根拠です。人のいのちは神様から与えられ、イエス・キリストによってかけがえのないものとして贖われたものです。それを人が裁いたり、軽んじたり、差別したり、支配したりすることは赦されません。「誰にも」赦されることではないのです。

 

■しかし立ちます

 ですから、主人である神様が引き立ててくれればその人は立つし、打ち倒されたらその人はもうどうしようもなくなる、そう言った後でパウロはすぐにこう言います。

 「しかし、召し使いは立ちます」

 確かに、わたしたちは倒れることもあるのですが、しかし、倒れても、立たしてくださるのは、神様である主人のなさることです。主は、わたしたちを立たせてくださることができるのです。僕、召し使いであるわたしたちを鞭(むち)でひっぱたいておいて、死ぬほどまで苦しめておいて、わたしはお前の主人だぞというのではなく、過ちと罪のために倒れている僕を、わたしを立たされるのです。そういう主がわたしたちと共におられ、今、わたしたちすべてを立たせてくださっている、というのです。

 そういう主がおられるのです。

 

■悲しみや苦しみ

 生きていく中で、言葉では言い尽くせぬほどの困難や悲しい出来事に出会うことがあります。そのような困難や悲しみをわたしたちが、そのままに受け入れることができればよいのですが、過去を振り返り、今を見据(みす)える時、そうした出来事の多くが如何(いか)にも理不尽に思えます。それでも、その困難を乗り越えなければなりません。そうしなければ生きていくことさえできません。

 わたしたちは、泣いて諦めようとしたり、それと気づかないままに心の中に封をして忘れ去ろうとしたり、ときには誰かを責めることで自分の重荷を軽くしたり、もしかすると、すべてを神様のせいにしたりするかもしれません。また、そのような悲しみや苦しみは、一人では担(にな)えなくても、二人であればまだ担いやすいように思え、溺れる者が藁(わら)をも掴むように、誰かにすがりつこうとするかもしれません。確かに神様は、一人では重すぎる人生の重荷を、二人で担い合うようにと男と女を造られましたが、そのようにして結ばれたパートナーであっても、悲しみや苦しみが大きければ大きいほど、それを担う合うことは決して容易なことではありません。

 

■主のもの

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1月31日 ≪降誕節第6主日礼拝≫ 『神の国』マタイによる福音書12章22~32節 沖村裕史 牧師

■驚き
 イエスさまの噂を聞いた多くの人々が、そのもとに集まっていました。22節から23節、
 「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて…」
 悪霊に取りつかれて、目も見えず、口も利けない人がイエスさまのところに連れて来られました。 その悪霊を、イエスさまが追い出し、その人を苦しみから解放してくださいました。
 その出来事を目撃した「群衆は皆驚いて」とあります。「驚いて」。ギリシア語のエクステーミは、ただ驚くというのではなく、「困惑する」「肝をつぶす」ほどに驚くという意味です。本来は「あるべき場所から外れる」といったニュアンスを持っていて、そこから「正気を失う」「気が変になる」とも訳されます。群衆のすべてに、この出来事が「正気を失う」ほどの大きな衝撃を持って受け止められたことが分かります。
 この後、小見出しにある「ベルゼブル論争」がいよいよ始まるのですが、同じ出来事を記すマルコは、この論争に先立って、イエスさまの家族が「気が変になっている」と言って、イエスさまを取り押さえ、力ずくに、縛ってでも家へつれて帰ろうとしていた、と記しています。
 「気が変になっている」とは、先ほどの「驚いて」と同じ言葉です。「自分のあるべき場所から外れてしまう」「自分たちの常識の外に出てしまう」ということです。この世界では、「常識」に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な人間と見なされます。誰もが一度は「世間体を考えなさい。そんなことをして、恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中にいることは、身内の恥、不名誉なことでした。
 イエスさまもそんなひとりでした。罪人と呼ばれる人たちとばかり一緒におられました。罪に穢れるから関わってはいけない、触れてもいけないと言われていた人たちと一緒にいて、食事までし、安息日の規定までないがしろにし、罪を赦す権威まで自分にはある、とまで言われていました。
 一体、何をやっているのか。自分の手に余る、不可解な存在。家に帰ろうともしない。もはや黙っているわけにはいきません。家族が問題を起こしたとき、わたしたちは、その人のことを理解しようとするよりもまず、家族の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。家族としての絆を回復して、内に迎え入れるというのではありません。監視下に置くことによって、家の中に一緒にいながら、その関係を断ち切り、絆の外へ追い出そうとします。このとき、家族がイエスさまを自分たちの手の中に引き戻そうとしたのも、イエスさまのためでもなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
 もし、わたしたちが、家にいても、教会にいても、寛(くつろ)ぎ、心穏やかにいることができず、また、どんなことがあっても共にあろうとすることができないとすれば、それは、わたしたちの罪のためです。家族を、教会の兄弟姉妹を真実に、まっすぐに愛することができない罪のためです。人を、自分を、結びあわせてくださった神を、神の愛を信じることができないためです。そのために、あるがままにいることができず、自分を守ろうと固くなります。そうしなければ、とても生きてなどいけない、そんな頑なさに囚われます。それが罪です。わたしたちは罪深く、人を追い出し、傷つけ、損なう、そんな存在です。
 それでもなお、神は生きておられ、限りない愛をもって、わたしたちのいのちに触れ、神のみ腕の内にわたしたちを抱いてくださいます。そんな神の国が今ここに来ている。イエスさまのみ言葉とみ業は、そのことを宣言し、示すものでした。それなのに、その愛の神を信ずることができないために、憩(いこ)いを奪われ、くつろぐことを忘れ、暗闇の中に身と心を固くして、家族の、隣人の外に生きてしまう。外に人を追いやってしまう。それがわたしたちの罪、そしてファリサイ派の人たちの罪でした。

■戦いの渦中   
 彼らは言います。24節、
 「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」
 善悪にかかわる論争というよりも、あからさまな誹謗中傷、排除の言葉です。ここで問題とされているのは、安息日に関わる律法を守っているかどうかの問題ではなく、イエスさまの驚くべきみ業の力がどこから来るのか、どのようなものなのかということです。ファリサイ派の人たちは、それを悪霊の頭の力によるものであり、その業は罪の赦しでも、救いでもありえない、そう断じます。
 彼らは、イエスさまが悪霊を追い出されたその出来事を見ても、「正気を失う」ほどに驚くことなどありません。悪霊に苦しんでいる人たちの苦しみも、イエスさまのみ業によって立ち現れている救いの現実も、ただ傍観者のように眺めるばかりで、我が事と考えません。 ただ、悪い評判を立てて、イエスさまが常識の外にいることを示し、律法という世界の外に、十字架へと、イエスさまを追いやろうとするばかりです。
 ファリサイ派の人たちに、罪と、悪霊と闘おうとする真剣さなど微塵もありません。ベルゼブルを持ち出してきたのも、悪霊など、もっと強い悪をもってくれば片付くだろう、という発想によるものです。いわば、親分の権威を笠に着て、下っ端の連中を退治しよう、ということです。それこそが、彼らの世界観、彼らの常識でした。悪には悪をもって報いる、力にはより大きな力をもって対抗するにしかず、という常識です。
 そんな彼らにイエスさまはこう言われます。25節から27節、
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1月24日 ≪降誕節第5主日礼拝≫ 『傷ついた葦』マタイによる福音書12章9~21節 沖村裕史 牧師

■片手の萎えた人
 15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。
 「それを知って」の「それ」とは何のことでしょうか。直前14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とありますので、そのことを知って、その場を立ち去られたのだ、ということでしょう。
 その経緯(いきさつ)が直前に記されていました。
 麦畑での安息日論争に区切りをつけたイエスさまは、弟子たちと一緒に会堂にお入りになりました。するとそこに片手の萎えた人がいました。同じ出来事を記したルカは、その手が「右手」だった、と報告しています。「右の手」とは「利き手」です。糧を得るために使う手です。物を掴(つか)み、物を作り、生活を支えていく手が「右手」です。その「右手」が萎えて動かないのです。「萎える」とは「涸れる」という意味を持っています。涸れ果ててしまったかのような、その人の深い絶望が見えてくるようです。
 その人が会堂の中にいました。そこには、イエスさまを訴えようと思っていたファリサイ派の人々もいました。というより、ファリサイ派の人々が片手の萎えた人を連れて来ていたのかもしれません。一緒に礼拝を守るためではありません。苦しみを抱えた人に心を向け、慰め、励ますためでもありません。イエスさまを罠にかけるためです。彼らはイエスさまにこう尋ねます。
 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」
 ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人の苦しみ、悩み、将来への不安などには寄り添おうともせず、まるで釣竿の先にぶら下がった餌を見るようにして、イエスさまが、いつその餌に喰いつくか、いつその人に関わりを持つか、と待ち構えていました。

■安息日に善いことをする
 その問いにこう答えられます。
 「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」
 「羊を一匹持っていて」とあります。先週もお話をしたように、百匹の内の一匹というのではありません。その人には、羊一匹しかいません。かけがえのない羊です。一匹しかいない、大切なその羊が穴に落ち、いのちが危ういとなれば、たとえ、その日が安息日であろうと、羊を助け出すのは当然ではないか、と言われます。
 ましてや「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われます。イエスさまは、手の萎えたこの人の深い悩みに心を留めてご覧になり、「手を伸ばしなさい」と招かれます。今、その手をいやすことができるのならば、そのことこそ安息日にふさわしいではないか、とファリサイ派の人々に迫られるのです。
 世界を創造された神が、人間を造られたのは第六の日でした。この六日目に造られた人間が、初めて迎える新しい日が第七の日、すなわち安息日です。「それ故に人間は安息を味わうために創造されている」と言った人がいます。確かに、ファリサイ派の人々は自分たちに注がれている神の恵みに心から感謝をし、安息日を大切に守ろうとしたのですが、安息日の規定を守るということに心を用いる余り、苦しんでいる人の苦しみ、病で苦しむ人の辛さ、痛みが見えなくなっていました。
 安息の本来の意味を忘れ、「なぜ休むのか」を問うことをせず、「『休まなければならない』という命令のために休む」と考え、結果、「してはいけない労働とは何か」「してはいけない仕事とは何か」といったことばかり気に掛けるようになりました。目的と手段とが入れ代わってしまったのです。律法は、神の御心が言葉(文字)として与えられたものですが、文字は文字に過ぎません。神の御心から離れて、それを金科玉条のごとく絶対化すれば、神ならぬものを神とする偶像礼拝の罪を犯すことになります。
 イエスさまは、何よりも安息日に示された神の御心、神の愛を大切にされました。苦しんでいる人の苦しみ、痛みを決してそのままにされない、というより、そのままにしてはおけない方でした。
 けれども、イエスさまのこうした振る舞いはファリサイ派の人々には分かってもらえず、彼らはイエスさまを殺そうと相談を始めました。イエスさまは、そのことを知って、そこを立ち去られたのでした。

■言いふらさないように
 そして15節後半から16節です。
 「大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」
 すべての人の病を、一匹の羊を探し求める羊飼いのようにしていやされたイエスさまは、その人々にご自分のことを言いふらさないようにと戒められます。なぜ、言いふらしてはいけないのでしょうか。
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1月17日 ≪降誕節第4主日礼拝≫ 『憐れみ』マタイによる福音書12章1~14節 沖村裕史 牧師

■そのころ
 事の発端が、1節から2節に記されます。
 「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」
 まず目を留めていただきたいのは、冒頭の「そのころ」という言葉です。
 普通「そのころ」と言えば、「その辺りの時期」といったニュアンスの、前後の時間を含めた時を漠然と示す言葉だとお考えになるでしょう。ところが、原文では、「そのころ」、「その辺りの時期に」といった曖昧な表現ではなく、”at that time” 「その時」という、明確な時を示す言葉が使われています。つまり、今日の12章の出来事は11章に続いて起こったのだということです。
 イエスさまは全く理解のない人々に囲まれていました。がそこでなお、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(11:25)と感謝の祈りを捧げた後、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28-30)と手を差し伸べられます。
 疲れ果て、なお重荷を負ってあえいでいる人々に、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」と言われたのです。「休ませてあげよう」と「安息」を約束してくださったのです。
 「その時」に起こったのが、「安息」を巡る今日の出来事でした。

■安息―共に憩う
 イエスさまが約束し、今ここで問題となっている「安息」とは、どのようなものだったのでしょうか。
 「安息」とは、もともと、仕事を終える、仕事から離れるという意味の言葉です。六日間、一所懸命に働いてきて、仕事を終える、それから離れるということです。七日に一度休むというこの慣習は、古代のバビロンやパレスチナに住んでいた農耕民族の中にその起源があると言われています。なぜ、七日目に休んだのでしょうか。その日が悪霊の支配する禍(わざわい)の日だからです。何をしてもうまくいかない。この禍を避けるために、仕事を休まなければならない。現代のわたしたちと同じように、古代の人々も、際限なく働き続けることは、一時的に生産性をあげたとしても、最終的には無理がきて仕事の効率も下がり、健康を害して身の破滅を招くことさえあると考えたようです。
 モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民がパレスチナに定着を始めたとき、その地の農耕文化と共に、七日目に休むというこの慣習も併せて取り入れました。ただ、イスラエルは自らの信仰に従って、これに二つの意味づけをしました。
 一つは、創世記冒頭の天地創造の出来事に基づくものです。出エジプト記20章8節以下にこう記されています。
 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」
 もはや第七の日は悪霊の支配する日ではありません。神は六日間働かれ、天地を造られました。人間も造られ、その世界のすべてに満足なさって、七日目にお休みになりました。その神の休息に由来するものとなりました。創世記には、神はご自分がお造りになった世界をご覧になって「よし」と言われ、祝福されたと書かれています。完成し、祝福したその世界をご覧になりながら、神は深い満足の安息をなさったと言えるでしょう。
 わたしたち人間の安息とは、その、いのちの主である神の祝福の安息の中に身を置くことです。神と共に休む、神と共に憩うことです。これまでせっせと働いてきた、あくせく働いてきた。その働きを止めて、ただひたすら神を仰ぎ、その祝福の内にしばしの憩いを得ようとする。そして神を賛美し、神のみ言葉を聞くことに心からの喜びを求めたのです。これが安息日であり、だからこそ、安息日に神への礼拝を守るようになりました。

■安息―イスラエルの原点
 もう一つ、申命記5章に記されている十戒の中にも、「七日目はあなたの神ヤハウェの安息であるから、何の業もしてはならない」(5:14)とあり、先ほどと同様、すべての者に休息を与えなさいと記された後に、天地創造の物語に代わって、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」と指示されています。
 つまり安息日は、ただ休息の日というだけでなく、出エジプト以来の神の導きを、奴隷から解放してくださった神の愛を想い起し、イスラエルの原点に立ち返って、「神の民」としての自覚を新たにすべき日とされました。
 この安息日が、国滅び、多くの民が囚われて、奴隷として異国へ移された、あのバビロン捕囚以降、特別、重要な意味を持つようになりました。囚われた人々とって、安息日ごとに会堂に集まり、神にいのち与えられ、選ばれた民としての歩みを想い起しつつ、自らのアイデンティティーをそこに確認するほかに、ひとつの民として立っていくことなどできなかったからです。 Continue reading

★1月16日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『突然の相続に…』エフェソの信徒への手紙1章3~14節 沖村裕史 牧師

■祝福
 エフェソの信徒へあてられたパウロの言葉は、とても印象的です。
 特に心に残るのは、冒頭3節の「祝福」という言葉です。最初と途中と最後に繰り返される「たたえる」という言葉もまた、この「祝福」と同じギリシア語です。
 「祝福」とは、ただ美しい言葉であるだけでなく、もっと具体的な事柄、もっと価値あるものを渡すことです。祝福するとは、単なる言葉ではなく、自分の大事なものを相手に差し出すことです。逆を言えば、わたしたちが祝福されるということは、最も良いものを受け取ること、神の最も良いものをわたしたちがいただくということです。
 そして、ここでお話をさせていただきたいことは、わたしたちがその祝福にふさわしいかどうかとはまったく関わりなく、神が、御子イエス・キリストによって、わたしたちを祝福してくださっているのだということです。
 11節の「キリストにおいてわたしたちは、…前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」という言葉が、そのことを端的にわたしたちに示し、教えてくれています。
 「キリストにおいてわたしたちは、…前もって、約束されていたものの相続者とされました」とあります。
 ある日突然、名前も知らない人の遺言によって、あなたに莫大な相続財産が転がり込んでくるとします。それも、自分がそれを望んだのではなく、預かり知らぬところで、ずっと前から約束されていた、と言います。しかも、その約束は、四節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…… お選びになりました」とあるように、あなたが相続人として相応しいからではなく、ただ、あなたを造られた神の愛ゆえだ、と言います。
どういうことでしょう。

■いのち
 中学生の頃、思いっきり親に反抗していました。「親だから、あなたのことが心配なのよ」と事あるごとにうるさく言う母に、「心配なんかしなきゃいい。そもそも、あんたに産んでくれ、親になってくれと頼んだわけでもない」と口汚い罵声を浴びせていました。今思えば、身震いするほどに酷い言葉ですが、ただやり場のない感情を口走ってしまっただけの情けない言葉が、まったくの偽りだとも言い切れません。
 わたしたちは誰一人、自分の意思で、自分の力で、この世に生まれてきた者はいません。また、死ぬときを知り、そのときを自分の自由に決めることのできる者もいません。生まれることも死ぬことも、わたしたちの自由にはならないこと、わたしたちにはどうしようもないことです。
 そのことを、聖書は、生と死そのものであるわたしたちのいのちは、わたしたちを越える存在、神が与えられたものだ、と教えます。神がいのちを与えられた、神がわたしたちを創られたのだ、と語ります。自分のいのちも、そして同じように他人のいのちもすべて、神が与えてくださったもの、「神のもの」です。わたしのものでもありません。であればこそ、わたしたちのいのちは、誰も、それを自分勝手に傷つけたり、奪ったりすることの許されないもの、かけがえのないものです。それが「いのちの尊厳」ということです。

■望まれて
 あらゆるものが、造られ、生まれてきました。
 何もない所から、突然、出現したものは何一つありません。天に輝く無数の星にも誕生があり、道端をうろつく野良犬にも、知らずに踏みつける路傍の草にも誕生があります。目には見えない勇気や希望だって「生まれる」もので、無から沸き起こるわけではありません。すべてのものが「造られたもの」「生まれたもの」で、生み出す源である造り主なる神を前提としています。
 生み出す側の「望み」がなければ、虫一匹でさえ生まれてくるはずがないのですから、「生まれた」ということは「望まれた」ということです。このわたしたちも例外ではありません。
 こどものころ、布団の中に入ってから真っ暗な天井を見つめ、「ぼくはどうして生まれてきたのだろう」と自問したことがあります。この問いに完璧に答える術をいまだ持ち合わせていません。それでも、たった一つだけ、はっきりと言えることがあります。それは、「わたしは望まれて生まれてきたのだ」ということです。
 それも、単に親の望みのことではなくて、この世界のいちばん根源にあると言えるような望み、願いです。それを、聖書は「神の愛」と言い換えます。そしてそれだけが、あらゆるものの存在の根拠です。わたしたちの生きていることの意味、理由です。
 人が一人生まれるためには、そのために必要なあらゆる要素が、その誕生をうながす悠久の磁場の中で寄せ集まり、奇跡のように組み合わされていかなければなりません。
 わたしの父が幼い時に沖村という家の養子にならなければ…、わたしの母が女学生だった時に父親を亡くしていなければ…、二人が遠い親戚でなければ、二人は出会うこともなく、何よりも、出会った二人が愛し合わなければ、わたしは今ここに存在しません。
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1月10日 ≪降誕節第3主日礼拝≫ 『ここに、おいで』マタイによる福音書11章25~30節 沖村裕史 牧師

■アッバ、父よ
 今日は、1月6日の公現日、イエスさまがにそのお姿をわされたの後の、最初の主日です。わたしたちは今、降誕節の季節を過ごしていますが、この公現日後主日から、受難節が始まる灰の水曜日までの期間を、公現の季節、公現節として守っている教会もあります。
 さて、みなさんは、「イエス」という名を聞くと、どういうお顔とお姿を思い出されるでしょうか。子どもたちと共におられるイエスさま、ゲッセマネでひとり祈られるイエスさま、十字架の上のイエスさま、あるいは甦られて弟子たちと一緒に焼き魚を食べておられるイエスさまなど、様々に思い出されるでしょう。わたしには、この世の虚しさ、不条理、そしてわたしたちの罪を一身に負いつつ、この世のものではない神の栄光を内に隠しておられるイエスさまのみ顔とお姿が見えてきます。
 今、11章の25節から27節に、神に祈られるイエスさまのお姿が描かれます。
 「天地の主である父よ…そうです、父よ…」
 「父よ…父よ…」
 イエスさまは、この世にあって、いつも、また幾度となく祈られました。祈りの人でした。弟子たちの求めに答えて教えられ「主の祈り」は、まず何よりも「父よ」でした。また孤独と悲しみの底で、十字架を前にして祈ったゲッセマネの祈りもまた、まず「父よ」でした。
 新約学者エレミアスは、「アッバ、父よ」という祈り、この一語にイエスさまのすべてがあったと言い、カトリックの井上洋治神父は「『南無アッバ』の祈り」という一文の中でこう語っています。
 「エレミアスによれば、アッバというのは…赤ん坊が乳離れをしたときに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという」
 「神は『旧約聖書』の『申命記』が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッバは教えてくださった」
 イエスさまはここでも、「アッバ、父よ」と呼びかけるようにして、「わたしはあなたをほめたたえます、父よ、天地の主よ」と祈り始めます。「ほめたたえる」は「告白する」という意味の言葉です。イエスさまは今、ご自身が、慈愛に満ちたもう、天地の主たる神の「子」である、そう告白しておられます。

■幼子のような者
 しかし、イエスさまの時代に、イエスさまを見、イエスさまに聞き、イエスさまに触れることのできた人々が、イエスさまのその姿を知っていたでしょうか。多くの人々にとって、イエスさまは路傍の人でした。不幸と災い、病にあったとき、イエスさまに助けられた人はいるらしい。しかし多くの人は、イエスさまをただの悪霊払い師としか見ず、その傍らを通り過ぎて行きました。だれも、イエスさまを神の子として知りませんでした。
 かえって、ユダヤの「知恵ある者や賢い者」たち、祭司長たち、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスさまを危険視し、ついには捕え、当時の支配者であるローマ人の手に渡し、殺してしまいました。すべてを捨ててイエスさまに従っていったわずかな弟子たち、ペトロやヤコブ、ヨハネたちも、何度もイエスさまに躓きました。イスカリオテのユダも、イエス殺しの手先になりました。だれ一人、イエスさまの姿を、神の子であることを知りませんでした。
 誰も知らないその時に、その場所で、そしてまた「ああ、コラジンよ。ああ、ベトサイダよ…カファルナウムよ、裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」と言われたその後に続けて、イエスさまはこう言われます。27節、
 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」
 子がだれであるかは、誰も知らない。ただ父―天地の主なる父なる神ひとりの他は、誰も知らない。そして、その父はだれであるかを、誰も知らない。ただ子―イエスさまひとりの他は、と言われます。
 いえ、神の御子イエスと、子であるイエスさまが父をあらわそうと思う者、選ばれた者の他は、誰も知らない、と言われます。それは、25節に Continue reading

1月3日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『ここは、主の家』ルカによる福音書2章41~52節 沖村裕史 牧師

■最初の言葉
 「一年の計は元旦にあり」と言われます。「物事の始めに、その本質が宿る」と言い換えてもよいでしょう。物事の始め、始まりこそ、物事の本質を端的に示し、また、その本質を決定するということです。
 今年、最初に与えられた聖書の言葉は、イエスさまの少年時代のエピソードです。
 「イエスが十二歳になったとき」とあります。マリアとヨセフ、両親にしてみれば、ここまで育て上げるのに、言葉にならないほどの苦労があったに違いありません。思い返せば、マリアはイエスさまを授かったことで、普通では考えられないような経験をしてきました。婚約者であるヨセフから疑われ、ナザレの村人たちや親戚からも白い目で見られるようなことがありました。ヘロデの手から逃れるため、しばらくの間、エジプトで乳飲み子を抱えての難民生活を強いられました。それもこれも、イエスさまを授かった故でした。
 マリアにしてみれば、ここまで育てるのにどれだけの苦労をしてきたことでしょうか。この年の過越祭に来て、「あと1年で、この子は成人する」と考えただけで、何か内側からこみあげるものがあったでしょう。
 祭りも無事終わり、ナザレへと帰る途中、二人は、わが子を見失います。二人の心は、不安でいっぱいだったことでしょう。巡礼の仲間たちと別れ、ふたたびエルサレムヘの道を引き返します。祭りが終わり、それぞれの地へと帰っていく巡礼の群れはどこまでも続いています。その群れに逆らって、その波をかきわけながら、その群れのどこかに迷いこんでいないかと、わが子を捜し尋ねながらエルサレムヘと戻りました。
 夜も眠らずに三日も捜しまわって、ようやく見つけ出したところで、マリアとヨセフは、わが子から意味不明の言葉を投げかけられます。49節、
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」
 これが、聖書の伝える、イエスさまの最初の言葉となります。
 少年時代のエピソードといった外見を取ってはいますが、ここに語られる「あなたはわたしをどこに捜しているのか」「わたしが自分の父の家にいることを知らないのか」というこの言葉こそ、最も重要な問いかけとなっています。問いかけのキーワードはふたつ、「捜す」、そして「父の家」です。

■捜し求める
 まず、「捜す」ゼーテオーです。
 人は大事なものを見失えば、それを捜し回ります。 商人は真珠を「探し」(マタイ13:45)、羊飼いは迷い出た一匹の羊を「捜し」(同18:12)、女は銀貨一枚を念入りに「捜します」(ルカ15:8)。真珠は値の張る商品、羊は手塩にかけた財産、銀貨は苦労して稼いだ生活費だからです。そのことから、この言葉は「願う・求める」という意味にもなります。信じる者は、上にあるものを「求め」(コロサイ3:1)、自分の益を「求めず」(1コリント10:24)に、平和を「願います」(1ペトロ3:11)。
 この二つの意味を巧みに用いるのは、人々から忌み嫌われていた徴税人ザアカイの物語です。ザアカイは、イエスさまがどんな人か見「ようとし〔まし〕た」が、背が低かったので見ることができず、いちじく桑の木に登ります。するとイエスさまがそのザアカイに目を止め、彼の家に泊まられます。ザアカイと出会い、共にいてくださるのです。喜び溢れるザアカイにイエスさまは、「今日、救いがこの家を訪れた…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言されます。「探す者」は必ず見いだすことができます。なぜなら、神が捜してくださるからです。
 もうひとつ、イエスさまが十字架にかかって死なれてから三日目に、墓場で泣く女たちが聞いた、天のみ使いの言葉が思い起こされます。24章5節以下、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。神がこの世界に与えてくださった御子は、単なる歴史上の偉人でも、過去の遺物でもありません。本の中にひそんでいる架空の存在でもありません。イエスさまは、甦られて、今もここに生きておられる、今、生きて語りかけておられる、と福音書は教えます。
 ところが、わたしたちは、的外れな場所ばかりを捜し求めてしまいます。この時のヨセフとマリアのように、不安と恐れに心ふさがれ、的外れの場所ばかりを捜し求めては失望します。罪とはまさに「的外れ」という意味です。
 わたしたちは、何度も何度も、捜す場所を間違えてしまいます。
 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。…それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」とは、ヨハネによる福音書(5:39-40)に記されているイエスさまの言葉です。人々は神殿に詣で、そこで聖書を読みながらも、そのことが「生ける神」、「今ここに生きておられる神」とつながっていませんでした。神は単なる抽象的な観念にすぎなくなり、信仰は、今ここに救いがもたらされているという福音の光を見失い、生ける力とならず、ただ律法を、掟や決まりを守るだけのものへと変えられました。
 今、イエスさまは、自分が「父の家」にいて、何がおかしいのかと問い返されることによって、わたしたちが不安の中に的はずれの場所を捜し求めずとも、神の方から捜し出してくださり、今もここに、わたしたちの傍にいてくださるのだという福音を示し、真の信仰を回復してくださろうとしています。

■父の家
 二つ目のキーワード、「父の家」は、実は意訳で、正確な訳とは言えません。 Continue reading

12月27日 ≪降誕節第1主日礼拝≫ 『深く嘆き、悲しんでくださる』マタイによる福音書11章20~24節 沖村裕史 牧師

■糾弾の声
 20節、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」
 「数多くの奇跡の行われた町々」とあるように、イエスさまはこの時期、カファルナウムを拠点にガリラヤ北部の町々を巡って、「数多くの奇跡」、直訳すれば「最も多くの力〔ある業〕」を行っていました。その町々の代表として、イエスさまがここに挙げておられるのは、三つの町です。
 そのひとつコラジンは、旧約聖書にも、ユダヤ人歴史家ヨセフスにも言及がなく、新約聖書でもここにしか出てきません。ただカファルナウムの北三キロの場所から発掘された廃墟の広大さから、当時かなり栄えた、重要な町であったと思われます。
 ベトサイダは、ペトロとその兄弟アンデレ、またフィリポの出身地であり(ヨハネ12:21)、またイエスさまが五千人の人々にパンを与えられ(ルカ9:10)、盲人を癒された場所でもあります(マルコ8:25)。イエスさまの宣教活動の重要な拠点の一つでした。それがどこにあったのかはっきりとは分かりません。ただ、ベトサイダという名が「猟の場所」という意味であることから、さらに北にあるフレー湖からガリラヤ湖北岸に流れ込むヨルダン川河口の東側あたりの漁師の町であったと考えられています。
 最後カファルナウムは、ガリラヤ湖の北岸沿いに、長さ約二六キロ、幅四百メートルの遺跡が確認されています。交通の要衝に位置し、当時の人口は五万を数えたと言われます。この地域の中心都市です。イエスさまが福音伝道を始めるにあたって、ナザレからこのカファルナウムに居を移されたとマタイは伝えています(4:13)。イエスさまにとっては、まさに「自分の町」(9:1)、我が町でした。
 イエスさまは、そのガリラヤ北部のその町々で福音を語られ、力ある御業を示されました。その様子が洗礼者ヨハネの弟子たちに語られた言葉として、こう記されています。
 4節、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」
 「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスさまは言われます。しかし、イエスさまの御言葉を受け入れず、その力ある業につまずいた人々がいました。それが、自分の目で見、自分の耳で聞いたはずの三つの町の人々です。そのことを糾弾する厳しいイエスさまの声が、ここに書き留められています。

■激しいほどの愛
 しかし、ただ非難するだけの言葉というのではありません。
 21節の冒頭に「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」とあります。「不幸だ」と言われます。ギリシア語の「ウーアイ」ouvai,。擬声語です。痛みの時、悲しみの時に、思わず口から飛び出す、呻きと叫びを表わす言葉です。英語の聖書では”alas”、「ああ」とも訳されます。
 「あなたにとってウーアイ、コラジン。あなたにとってウーアイ、ベトサイダ」と、身を切られるような思いをもって、イエスさまは呻いておられます。「ああ、何と言うことだ」と呻かざるを得ないのです。何とかして、この人たちの滅びを食い止めたい。そんな激しいほどの愛の言葉です。
 人が罪を、過ちを犯した時、わたしたちはどうするでしょうか。イエスさまのように「叱る」でしょうか。多くの人は、自分に関係なければ、見て見ぬふりをしてその傍らを通り過ぎるか、いささかなりとも自分に害を及ぼすようであれば、犯罪者、罪を犯した者として裁くために告発することでしょう。その人が罰せられようと、たとえ滅ぼされようと、他人事。自分とは何のかかわりもない、また関わりたくもない人です。そこに愛などありません。
 しかし、イエスさまは違います。愛するがゆえに告発せざるを得ないのです。これほどまで強く、あたかも糾弾するかのようにして人々の魂に迫って行くイエスさまの迫力に、その愛の力に胸打たれる思いがします。
神の愛が聖書には溢れています。イザヤは「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」ていると語る神の愛を伝え(43:4)、出エジプト記は「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」、神の愛は「嫉む」ほどの激しい愛であると告白します(20:5)。しかしそれは、「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」であったと申命記にも記されます(7:7-8)。だから、「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない」と哀歌は歌います(3:31-33)。
 そしてホセアもまた、イスラエルの民の背信行為に対する神の激しい告発は、愛するがゆえの告発であった、と語ります。
 ホセアは、紀元前750年頃に北イスラエルに遣わされた預言者です。彼は、結婚によって悲劇的な経験をします。妻の不倫です。最初、その妻を律法に従って裁かなければならないと苦しみました。その時、神の言葉が臨みます。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。…主が彼ら(イスラエル)を愛されるように」(3:1)。ホセアはこれに従うことで、結果、神の心にある痛みを自らも体験することになります。
 イスラエルの民は神の愛する花嫁です。その花嫁が夫である主を捨て、他の神々の許へと走ってしまう。しかも一度ならず繰り返してです。神の心は激しく痛みます。誓約を破った花嫁イスラエルを、神は離縁されるのか。決してそうはされません。なぜか。イスラエルを愛していたからです。愛しているがゆえに、神ご自身が痛み苦しむ。その結婚の契約に忠実であるがゆえに、焼かれるような思いをもってイスラエルの悔い改めを待つのです。
 ホセアも、淫行を重ねる妻との関係を通して、神の、愛ゆえに経験する嘆き、呻きを思い知らされます。
 ところが、花嫁である神の民はこれほどの神の愛を理解しません。そればかりか本当に自分勝手な歩みをし、そのために今にも滅んでしまいそうになります。神はそんなイスラエルをご覧になって、一度は滅びるがままにしようと思われるのですが、しかしそう思った瞬間に、もう居ても立ってもいられなくなり、「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。/アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。/わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」(11:8)と叫ばれます。
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