■祝福
エフェソの信徒へあてられたパウロの言葉は、とても印象的です。
特に心に残るのは、冒頭3節の「祝福」という言葉です。最初と途中と最後に繰り返される「たたえる」という言葉もまた、この「祝福」と同じギリシア語です。
「祝福」とは、ただ美しい言葉であるだけでなく、もっと具体的な事柄、もっと価値あるものを渡すことです。祝福するとは、単なる言葉ではなく、自分の大事なものを相手に差し出すことです。逆を言えば、わたしたちが祝福されるということは、最も良いものを受け取ること、神の最も良いものをわたしたちがいただくということです。
そして、ここでお話をさせていただきたいことは、わたしたちがその祝福にふさわしいかどうかとはまったく関わりなく、神が、御子イエス・キリストによって、わたしたちを祝福してくださっているのだということです。
11節の「キリストにおいてわたしたちは、…前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」という言葉が、そのことを端的にわたしたちに示し、教えてくれています。
「キリストにおいてわたしたちは、…前もって、約束されていたものの相続者とされました」とあります。
ある日突然、名前も知らない人の遺言によって、あなたに莫大な相続財産が転がり込んでくるとします。それも、自分がそれを望んだのではなく、預かり知らぬところで、ずっと前から約束されていた、と言います。しかも、その約束は、四節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…… お選びになりました」とあるように、あなたが相続人として相応しいからではなく、ただ、あなたを造られた神の愛ゆえだ、と言います。
どういうことでしょう。
■いのち
中学生の頃、思いっきり親に反抗していました。「親だから、あなたのことが心配なのよ」と事あるごとにうるさく言う母に、「心配なんかしなきゃいい。そもそも、あんたに産んでくれ、親になってくれと頼んだわけでもない」と口汚い罵声を浴びせていました。今思えば、身震いするほどに酷い言葉ですが、ただやり場のない感情を口走ってしまっただけの情けない言葉が、まったくの偽りだとも言い切れません。
わたしたちは誰一人、自分の意思で、自分の力で、この世に生まれてきた者はいません。また、死ぬときを知り、そのときを自分の自由に決めることのできる者もいません。生まれることも死ぬことも、わたしたちの自由にはならないこと、わたしたちにはどうしようもないことです。
そのことを、聖書は、生と死そのものであるわたしたちのいのちは、わたしたちを越える存在、神が与えられたものだ、と教えます。神がいのちを与えられた、神がわたしたちを創られたのだ、と語ります。自分のいのちも、そして同じように他人のいのちもすべて、神が与えてくださったもの、「神のもの」です。わたしのものでもありません。であればこそ、わたしたちのいのちは、誰も、それを自分勝手に傷つけたり、奪ったりすることの許されないもの、かけがえのないものです。それが「いのちの尊厳」ということです。
■望まれて
あらゆるものが、造られ、生まれてきました。
何もない所から、突然、出現したものは何一つありません。天に輝く無数の星にも誕生があり、道端をうろつく野良犬にも、知らずに踏みつける路傍の草にも誕生があります。目には見えない勇気や希望だって「生まれる」もので、無から沸き起こるわけではありません。すべてのものが「造られたもの」「生まれたもの」で、生み出す源である造り主なる神を前提としています。
生み出す側の「望み」がなければ、虫一匹でさえ生まれてくるはずがないのですから、「生まれた」ということは「望まれた」ということです。このわたしたちも例外ではありません。
こどものころ、布団の中に入ってから真っ暗な天井を見つめ、「ぼくはどうして生まれてきたのだろう」と自問したことがあります。この問いに完璧に答える術をいまだ持ち合わせていません。それでも、たった一つだけ、はっきりと言えることがあります。それは、「わたしは望まれて生まれてきたのだ」ということです。
それも、単に親の望みのことではなくて、この世界のいちばん根源にあると言えるような望み、願いです。それを、聖書は「神の愛」と言い換えます。そしてそれだけが、あらゆるものの存在の根拠です。わたしたちの生きていることの意味、理由です。
人が一人生まれるためには、そのために必要なあらゆる要素が、その誕生をうながす悠久の磁場の中で寄せ集まり、奇跡のように組み合わされていかなければなりません。
わたしの父が幼い時に沖村という家の養子にならなければ…、わたしの母が女学生だった時に父親を亡くしていなければ…、二人が遠い親戚でなければ、二人は出会うこともなく、何よりも、出会った二人が愛し合わなければ、わたしは今ここに存在しません。
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