福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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今週の教え - Page 11

★3月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『手を差し伸べて、触れて』ルカによる福音書5章12~26節 沖村裕史 牧師

■千切れほどの愛
 今日は、二つの言葉に注目して、お話しをしたいと思います。
 ひとつは、13節の言葉です。
 「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った」
 誰でも病気になります。それはごく当たり前なことです。ところが、当時のユダヤでは、その病ゆえに、地域社会から、家族からも見捨てられ、つまはじきにされて失望し、苦しんでいるたくさんの人たちがいました。特に、治る見込みのない重い病は、その人の罪ゆえ、罪の穢れゆえだと信じられ、病人に触れることさえ禁じられています。その戒めを守らず、病人に触れた人は、その人自身もまた罪穢れると信じられていました。
 しかし、イエスさまは、はっきりと言われました、「よろしい。清くなれ」。直訳すれば、「わたしの心です。きよくなれ」です。「わたしの心」とは「わたしが願うこと」ということでしょう。上から目線で「まあ、いいだろう」と言われたのではなく、「わたしは心から願っています」、そう言われて、重い皮膚病に苦しむ人を癒されました。
 このことから気づかされる第一のことは、イエスさまの憐れみ、神様の愛です。
 ここには記されていませんが、イエスさまが癒しのみ業をなさるときには決まって、「深い憐れみ」によってそうされたと記されています。同じ出来事を記すマルコによる福音書には、「深く憐れんで」とはっきりと書かれています。イエスさまが手を触れられたのは、この病人を憐れんでくださったからです。当時の人々が避けて通った病人のところを、イエスさまは避けることなく、むしろ深く憐れんで、手を差し伸べられました。深く憐れむという言葉は、腸(はらわた)の痛むほどの思いで憐れむという意味です。聖書では、腸とはわたしたち人間の生、いのちそのものを意味します。イエスさまは、全身を重い皮膚病に覆われて苦しむこの人を見て、心の奥底から、ご自身のいのちのこととして憐れみを抱き、その人のことを愛されたのだということです。
 続く「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とは、腫れ物に触るようにして触れ、同情を示されたというのではありません。この人とひとつとなる、この人のいのちそのものに触れるということです。迷子になった自分の子どもが見つかったとき、わたしたちの誰もが、わが子がどんなに汚れていても、ぎゅっと抱きしめることでしょう。そうせずにはおれません。イエスさまが手を差し伸べて触れられるとはまさに、ぎゅっと抱きしめる、そんな感じに違いありません。
 そして何よりも、手を差し伸べて触れるということは、イエスさまもその人たちと同じように罪穢れた者と見なされ、除け者にされるということです。どこか高みから、口先だけで「清くなりなさい」と言われたのではありません。この人たちを罪の苦しみから解き放ち、罪から自由にするために、その罪と重荷、痛みと苦しみを自ら背負ってくださったのだということです。
 いのちに触れるということはまさに、わたしたちの罪を、痛みも苦しみをも、すべて引き受けてくださったということです。それほどまでに、イエスさまは愛してくださるのです。

■信仰に先立つもの
 この癒しは、イエスさまを信じて、癒しを求めた重い皮膚病の人自身の信仰によって引き起こされたのだと説明されることがあります。続くもうひとつの出来事も、中風の人をイエスさまの所に連れてきた友人たちのその信仰ゆえに、中風の人は救われたのだと言われます。
 信仰がなければ救われなかったのか、確かにそうとも言えます。がしかし、もっと大切なことがあります。それは、この人たちの信仰に先立ってイエスさまが憐れんでくださっている、神様が愛してくださっていることです。
 信仰とは、わたしたちの知識や努力の結果ではありません。信仰、それさえも神様からの賜物です。決まりや道徳を守り、法律や常識に従って、人から非難されることのない、いわゆる「立派な人間」として「清く正しい」生活を送ることが、信仰に生きることではありません。仮にそうだとすれば、わたしたちは、律法学者やファリサイ派の人々が、病気の人たちを罪人として謂われのない苦しみに陥れたのと同じように、誰かを罪に定めて裁き、その罪を理由にその人の存在を、いのちを無視し、傷つけるという罪を平気で犯すことになるでしょう。そうではなく、わたしたちの信仰、努力、何者であるのかに「先立って」、イエスさまが、神様がわたしたちを「愛していてくださっている」のです。全ての人が無条件に、あるがままに、存在そのものが愛されていることに気づかされて、わたしたちが、驚くべきその愛への感謝と信頼をもって生きる者となること、それが信じて生きるということでしょう。

■罪赦される
 その信仰を見て、イエスさまは宣言されます。
 「人よ、あなたの罪は赦された」
 この印象的な言葉を聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。
 中風の人を連れて来た四人の男たちは、イエスさまのところにさえ連れて行けば、もう後は必ずどうにかなるという、絶対の信頼をもってイエスさまのもとに来ました。その信仰を見て、イエスさまはそうして連れて来られた人に、「あなたの罪は許された」と宣言されたのです。「もう大丈夫。神様が愛してくださるから、何の心配もない。今までどのように生きて来たとしても、神様はあなたを赦し、あなたを癒し、あなたを生かしてくださる」。イエスさまはそう宣言されるのです。
 律法学者たちはびっくりして文句を言います。
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2月28日 ≪受難節第2主日礼拝≫ 『だれが家族?』マタイによる福音書12章46~50節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

黙 祷
讃美歌  11(1,3節)
招 詞  ヨエル書2章12~13節a
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
讃美歌  313(1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書12章46~50節
讃美歌  161(全)
説 教   Continue reading

2月21日 ≪受難節第1主日礼拝≫ 『しるしを欲しがるとき』マタイによる福音書12章38~45節 沖村裕史 牧師

■きちんと掃除したのに

 今朝のみ言葉の後半、43節から45節には「汚れた霊が戻って来る」という奇妙なタイトルがつけられています。

 汚れた悪霊が、住み着いていた人から一度は出たけれど、行き場がないので戻って来た。すると余りにきちんとしているので、仲間を引き連れてもう一度入り直した。こうして、その人の状態は一層悪くなった。そういう話です。

 首を傾げてしまいます。掃除が行き届かず、家の中がひっくり返ったような状態であれば、悪霊たちも入り直すことなどなかった、掃除をきちんとしていたのが悪かったのだ、ということになります。きちんと掃除をし、整えることの、どこがいけなかったのでしょうか。

 

■ベルゼブル論争

 このたとえ話は、22節以下の「ベルゼブル論争」の「結び」にあたります。

 悪霊にとりつかれて目も見えず、ものも言えなかった人を、イエスさまが癒されました。これを見て群衆はひどく驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言います。正直で、率直な反応です。それこそ、イエスさまによる「しるし」でした。しかし、イエスさまを罪に陥れようとしていたファリサイ派の人々は、それを悪霊の頭ベルゼブルによる業だと難癖をつけます。これがきっかけとなって論争が展開されます。イエスさまは言われます。28節、

 「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

 働いているのは神の霊だ。その神の霊の業を通して、神の国がすでに来ている。神の支配が始まっている。神は今ここにおられる。神の愛の御手があなたたちに差し出されている。まさに福音が宣言されます。さらに続けて31節以下、

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」

 癒しの業によって悪霊が追い出された。それは、神が今ここにおられ、神の霊として働いてくださっていることの証拠だ。わたしに言い逆らう者は赦されても、神の霊が今ここに働いてくださっていることを否定する者は永遠に赦されることがない。そして、名指しではっきりと言われます。34節、

 「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」

 

■「しるし」論争

 このベルゼブル論争が「しるし」を巡る論争へと移ります。今朝の38節以下です。

「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った」
 
 そこまで言うのなら、そのことを証明してみなさい。その「しるし」を見せてもらおうじゃないか、ということです。

 「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

 イエスさまは、ヨナの出来事を思い出させます。

 ヨナは神から、当時の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに行って、そこに暮らす人々に悔い改めを迫るよう、命じられます。しかし彼は、その神から逃れようとし、ヤッファからタルシシュヘ行く船に乗り込みます。ところがその船が大風に遭い、沈みかけます。船では、誰のせいでこんな災難が降りかかったのか、くじを引いてはっきりさせようということになり、ヨナのせいだということになって、彼は海の中に放り出されます。放り出された彼は大きな魚に飲み込まれ、三日三晩の後に海岸に打ち上げられますが、その場所こそがニネベでした。こうしてヨナは改めて神の言葉を伝えることになり、それを聞いたニネベの人々はみな神の前に悔い改めた、という話です。

 大切なことは、ヨナが自らの力ある業によってニネベの人々を悔い改めに導いたのではない、ニネベの人々は神からヨナに与えられた預言の言葉によって悔い改めに導かれたのだ、ということです。

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★2月20日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『みんな一緒に』ルカによる福音書21章1~4節 沖村裕史 牧師

■こどものけんか

 小さなこどもたちが遊んでいる姿を見ていて、はっとさせられることがあります。遊ぶというと「みんな一緒に」と思われるかも知れませんが、遊びの始まりは「一人遊び」です。一人遊びが始まると、けんかが増えてきます。理由は、大抵、おもちゃの取り合いです。こどもたちにとって、周りにあるおもちゃはみんな、「自分のもの」です。保育園や幼稚園にあろうが、お店にあろうが、お家にあろうが、それはみんな、自分のものです。それで、けんかが始まります。それでも、遊びながらけんかすることを繰り返し、こどもたちは学んでいきます。おもちゃを独り占めするよりも、けんかをするよりも、ともだちといっしょに遊んだ方がもっと楽しいことに気が付き始めます。おもちゃは、「みんなのもの」で、みんなで一緒に遊ぶためのもの、ということがわかるようになります。こどもたちは、今、手にしているものを独り占めするのではなく、「みんなと一緒」ということの大切さと、楽しさを知るようになります。こうして、こどもたちは成長し、大人になっていきます。

 ところが、わたしたちが大人になって、たくさんのものを手に入れ、身につけ、それを自由に使うことができるようになると、まるで、二歳か三歳のこどもにもどったかのように、それを独り占めしようとして、又々、けんかをするようになってしまいます。

 

■やもめの「真実」

 今日のみ言葉には、そんな愚かなわたしたちの姿が描かれています。

 わたしたちが先ず、何よりも目を留めなければならないのは、金持ちたちとは如何にも対照的な、わずか二枚のレプトン硬貨―今で言えば、缶ジュース一本分のお金を神様にささげた、「やもめの姿」です。そのやもめのささげものに、イエスさまは「真実」を見出されます。

 「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 「確かに言っておくが」とは、直訳すれば「真実をもって、わたしはあなたがたに言う」です。真実としてあなたがたに言う。真実がここにある、そのことをあなたがたに語る、ということです。

 やもめの何を真実だとご覧になったのでしょうか。

 神殿で献金を献げると、祭司が名前とその額を大声で告げ、記帳します。「だれそれ、レプトンふたつ」と大声で告げられます。恥ずかしさで身が縮むようです。

 貧しいやもめは、どのような思いで、どのような姿で、わずかばかりのお金を神様にお献げしたのでしょうか。

 「これは、ここにいる祭司に差し出したのではない、神様にささげるのだ」という信仰によるのでなければ、到底できることではありません。やもめはこのとき、ただ神様への真実をもって、その銅貨をおささげしたのでしょう。

 それでもなお、わたしたちは戸惑いを覚えます。イエスさまは言われます、

 「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」

 生活費全部を献げることが真実の尺度となるなら、今日の、また明日からの生活は一体どうなるのでしょうか。持っているものすべてを献げることは、本当に良いことなのでしょうか。ローンや教育費はどうするのか。

 金持ちたちは「有り余る中から献金した」とありますが、「有り余る中から」という言葉にも引っ掛かります。「有り余る中から」献げている人などいるのでしょうか。だれしも老後の生活費、介護の費用、病気のときの治療費のことが心配です。子どもや孫のことも考えます。心配は尽きません。「有り余る」、捨てるほどあるという人などどこにもいない、そう思われます。

 貧しいやもめは、どうして、自分の持っているものをすべて献げることができたのでしょうか。

 

■神様が与えてくださる

 その答えを、イエスさまはわたしたちに繰り返し教えてくださっていました。

 イエスさまは、蒔くことも、育てることも、刈入れることもしない、あの鳥が養われ、明日には炉に投げ入れられ、焼かれる他ない、野の花が美しく装われているように、「あなたがたの天の父は…あなたがたに必要なことをご存じである」と言われました。

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2月14日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『良い倉から取り出す』マタイによる福音書12章33~37節 沖村裕史 牧師

聖日礼拝 「降誕節第8主日」
2021年 2月 14日 式次第

前 奏  キリスト、神のひとり子よ (J.プレーガー)
讃美歌  9 (2,4節)
招 詞  詩編34篇9~10節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  53 (1,3節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書12章33~37節 (新23p.)
讃美歌 Continue reading

2月7日 ≪降誕節第7主日礼拝≫ 『救い主が罪人と一緒に』ルカによる福音書5章27~32節 沖村裕史 牧師

■もっと注意しなさい

 ウィリアム・ウィリモンは、聖餐について記した著書『日曜日の晩餐』の第四章を、こう語り始めます。

 「イエスの粗探しをしていた人たちを怒らせたのは、イエスが選んだ晩餐の同席者だった。ルカが言うように、イエスの友人たちは雑多な寄せ集めだった。徴税人、ファリサイ派の人々、売春婦たち、粗野な漁師たち、様々な女たち。ファリサイ派の人々はイエスに言い続けた、『あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない』と。

 あなたは、もっと注意しなさい。

 晩餐の食卓は、とても親密で、神聖で、輝きに包まれる、神秘的な場所なのだから、あなたは誰と一緒に食べるのか、もっと注意しなければならない。

 ある人が、全き者でも、価値ある者でも、人間らしい者でも、兄弟や姉妹でもないのなら、そのような人を晩餐に招待しないよう、注意しなさい。十分に注意しなさい。」

 

■徴税人レビ

 レビの召命の出来事と続く宴会でのイエスさまの言葉は、一世紀のパレスチナ世界へと、わたしたちを誘います。

 「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」

 当時、人頭税や土地税といった直接税はローマ人によって雇用された徴税人によって集められ、通行料、関税、手数料などは収税所で徴税請負人によって集められていました。収税所に座っているレビは明らかに徴税請負人です。徴税請負人は、そうした料金を集める権利を手に入れるために、前もって、所定の金額を税金として支払っていました。当然、集めた金の中から前もって払った金額を差し引いた残りの金は自分の懐に入ることになります。多めに徴収して私腹を肥やすこともできました。しかも、徴税請負人たちの多くは収税所のある地域の住民ではなかったようです。何の遠慮もありません。ローマの官憲に賄賂を渡し、その力をちらつかせて税を徴収するそのやり口は、あくどく、容赦ないものでした。彼らは人々から蛇蝎(だかつ)の如くに嫌われ、蔑(さげす)みの対象にさえなっていました。しかも、彼らが取り扱っていたのは、カエサル〔ローマ皇帝〕の肖像が刻印された「汚れた」金です。ウィリモンが言うように、「彼らは、詐欺師であり、裏切り者であるばかりか、偶像礼拝者でもあった」のです。

 今、イエスさまがそんなレビを「見て」、とあります。この「見る」というギリシア語は「分かる」「理解する」という意味を持つ言葉です。ただぼんやりと見たというのではありません。レビという人を知って、理解し、受け入れたということです。徴税請負人の中でレビが悪人ではなかった、とは一言も書いてありません。だれもが、その体に触れぬよう離れ、距離を取り、避けよう避けようとする。そんな中、イエスさまだけが、まっすぐなまなざしを向けて、近寄り、声をかけ、わたしのところに来なさいと招いてくださったのです。

 「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。

 この招きを受けて、レビが躊躇(ためら)う様子も見せず従ったのは、イエスさまの方からレビに近づいて来られたからであり、そして、刺々しい、険しいまなざしではなく、あるがままの一人の人間としてまっすぐに見つめる、柔らかなイエスさまのまなざしに気づいたからでしょう。

 「あるがままの一人の人間として見られる」。レビにとって、ありえないことでした。

 

■ファリサイ派の告発

 レビは、今や、イエスさまと宴会を共にする最初の人になります。

 「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」

 ファリサイ派の人々が、家の出入り口から中の様子を伺っていました。するとそこに、イエスさまと弟子たちがレビの整えたその食卓に着いておられる姿が見えます。このならず者たちと一緒に食事をするその光景は、彼らにとって思いもよらないこと、驚くべきことでした。

 「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」

 ルカは、ファリサイ派の人々のことを、律法に文字通りに従うことを誇りとし、人の弱さや欠けにはいささかの関心も示さない、宗教的エリート意識の強い鼻持ちならない俗物、いかにも聖人ぶった人々として描いています。彼らは、神の律法を日々の具体的な生活の中で守るために、様々な解釈と条件を付けた規則を作り出しました。そして、それを厳しく守ることで、自分の正しさを誇ろうとしていました。イエスさまは、そんなファリサイ派の人々のことを、律法を複雑にすることに熱心で、小さな事柄に囚われ過ぎるあまり、「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」(ルカ11:42)と批判し、「偽善者」「白く塗られた墓」(マタイ23:27)―うわべだけの空しい者たちと呼ばれました。

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★2月6日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『わたしたちは神様のもの』ローマの信徒への手紙14章1~9節 沖村裕史 牧師

■軽蔑

 パウロは今、具体的で、日常的な生活の問題を通して、わたしたちに語りかけます。その問題とは何か。3節です。

 「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない」

 この世の中には、生き方が違い、考え方が違う人がいます。当然のことです。ところが、そうすると、どうしても自分と考えの違う人を「軽蔑し」「軽んじて」しまいます。「軽蔑する」「軽んずる」とは、相手を重く見ないということですが、もともとのギリシア語の意味は、ただ相手を重く見ないだけではなく、存在を認めないという、もっと強い「拒絶」を意味する言葉です。そこにその人がいるのに、いないことにしてしまう、というほどの意味です。

 謙虚に、心の内にある自分自身の姿を振り返ってみると、意識してか無意識かは別にして、自分の気にいらない人を、その人はいないことにするという形で解決をしてしまっていることにハタと気づかされることはないでしょうか。そのような解決方法が、実は何の解決にもならないばかりか、自分自身のあり方をひどく歪(ゆが)めていることに愕然(がくぜん)とされることはないでしょうか。わたしたちは、人と人との関係を生きるほかない存在です。ですから、相手の存在を心の中で打ち消そうとすることは、わたし自身の存在そのものをも否定しようとすることです。仮にそうせざるを得ないとすれば、それは、とても深刻で悲しいことです。

 にもかかわらず、その時々に、その人がそこにいることが邪魔になります。しかもここでは、食べる者が食べない者を軽んずるだけでなく、食べない者も食べる者を裁いています。「裁く」ということは、「軽んずる」よりももっとはっきりと意識して、相手の罪を問い、罪ある者として非難し、罰しようとする、頑なな心です。

 

■裁く

 わたしたちは、互いを「拒絶」し、「断罪」し、疎外し合うような、頑な心を、どのように克服することができるのでしょうか。4節、

 「他人の召使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」

 裁くことは決してよくないとわたしたちも知っています。なぜいけないのか。相手の人権を重んじなければならない、自由を奪ってはならないと言われるかもしれません。けれども、あなたの裁いている人、その人は他人の召使い、他人の僕(しもべ)ですよ、という言い方をするでしょうか。「あなたが裁いているのは」あなたの家の者ですか、他人の家の者ではないのですか、あなたにその人を裁く権限があるのですか。

 この「他人」という言葉は、言うまでもなく、わたしたち以外の人のことです。わたしたちは、誰のものでもなく、主のもの、神様のものなのだ、とパウロは言います。人はすべて、主のもの、神様のもの―これが人間の尊厳の根拠です。人のいのちは神様から与えられ、イエス・キリストによってかけがえのないものとして贖われたものです。それを人が裁いたり、軽んじたり、差別したり、支配したりすることは赦されません。「誰にも」赦されることではないのです。

 

■しかし立ちます

 ですから、主人である神様が引き立ててくれればその人は立つし、打ち倒されたらその人はもうどうしようもなくなる、そう言った後でパウロはすぐにこう言います。

 「しかし、召し使いは立ちます」

 確かに、わたしたちは倒れることもあるのですが、しかし、倒れても、立たしてくださるのは、神様である主人のなさることです。主は、わたしたちを立たせてくださることができるのです。僕、召し使いであるわたしたちを鞭(むち)でひっぱたいておいて、死ぬほどまで苦しめておいて、わたしはお前の主人だぞというのではなく、過ちと罪のために倒れている僕を、わたしを立たされるのです。そういう主がわたしたちと共におられ、今、わたしたちすべてを立たせてくださっている、というのです。

 そういう主がおられるのです。

 

■悲しみや苦しみ

 生きていく中で、言葉では言い尽くせぬほどの困難や悲しい出来事に出会うことがあります。そのような困難や悲しみをわたしたちが、そのままに受け入れることができればよいのですが、過去を振り返り、今を見据(みす)える時、そうした出来事の多くが如何(いか)にも理不尽に思えます。それでも、その困難を乗り越えなければなりません。そうしなければ生きていくことさえできません。

 わたしたちは、泣いて諦めようとしたり、それと気づかないままに心の中に封をして忘れ去ろうとしたり、ときには誰かを責めることで自分の重荷を軽くしたり、もしかすると、すべてを神様のせいにしたりするかもしれません。また、そのような悲しみや苦しみは、一人では担(にな)えなくても、二人であればまだ担いやすいように思え、溺れる者が藁(わら)をも掴むように、誰かにすがりつこうとするかもしれません。確かに神様は、一人では重すぎる人生の重荷を、二人で担い合うようにと男と女を造られましたが、そのようにして結ばれたパートナーであっても、悲しみや苦しみが大きければ大きいほど、それを担う合うことは決して容易なことではありません。

 

■主のもの

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1月31日 ≪降誕節第6主日礼拝≫ 『神の国』マタイによる福音書12章22~32節 沖村裕史 牧師

■驚き
 イエスさまの噂を聞いた多くの人々が、そのもとに集まっていました。22節から23節、
 「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて…」
 悪霊に取りつかれて、目も見えず、口も利けない人がイエスさまのところに連れて来られました。 その悪霊を、イエスさまが追い出し、その人を苦しみから解放してくださいました。
 その出来事を目撃した「群衆は皆驚いて」とあります。「驚いて」。ギリシア語のエクステーミは、ただ驚くというのではなく、「困惑する」「肝をつぶす」ほどに驚くという意味です。本来は「あるべき場所から外れる」といったニュアンスを持っていて、そこから「正気を失う」「気が変になる」とも訳されます。群衆のすべてに、この出来事が「正気を失う」ほどの大きな衝撃を持って受け止められたことが分かります。
 この後、小見出しにある「ベルゼブル論争」がいよいよ始まるのですが、同じ出来事を記すマルコは、この論争に先立って、イエスさまの家族が「気が変になっている」と言って、イエスさまを取り押さえ、力ずくに、縛ってでも家へつれて帰ろうとしていた、と記しています。
 「気が変になっている」とは、先ほどの「驚いて」と同じ言葉です。「自分のあるべき場所から外れてしまう」「自分たちの常識の外に出てしまう」ということです。この世界では、「常識」に従わず、その外側に立ち続けてしまう人間は、愚かで、役に立たない、危険な人間と見なされます。誰もが一度は「世間体を考えなさい。そんなことをして、恥ずかしい」と叱られたことがあるように、そんな人間が家族の中にいることは、身内の恥、不名誉なことでした。
 イエスさまもそんなひとりでした。罪人と呼ばれる人たちとばかり一緒におられました。罪に穢れるから関わってはいけない、触れてもいけないと言われていた人たちと一緒にいて、食事までし、安息日の規定までないがしろにし、罪を赦す権威まで自分にはある、とまで言われていました。
 一体、何をやっているのか。自分の手に余る、不可解な存在。家に帰ろうともしない。もはや黙っているわけにはいきません。家族が問題を起こしたとき、わたしたちは、その人のことを理解しようとするよりもまず、家族の監視の下に置いて、言うことを聞かそうとします。家族としての絆を回復して、内に迎え入れるというのではありません。監視下に置くことによって、家の中に一緒にいながら、その関係を断ち切り、絆の外へ追い出そうとします。このとき、家族がイエスさまを自分たちの手の中に引き戻そうとしたのも、イエスさまのためでもなく、家族の愛ゆえでもなく、ただ自分たちの監理下に置いて、自分たちの恥を隠すためでした。
 もし、わたしたちが、家にいても、教会にいても、寛(くつろ)ぎ、心穏やかにいることができず、また、どんなことがあっても共にあろうとすることができないとすれば、それは、わたしたちの罪のためです。家族を、教会の兄弟姉妹を真実に、まっすぐに愛することができない罪のためです。人を、自分を、結びあわせてくださった神を、神の愛を信じることができないためです。そのために、あるがままにいることができず、自分を守ろうと固くなります。そうしなければ、とても生きてなどいけない、そんな頑なさに囚われます。それが罪です。わたしたちは罪深く、人を追い出し、傷つけ、損なう、そんな存在です。
 それでもなお、神は生きておられ、限りない愛をもって、わたしたちのいのちに触れ、神のみ腕の内にわたしたちを抱いてくださいます。そんな神の国が今ここに来ている。イエスさまのみ言葉とみ業は、そのことを宣言し、示すものでした。それなのに、その愛の神を信ずることができないために、憩(いこ)いを奪われ、くつろぐことを忘れ、暗闇の中に身と心を固くして、家族の、隣人の外に生きてしまう。外に人を追いやってしまう。それがわたしたちの罪、そしてファリサイ派の人たちの罪でした。

■戦いの渦中   
 彼らは言います。24節、
 「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」
 善悪にかかわる論争というよりも、あからさまな誹謗中傷、排除の言葉です。ここで問題とされているのは、安息日に関わる律法を守っているかどうかの問題ではなく、イエスさまの驚くべきみ業の力がどこから来るのか、どのようなものなのかということです。ファリサイ派の人たちは、それを悪霊の頭の力によるものであり、その業は罪の赦しでも、救いでもありえない、そう断じます。
 彼らは、イエスさまが悪霊を追い出されたその出来事を見ても、「正気を失う」ほどに驚くことなどありません。悪霊に苦しんでいる人たちの苦しみも、イエスさまのみ業によって立ち現れている救いの現実も、ただ傍観者のように眺めるばかりで、我が事と考えません。 ただ、悪い評判を立てて、イエスさまが常識の外にいることを示し、律法という世界の外に、十字架へと、イエスさまを追いやろうとするばかりです。
 ファリサイ派の人たちに、罪と、悪霊と闘おうとする真剣さなど微塵もありません。ベルゼブルを持ち出してきたのも、悪霊など、もっと強い悪をもってくれば片付くだろう、という発想によるものです。いわば、親分の権威を笠に着て、下っ端の連中を退治しよう、ということです。それこそが、彼らの世界観、彼らの常識でした。悪には悪をもって報いる、力にはより大きな力をもって対抗するにしかず、という常識です。
 そんな彼らにイエスさまはこう言われます。25節から27節、
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1月24日 ≪降誕節第5主日礼拝≫ 『傷ついた葦』マタイによる福音書12章9~21節 沖村裕史 牧師

■片手の萎えた人
 15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。
 「それを知って」の「それ」とは何のことでしょうか。直前14節に「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とありますので、そのことを知って、その場を立ち去られたのだ、ということでしょう。
 その経緯(いきさつ)が直前に記されていました。
 麦畑での安息日論争に区切りをつけたイエスさまは、弟子たちと一緒に会堂にお入りになりました。するとそこに片手の萎えた人がいました。同じ出来事を記したルカは、その手が「右手」だった、と報告しています。「右の手」とは「利き手」です。糧を得るために使う手です。物を掴(つか)み、物を作り、生活を支えていく手が「右手」です。その「右手」が萎えて動かないのです。「萎える」とは「涸れる」という意味を持っています。涸れ果ててしまったかのような、その人の深い絶望が見えてくるようです。
 その人が会堂の中にいました。そこには、イエスさまを訴えようと思っていたファリサイ派の人々もいました。というより、ファリサイ派の人々が片手の萎えた人を連れて来ていたのかもしれません。一緒に礼拝を守るためではありません。苦しみを抱えた人に心を向け、慰め、励ますためでもありません。イエスさまを罠にかけるためです。彼らはイエスさまにこう尋ねます。
 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」
 ファリサイ派の人々は、片手の萎えた人の苦しみ、悩み、将来への不安などには寄り添おうともせず、まるで釣竿の先にぶら下がった餌を見るようにして、イエスさまが、いつその餌に喰いつくか、いつその人に関わりを持つか、と待ち構えていました。

■安息日に善いことをする
 その問いにこう答えられます。
 「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」
 「羊を一匹持っていて」とあります。先週もお話をしたように、百匹の内の一匹というのではありません。その人には、羊一匹しかいません。かけがえのない羊です。一匹しかいない、大切なその羊が穴に落ち、いのちが危ういとなれば、たとえ、その日が安息日であろうと、羊を助け出すのは当然ではないか、と言われます。
 ましてや「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われます。イエスさまは、手の萎えたこの人の深い悩みに心を留めてご覧になり、「手を伸ばしなさい」と招かれます。今、その手をいやすことができるのならば、そのことこそ安息日にふさわしいではないか、とファリサイ派の人々に迫られるのです。
 世界を創造された神が、人間を造られたのは第六の日でした。この六日目に造られた人間が、初めて迎える新しい日が第七の日、すなわち安息日です。「それ故に人間は安息を味わうために創造されている」と言った人がいます。確かに、ファリサイ派の人々は自分たちに注がれている神の恵みに心から感謝をし、安息日を大切に守ろうとしたのですが、安息日の規定を守るということに心を用いる余り、苦しんでいる人の苦しみ、病で苦しむ人の辛さ、痛みが見えなくなっていました。
 安息の本来の意味を忘れ、「なぜ休むのか」を問うことをせず、「『休まなければならない』という命令のために休む」と考え、結果、「してはいけない労働とは何か」「してはいけない仕事とは何か」といったことばかり気に掛けるようになりました。目的と手段とが入れ代わってしまったのです。律法は、神の御心が言葉(文字)として与えられたものですが、文字は文字に過ぎません。神の御心から離れて、それを金科玉条のごとく絶対化すれば、神ならぬものを神とする偶像礼拝の罪を犯すことになります。
 イエスさまは、何よりも安息日に示された神の御心、神の愛を大切にされました。苦しんでいる人の苦しみ、痛みを決してそのままにされない、というより、そのままにしてはおけない方でした。
 けれども、イエスさまのこうした振る舞いはファリサイ派の人々には分かってもらえず、彼らはイエスさまを殺そうと相談を始めました。イエスさまは、そのことを知って、そこを立ち去られたのでした。

■言いふらさないように
 そして15節後半から16節です。
 「大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」
 すべての人の病を、一匹の羊を探し求める羊飼いのようにしていやされたイエスさまは、その人々にご自分のことを言いふらさないようにと戒められます。なぜ、言いふらしてはいけないのでしょうか。
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1月17日 ≪降誕節第4主日礼拝≫ 『憐れみ』マタイによる福音書12章1~14節 沖村裕史 牧師

■そのころ
 事の発端が、1節から2節に記されます。
 「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている』と言った」
 まず目を留めていただきたいのは、冒頭の「そのころ」という言葉です。
 普通「そのころ」と言えば、「その辺りの時期」といったニュアンスの、前後の時間を含めた時を漠然と示す言葉だとお考えになるでしょう。ところが、原文では、「そのころ」、「その辺りの時期に」といった曖昧な表現ではなく、”at that time” 「その時」という、明確な時を示す言葉が使われています。つまり、今日の12章の出来事は11章に続いて起こったのだということです。
 イエスさまは全く理解のない人々に囲まれていました。がそこでなお、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(11:25)と感謝の祈りを捧げた後、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28-30)と手を差し伸べられます。
 疲れ果て、なお重荷を負ってあえいでいる人々に、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげよう」と言われたのです。「休ませてあげよう」と「安息」を約束してくださったのです。
 「その時」に起こったのが、「安息」を巡る今日の出来事でした。

■安息―共に憩う
 イエスさまが約束し、今ここで問題となっている「安息」とは、どのようなものだったのでしょうか。
 「安息」とは、もともと、仕事を終える、仕事から離れるという意味の言葉です。六日間、一所懸命に働いてきて、仕事を終える、それから離れるということです。七日に一度休むというこの慣習は、古代のバビロンやパレスチナに住んでいた農耕民族の中にその起源があると言われています。なぜ、七日目に休んだのでしょうか。その日が悪霊の支配する禍(わざわい)の日だからです。何をしてもうまくいかない。この禍を避けるために、仕事を休まなければならない。現代のわたしたちと同じように、古代の人々も、際限なく働き続けることは、一時的に生産性をあげたとしても、最終的には無理がきて仕事の効率も下がり、健康を害して身の破滅を招くことさえあると考えたようです。
 モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民がパレスチナに定着を始めたとき、その地の農耕文化と共に、七日目に休むというこの慣習も併せて取り入れました。ただ、イスラエルは自らの信仰に従って、これに二つの意味づけをしました。
 一つは、創世記冒頭の天地創造の出来事に基づくものです。出エジプト記20章8節以下にこう記されています。
 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」
 もはや第七の日は悪霊の支配する日ではありません。神は六日間働かれ、天地を造られました。人間も造られ、その世界のすべてに満足なさって、七日目にお休みになりました。その神の休息に由来するものとなりました。創世記には、神はご自分がお造りになった世界をご覧になって「よし」と言われ、祝福されたと書かれています。完成し、祝福したその世界をご覧になりながら、神は深い満足の安息をなさったと言えるでしょう。
 わたしたち人間の安息とは、その、いのちの主である神の祝福の安息の中に身を置くことです。神と共に休む、神と共に憩うことです。これまでせっせと働いてきた、あくせく働いてきた。その働きを止めて、ただひたすら神を仰ぎ、その祝福の内にしばしの憩いを得ようとする。そして神を賛美し、神のみ言葉を聞くことに心からの喜びを求めたのです。これが安息日であり、だからこそ、安息日に神への礼拝を守るようになりました。

■安息―イスラエルの原点
 もう一つ、申命記5章に記されている十戒の中にも、「七日目はあなたの神ヤハウェの安息であるから、何の業もしてはならない」(5:14)とあり、先ほどと同様、すべての者に休息を与えなさいと記された後に、天地創造の物語に代わって、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」と指示されています。
 つまり安息日は、ただ休息の日というだけでなく、出エジプト以来の神の導きを、奴隷から解放してくださった神の愛を想い起し、イスラエルの原点に立ち返って、「神の民」としての自覚を新たにすべき日とされました。
 この安息日が、国滅び、多くの民が囚われて、奴隷として異国へ移された、あのバビロン捕囚以降、特別、重要な意味を持つようになりました。囚われた人々とって、安息日ごとに会堂に集まり、神にいのち与えられ、選ばれた民としての歩みを想い起しつつ、自らのアイデンティティーをそこに確認するほかに、ひとつの民として立っていくことなどできなかったからです。 Continue reading

★1月16日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『突然の相続に…』エフェソの信徒への手紙1章3~14節 沖村裕史 牧師

■祝福
 エフェソの信徒へあてられたパウロの言葉は、とても印象的です。
 特に心に残るのは、冒頭3節の「祝福」という言葉です。最初と途中と最後に繰り返される「たたえる」という言葉もまた、この「祝福」と同じギリシア語です。
 「祝福」とは、ただ美しい言葉であるだけでなく、もっと具体的な事柄、もっと価値あるものを渡すことです。祝福するとは、単なる言葉ではなく、自分の大事なものを相手に差し出すことです。逆を言えば、わたしたちが祝福されるということは、最も良いものを受け取ること、神の最も良いものをわたしたちがいただくということです。
 そして、ここでお話をさせていただきたいことは、わたしたちがその祝福にふさわしいかどうかとはまったく関わりなく、神が、御子イエス・キリストによって、わたしたちを祝福してくださっているのだということです。
 11節の「キリストにおいてわたしたちは、…前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」という言葉が、そのことを端的にわたしたちに示し、教えてくれています。
 「キリストにおいてわたしたちは、…前もって、約束されていたものの相続者とされました」とあります。
 ある日突然、名前も知らない人の遺言によって、あなたに莫大な相続財産が転がり込んでくるとします。それも、自分がそれを望んだのではなく、預かり知らぬところで、ずっと前から約束されていた、と言います。しかも、その約束は、四節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…… お選びになりました」とあるように、あなたが相続人として相応しいからではなく、ただ、あなたを造られた神の愛ゆえだ、と言います。
どういうことでしょう。

■いのち
 中学生の頃、思いっきり親に反抗していました。「親だから、あなたのことが心配なのよ」と事あるごとにうるさく言う母に、「心配なんかしなきゃいい。そもそも、あんたに産んでくれ、親になってくれと頼んだわけでもない」と口汚い罵声を浴びせていました。今思えば、身震いするほどに酷い言葉ですが、ただやり場のない感情を口走ってしまっただけの情けない言葉が、まったくの偽りだとも言い切れません。
 わたしたちは誰一人、自分の意思で、自分の力で、この世に生まれてきた者はいません。また、死ぬときを知り、そのときを自分の自由に決めることのできる者もいません。生まれることも死ぬことも、わたしたちの自由にはならないこと、わたしたちにはどうしようもないことです。
 そのことを、聖書は、生と死そのものであるわたしたちのいのちは、わたしたちを越える存在、神が与えられたものだ、と教えます。神がいのちを与えられた、神がわたしたちを創られたのだ、と語ります。自分のいのちも、そして同じように他人のいのちもすべて、神が与えてくださったもの、「神のもの」です。わたしのものでもありません。であればこそ、わたしたちのいのちは、誰も、それを自分勝手に傷つけたり、奪ったりすることの許されないもの、かけがえのないものです。それが「いのちの尊厳」ということです。

■望まれて
 あらゆるものが、造られ、生まれてきました。
 何もない所から、突然、出現したものは何一つありません。天に輝く無数の星にも誕生があり、道端をうろつく野良犬にも、知らずに踏みつける路傍の草にも誕生があります。目には見えない勇気や希望だって「生まれる」もので、無から沸き起こるわけではありません。すべてのものが「造られたもの」「生まれたもの」で、生み出す源である造り主なる神を前提としています。
 生み出す側の「望み」がなければ、虫一匹でさえ生まれてくるはずがないのですから、「生まれた」ということは「望まれた」ということです。このわたしたちも例外ではありません。
 こどものころ、布団の中に入ってから真っ暗な天井を見つめ、「ぼくはどうして生まれてきたのだろう」と自問したことがあります。この問いに完璧に答える術をいまだ持ち合わせていません。それでも、たった一つだけ、はっきりと言えることがあります。それは、「わたしは望まれて生まれてきたのだ」ということです。
 それも、単に親の望みのことではなくて、この世界のいちばん根源にあると言えるような望み、願いです。それを、聖書は「神の愛」と言い換えます。そしてそれだけが、あらゆるものの存在の根拠です。わたしたちの生きていることの意味、理由です。
 人が一人生まれるためには、そのために必要なあらゆる要素が、その誕生をうながす悠久の磁場の中で寄せ集まり、奇跡のように組み合わされていかなければなりません。
 わたしの父が幼い時に沖村という家の養子にならなければ…、わたしの母が女学生だった時に父親を亡くしていなければ…、二人が遠い親戚でなければ、二人は出会うこともなく、何よりも、出会った二人が愛し合わなければ、わたしは今ここに存在しません。
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1月10日 ≪降誕節第3主日礼拝≫ 『ここに、おいで』マタイによる福音書11章25~30節 沖村裕史 牧師

■アッバ、父よ
 今日は、1月6日の公現日、イエスさまがにそのお姿をわされたの後の、最初の主日です。わたしたちは今、降誕節の季節を過ごしていますが、この公現日後主日から、受難節が始まる灰の水曜日までの期間を、公現の季節、公現節として守っている教会もあります。
 さて、みなさんは、「イエス」という名を聞くと、どういうお顔とお姿を思い出されるでしょうか。子どもたちと共におられるイエスさま、ゲッセマネでひとり祈られるイエスさま、十字架の上のイエスさま、あるいは甦られて弟子たちと一緒に焼き魚を食べておられるイエスさまなど、様々に思い出されるでしょう。わたしには、この世の虚しさ、不条理、そしてわたしたちの罪を一身に負いつつ、この世のものではない神の栄光を内に隠しておられるイエスさまのみ顔とお姿が見えてきます。
 今、11章の25節から27節に、神に祈られるイエスさまのお姿が描かれます。
 「天地の主である父よ…そうです、父よ…」
 「父よ…父よ…」
 イエスさまは、この世にあって、いつも、また幾度となく祈られました。祈りの人でした。弟子たちの求めに答えて教えられ「主の祈り」は、まず何よりも「父よ」でした。また孤独と悲しみの底で、十字架を前にして祈ったゲッセマネの祈りもまた、まず「父よ」でした。
 新約学者エレミアスは、「アッバ、父よ」という祈り、この一語にイエスさまのすべてがあったと言い、カトリックの井上洋治神父は「『南無アッバ』の祈り」という一文の中でこう語っています。
 「エレミアスによれば、アッバというのは…赤ん坊が乳離れをしたときに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという」
 「神は『旧約聖書』の『申命記』が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッバは教えてくださった」
 イエスさまはここでも、「アッバ、父よ」と呼びかけるようにして、「わたしはあなたをほめたたえます、父よ、天地の主よ」と祈り始めます。「ほめたたえる」は「告白する」という意味の言葉です。イエスさまは今、ご自身が、慈愛に満ちたもう、天地の主たる神の「子」である、そう告白しておられます。

■幼子のような者
 しかし、イエスさまの時代に、イエスさまを見、イエスさまに聞き、イエスさまに触れることのできた人々が、イエスさまのその姿を知っていたでしょうか。多くの人々にとって、イエスさまは路傍の人でした。不幸と災い、病にあったとき、イエスさまに助けられた人はいるらしい。しかし多くの人は、イエスさまをただの悪霊払い師としか見ず、その傍らを通り過ぎて行きました。だれも、イエスさまを神の子として知りませんでした。
 かえって、ユダヤの「知恵ある者や賢い者」たち、祭司長たち、律法学者やファリサイ派の人々は、イエスさまを危険視し、ついには捕え、当時の支配者であるローマ人の手に渡し、殺してしまいました。すべてを捨ててイエスさまに従っていったわずかな弟子たち、ペトロやヤコブ、ヨハネたちも、何度もイエスさまに躓きました。イスカリオテのユダも、イエス殺しの手先になりました。だれ一人、イエスさまの姿を、神の子であることを知りませんでした。
 誰も知らないその時に、その場所で、そしてまた「ああ、コラジンよ。ああ、ベトサイダよ…カファルナウムよ、裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」と言われたその後に続けて、イエスさまはこう言われます。27節、
 「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」
 子がだれであるかは、誰も知らない。ただ父―天地の主なる父なる神ひとりの他は、誰も知らない。そして、その父はだれであるかを、誰も知らない。ただ子―イエスさまひとりの他は、と言われます。
 いえ、神の御子イエスと、子であるイエスさまが父をあらわそうと思う者、選ばれた者の他は、誰も知らない、と言われます。それは、25節に Continue reading

1月3日 ≪降誕節第2主日/新年礼拝≫ 『ここは、主の家』ルカによる福音書2章41~52節 沖村裕史 牧師

■最初の言葉
 「一年の計は元旦にあり」と言われます。「物事の始めに、その本質が宿る」と言い換えてもよいでしょう。物事の始め、始まりこそ、物事の本質を端的に示し、また、その本質を決定するということです。
 今年、最初に与えられた聖書の言葉は、イエスさまの少年時代のエピソードです。
 「イエスが十二歳になったとき」とあります。マリアとヨセフ、両親にしてみれば、ここまで育て上げるのに、言葉にならないほどの苦労があったに違いありません。思い返せば、マリアはイエスさまを授かったことで、普通では考えられないような経験をしてきました。婚約者であるヨセフから疑われ、ナザレの村人たちや親戚からも白い目で見られるようなことがありました。ヘロデの手から逃れるため、しばらくの間、エジプトで乳飲み子を抱えての難民生活を強いられました。それもこれも、イエスさまを授かった故でした。
 マリアにしてみれば、ここまで育てるのにどれだけの苦労をしてきたことでしょうか。この年の過越祭に来て、「あと1年で、この子は成人する」と考えただけで、何か内側からこみあげるものがあったでしょう。
 祭りも無事終わり、ナザレへと帰る途中、二人は、わが子を見失います。二人の心は、不安でいっぱいだったことでしょう。巡礼の仲間たちと別れ、ふたたびエルサレムヘの道を引き返します。祭りが終わり、それぞれの地へと帰っていく巡礼の群れはどこまでも続いています。その群れに逆らって、その波をかきわけながら、その群れのどこかに迷いこんでいないかと、わが子を捜し尋ねながらエルサレムヘと戻りました。
 夜も眠らずに三日も捜しまわって、ようやく見つけ出したところで、マリアとヨセフは、わが子から意味不明の言葉を投げかけられます。49節、
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」
 これが、聖書の伝える、イエスさまの最初の言葉となります。
 少年時代のエピソードといった外見を取ってはいますが、ここに語られる「あなたはわたしをどこに捜しているのか」「わたしが自分の父の家にいることを知らないのか」というこの言葉こそ、最も重要な問いかけとなっています。問いかけのキーワードはふたつ、「捜す」、そして「父の家」です。

■捜し求める
 まず、「捜す」ゼーテオーです。
 人は大事なものを見失えば、それを捜し回ります。 商人は真珠を「探し」(マタイ13:45)、羊飼いは迷い出た一匹の羊を「捜し」(同18:12)、女は銀貨一枚を念入りに「捜します」(ルカ15:8)。真珠は値の張る商品、羊は手塩にかけた財産、銀貨は苦労して稼いだ生活費だからです。そのことから、この言葉は「願う・求める」という意味にもなります。信じる者は、上にあるものを「求め」(コロサイ3:1)、自分の益を「求めず」(1コリント10:24)に、平和を「願います」(1ペトロ3:11)。
 この二つの意味を巧みに用いるのは、人々から忌み嫌われていた徴税人ザアカイの物語です。ザアカイは、イエスさまがどんな人か見「ようとし〔まし〕た」が、背が低かったので見ることができず、いちじく桑の木に登ります。するとイエスさまがそのザアカイに目を止め、彼の家に泊まられます。ザアカイと出会い、共にいてくださるのです。喜び溢れるザアカイにイエスさまは、「今日、救いがこの家を訪れた…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と宣言されます。「探す者」は必ず見いだすことができます。なぜなら、神が捜してくださるからです。
 もうひとつ、イエスさまが十字架にかかって死なれてから三日目に、墓場で泣く女たちが聞いた、天のみ使いの言葉が思い起こされます。24章5節以下、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。神がこの世界に与えてくださった御子は、単なる歴史上の偉人でも、過去の遺物でもありません。本の中にひそんでいる架空の存在でもありません。イエスさまは、甦られて、今もここに生きておられる、今、生きて語りかけておられる、と福音書は教えます。
 ところが、わたしたちは、的外れな場所ばかりを捜し求めてしまいます。この時のヨセフとマリアのように、不安と恐れに心ふさがれ、的外れの場所ばかりを捜し求めては失望します。罪とはまさに「的外れ」という意味です。
 わたしたちは、何度も何度も、捜す場所を間違えてしまいます。
 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。…それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」とは、ヨハネによる福音書(5:39-40)に記されているイエスさまの言葉です。人々は神殿に詣で、そこで聖書を読みながらも、そのことが「生ける神」、「今ここに生きておられる神」とつながっていませんでした。神は単なる抽象的な観念にすぎなくなり、信仰は、今ここに救いがもたらされているという福音の光を見失い、生ける力とならず、ただ律法を、掟や決まりを守るだけのものへと変えられました。
 今、イエスさまは、自分が「父の家」にいて、何がおかしいのかと問い返されることによって、わたしたちが不安の中に的はずれの場所を捜し求めずとも、神の方から捜し出してくださり、今もここに、わたしたちの傍にいてくださるのだという福音を示し、真の信仰を回復してくださろうとしています。

■父の家
 二つ目のキーワード、「父の家」は、実は意訳で、正確な訳とは言えません。 Continue reading

12月27日 ≪降誕節第1主日礼拝≫ 『深く嘆き、悲しんでくださる』マタイによる福音書11章20~24節 沖村裕史 牧師

■糾弾の声
 20節、「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた」
 「数多くの奇跡の行われた町々」とあるように、イエスさまはこの時期、カファルナウムを拠点にガリラヤ北部の町々を巡って、「数多くの奇跡」、直訳すれば「最も多くの力〔ある業〕」を行っていました。その町々の代表として、イエスさまがここに挙げておられるのは、三つの町です。
 そのひとつコラジンは、旧約聖書にも、ユダヤ人歴史家ヨセフスにも言及がなく、新約聖書でもここにしか出てきません。ただカファルナウムの北三キロの場所から発掘された廃墟の広大さから、当時かなり栄えた、重要な町であったと思われます。
 ベトサイダは、ペトロとその兄弟アンデレ、またフィリポの出身地であり(ヨハネ12:21)、またイエスさまが五千人の人々にパンを与えられ(ルカ9:10)、盲人を癒された場所でもあります(マルコ8:25)。イエスさまの宣教活動の重要な拠点の一つでした。それがどこにあったのかはっきりとは分かりません。ただ、ベトサイダという名が「猟の場所」という意味であることから、さらに北にあるフレー湖からガリラヤ湖北岸に流れ込むヨルダン川河口の東側あたりの漁師の町であったと考えられています。
 最後カファルナウムは、ガリラヤ湖の北岸沿いに、長さ約二六キロ、幅四百メートルの遺跡が確認されています。交通の要衝に位置し、当時の人口は五万を数えたと言われます。この地域の中心都市です。イエスさまが福音伝道を始めるにあたって、ナザレからこのカファルナウムに居を移されたとマタイは伝えています(4:13)。イエスさまにとっては、まさに「自分の町」(9:1)、我が町でした。
 イエスさまは、そのガリラヤ北部のその町々で福音を語られ、力ある御業を示されました。その様子が洗礼者ヨハネの弟子たちに語られた言葉として、こう記されています。
 4節、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」
 「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスさまは言われます。しかし、イエスさまの御言葉を受け入れず、その力ある業につまずいた人々がいました。それが、自分の目で見、自分の耳で聞いたはずの三つの町の人々です。そのことを糾弾する厳しいイエスさまの声が、ここに書き留められています。

■激しいほどの愛
 しかし、ただ非難するだけの言葉というのではありません。
 21節の冒頭に「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」とあります。「不幸だ」と言われます。ギリシア語の「ウーアイ」ouvai,。擬声語です。痛みの時、悲しみの時に、思わず口から飛び出す、呻きと叫びを表わす言葉です。英語の聖書では”alas”、「ああ」とも訳されます。
 「あなたにとってウーアイ、コラジン。あなたにとってウーアイ、ベトサイダ」と、身を切られるような思いをもって、イエスさまは呻いておられます。「ああ、何と言うことだ」と呻かざるを得ないのです。何とかして、この人たちの滅びを食い止めたい。そんな激しいほどの愛の言葉です。
 人が罪を、過ちを犯した時、わたしたちはどうするでしょうか。イエスさまのように「叱る」でしょうか。多くの人は、自分に関係なければ、見て見ぬふりをしてその傍らを通り過ぎるか、いささかなりとも自分に害を及ぼすようであれば、犯罪者、罪を犯した者として裁くために告発することでしょう。その人が罰せられようと、たとえ滅ぼされようと、他人事。自分とは何のかかわりもない、また関わりたくもない人です。そこに愛などありません。
 しかし、イエスさまは違います。愛するがゆえに告発せざるを得ないのです。これほどまで強く、あたかも糾弾するかのようにして人々の魂に迫って行くイエスさまの迫力に、その愛の力に胸打たれる思いがします。
神の愛が聖書には溢れています。イザヤは「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」ていると語る神の愛を伝え(43:4)、出エジプト記は「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」、神の愛は「嫉む」ほどの激しい愛であると告白します(20:5)。しかしそれは、「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」であったと申命記にも記されます(7:7-8)。だから、「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く/懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない」と哀歌は歌います(3:31-33)。
 そしてホセアもまた、イスラエルの民の背信行為に対する神の激しい告発は、愛するがゆえの告発であった、と語ります。
 ホセアは、紀元前750年頃に北イスラエルに遣わされた預言者です。彼は、結婚によって悲劇的な経験をします。妻の不倫です。最初、その妻を律法に従って裁かなければならないと苦しみました。その時、神の言葉が臨みます。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。…主が彼ら(イスラエル)を愛されるように」(3:1)。ホセアはこれに従うことで、結果、神の心にある痛みを自らも体験することになります。
 イスラエルの民は神の愛する花嫁です。その花嫁が夫である主を捨て、他の神々の許へと走ってしまう。しかも一度ならず繰り返してです。神の心は激しく痛みます。誓約を破った花嫁イスラエルを、神は離縁されるのか。決してそうはされません。なぜか。イスラエルを愛していたからです。愛しているがゆえに、神ご自身が痛み苦しむ。その結婚の契約に忠実であるがゆえに、焼かれるような思いをもってイスラエルの悔い改めを待つのです。
 ホセアも、淫行を重ねる妻との関係を通して、神の、愛ゆえに経験する嘆き、呻きを思い知らされます。
 ところが、花嫁である神の民はこれほどの神の愛を理解しません。そればかりか本当に自分勝手な歩みをし、そのために今にも滅んでしまいそうになります。神はそんなイスラエルをご覧になって、一度は滅びるがままにしようと思われるのですが、しかしそう思った瞬間に、もう居ても立ってもいられなくなり、「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。/イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。/アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。/わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる」(11:8)と叫ばれます。
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12月24日 ≪クリスマス・イヴ燭火礼拝≫ 『神のおいでになるところ』ルカによる福音書1章26~38節 沖村裕史 牧師

■世界の片隅
 クリスマスとは、神がおいでになる、ことです。
 クリスマスを前もって知っている人は、誰ひとりいませんでした。クリスマスは、神がご計画になり、神が実行されたものだからです。人は、誰もみな、不意打ちで慌てるばかりでした。こんな方法で神がおいでになると、一体誰が予想していたでしょうか。
 それも、世界の片隅に、です。
 さきほどお読みいただいた2章1節以下に、シリア、ユダヤのベツレヘムとあります。国際紛争が絶えず、そのため多くの人が難民として逃げまどい、目を覆い、耳をふさぎたくなるような争いと殺戮のシーンがニュースとして流されている中東地域です。しかし当時は、強大なローマ帝国に征服された小さな属国のひとつに過ぎませんでした。そのまた片田舎で、わたしたちのために神の救いが与えられるなど、考えられないことでした。
 神がおいでになられたのは、誰も知らない、そんな世界の片隅でした。

■少女のところ
 ただひとり、秘かに心を痛めていた人がいました。
 ナザレの町に暮らすマリアです。マリアはヨセフの許嫁でした。当時、女性が婚約したのは14歳前後だと言われます。今日とは状況が違うとはいえ、まだ少女です。成熟した、分別ある、落ち着いた大人の女性というのではありません。ガリラヤという都エルサレムから遠く離れた地方の、それもナザレという小さな村に住む、どこにでもいるような少女に過ぎませんでした。わたしたちがイメージするような「聖女」ではありません。マリアについて、ヨセフという大工の許嫁とであった少女ということ以外、聖書は何も語りません。
 神がおいでになったのは、そんな片田舎の、ありふれた少女のところに、でした。

■深い悩み
 そのマリアが自分の体の異変に気がつきます。どうしてそうなったのか、自分では分かりません。ただその頃、自分の周辺に奇妙なことが起こっていました。親類のザカリアの妻、年老いたエリザベトが、それまでずっと子どもができなかったのに、突然、身ごもったのです。しかもそれがきっかけで、ザカリアは口がきけなくなったと言います。
 マリアはその噂を聞いていました。それは、おめでたいことには違いないけれども、何だか恐いことでした。しかし今、自分の身に起ころうとしていることは、それよりもっと恐ろしいことでした。エリザベトは、年老いたとはいっても夫のある身です。子どもができるということがないとは言えません。しかし自分はまだ婚約中で、その人と一緒に暮らしてもいません。彼女はひとり悩んだに違いありません。その悩みはどんなに深刻であったことでしょう。
 しかし神がおいでになったのは、その深い悩みの只中に、でした。

■クリスマスの驚き
 マリアは、今夜ここに、神の救いが与えられるなど、考えもしなかったことでしょう。
 クリスマスを迎えることの難しさが、ここにあります。
 わたしたちは、クリスマスの喜びを当り前のことのように思っています。しかし、決して当たり前のことではありません。それは驚くべきことです。
 今、ここに生まれる赤ん坊によって救いがもたらされると、誰が信じるでしょうか。信仰を持たない人だけではありません。信仰に生きている人も、クリスマスを本当に確かなこととして、信じているでしょうか。
 人間のすることに、何の難しさも、驚きもありません。人間の予想もしないこと、人間にはとてもできないことを、神がしてくださっているということ、それが驚きです。
 マリアが一番驚いたのは、自分にはあり得ないことだからです。
 34節に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と書かれています。 Continue reading

12月20日 ≪降誕前第1・待降節第4主日礼拝≫ 『クリスマスの恐れと喜び』ルカによる福音書2章1~20節 沖村裕史 牧師

■闇と沈黙
 ルカが描くのは、夜のクリスマスです。
 闇の中にあった人のところに、突然、天のみ使いが現れ、驚くべき出来事が告げられます。それは説明でも説得でもなく、神様からのただ一方的な恵みの知らせでした。わが身に宿るいのちによって恵みに満たされたマリアは、「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と賛美しました。また沈黙の内に悔い改めへと導かれたザカリアは、誕生したばかりのヨハネを前に、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである」と語りかけました。
 闇の中にいた人々に、突然、光が射したかのようです。
 ところが、待ち望んでいた御子イエスの誕生のとき、そこには、ヨハネが生まれたときのようなにぎやかさも、母マリアの溢れるほどの賛美の歌もありませんでした。7節までの言葉は、ただひっそりと、実に淡々と、マリアとヨセフの姿だけを描きます。
 クリスマスが、闇の中に沈み、沈黙に支配されてしまったかのようです。
 その夜、地上はすべて眠っていました。羊飼いだけが起きていました。天からの光に気づく人は、彼らの外にだれもいません。ベツレヘムという小さな村の、家畜小屋の飼い葉桶の中に赤ん坊が生れても、羊飼いたちが来るまで、だれも何が起ったのか知りませんでした。
 だれひとり、そのことに気がつきませんでした。
 ただ、神だけが働いておられました。
 神は、長い、長い忍耐の後、今ここに救い主をお遣わしになりました。救い主が来られたのに、なぜ、世界はこんなに静かだったのでしょうか。なぜ、そのことにだれも気がつかなかったのでしょうか。飼い葉桶の中に生まれた赤ん坊が、まことの救い主であったればこそ、誰も気づかなかった、誰にも知られなかったのだ、と言うほかありません。        

■恐れ
 神は、まことの救い主の誕生を告げ知らせるために、ただひとり、野にいる羊飼いを選ばれます。羊飼いたちに「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」、「恐れに恐れた」とあります。
 羊飼いたちが神との出会いを求めていたというのではありません。当時のごく普通のユダヤ人たちと同じように、神を信じてはいたでしょう。とはいえ、特に信仰深かったというのではありません。彼らが安息日ごとに礼拝を大切に守っていたとも思えません。安息日にも羊の群れの世話をしなければなりません。そういう忙しさの中で、神のことを深く考えることも求めることもなく、日々を過ごしていたことでしょう。
 そんな人たちが、ある日突然、神によって選ばれ、語りかけられたのです。それは、驚きであり、戸惑いであり、はっきり言って、はた迷惑な話でした。自分や家族が生きていくだけで精一杯で、他のことにかまけている余裕などないのに、そんな自分の生活の中に神が介入して来られるのです。放っておいてくれればいいのに…。無視できない仕方で、こう語りかけられるのです。
 「恐れるな」
 生きておられる神の御前に立つことは、身震いするほど恐ろしいことです。神がそう言ってくださらなければ、わたしたちにはどうすることもできません。彼らはそんな「恐れ」に囚われました。

■喜び
 そんな羊飼いたちに、神は「恐れるな」と声をかけ、続けて、恐れに勝る「大きな喜び」を告げてくださいました。
 「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」
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★12月19日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『涙の蔭の微笑み』ルカによる福音書2章1~7節 沖村裕史 牧師

ある一人の女性の体験です。
こどもが宿りました。ずっと待ち望んでいました。男の子かな?女の子かな?夏に生まれる予定だから『夏』を名前に付けようかな。そんなことを考えながら、毎日お腹の赤ちゃんに話しかけ、生まれてくるのを楽しみにしていました。妊娠五カ月。しばらくぶりの検診に行くと、先生から「大変です。もう一人いますよ」と言われても、すぐには意味がわからず、「双子ちゃんです」と言われ、やっと理解しました。彼女は双子がほしいと思っていたので、とても嬉しく、夫と一緒に喜びました。
しばらくして急にお腹が痛くなり、病院にかけこみました。すると「破水しています。もう生まれます!」突然のことで、驚いている暇もなくそのまま緊急入院。そして、出産。生まれた赤ちゃんは九百㌘の小さな女の子が二人でした。『春菜』『夏凛』と命名。集中治療室に入っているわが子。小さな手で、彼女の指をかすかに握ってくれる温もりが、愛しくてたまりませんでした。小さく生まれたので、当然不安もありましたが、「この子たちは大丈夫」と自分に言い聞かせていました。
生まれて二週間、夏凛の容態が悪化。夜中付き添いながら、懸命に生きようとしている夏凛を、ふたりは見守り続けました。午前四時。先生と看護師が慌しくなります。その後、俯きながらこちらに近づいてくる先生を見た瞬間、それだと察し、涙が溢れました。夏凛は二週間で天に召されました。彼女はただ呆然として涙をこぼすしかありませんでした。数時間後、もうひとりの春菜の容態も悪化し、そのまま息をひきとりました。
彼女は涙が枯れるまで泣きました。寂しくて。悔しくて。悲しくて。かわいそうで…。自分を責めました。自分の体を恨みました。自分も死のうと思いました。その悲しみと苦しみを、わめくように夫にぶつけました。「せっかくできた子どもなのに。どうして?」「ふたりを連れて散歩に行きたかった。」「もっと声を聞きたかった。」「2週間しか生きられないなんて…」「この娘たちは何のために生まれてきたの?」彼も涙をこぼしながら、ただ無言で聴いていました。彼女は冷たくなった二人を抱きしめ、「ごめんね。ごめんね。丈夫に生んであげられなくて、ごめんね」と何度も繰り返し言いました。
何日か経ったある日、彼が重い口を開きました。「聞いたんだ、『人の命にはすべてに意味がある』って。人は意味があって生まれ、そして死を迎えるんだ。『ママと出会えてよかった。ありがとう、ママ』って、きっと二人は言ってるよ。二人を産んでくれてありがとうな」。夫の胸に顔をうずめると、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちました。
それから彼女は、二人の分まで生きよう、天国の二人が喜んでくれるような人生にしよう、幸せを感じて生きようと決めました。生きることは、生かされること。それは奇跡だと知りました。愚痴も不平も不満も喧嘩も…そんなことさえ、本当に幸せなことだと思えるようになりました。当たり前なんてない、彼女は二人が生きたいと願ったはずの「今」を生きている、そう思えるようになりました。

 

わたしのいのちは与えられたもの、そのいのちをわたしは生かされ生きている、それは奇跡だ、そう思うことのできる人は幸いです。
ただ、そう信じることのできる人がいつも喜びに満たされているわけではありません。ふと、信じてはいるけれど…と思ってしまうこともあるかもしれません。信じてはいても、つらいことや悲しいこと、辛いこと、報われないことに出会う時、つい、不平不満が出てきてしまいます、「あんなことさえなかったなら」と。そればかりか、「あいつさえいなかったなら」と穏やかでない言葉が次から次へ口をついてあふれ出します。それも我慢すればするほど、そんな暗い思いが心の奥深くに積み重なって、時には病気になってしまうことさえあります。
誰かの愛を信じて、いつも感謝して生きていくことは、決して簡単なことではありません。
だからこそ、そんな時にこそ、御子イエスの誕生を思い出したい、待ち望みたい、そう願います。
旅先の不安の中で誕生したイエスさま。寝る場所さえ与えられず、馬小屋でお生まれになったイエスさま。そして生まれたあとすぐ、嫉妬にかられた王に命をねらわれ、逃げなければならなかったイエスさま。それは、明るく、楽しい誕生日のエピソードというのではありません。
けれども、その中にこそ、本当の喜びが隠されています。みすぼらしく、汚い家畜小屋の飼い葉桶の中にこそ、まことの救い主が寝かされているように、です。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」
サンロテグジュペリの『星の王子さま』の言葉です。悲しみや苦しみの中に隠されたほんとうの喜び、それこそが人生を美しくします。
涙の蔭の優しい微笑み、それこそが人生を豊かにします。
感謝できない日もあるでしょう、心から笑えない時もあります。それでも、あの飼い葉桶に寝かされたかけがえのない小さないのち、御子イエスを思い出す時、わたしたちは、悲しみや苦しみ、不平や不満の真っただ中に隠されている喜びを見いだすことができるはずです。そして心から「すべては感謝です!」と叫ぶことができるでしょう。
わたしたちの目の前で転げて泣き出すこどもがいれば、わたしたちの誰もがすぐに抱き上げてあやすでしょう。親であればなおさらです。自分のいのちを削ってでもこどもを助けようとします。
それと同じように、いえそれ以上の愛をもって、どのようなことがあっても、わたしたちにいのちを与えてくださった神様がわたしたちを救ってくださいます。すべての面倒を見てくださっています。わたしたちの人生というものが、そんなふうに神様のみ手の上に、神様のみ腕の中にあるという喜びを、わたしたちは決して忘れてはなりません。
そして、わたしたちが本来、一人では生きていけない、いえ、一人で生きていこうとしてはいけないと考えることができたなら、人生はどれほど楽に、また豊かなものになることでしょう。
家畜の匂いに包まれた飼い葉桶の中に眠る小さな赤ん坊の姿に、今もわたしたちを生かしてくださる、神様の愛が現れていることを見出すことのできる人は、幸いです。クリスマスの日に、新しい年の始まりの日に、皆さんが、その隠されている喜びを、そして本当の愛を見つけることができれば、と心から願わずにはおれません。

お祈りします。主なる神よ、飼い葉桶の御子キリストは、弱く、小さく、取るに足らないわたしたちのために与えられた救いのしるしです。どうか、どんな時にも、あなたの愛である御子が共にいてくださることを信じ、新しい年も希望と平安の内に歩ませてくださいますように。主の御名によって。アーメン

12月13日 ≪降誕前第2・待降節第3主日礼拝≫ 『大丈夫、一緒にいるよ』マタイによる福音書1章18~25節 沖村裕史 牧師

■マリアとヨセフ
 今日は、子どもたちと一緒に、イエスさまのお誕生をお祝いする日です。この祝いの日に読んでいただいた聖書に、イエスさまがお生まれになった時のことが書かれていました。
 若い二人が結婚の約束をしていました。母マリアとヨセフです。あれっ、変です。マリアは「母マリア」なのに、ヨセフは「父ヨセフ」じゃありません。どうしてでしょう。それは、「二人が一緒になる前に、〔マリアが〕聖霊によって身ごもっていることが」分かったからです。マリアのお腹の中の子どもは、神様の子どもで、ヨセフの子どもではなかったからです。
 えっ、ちょっと待って、そんなこと信じられない。周りにいた人たちは、マリアの言うことを信じられず、結婚前に子どもができるなんて…、そもそもその子の父親はヨセフなの、いったい誰なのか…、と蔑んだ目で見ては、ひそひそ話をするばかりでした。
 それでもマリアは、必死に訴えました。せめて家族には、いえ、ヨセフにだけは信じて欲しい、そう願いながら訴えました。でも、誰も信じてくれません。ヨセフの外に好きな男がいるのを隠すために、マリアは嘘をついている。別の人の子どもができたとわかれば死刑になる。それが恐くて嘘をついている。どうせ嘘をつくなら、もっとましな嘘をつけばいいのに…。そう思ったのは、周りの人だけではありません。家族も、そしてヨセフもマリアの言葉を信じることができませんでした。
 誰も信じてくれない、誰も分かってくれない、誰も助けてくれない…マリアはひとりで苦しみました。でも、苦しんだのはマリアだけではありません。ヨセフも同じでした。自分だけを愛していると信じていたのに、どうして…。ヨセフは、悩みに悩んだ末、結婚の約束をなかったことにしようとします。しかしそれは、マリアを恨んだためでも、罰しようとするためでもありませんでした。マリアが死刑にならなくて済むよう、降りかかる非難を自分でかぶるためでした。ヨセフは切ないほどにマリアのことを愛しています。
 二人は、すぐ近くにいるのに、まるで一人ぼっちになってしまったかのようです。もうどうしようもないと諦めるしかないのか、そんな本当に苦しく、辛い気持ちになっていたに違いありません。

■一緒にいてくれる
 ある一人の男の子のお話をさせてください。
 男の子は野球が大好きでした。だけど、どんなに練習してもなかなかうまくなれません。だから試合ではいつもベンチに座って、みんなの応援ばっかり。出番がなくて、少しいじけていました。
 そんなとき、チームの監督がなかなか試合に出ることのできないこどもたちを集めて、突然、二軍チームを作りました。男の子はとてもうれしかったし、しかも信じられないことに、投手に選ばれました。監督さんはぼくの本当の力を知っているとうぬぼれ、よしがんばるぞと張り切りました。そしていよいよ、その日がやってきました。二軍ピッチャー初登板の日です。
 男の子の応援に、隣の家のお姉さんがやってきてくれました。お父さんもお母さんも働いていて、ひとりぼっちのことが多かった男の子のことをいつも可愛がってくれる、やさしいお姉さんです。
 お姉さんはキャッチャーよりちょっと斜めうしろに、離れて立っています。お姉さんの目は「頑張れ!」と言ってくれているようです。そんなお姉さんの姿を見ながら、心強い気持ちで第一球を放り込みました。
 ……あれ、はいりません。二球目。全然はいらない、ストライクが。どんなに頑張っても、緊張で手が思うように動きません。気がつけばフォアボール。そしてすぐに満塁。夢を見ているようでした。
 怖くなって、もう一度お姉さんを見ました。するとお姉さんの目は心配そうに、でもこう話しかけてくれていました。
 「どうしたの? 落ち着け、落ち着け…」
 よし、と気を取り直して、心を込めて投げつづけました。でも、ますますボールはおかしくなっていきます。しまいにはボールは届かなくなり、コロコロとバッターの足もとで止まります。
 もうだめだ、男の子は血の気が引いて、もう今にも泣き出しそうです。現実の厳しさを教えたいのでしょうか、監督は投手の交代を告げません。自分で、「ピッチャー交代!」と宣言して、走って家に帰りたいと心から思いました。
 そしてもう一度、お姉さんを見ました。もういないかも知れない、そう思いながら、お姉さんの方をみました。その目はつぶやいていました。
 「だいじょうぶよ、わたしがここにいるわよ」
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12月6日 ≪降誕前第3・待降節第2主日礼拝≫ 『飢えることなく、渇くことなく―聖餐(4)』ヨハネによる福音書6章22~40節 沖村裕史 牧師

■そこにいない
 教会信徒研修会以降、聖餐式を行ってきた毎月第一主日に、『聖餐』を主題に説教を守っています。今日は、その第四回目、ヨハネによる福音書6章のみ言葉に耳を傾けます。
 その冒頭、「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は…」と始まります。
 群衆とは、6章1節以下、イエスさまがパンと魚を分け与えてくださった五千人もの人々のことです。たまたま食べるものを持っていなかったというのではありません。人々が持っていたのは、わずかに五つのパンと二匹の魚だけでした。その日の糧にさえ困る、飢えと渇きに苦しむ、貧しい人々の群れでした。
 その群衆が取り残されました。すべての人がお腹いっぱいになってもなお、余りあるほどのパンを与えられたその恵みの場所に、弟子たちの姿も、イエスさまの姿も見えません。23節はその場所を、「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」と丁寧に説明します。群衆が途方に暮れて岸辺に立っていたその場所に、数艘の小舟が辿り着きます。取り残された「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た」とあります。
 「イエスも弟子たちもそこにいない」と、22節、24節に繰り返されます。
 わたしたちの願いや思いを遥かに越える大きな恵みが与えられているはずなのに、そのことに気付かず、その意味にも気付かず、苦しみと飢えの中にひとり置かれ、イエスさまは一体どこにいかれたのか、神様は一体どこにおられるのかと、ただ狼狽(うろた)え、惑(まど)うばかりの彼らの姿が、わたしたちと重なります。
 前島誠という人の『金魚』と題された一文があります。
 「…八月十五日玉音放送、内容はよく理解できない。ただ空が、抜けるように青かったのが目の奥に焼き付いている。すぐ横にいた五百木(いおき)先生がすすり泣きを始めたので、負けたのだと思う。…
戦後の食糧難はさらに深刻の度を増す。芋でもあればまだいい方で、とうもろこしの粉だんごや、進駐軍放出の豆粕(牛の固形飼料)が食事の主役を占めるようになる。戦時中、外食券食堂に何時間も並んだり、配給の玄米を一升びんに詰め、棒で突いて脱穀した頃が懐しい。それより何より毎日が空腹だった。
 ある日のこと、隣家の女の子がわが家の防火用水に手を突っ込んでいる。表に出てみると、口に赤いものをくわえている。それがピクピクと動いた。(金魚だ)と気づくまで時間がかかる。そして少女は走り去った。母にそのことを告げると、『だれにも言うんじゃないよ』と、厳しく言われたのが印象に残っている。…」
 戦中から戦後の生活の困窮を振り返りつつ前島は、こう締めくくります。
 「『パン』のことをLḢM(レヘム)という。ヘブライ語聖書はこの語を食物の代表として頻繁に使用した。ちなみに地名のベト・レヘムは”パンの家”、食物の豊かな土地の意だ。…
 『主はあなたを苦しめ、飢えさせ、マナを食べさせた……人はパンだけで生きるのではなく、すべて主の口から出ることばによって生きることを悟らせるためである。』(申命記8章3〔節〕)
 … パンだけでは生きられないのが人間だ。しかしパンがなくても生きられない。飢え死にしそうな者にとっては、何よりもパンを得ることが先決なのだ。引用句はこの切り口を前提にした上での指針と見てよい。
 『盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまい。』(箴言9章17〔節〕)
 だれもが飢えていた―戦争の記憶はその一言に尽きる。ただ自分が飢えていたおかげで、飢えている他人のつらさが感じ取れるようになった。芋があると楽しみにとっておき、友と半分ずつにして食べた。今ではその体験に感謝している。
 さてこの句は、わたしの中で金魚をくわえた少女の姿と重なってくる。盗みを見咎められて当惑した少女の幼なさ、今やっと食べ物にありつけた安らぎの表情、その二つが奇妙に混ざり合っていた。気がつくと、なぜか共鳴する自分がそこにいた。
 こうして不在の神は、あの赤い〈金魚〉の中にある。」(〔〕は沖村)
 厳しい飢えの中にあった群集は、今、小舟に乗ってカファルナウムの町に行き、湖の岸辺に立っておられたイエスさまを見つけます。

■主の感謝 Continue reading

★12月5日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『照らされて、輝く』ヨハネによる福音書1章1~4節 沖村裕史 牧師

■ベッドの上で

 牧師として初めて招かれた教会に、一人の年老いたご婦人がおられました。とてもやさしく穏やかな方で、いつも「神様に感謝」が口癖の人でした。

 

 そんな彼女の弟が突然、病気で倒れ、体の左半分が動かなくなりました。手も足も動きません。それから半年、医者も驚くほどの回復を遂げ、杖を使って歩けるようになり、左手でものを掴むことができるようにもなりました。

 そんなある日、彼が再び倒れました。いのちはとりとめたものの、二つの眼以外、全く動かなくなりました。口から食べることもできません。もちろん話すこともできません。

 年老いた彼女は涙を流して呟きました、

 「なぜ、神様はこんなことをなさるの?」

 誰にも答えられませんでした。わたしは三日に一度のペースで、彼のもとを訪ねました。訪ねたわたしに目を向けることもせず、ただ天井をじっと見つめる彼の目は、こう言っているようでした、

 「ついこの前まで、幸せで、元気でいたのに、病気でこんな体になってしまった。闇の中に突き落とされたようなこの痛み、この絶望、あなたにわかりますか」。

 わたしは辛くなり、ただ黙って手を握り祈るほかありませんでした。「それでも神はあなたを愛しておられる」という聖書の言葉を、絞り出すように祈りました。しかし祈っているそのときにも、「愛の神なら、どうして、わたしをこんな目に遭わせるのか」と、噛み付かれそうな気配を感じていました。体からいのちの輝きが日々消えていく彼と、これからどのように向き合っていけばよいのかと悩みながらも、それでも、傍に座り、聖書を読み、讃美歌を歌い続ける日が続きました。

 

 寝たきりになってふた月が過ぎたある日、その悩み、苦しみがすべて消し去られました。

 花の日・子どもの日の礼拝の後、子どもたちと一緒に彼を訪ね、病室にお花を飾り、こども讃美歌を歌っていたときのことです。突然、彼の目から涙がこぼれ、そして溢れました。

 涙が止まりません。悲しいからではありません。

 彼は泣きながらも、確かに微笑んでいました。

 それ以降、彼の姿は輝き始めました。体は確実に弱っていきましたが、険しさはすっかり消え、どんなに元気な人でも放つことができないだろう、何とも言えない柔らかな光を、その体から発し始めていました。彼は、幸せだ、輝いている、とは一言も言いません。

 でも、わたしの目には、日々輝き、幸せにさえ見えました。それは、神様に触れられた人が醸し出す輝きだ、そう思えました。彼は何もできない、無力な自分が神様に抱かれ、導かれ、愛されていることに、苦しみと絶望の、そのベッドの上で気付かされたのでしょう。

 そして彼の放つ光は、わたしたちが見失っているものを、はっきりと目に見えるように照らし出してくれているようでした。

 

 三ヶ月後、彼は同じベッドの上で洗礼を受けました。

 そのまま、回復に向かい、少しずつ元気になって行きましたと言えたら、どんなに良かったでしょう。半年後、実に穏やかな姿で、笑みをたたえて、天に召されました。

 葬儀の時、老婦人は言われました、 Continue reading